3 / 61
1話 坊ちゃまのためなら 3
しおりを挟むその日を境にハンブル家の中の小さな主従は静かに、しかし着々とした足取りで変わっていった。
今まで、いかに日々をただ穏やかに過ごし、労せずその終焉への道を敷くだけだった日常を、望む未来へとつなげるために、体に負荷が掛かり過るか否かの、ぎりぎりを見極めながら体を鍛える、そんな戦いが始まったのだ。
今までの日々よりひどく苦しみ、つらいのにもかかわらず、体力が付いているのかといえばそれはとてもささやか過ぎる成果に、諦めたらどうかと言う者がいた。無理をする主人を止めない従者を、あからさまに責め立てる者もいた。
時にルスターは暇を出されそうになりながらも、主従はお互いに支え合いながら、そして事の発端を作ったことを気にかけてか、時折ハンブル家を訪れるアルグにも支えられ。
成人と言われる18歳の日を迎えたシエンは幼き日々がまるで幻であったかのように、健康で立派な青年へと成長を遂げたのだった。
そして運命は、ルスターが現在の窮地に追いやられる方向へとさらに転がってゆく。
長い年月を経て、シエンの運命を大きく変えたアルグという存在は、ルスター主従にとって恩人であり、特にシエンにとっては崇拝していると言っても過言ではないほどの敬愛の対象となっていた。
そのため貴族でありながら、少しでもその側へ立ちたいという望みを持ったシエンはさすがに騎士とはなりえなかったものの。その元々聡明であったこともあり、王国騎士団の、年を経てエンブラント隊隊長となったアルグの補佐事務官としての席を射止めた。
これが奇妙な運命の分かれ道だったのかもしれない。
シエンが補佐事務官となってから。アルグとシエン主従の、とくにアルグとルスターの関係が急速に近くなった。
なにしろ、ルスターは主人であるシエンを敬慕していた。その身を常人のそれと変わらぬ物へと作り替えた長年の努力を側で支え見続けた結果、その傾向はさらに傾倒して、シエンが右と言えば右であるし、それがパンと言われれば石にでも躊躇いなくかぶりつく程だった。そしてシエンのアルグに対する心酔もそれに同じだ。故にシエンが慕うアルグを当然ルスターも崇敬した。
そうした折である。
「なぁ、ルスター、お前はアルグ様のことをどう思う?」
『本日のアルグ様』という食後の日課と化した、主にアルグの動きを中心とする今日一日の勤めの話が一段落して。
不意にシエンはおかわりの紅茶を注ぐルスターに視線を投げて尋ねた。
「どう、と言われましても……その、アルグ様のことは坊ちゃまの次に敬愛をしておりますが」
唐突に投げられた質問に、ルスターは今更答えの分かりきったような質問を急にどうなされたのだろうと、小首をかしげつつそう返せば。
「私の次に、か?」
「はい」
「……」
なにかまずいことを言ってしまったのだろうか。
己の返答に急に押し黙って、やや眉間にシワが寄ってしまったシエンに困惑する。
なにしろ、この主人は幼い頃から周りに心配されることを気遣って、常に自分の感情のままに浮かない顔などをせぬよう、心を配っているのだ。それなのに、こうも分かりやすく憂いを表に出されているという事態は余程のことがあったのだろうと、そう思って。
「坊ちゃま、なにかワタクシのアルグ様に対する素行に至らぬことがあったのでしょうか?」
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだが……これは、私の聞き方が悪かったか。だがしかし、このまま私が言ってしまってはあの方の機微に触れるかもしれないし……」
問いに、首を横に振りながらもますます眉間の皺が深くなり、なにやら思い悩む様子でつぶやく主人にルスターもまた心痛してどうしたものか悩む。
しばし、主従の間には沈黙が降りて、一体、己が主人の憂慮をはらう為に出来ることは何かあるだろうかと、ルスターがそんな自問自答を心の中でし始めた時のことだった。
「実はなルスター、その………アルグ様が、お前を欲しいというんだ。お前は嫌か?」
何か意を決したように顔を上げたシエンが、まっすぐとルスターを見つめて、告げる。
その言葉を従者はしばし、主人の青く澄んだ瞳を見つめたまま胸の内で転がして。
「………………ワタクシは坊ちゃまのものです、坊ちゃまがアルグ様の元へ降れ、と命じられるのでしたら喜んでそれに従いましょう」
胸に手を当て、微笑んでシエンに頭を下げる。
内心は急な主人の言葉にひどく動揺が隠せなかった。しかし発した言葉は、本心からもの。シエンが望むなら、それを拒む所以はない。しかも、かなり先程の様子ではかなりの苦慮の果ての確認だと察して。ならばその気兼ねが軽くなるようにと配慮するのが従者としての責務だと、そう笑みを顔に貼り付けた。
すると、主人は首を横に振って。
「いや、これは命令じゃないんだ、ルスター。嫌だと言うのなら断っていい。私もお前が従者ではなく、誰かのものになる時が来るなど、考えたこともなかったが……ただ、アルグ様が望むなら。アルグ様なら、お前を幸せにできるのではないかと思う。だが、あくまでもお前の意思が伴わぬのなら話は別だ」
「坊ちゃま……」
……そこまで、私のことを……!
主人の、アルグに対する心服の様子を見ていれば、己の叶えられる範疇の頼みを断るなど、おそらく身を切る思いであろう。それにもかかわらず。従者である自分の意思を尊重しようとする姿に心の中で涙する。
そして、先ほど腹の中に据えた決心をさらに固いものにして。
「そこまで、このワタクシに心を配っていただき、至極の至です。他の誰か、と言われれば心は迷いますが、ワタクシもアルグ様であれば、なんの躊躇いもございません」
「ソレは本当か……!」
「はい」
ルスターの言葉に、ぱあっと、シエンの顔が花が咲いたように明るくなる。
その顔を眩しい思いで見つめながら、この笑顔を守ることが出来るのなら、胸の内の寂しさなど嵐の前のチリのように些細な物だと思えた。
しかしここで。
まさか主従の考えの間に、すれ違いが起きていようものとは、二人ともに全く予想だにしていなかった。
なにしろルスターが、シエンの意向についてその方向性を違えて測ったことなど今まで……特に最近では、数えるほどにしかなく。それゆえにシエンは、自分の言葉を常にルスターは正しく理解していると、当然のように思っていた。
だから。
ルスターはアルグが己を「従者として」欲しいと捉えていて。まさか「ルスター個人」が欲しいと、ルスターが好きなのだと。そう、シエンが言っているとは露程も思っていなかった。
いくらルスターが察しの良い従者であるとしても、さすがに立場や性別や今までの経緯から、シエンの言葉を聞いて、誰がその「欲しい」をまさか情愛の含んだものだと察するのは難しい問題だった。
何しろ、アルグがシエンとの歓談をしに来ているにしては、ほんの僅かばかりルスターに視線を送る割合が多いとか、あまり言葉数が多くない質だがわざわざルスターに話しかけたりしているとか、その滅多に見れないし、微笑と言っていいのか分からないくらいの笑みを向ける回数がルスターには一番多いなどというのは、彼の一挙一動にその神経を尖らせているシエンぐらいにしか気がつかない芸当なのだ。
「嗚呼、しかし良かった。ルスターがアルグ様を受け入れてくれて……ずっと、気にかけていたのだ」
ほっとした表情でシエンは胸をなで下ろす。その様子を、ルスターはてっきり、アルグの申し出をいつ自分に相談すればいいかと悩んでいたと、そう思っていたが。それが実は、今までアルグとルスターの仲を一生懸命取り持っているつもりだった作戦のことを指していたなどとは気がつくはずもない。
この従者思いであるがそれ以上にアルグ思いでありすぎる若き主人は、憧れの騎士様に傾倒するあまり、歳の割には未だ純粋培養中で。
シエンの「今日のアルグ様」は、己が語りたいのもあるが、ルスターにアルグを知って好意を持ってもらおうという、なんとも青い作戦だったり。その他にも何かと自分がアルグと話したいのを押さえて、用があるふりをしてルスターとアルグの二人きりというシチュエーションを作ってみたり。なるべくアルグと会うときにルスターを同席できるように、と計らっていたのだ。
だがそんな微笑まし過ぎる後押しで、まさか察しろというのはハードルが高すぎた。
高すぎて、まさかそこにハードルがあったということさえ、ルスターは気がつかずに。
41
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
獣のような男が入浴しているところに落っこちた結果
ひづき
BL
異界に落ちたら、獣のような男が入浴しているところだった。
そのまま美味しく頂かれて、流されるまま愛でられる。
2023/04/06 後日談追加
公爵家の末っ子に転生しました〜出来損ないなので潔く退場しようとしたらうっかり溺愛されてしまった件について〜
上総啓
BL
公爵家の末っ子に転生したシルビオ。
体が弱く生まれて早々ぶっ倒れ、家族は見事に過保護ルートへと突き進んでしまった。
両親はめちゃくちゃ溺愛してくるし、超強い兄様はブラコンに育ち弟絶対守るマンに……。
せっかくファンタジーの世界に転生したんだから魔法も使えたり?と思ったら、我が家に代々伝わる上位氷魔法が俺にだけ使えない?
しかも俺に使える魔法は氷魔法じゃなく『神聖魔法』?というか『神聖魔法』を操れるのは神に選ばれた愛し子だけ……?
どうせ余命幾ばくもない出来損ないなら仕方ない、お荷物の僕はさっさと今世からも退場しよう……と思ってたのに?
偶然騎士たちを神聖魔法で救って、何故か天使と呼ばれて崇められたり。終いには帝国最強の狂血皇子に溺愛されて囲われちゃったり……いやいやちょっと待て。魔王様、主神様、まさかアンタらも?
……ってあれ、なんかめちゃくちゃ囲われてない??
―――
病弱ならどうせすぐ死ぬかー。ならちょっとばかし遊んでもいいよね?と自由にやってたら無駄に最強な奴らに溺愛されちゃってた受けの話。
※別名義で連載していた作品になります。
(名義を統合しこちらに移動することになりました)
性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました
まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。
性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。
(ムーンライトノベルにも掲載しています)
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる