失恋は新しい恋の始まり

白井由貴

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13:天敵との邂逅(Side:理人)

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《九重理人視点》


 保健室までの道のりが長く感じる。全速力で走って向かいたいが、今日は身体測定とスポーツテストが同時に行われているため、どこもかしこも生徒で溢れかえっていて出来なかった。

 気持ちが急いているのに早足でしか進めない己の足に苛々が募る。蒼真の体調が悪いと知っていたら手伝いだって断っていただろうし、取り囲んできた女子達を押し除けてでも蒼真の元に向かったと言うのに。後悔に胸がじくじくと痛む。

 保健室の扉の前に着くと、気持ちを落ち着かせるために一つ深呼吸をした。大きく吸って、肺が空になるまで息を吐く。すると幾分か気持ちが落ち着いた。

 中から話し声は聞こえない。もしかしたらもう眠っているのかも知れない。そう思いながら保健室の扉に手をかけて静かに開き、一歩足を踏み入れた。そこは誰もいなかった。普段養護教諭が座っている席はもぬけの殻だ。

 壁にかかっている利用者名簿を手に取ると、一番下の欄に書かれていたのは愛しい恋人の名前だった。丁寧に書かれた整った字を指先でなぞる。たったそれだけでも胸の中には愛しさが溢れ出していった。

 部屋を見回すとカーテンが閉まっているベッドが一つ、恐らくその中に蒼真はいるのだろう。俺は起こさないようにそっと足音を消しながら近づき、カーテンを開けた。

「……っ!」

 そこに広がる光景に、目の前が真っ赤になった。

 白いベッドに横たわる蒼真の顔の部分、そこに誰かの後頭部がある。ぴちゃと僅かな水音が耳に届いたと同時に、俺はそいつの首元を引っ掴んでいた。

「……ぐあっ!?」

 勢いよく引っ張って蒼真から引き剥がすと、そいつは苦しげに呻き声を上げた。殴ってやりたい衝動をなんとか堪えながら、そいつを床に投げ捨てる。げほげほと一時的に締まった気管に一気に空気が流れ込んだことで咳き込む男を、無感情の瞳で見下ろした。

 この男を俺は知っている。
 つい先日この学校に転校してきたばかりの天城翔とかいう男だ。蒼真が彼女に振られる原因となった男であり、俺にとっては間接的にでも蒼真を悲しませた奴である。今の今まで直接的な恨みなどはなかったが、これは一体どう言うことなのだろうか。

 ベッドに横たわる蒼真は相変わらずぴくりとも動かない。すーすーと穏やかな寝息が聞こえてくることから、未だ夢の中なのだろう。その口元は薄らと水気を帯びており、俺は全身がカッと熱くなった。

「おいお前、蒼真に何をした」
「げほっ、げほ、っ……なに、お前……」
「答えろ」

 自分でもここまで低い声が出るとは思っていなかった。怒髪天を突き、おさまらない。

 こいつ、蒼真の唇を奪いやがった……!
 今の俺の頭にはそれだけが浮かび、衝動的に目の前で座り込む男の胸ぐらを掴み上げた。流石に持ち上がりはしないが、ぐっと掴んだ胸ぐらを上に上げる。

「答えろ」
「……ただ、キスをしただ、ぐっ!」

 だからなんでキスしてんだよ。寝てる蒼真の唇になんてことしてくれてんだよ、寝込み襲うんじゃねえよ、俺の蒼真に手を出しやがって……っ!

 言いたいことは山程あるのに、怒りのあまり言葉が出てこない。胸ぐらを掴む手は力が入りすぎてプルプルと震えている。目の前の男の顔が苦しげに歪む様子に顔を顰めた。

「……ふざけんじゃねえぞこの変態」
「……っ!」

 怒りで声も震えている。鋭く睨み上げる俺の眼光に一瞬怯んだように見えたが、怒り狂う俺の様子に僅かに口角を上げた。今のこの状況で笑うとは余程死にたいらしい。俺は胸ぐらを掴んだ状態で床に押し倒して馬乗りになる。

「っ……お前、余裕ないのな」

 そんなのあるわけがない。蒼真は可愛い。綺麗で優しくて、こんな俺を受け入れてくれたあいつは、本人が気付いていないだけで、男女問わず付き合いたいと思っている奴がいるくらい人気がある。横から掻っ攫われないように、蒼真が傷付かないようにずっとずっと守ってきたのに、こんな奴に……こんな奴に!

 ぎりっと下唇を噛み締める。ぷつ、と唇が裂けて鉄臭い匂いが口内に広がっていく。同時に胸ぐらを掴む手にも力が入り、天城が苦しそうに呻いた。

「ぐ……っ、お前、九重理人、だよな?」
「……だったらなんだ」
「俺、昔は八重樫やえがしって姓、だったんだけど」
「……八重樫?」

 その名字には聞き覚えがあった。無意識に少し緩めた手から逃れるように、ずりずりと座ったまま後退りしていく天城を一瞥したが、すぐに思考を再開させる。

 八重樫……八重樫、翔……八重樫翔?

 八重樫翔という人物の名前に、俺は目を見張った。昔、俺と蒼真にはもう一人幼馴染がいた。三歳になる前に引っ越してきて小学校の頃に何処かに引っ越していったのだが、俺はそいつが嫌いだった。……それが、こいつ?

「最近またこっちに戻ってきたんだよ。今は一人暮らしだからもうあの家には戻れないけどな」
「……一人暮らし?」
「ああ。母親が再婚したんだが、まだ小中学生の妹や弟は兎も角高校生の俺は新しい家族の邪魔をしないために家を出たんだよ。……まあここを選んだのは、蒼真に会うためだが」

 自嘲気味に笑いながらそう溢す天城に、俺は顔を顰めた。そうだ、こいつはこう言う奴だったと幼い頃の記憶を思い出しながら、ぎりっと唇を噛み締める。

 昔からこいつは俺と同じで蒼真のことが好きで、事あるごとに俺から奪おうとする――俺の天敵だ。

「俺の蒼真に手を出すな」
「別にお前のじゃ……おい、まさか」

 俺の言葉の意味に気がついた天城はその目を大きく見開いていく。その顔には『ありえない』とありありと書かれており、俺は口角を僅かに上げた。

 こいつは俺が蒼真に手を出すなんて考えもしなかったんだろう。いつでも自分が優位だと、そう思い込んでいたに違いない。目の前の天城に、昔の八重樫の姿が重なる。いつも自信に満ちて、隙あらば俺から蒼真を奪おうとしたあの頃の八重樫の姿に。

「いや……ない、それはないな。紛らわしい言い方しやがって……くそ」

 自分に言い聞かせるようにぼそぼそと呟いているが、こいつは本当に変わらないな。俺が蒼真に選ばれることなんてあるわけがないと本気でずっと思っている。信じないならそれでもいい。信じる信じないは個人の勝手だ。
 だが、蒼真に手を出すのなら容赦はしない。

 こいつと離していると馬鹿がうつりそうだ。早く蒼真の唇を拭いてやらなければ。そう思いながら床についていた膝を手で叩きながら立ち上がる。同じように立ち上がった天城が俺を呼び止めようとした時、微かに俺を呼ぶ声が聞こえた気がして、ぱっとそちらを振り向いた。

 どうやら俺達の声で蒼真が目を覚ましたようで、少し開いたカーテンの隙間からひょっこりとその愛らしい顔を覗かせていた。

「……蒼真」

 さっきまで荒れていた心が蒼真の声を聞くだけで凪いでいくのがわかる。ああ、やっぱり蒼真はすごい。

 しかし次に放たれた言葉に、俺たちは揃って固まることになる。

「……カケルくん?」

 なんで昔みたいに呼ぶの?
 どうして蒼真があいつを呼ぶの?

 どこの面倒臭い彼女だよと頭の片隅で思う。ちらりと伺った天城の表情は驚愕に彩られている。空気が固まった事に気が付いたらしい蒼真は大きな目をぱちくりと瞬かせた後、あっと口元を手で押さえて慌てて取り繕うように言葉を重ねていった。

「ち、ちが……これは彼女がそう呼んでたからで……」
「……彼女?」
「ち、違う!元!元彼女!」

 そこ、蒼真の言葉に安堵するな。
 やっぱりな、なんて小さく呟かれた言葉が耳に入り、俺は顔を歪めた。

 ――蒼真は俺のものだ、誰にも渡さない。

 そう思いながら俺は天城に背を向けて蒼真のいるベッドへ向かって歩き出す。中途半端に開いているカーテンを開け、ベッドの脇に置かれている背もたれのない丸い椅子に腰掛けてきょとんとしている蒼真の頭をくしゃりと撫でた。細く柔らかな髪が指を擦り抜けていく感覚が気持ちいい。

 どうしてここにいるのかと頭上に疑問符を浮かべる蒼真に、蒼真の体調が心配だったからだと答えると、思い出したような表情をしていた。忘れているくらいだから本当に大丈夫そうだ。

 こんな時でも自分じゃなくて俺の身体測定の心配をする蒼真が堪らなく愛おしい。俺は蒼真と回りたいのだと遠回しに伝えると蒼真は目を瞬かせた後、眉尻を下げながらふわりと微笑んだ。愛おしいという気持ちが溢れてくる。

 蒼真、と呼ぼうと口を開いた時、背後でカタッと音がした。ちらりとそちらに視線だけを向けると、いつの間にか座っていた椅子からゆらりと天城が立ち上がったところだった。彼はそのままのろのろと覚束ない足取りで保健室を出ていった。

 蒼真があいつの姿を目で追っている事に気づき、腹の底がずくんと疼いた。怒りか、嫉妬か、気付けば俺は蒼真をベッドに押し倒していた。

「恋人が目の前にいるのによそ見?」

 ベッドに乗り上げて蒼真の顔の横に手をつき、彼を見下ろす。俺を見て、俺だけを見て欲しい。

「蒼真の恋人は誰?」

 緊張で声が震えている。
 俺を真っ直ぐ静かに見上げる蒼真が俺の名前を紡ぐ。

「なら、俺だけを見てよ」

 ――よそ見しないで、俺だけを見て。

 俺は自分の唇を蒼真のそれに重ね合わせた。

 
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