花の名前

はなの*ゆき

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時の訪れ

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「それ何?」

 同じクラスの男子に話しかけられたのは、その時が初めてだった。
 高校の2年生から、理系と文系にクラスが別れ、理系のクラスは女子が少なかったから、特に誰かと連む・・事もなく、トイレも一人で行けて楽だったのを覚えてる。
 その時見ていたのは、買ったばかりの建築雑誌だった。
 普通の女子高生が見ないその雑誌は、フルカラーで軽く2000円を超えるから、たまにしか買えないけど、今回は新しく建てられた天皇陛下の御所が載っていたから、頑張って購入した。
 こういう雑誌のスゴいところは、普通だったら見る事の出来ない場所を、あたかも見学しているかのような気分にしてくれるトコだと思う。

 平面図を見ながら、写真がどの場所なのかを確認しつつ眺めていると、建物の中を歩いているみたいで楽しかった―――なかなか他の人には理解してもらえなかったけど。

 話しかけてきたは、その休憩時間中、勝手に雑誌を覗き込んで見ていたと思ったら、始業のチャイムが鳴った時に、読み終わった後で貸して欲しいと言ってきた。
 値段が値段なだけに躊躇っていると、大事に読むからと頼み込まれて、渋々貸すことになった。

 それから、彼とはちょくちょく話すようになった―――主に建築の事を。彼も興味を持ったようで、同じ大学の工学部を目指すようになったのだ。


「それって、付き合ってたって事?」

 カズに聞かれて首を傾げた。

「って訳じゃ無いよ。学校以外で会う事無かったし…まあ、クラスの中では仲良い方だったかな?」

 でも―――と思い返す。
 彼の存在が、自分の人生に多少なりとも影響を与えた事は確かだった。

「3年の時にね、お父さんががんになってるのが分かったんだって。」

 会社の健康診断の所見で、再検査になったのがきっかけらしい。幸い、胃がんだったから、手術で胃を半分ぐらい取って、何とか命は助かった、けれど。

「直ぐには仕事復帰出来ないし、住宅ローンがね、ボーナス払い使ってて、大変だったみたい。」

 バブルが弾けてからはリストラなどが社会問題になり、サラリーマンもいつどうなるかわからないという理由から、ボーナス時に支払いを増やすローンは組まれなくなってきたけど、彼の家はまだそれを使っていたらしい。
 保険も若い時に入ったきり見直してなかったから、がん特約なんて付いて無くて、手術代や入院費で貯金は尽きたそうだ。

 結局、彼は大学進学を諦めて就職した。
 卒業式の時、彼は言っていた。

 ―――いっそ、死んでくれてたら良かったのに。

 そうしたら、ローンはチャラになって、保険金も入って、大学にも行けてた。…なんて。




「助かった命を、素直に喜べないなんて悲しいよね。」

 そう思ったから、強く奨めた。正直、上司には怒られたのだけど。保険は任意で、こっちが強制するものじゃないから。

 ご主人は大腸がんだったそうだ。


「笑っちゃいますよね~、おっきいのするたんびに血が出てたらしいのに、友達に聞いたらそりゃ痔に決まってるって言われたって。」

 そう言って笑っていたけど、発見時にはステージ4までいっていたとかで、助かったのは奇跡のようだったという。他に転移していなかったのだ、幸いにも。

「ここの教会にパンを納入れてて、奥様が色々大変だろうからって、子供を預かって下さったんです。」

 幼児を抱えて、ご主人の病院に付き添って行くのは大変だ。それでなくても、精神的に追い詰められて、あのままじゃ子供がどうなっていたか…と泣き笑いで彼女は言った。

「ホントに、たまたま…ですよね。せっかくお店始めたのに、早々にがんになるなんてついてない。でも、ローンは無くなったし、生命保険も入ってたから良かった。」

 沢山の人に助けられて、ご主人の命も助かった。―――だから、いいんだ、と。

 悪いことばかり数えて生きていくより、良かったと喜んで生きていく方が良いに決まってる。良いことばかりじゃないけど、悪いことばかりでもないから。


 あの時の彼も、わかってはいたのだ。
 だから、笑っていた。
 お前がそんな顔すんなよ、って言って。

 思い出して、無意識に指で唇に触れた。





「キスしたんだ?」

 その言葉で我に返る。
 良い天気で、日差しはまあまあ暖かかったけど、吹き抜ける風の冷たさに身を竦めた。

 教会を出てから、ちょっと寄り道しようと連れて来られたのは、あの日星を見た、あの場所だった。
 事業用地として山を切り開いて整地したそこは、何年も企業を誘致出来ずに放置されている―――所謂、負の遺産だ。
 少し離れた所にある高架の上に高速道路が走り、割とインターチェンジに近い場所で、製造工場等の需要を見込んでいたのだろうかと思う。

 何とも答えようがなくて視線を泳がせると、それが返事になったみたいで、少し離れた所に座っていたカズが肩を竦めた。

「トーコさんは、結構“情に厚い”よね。」
「え…?」

 思いがけない言葉に、目を見開く。そんな風に言われたのは初めてだったから。
 カズは視線を落とすと、少し笑ったけど、それはいつものようなものではなくて、何だか違和感を覚える。

「あの日も泣いてた。」

 そう言って、また笑った。
 目は笑って無くて、口許だけで、笑う。

「色々抱えてて、面倒くさそうな女だと思ったよ。だから、まあ、少し寝かしといてやって、起きたらタクシー代やって帰せばいいや、って思ったんだ。」

 そう言ってこっちを見た顔は、まるで知らない人のように、冷めた瞳をしていた。
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