オアシス ~森の遺体安置所 ~

未過見 ゆうじ

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プロローグ

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 二〇四一年 十月十三日 日曜日
 

 使い古したノートパソコンと睨み合う私は、書類作成に追われている。
 そして忘れていた。
 昨晩にメール通知を受取るまで、女手一人で私を育て上げ、分譲マンションの一室まで遺してくれた、母の命日を。
 急ぎの書類を仕上げ、次は汚れた食器のミルフィーユと闘わねばと立ち上がると、パソコンの影に隠れていた母が、薄ピンクの縁に囲まれて、不器用な笑顔を見せる。

「お母さん、ごめんなさい。」

 線香から弱々しい煙が立ち上り、常習化した溜息がそれを吹き消していく。
―ドン― 玄関扉向こうで大きな音が鳴る。

「あれだけ鐘の音アラームを入れておいてって言ったのに!」

「仕方ないでしょう!朝の四時まで太客がいらしたんだから!!別にいいじゃない、お葬儀でも法事でもない、ただの駆けっこなんだから!」

「大馬鹿者!お店に警策はないの。遅刻しようものなら、弥勒姐さんの必殺アイスピックで、ありとあらゆる皮膚を突かれちゃうのよ!」

「そんなの世紀末そのものよ!」

 向かいの369号室には何人かのお坊さんが共同生活をして、奇妙にも何処かのバーでキャストとして働いているらしい。それこそ世も末と言いたくなるが、底抜けの大声にどんよりとした心が救われる。

「なんか、いいにおいがする。」
 夫と公園に行く支度を整えた娘が、線香の匂いに興味を持つ。

「線香か。落ち着くんだよな、この香り。でも、急にどうしたんだ?」
 目下に立派な二匹のクマを宿した夫が、久しい匂いを懐かしむ。

「今日はお母さんの命日でしょう。家には遺骨に仏壇もない。遺影写真しかないから、せめて今日だけでもご供養しないと。」

「ごめん。すっかり忘れていたよ。」

「だったら帰りに林檎を買って来て。お母さん、好きだったから。」

「いいけど。どうして昨日までに用意しておかなかったんだ?」

「昨日は残業したから買いにいけなかったのよ。」

「パパもママもおドジさんね。」

 母が亡くなった翌年に誕生した五歳の娘。母の生まれ変わりだと信じ、夫と大切に育ててきたつもりだ。

「運命に逆らず、自然に亡くなりたいの。」

 末期がんの母は延命治療を拒み、間もなく生まれる孫を見ることなく、宣告された余命よりも随分早く、あっさりとこの世を去った。決して夫婦円満ではなかったけど、私が高校一年の時に急死した父に会いたくなったのだろうか?

 住み処を与えてくれた母が第一の恩人なら、真白さんは第二の恩人だ。病院からの紹介で駆け付けた彼女が、思考不能な私に寄り添ってくれた。遺骨を残さなかったことを幾度も悔やんでしまうけど、大自然に囲まれたアットホームな彼女の安置施設は、一時の安らぎを与えてくれた。昨晩だって、彼女が母の命日を知らせてくれたのだ。

 出掛ける夫と娘の背中を見送る。

「大豆ミートで充分に美味しいよ。」
 人懐っこく、チンパンジーのようだった夫は子猿の如く痩せ細った。ホワイト東京の工場に朝から夜遅くまで働き出て、私は昨年から産休前の会社に復職し、リモートワークをしている。
 感情を持った人間の社員から依頼される資料作成と、人工知能が作成した文章に間違いがないかをチェックする仕事だ。しかし、共働きであろうと生活は苦しく貯蓄が出来ない。

 それでも夫婦ともに手に職があることを恵まれていると思うようにしている。震災後に様変わりした東京は、生きるか死ぬかのサバンナのようだ。我が家のような低所得者世帯は、上がることのない固定給と、特売品の野菜にしがみつくしか術がない。

「私は、強者のライオンに追われるヌ~なのか…」

 さあ、皿洗いの次は洗濯だ。日曜日など関係なく、我が家の生き残りを懸けた闘いは休む間もなく継続する。

 でも三分だけ息抜きさせてと窓を開ける。
 室内に漂った煙が、逃げるように秋風と混じり合い、大空へと羽ばたいていく。
 そして、六年経っても傷一つない香炉の中で、無気力な線香が倒れる。

「ごめんね、お母さん。」
 再び謝罪した私は、いつもの日常に戻っていく…

                
                  
 二〇四〇年 七月三十一日 火曜日 

 「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワーン♪」

 グリーン東京第三地区(旧立川市)、みのり商店街にある店舗から昔懐かしいメロディーが漏れて、寒々しい外気を貫こうと励んでいる。
 
 「キムたけちゃーん、今日も素敵よ!」

 擦れた紫色の歓声をあげているのは、優に七十歳を過ぎた近隣住民の婆さん達だ。

 ここは(東京の孫に会える)をテーマとした昭和・平成レトロのライブバー(爺BAR)。
 年金支給日以外は年中無休で、孫世代の若いアーティストがステージで懐メロを披露している。営業時間は午前十時から午後十時。勿論、高齢者がターゲット層で、自分の孫のように応援してもらうのが狙いだ。繁盛店ではないが、若いエキスが吸える、孤独から解放されると、地元民からは根強い人気があり、かれこれ二十年近く営業を続けている。

 アルコールを含め飲料は提供しているが、食べ物は完全持ち込み制。客の多くは商店街の食品店で購入したものや、自宅で料理してきたものを頬張るが、顎や銀歯が外れたりと大変だ。容器やゴミは客が持ち帰るが、落とされた大量の食べカスはスタッフが清掃する。

 料金は基本時間制だが、人気アーティストの場合はチケット制で客を呼び、単独ライブを開催。三年前には、当時一番人気で演歌を得意とした、天現寺みことが来店したスカウトのハートを鷲掴みし、今ではプロの歌手として活躍している。

 職場は至って平凡だ。
 店長は全く店に来ないし、爺さん婆さんに飲み物を出し、噛み切れなかった食べカスを掃除するだけの単純な仕事だ。

「兄ちゃん、ここに昭和風ラムネサワー、四つくれ!」

 常連の岡林のおっちゃん、今日だけで何回目のオーダー?
 何やらカジノで一儲けしたみたいで、一向に帰る気配がない。今の世の中、お財布管理が出来ない多くの大人は、カジノに嵌り借金まみれになっている。
 因みに僕はギャンブルをしないけど、こんな低時給のバイトで生きる人生こそがギャンブルそのものだと頭を抱える毎日だ。

「ここまでオリジナリティーが強いバーは日本中を探してもここだけだ。」
 と名ばかり店長は自慢げに言う。カラフルな豆電球、赤いポスト、色褪せたポスター。確かに雰囲気はいいけれど、レトロ居酒屋と何が違うの?と突っ込みたくもなる。

「笑っちゃおう♪ 愛しちゃおう♪」
 今日のラストパフォーマー(イブニング娘。)が熱唱する。そして岡林のおっちゃんが、猿のように顔を赤らめてファンタオルを振り回している。頼むから肩を外すなよ。
 曲が佳境を迎えると、最高潮のボルテージが店内を包む。

「おーい!そろそろ来るぞお!!」

「セクシービーム!!」

 リハビリを超えた大歓声の後、多量の唾と痰が降り注ぐ。ただ、耳を塞ぐタイミングは完璧で、一つも入れ歯が飛び出さない上質な閉店を迎えた。

「駆流ちゃん、お疲れちゃん!」

 二割ばかしキムタク似のキムタケ兄さんが楽屋を出て行く。実年齢は非公開だが、甘酸っぱいマスクで女性客を虜にしている当店のトップアーティスト。この後も別のバーでもう一仕事するらしい。その後、店内の清掃とリセット、施錠を済ませて外へと出る。

 僕が住むグリーン東京は低所得者エリア。他より面積が広く、ロボットが少ない分、人口が多い。東京の低所得者数は年々増加を続け、そのほとんどがグリーン東京に住んでいる。その様相を変化させた要因の一つが、二〇二六年に発生した首都直下型地震。復興は一部のエリアを優先して進められ、色分けされた各エリアは同じ東京といっても別の国のようだ。一部の人間に富と権力が集中し、貧富が拡大している。

 今日は花の金曜日。
 貧しかろうが酒は止められんと、多くの酔っ払いが商店街とその周辺を彷徨っている。そして、「カセギドキダ!」と自動運転タクシーがアルコールの匂いを嗅ぎつけ、道端にずらりと並んでいる。貧しいエリアにもテクノロジーの発達が姿を現し、利便に財布の紐は閉められんと、多くの人々が相乗りでタクシーへ乗り込んでいく。
 
 僕はタクシーには乗らない。成人だけど酒は飲まないし、片道約十キロある自宅と職場の往復を走るのが日課だ。交通費を削り、ドローンイーツを頼むのが月一回の楽しみになっている。

 自宅はグリーン東京第四地区(旧府中市)にある一軒家のシェアハウスで、僕を含めて四人の貧乏男が暮らしている。それでも一昔前に五人家族が住んでいた立派な邸宅で、都か管理する格安物件でもある。同居人は皆同世代で気を遣わなくていいから助かるし、総員彼女おらずで嫉妬することもない。それ以前に好意の相手がいようと、プレゼントを送るお金がないのだけど。

 高校中退、将来の夢は無し、主食は栄養補助ゼリー食品。
 先行き不透明な自身に自問自答することのない二十一歳。
 誰から見てもつまらない人間に決まっている。

 バー裏の下駄箱からランニングシューズを取り出し、底が剥がれかけたコックシューズと履き替える。走り出せば現実逃避できる。タイムなど気にせず、競争社会にエントリーする必要もない。然程いごこちの悪くない職場と、不満の少ない住まい。

 変わり映えのない、平凡でつまらない景色。
 まるで自分の人生にようで、妙に落ち着く。
 このままでは駄目だなんて分かっている。
 でも変化に飛び込むことは、もっと怖い。
 
 吐息と溜息が交差する。
 僕の名前は久遠 駆流(くおん かける)。
 節約以外に目が無い、しがない市民ランナーだ。
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