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6.夏の香りと雪の芳香
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*
――――シャワーを頭から浴びて髪を濡らすと新しいシャンプーのポンプを何回か押して、手のひらから髪へ。いつもの男用シャンプーとは違ってツンとした清涼感はなく、マイルドな泡立ちにほのかなこの香りはハーブだろうか。
さっき、帰りの挨拶をした最後に冬咲さんがくれたアプロディタのシャンプーとトリートメント。早速風呂場に入れて使ってみる。
「あ、これ……」
シャンプーを流したあとトリートメントを髪につけてみて気づいた。冬咲さんと同じ香りがする……
ふんわりと香る花の甘いにおい。味わって嗅ぐように、大きく息を鼻から吸い込めば、心が和み彼女の記憶を呼び起こした。
あたふたと焦って小動物のように動く姿も、少女のようにけらけらと笑い転げる姿も。髪を揺らす彼女から、微かにこの香りと同じにおいがした。
だからもっと……
ダメだ!
その先は考えないようにする。
イイ女には男がいるはずだ。
左手の薬指に指輪はなかった。例え結婚していなくても、交際相手がいないとは考えにくい。
理想的な彼女の象徴みたいなひと……
シャーッと髪をくしゃくしゃにしながらシャワーで洗う。彼女と同じ香りも膨らみそうな好意も、流れてしまえばいいとちからずくで。
きれいさっぱりして水栓をきゅっと止めた。濡れた髪をかき上げてタオルでガシガシ拭いたら、仕上げのように独り宣誓してみる。
「俺のスタイルに、合わない、」
・・・とか、言っておきながら!
めちゃくちゃ髪サラサラしてる~。時々ふわっと香るのやすらぐ~。すっかりアプロディタ商品の虜になってるし。
結局のところ毎日使い続けている。
それで、髪の香りを邪魔するから、いつもつけてた香水はやめた。余計なモノを纏っていない自然体の俺が完成して悦に浸り、仕事が楽しくて舞い上がった気分で過ごす。
会えなくてもいつもそばにいるみたいに……
彼女と同じ香りを探しては記憶の映像と結びつけて、仮想の彼女に癒やしをもらっているように。
女はセックスの対象で相手をしてくれるから可愛がる、というこれまでの概念が覆された。アイドルに熱中したり推し活に励む、という感覚に似ているのかもしれない。
冬咲さんは仕事上のマドンナ的存在なんだ。そういうことだろう?
とこの愉快な感情に乗っかっている。そんな浮かれた俺をさらに調子づかせるお知らせが鳴った。
メールだ!
冬咲さんから届いた連絡にニヤリ。次に会えるのが待ち遠しいとニヤけた顔は、自分でも酷く気持ち悪い表情になっているとわかっていたが……嬉しくて止められなかった。
*
「コーヒーとハーブティー、どちらにしますか?」
「もちろん、鳥入りのお茶で」
「ふははっ。ハーブティーですね」
「お願いします」
俺がふざけると冬咲さんは砕けた笑顔を見せてくれた。うん、控えめに言って、最高!
前回と同様に打ち合わせ後の会議室で作業をさせてもらう。飲み物を用意してくれるという冬咲さんに甘えて、交わした会話に体の芯まで癒やされた。今日もすこぶる調子がいいと張り切って仕事にかかる。
アプロディタ新商品のキャッチコピーが決まって、強調するフレーズは『負けない』。春向けの敏感肌用で乾燥や日焼けにストレスなどの刺激に負けないというコンセプト。
広告デザインは商品がメインなのはセオリーだが、背景とテキストのバランスでどう魅せるか。
希望は、春の陽射しを受けて立つイメージ、とのこと。強い女性を意識しているのだろう。市場や流行も大事だけれど、うーん……
腕を組んでパソコンとにらめっこしていると、冬咲さんが会議室にお茶を持ってきてくれた。ついでに少しマドンナを独占してみようか……
「これ、どう思います? 春って桃色が定番だけど、明るみを抑えて控えめにグレイッシュな背景にしてみたんです」
「……商品とよく合ってると思います。優しい感じ?」
「ん~、ピンとこないか。僕のアプロディタさんのイメージだったんですけど。じゃあ、この日光を背景にした方は?」
「あのっ、私の意見を参考にするんですか?」
パソコンのデザイン画面を見てもらいながら冬咲さんに質問していると、急におどおどし始めて少し後退る。
「あぁ、そんなに固くならないで。直感が欲しいだけでアイデアが出てきたらいいなって」
「でも……チームでまとめた意見の方が、」
「僕が冬咲さんの本心を聞きたいだけ!」
「っ!? ……わかり、ました」
相手ファーストのせいで自分の本音を閉じ込めがち……なのかな?
躊躇う彼女を繋ぎ止めるみたいに留まらせた。パソコンを彼女に向けるとおずおずと近づいて画面を覗きこむ。
「良くても悪くても、そのまんま言ってくれたら助かるから。思ってること聞かせて?」
「……何でも?」
ドキッ!
彼女が横髪を耳にかけながら、悩ましげな視線を俺によこした。
俺にはそんなふうに性的に見えてしまったけど、彼女の素振りからして迷っているだけだし。
エロい出来心を隠すように、俺は急いでコクコクと何度も首を縦に振った。
平静を装ってはみるものの、いつになく近い彼女との距離に……仕事に集中できない。
白い肌に細い指先、ピアスの穴も開けていない耳。自然体の美しさに目を奪われる。
「これはナチュラルでこっちはハイライト……」
「……こっち?」
「えっと、青白い光と黄色だったら……?」
「うーん……」
ふわっ、と。
マズい……
彼女の香りを、もっと近くで感じたい欲が制御しきれない。椅子に座っている俺と屈んでいる彼女の顔は同じ高さ。簡単に触れられる、手が届くすぐそばにいるのだから。
すでに手中の域で、少し引き寄せれば膝に乗せることもできる。
俺のタガが外れたら……
「……黄色みのほうが夏みたいな 、、、強い陽射しに見えますね」
「そうだね……」
「……負けない、負けたく、ない。……黄色のこっちで! えっ!?」
「……っ!?」
彼女が画面を指さして俺に振り返ったとき、俺は、芳しさに酔ってるみたいに……彼女の髪に顔を寄せてその香りを堪能していた。
変態だ! セクハラでもアウトだぞ!
これは冬咲さんだってびっくりして引くわ!
「あ、いや、ほら! もらったシャンプー! 香りが良くて好きになっちゃって! 毎日使ってます、冬咲さんの髪も同じ香りだなって……」
「えっ? ……はっ!///」
え? ナニソレ?
彼女が慌てて自分の横髪を両手で掴んで、顔を隠すみたいに恥ずかしがっている。ちらっと見える耳が赤いし瞳はキョロキョロさせていて。
・・・可愛いすぎる、んだけど?
めちゃくちゃ可愛い!!
「あ、ど、どうぞごゆっくり、作業なさってください……」
ぽっかーん……
俺が呆けている間に逃げるようにして彼女は出ていってしまった。そして後からやって来る、脱力を伴う強烈なニヤけ。
口元を押さえて顔面崩壊をなんとかくい止める。こんな感情初めてでどんどん彼女に夢中になる自分が怖い。
「可愛いすぎてシンドイ……」
冬咲さんの残像はしばらく頭から消えなくて、どっぷり沼にはまったように脱出不能に陥っていた。
何度も繰返す可愛い仕草の無限ループ……
――――それから。
夢見心地に進んでゆく仕事に調子こいて、しっぺ返しみたいな衝撃をくらったのは、今年最後のアプロディタで仕事納めをした後のこと。
俺に起きた突然の大事件に心臓がバクンッと飛び跳ねた!
「あれ? 夏樹くんだ! 超偶然~」
「!!!?」
アキ!?
どうしてここに!?
ほんの数秒前まで浮足立って冬咲さんと歩いていたのに 、、、
「今日は人手が足りなかったので助かります」
「気にしないで。アプロディタさんでは何の問題もなく余裕ですから」
今日伺ってみるとインフルエンザの欠勤があっていつもより大変そうに見えた。これからサンプリング調査と報告書作成を冬咲さんが一人で行うと聞いて俺はサポートに志願してみた。
まだ一緒に彼女といたいし……
「UVケア商品の新作モニターをモデルさんにお願いしてるんです」
「真冬に夏商品の市場調査って大変ですね」
冬咲さんが商品のサンプルを抱え、俺はパソコンを持って、談笑しながら応接室のドアを開けたら……天国から真っ逆さま地獄の入口だった。
この機に恩を売っておいて冬咲さんの律義さにつけ込むような、俺の下心が招いた天罰かもしれない。
モニターモデルの中に、よりによってアキがいるとは!
まさか依頼先がアキの事務所だったなんて!
5人集まっていたモデル達の輪からアキが抜け出し、出入口で棒立ちになってしまった俺に駆け寄ってくる。
「久しぶりだね~? こうゆう仕事もするんだ。見て見て! まだ夏樹くんに貰ったピアスつけてるよっ」
「……あ~、そ、そう、」
相変わらず長い生足を見せつけるようなファッションで明るくて長い髪を揺らし、俺のそばに来て懐っこく話しかける。
つき合ってた頃はそうゆうとこが可愛かったんだけど、今この瞬間は脅威でしかない!
「……知り合いですか?」
「え? うっ、あぁ……えぇ、」
トライアングルの立ち位置で純粋な直角が疑問をぶつけると、歪んだ鈍角が言葉を濁すも……奔放で気儘な鋭角はこの関係を破壊しにかかった!
「夏樹くんは前につき合ってたセフ……元彼なんだよねっ」
「「 !!!! 」」
オワタ 、、、
この子セフレって言おうとして、気を遣ったかもしれないけど、言ったも同然だよ!?
もう言葉を失くし俺はあんぐりして、ヘラっとしているアキを眺めたあと、隣の冬咲さんに恐る恐る目線を移す。
彼女は大きく見開いた目を緩めると俺達にあからさまな社交辞令を口にした……
「凄く相性がいいみたいですね」
サァ――――ッ。
目が笑ってない!?
初めて見る表情に俺の血の気が引いた。始めましょう、と逆に彼女はキビキビ働いて。そんな様子から俺に脈がないことを、まざまざと思い知らされる。
離れた隅に着席しパソコンにモニターの回答を打ち込む作業。まるで針の椅子に座っているような、やたらと汗ばんでいる滑稽な自分にあきれてた――――。
「じゃあね、夏樹くん。また会えたらいいね」
「そうだね……ははっ」
ようやく調査が終了してモデル達はお帰りになった。やっと冬咲さんと二人きりになれたけれど、それはそれでぎこち無い雰囲気。
もう俺、脇の下びっしょりなってる!
訂正? 弁明?
とにかくこの沈黙を打破しないと、仕事も俺の面子も潰れそう……
「……軽蔑、した?」
「……今日の、モデル全員と知り合いなんですか?」
「ち、違うよ!?」
「……海浦さんの仕事は信頼してるので、」
「仕事じゃなくて、僕の、ことは……?」
「……優しい、方だと思っています。引き続き発表会まで宜しくお願いします」
よそよそしく冬咲さんが頭を下げる。
折角イイ感じで彼女に近づけたのに、初めましてよりも堅苦しくなってしまった。
はぁ~。あ~ぁ。
俺の下心が期待していたのは、忘年会に呼んでくれたりとか?
それと称して飲みに誘うとか?
仕事以外でも一緒の時間が欲しかった。
アプロディタでの仕事内容はだいたい目処がついている。後はデザインデータを入稿して印刷、プレス発表会を見届けたら契約終了だ。
年明けには新しいクライアントの案件も並行して始まる。これまでのように七葉社に足を運んで、頻繁に会える機会もなくなるわけで……何かきっかけが欲しかった。
どんな形でもいい、彼女との繋がりを手にしたい。
マドンナを自分の物にできるか?
そんな企みは叶うはずもなく、形式的な年の瀬と新年の挨拶がメールで届いただけだった。
このまま……もう終わりか、彼女と同じ香りはいつの間にか消えて無くなりそうに。
そんな折、唯一の危惧していた事態が発生してしまう――――
*
「海浦さん! 今日の栄美社の新作発表が……」
「はい、確認しました。今そちらに向かっています」
待ち望んでいた冬咲さんの声は慌てた様子で、とても浮かれていられる気分ではなかった。早急な対処が必要でアプロディタの皆さんも困っていることだろう。
俺も別のクライアントの所から急いで七葉社に直行していると、ちょうど冬咲さんから電話がかかってきたのだ。
もうすぐ着きます、その言葉を最後にして電話を切ったからか、ビルに入ると冬咲さんが1Fまで下りて来ている姿が目に入った。
俺にも気づいたようだ。まだ声をかけるには遠い位置だったので早足で近寄る。
「ごめんなさい!」
「わっ、な、なんで!?」
ちょうど初めましての挨拶をした場所で彼女と対面すると、すぐ俺に向かって深く頭を下げた。
驚きのあまり咄嗟に彼女の腕に手を添えて、必要のない謝罪を終えるように促す。
すると彼女はゆっくり頭を上げて、眉を歪ませ俺に詫びた。
「私が海浦さんの提案をもっと真剣に考えてたら、こんなことにならなかった……」
2月に入ったばかりの今日、春向けの新商品発表を行った栄美社の広告が、アプロディタで作成したデザインと酷似していたのだ。
フレーズは『守る』で背景が陽射しで構成されていた。
アプロディタの発表会は1ヶ月後で先を越されてしまった結果だ。ライバル社と差別化をはかるにはデザイン変更はやむを得ない。
それで俺が予備で作成していた方の、アプロディタのイメージ色を背景にしたデザインを使用することになり、彼女が責任を感じて謝罪に至ったのだろう。
「大丈夫、ひとりで抱え込まないで。今日の事は予測してたし入稿もギリギリ待って貰ってるし。ね?」
「でも、海浦さんにご迷惑を……」
「全然! デザインは被ちゃったけど、他社もそれで勝負かけたってことだから! 冬咲さんの直感が正解ってことでしょ? 早く出したモン勝ちだから変更は仕方ないけど」
「っ……」
なんて 、、、
切ない表情で俺を見つめるんだ……
唇をきゅっと閉じて瞳を揺らがせている。まるで何か零れるのを我慢しているみたいに。
彼女は責任感が強いから、どうしても自分で否を背負い過ぎてしまうんだろう。大人びた女性に見えるけれど、本当は少女のように繊細で戸惑いを隠せないときもある。
それが俺の前であってくれて、胸がいっぱいで苦しいほどに嬉しくてたまらない……
彼女の腕に添えた手はくっついたまま、まだ離したくはなかった。
「僕はあのとき冬咲さんに本音言って貰えて嬉しかったよ。君の本心が知りたかったから……」
「海浦さん……」
「もっと、何でも。君の気持ち、そのまま。たくさん伝えてくれたらって……」
「え……///」
彼女と繋げた片手に熱を込め、視線はより熱っぽく彼女を見つめて離さない。
可愛らしく幼い表情をしている彼女の目が次第にキョロキョロし始めて、本来の姿であろう恥ずかしがりの少女にお目にかかれてクスッと笑いが漏れる。
大人の男で口説くには少し早すぎた。
「ふっ、僕達同学年なんだからもっと気楽に話して……あれ?」
「ん?」
「髪の毛に紙くずが絡まってる?」
「あっ、さっきシュレッダーかけて……」
「待って、取るから……!」
「…………きゃっ」
パチッ!
彼女の耳のそばに手を近づけた途端、静電気が弾けてひとつ音を鳴らす。びっくりした彼女が目を閉じて体を竦めた。
痛そうな表情に俺は焦って咄嗟に……
「ごめん、ごめん! 痛かっ、た、ね……」
「!?」
咄嗟に俺は、彼女の頬をすりすりと撫でて――――――思いきり直接触れてしまっていた。
スベスベの肌が柔らかくて、なんとゆうか、想像を超えた触り心地に……放心状態。
忘れてた呼吸を慌てて吸い込み我に返ると、彼女の頬がみるみる赤く染まってゆく。
「はっ! うっかりだよ!? うっかり触っちゃって……痛かった?」
パッと手を離して言い訳すると、彼女は頬に自分の手をあてがって俯き横に首を振った。俺がしきりに送ってしまった熱を、彼女はしきりに隠そうとする。俺は隠そうにも元に戻せない、この溢れそうな愛しさを……もう、認めよう。
彼女が好きだと――――――
この場所で初めて出逢ったときに、一目惚れしていたんだ。
俺のスタイルだなんて……ただのカッコつけだ。こんなふうに心情を掻き乱されて小さな事に取り乱す、男が恋愛に溺れる姿はみっともないと虚勢を張ってた。
誰かを本気で好きになることを避けていた、だけなんだ。仕事の方が大切だと建前にして……
今まで薄っぺらい恋愛関係しか築いてこなかったから。会えないと胸がしくしく痛むことも、一日じゅう頭の中に彼女の姿が浮かんでいることも、初めての経験で年甲斐も無く参っている。
想像するより、大人の恋は……もどかしい。
*
――――プレス発表会当日。
会場は七葉社に近い高級ホテルのホール。15時開始に向けてアプロディタの皆さんは朝から準備に忙しいはずで……
早く手伝いに行きたかったが別件の処理に追われギリギリの到着になってしまった。
「冬咲さん!」
「海浦さん! ……間に合わないかと思って」
「いや、何が何でも参加するつもりでっ」
「もうすぐ始まります」
ホールの前で案内をしていた彼女を見つけて駆け寄った。七葉社のイベント用制服を着ているのですぐ気がついた。クリーム色のワンピースにグリーンのスカーフ。
いつもに増して清楚で美しい……
遅刻するかとハラハラして息もまだ整わないが、心の中ではうっとりと見惚れてた。
会場の中はたくさんのメディアでもういっぱいだ。名残り惜しいが彼女を独占できる時間は無さそうで、まず身支度を仕上げる必要性をハッとして思い出す。
「あ~、これ、ネクタイしないとマズいよな。ヘタクソでどうしよ……」
「……私が、やりましょう、か?」
「えっ? いいの!?」
「えっと、あの、あそこの柱の影で……」
俺が滅多に着ないYシャツの第一ボタンを留めながら、ポケットから取り出したネクタイに嘆いたところ。予想外な彼女の申しでに声が裏返りそうになってしまった。
時間がないのでそそくさと移動し、彼女にお願いして委ねてる……この近しい距離にすごく緊張して心臓の音がヤバい。
まるで、もう、そうゆう関係になったかのような?
恋人か嫁さんがしてくれるであろう、ネクタイを結んで貰うというシチュエーションに、クラクラするほど酔い痴れていた。
初めての経験が好きな女であって、好きな香りがすぐそばにあって。顔面がとろけそうに嬉しい反面、彼女の慣れた手つきは初めてではないと思われ 、、、残念な気持ちがつい口から漏れた。
「上手に結べるね……恋人にしてあげてる、とか?」
「えっ? あ、昔に……今、恋人はいません」
たどたどしく彼女が答える。やっぱり前にはしてあげたことがあるんだ・・・んんっ?
「恋人いないの!?」
「っ!?」
――――――あ。キスの、近さ。
「ごめんっ!」
「……いいえ」
喉元を伸ばしていた姿勢から急に彼女を見下ろしたら、俺を見上げた彼女の顔が目の前にあって。
思わず欲が飛び出そうになるのを、先に顔を背けた彼女の仕草に抑制された。でも、またとない機会を逃したくはない。
「不謹慎だけど……今日の仕事が終わったら、一杯だけつき合って、くれませんか?」
「……え、あの」
「二人きりで打ち上げしたいのと、冬咲さんの誕生日にお祝いできなかったから……」
「…………はい。空けておきます」
彼女がネクタイを結び終えて、優しく上から押さえつける。俺の胸に手のひらから返事を送るようにそっと……
そんなの勘違いしてしまうよ?
俺の胸の内を探るみたいな態度で惑わせたら、君に手が届きそうだと期待を抱いて。
もう、後戻りなんてできない。今この瞬間も、彼女が欲しくて欲しくて……唇を噛みしめる。
今夜、大人の恋に勝負をかける!
*
発表会のあったホテルのスカイラウンジに彼女を誘った。高層から望める夜景を目前にした二人掛けのシート、テーブルには柔らかな灯りのキャンドル。
ガラス窓の摩天楼の輝きよりも、店内の包まれるような温もり色の光よりも、何よりも隣の彼女が一番燦めいて見えた。
「乾杯。お疲れさま」
「……乾杯。お疲れさまです」
彼女のオーダーしたカクテルグラスのスイートマティーニに、俺のジントニックが入った薄ガラスのタンブラーを静かに合わせた。
「……もう一回、乾杯」
「ん?」
「遅くなったけど、誕生日おめでとう」
「……ふふっ、ありがとう」
ひとくち飲んだグラスをもう一度合わせて微笑んだ。人生で一番の至福の時かもしれない。全身の隅々まで癒やされた感覚で浮かれまくる。
でも、夢のようなひとときは何時までも続かなくて。今日の発表会を無事終えた労いと仕事関連の話を済ますと、和やかな会話も次第に途切れ、ガチガチに緊張して焦りで余裕がなくなった。
グラスの酒は半分を切り、無くなるまでにどうやって本当の目的を伝えたらいいのか……?
駄目元で誘うのとはわけが違う。本気の告白は初めてになるが失敗はしたくない。こんなにも執着するくらい好きだなんて、自分でも手に負えないんだ。
何もできない時間だけが刻まれてゆく。
二人掛のシートには彼女と俺だけなのに、怖くて近づけない臆病な俺は、彼女の瞳にも映してもらえない。
俯いてばかりにさせてしまって……
「無理、させちゃったかな?」
最上階のバーとか、カッコつけた振る舞いが裏目に出たと思った。居心地が悪そうに見える姿に内心がっかりなくせ、強がりに零した俺の声は 、、、彼女に気を遣わせたみたいだ。
「違うの……」
彼女に伝えられず溜め込んだ言葉が喉でつかえて。前のめりにジンでゴクゴクと流し、膝に両腕を乗せて項垂れそうな首を支えた。
横目に映る彼女の、より下向き加減な態度に……半ばあきらめかけてこっそりとため息でもつくところ、その隙に――――――
「……あなたが、好きなの」
――――――え?
なん・て・・!!
耳にした言葉の囁きを信じられず、彼女を見つめてみれば……恥じらう少女のように耳も顔も赤くして。
告白が本物だと、火照《ほて》るほどにときめいた。
一瞬にして酔いが回るような刺激は、彼女を求める欲望を掻き立て……顔にかかった横髪をそっとなぞり、頬に手を添えて強引に視線を奪う。
見つめる間にも、愛おしい気持ちが溢れ出すんだ。あたりまえにその恋しい唇を奪いにいった、けれど……
そのほんの僅かな時間の途中で、キスの仕方を忘れたみたいだ。まるで初めてのように。
控えめにそっと彼女の唇に触れあわせた。
あ、柔らかくて……
気持ちいい――――――
彼女のベルモットと俺のライム。香りが温かい二人の吐息で溶けあう。
この芳醇なキスは、深く味わいたくて、離れられない……
「――――――(チュッ)君が好きすぎて、どうしよう……」
――――シャワーを頭から浴びて髪を濡らすと新しいシャンプーのポンプを何回か押して、手のひらから髪へ。いつもの男用シャンプーとは違ってツンとした清涼感はなく、マイルドな泡立ちにほのかなこの香りはハーブだろうか。
さっき、帰りの挨拶をした最後に冬咲さんがくれたアプロディタのシャンプーとトリートメント。早速風呂場に入れて使ってみる。
「あ、これ……」
シャンプーを流したあとトリートメントを髪につけてみて気づいた。冬咲さんと同じ香りがする……
ふんわりと香る花の甘いにおい。味わって嗅ぐように、大きく息を鼻から吸い込めば、心が和み彼女の記憶を呼び起こした。
あたふたと焦って小動物のように動く姿も、少女のようにけらけらと笑い転げる姿も。髪を揺らす彼女から、微かにこの香りと同じにおいがした。
だからもっと……
ダメだ!
その先は考えないようにする。
イイ女には男がいるはずだ。
左手の薬指に指輪はなかった。例え結婚していなくても、交際相手がいないとは考えにくい。
理想的な彼女の象徴みたいなひと……
シャーッと髪をくしゃくしゃにしながらシャワーで洗う。彼女と同じ香りも膨らみそうな好意も、流れてしまえばいいとちからずくで。
きれいさっぱりして水栓をきゅっと止めた。濡れた髪をかき上げてタオルでガシガシ拭いたら、仕上げのように独り宣誓してみる。
「俺のスタイルに、合わない、」
・・・とか、言っておきながら!
めちゃくちゃ髪サラサラしてる~。時々ふわっと香るのやすらぐ~。すっかりアプロディタ商品の虜になってるし。
結局のところ毎日使い続けている。
それで、髪の香りを邪魔するから、いつもつけてた香水はやめた。余計なモノを纏っていない自然体の俺が完成して悦に浸り、仕事が楽しくて舞い上がった気分で過ごす。
会えなくてもいつもそばにいるみたいに……
彼女と同じ香りを探しては記憶の映像と結びつけて、仮想の彼女に癒やしをもらっているように。
女はセックスの対象で相手をしてくれるから可愛がる、というこれまでの概念が覆された。アイドルに熱中したり推し活に励む、という感覚に似ているのかもしれない。
冬咲さんは仕事上のマドンナ的存在なんだ。そういうことだろう?
とこの愉快な感情に乗っかっている。そんな浮かれた俺をさらに調子づかせるお知らせが鳴った。
メールだ!
冬咲さんから届いた連絡にニヤリ。次に会えるのが待ち遠しいとニヤけた顔は、自分でも酷く気持ち悪い表情になっているとわかっていたが……嬉しくて止められなかった。
*
「コーヒーとハーブティー、どちらにしますか?」
「もちろん、鳥入りのお茶で」
「ふははっ。ハーブティーですね」
「お願いします」
俺がふざけると冬咲さんは砕けた笑顔を見せてくれた。うん、控えめに言って、最高!
前回と同様に打ち合わせ後の会議室で作業をさせてもらう。飲み物を用意してくれるという冬咲さんに甘えて、交わした会話に体の芯まで癒やされた。今日もすこぶる調子がいいと張り切って仕事にかかる。
アプロディタ新商品のキャッチコピーが決まって、強調するフレーズは『負けない』。春向けの敏感肌用で乾燥や日焼けにストレスなどの刺激に負けないというコンセプト。
広告デザインは商品がメインなのはセオリーだが、背景とテキストのバランスでどう魅せるか。
希望は、春の陽射しを受けて立つイメージ、とのこと。強い女性を意識しているのだろう。市場や流行も大事だけれど、うーん……
腕を組んでパソコンとにらめっこしていると、冬咲さんが会議室にお茶を持ってきてくれた。ついでに少しマドンナを独占してみようか……
「これ、どう思います? 春って桃色が定番だけど、明るみを抑えて控えめにグレイッシュな背景にしてみたんです」
「……商品とよく合ってると思います。優しい感じ?」
「ん~、ピンとこないか。僕のアプロディタさんのイメージだったんですけど。じゃあ、この日光を背景にした方は?」
「あのっ、私の意見を参考にするんですか?」
パソコンのデザイン画面を見てもらいながら冬咲さんに質問していると、急におどおどし始めて少し後退る。
「あぁ、そんなに固くならないで。直感が欲しいだけでアイデアが出てきたらいいなって」
「でも……チームでまとめた意見の方が、」
「僕が冬咲さんの本心を聞きたいだけ!」
「っ!? ……わかり、ました」
相手ファーストのせいで自分の本音を閉じ込めがち……なのかな?
躊躇う彼女を繋ぎ止めるみたいに留まらせた。パソコンを彼女に向けるとおずおずと近づいて画面を覗きこむ。
「良くても悪くても、そのまんま言ってくれたら助かるから。思ってること聞かせて?」
「……何でも?」
ドキッ!
彼女が横髪を耳にかけながら、悩ましげな視線を俺によこした。
俺にはそんなふうに性的に見えてしまったけど、彼女の素振りからして迷っているだけだし。
エロい出来心を隠すように、俺は急いでコクコクと何度も首を縦に振った。
平静を装ってはみるものの、いつになく近い彼女との距離に……仕事に集中できない。
白い肌に細い指先、ピアスの穴も開けていない耳。自然体の美しさに目を奪われる。
「これはナチュラルでこっちはハイライト……」
「……こっち?」
「えっと、青白い光と黄色だったら……?」
「うーん……」
ふわっ、と。
マズい……
彼女の香りを、もっと近くで感じたい欲が制御しきれない。椅子に座っている俺と屈んでいる彼女の顔は同じ高さ。簡単に触れられる、手が届くすぐそばにいるのだから。
すでに手中の域で、少し引き寄せれば膝に乗せることもできる。
俺のタガが外れたら……
「……黄色みのほうが夏みたいな 、、、強い陽射しに見えますね」
「そうだね……」
「……負けない、負けたく、ない。……黄色のこっちで! えっ!?」
「……っ!?」
彼女が画面を指さして俺に振り返ったとき、俺は、芳しさに酔ってるみたいに……彼女の髪に顔を寄せてその香りを堪能していた。
変態だ! セクハラでもアウトだぞ!
これは冬咲さんだってびっくりして引くわ!
「あ、いや、ほら! もらったシャンプー! 香りが良くて好きになっちゃって! 毎日使ってます、冬咲さんの髪も同じ香りだなって……」
「えっ? ……はっ!///」
え? ナニソレ?
彼女が慌てて自分の横髪を両手で掴んで、顔を隠すみたいに恥ずかしがっている。ちらっと見える耳が赤いし瞳はキョロキョロさせていて。
・・・可愛いすぎる、んだけど?
めちゃくちゃ可愛い!!
「あ、ど、どうぞごゆっくり、作業なさってください……」
ぽっかーん……
俺が呆けている間に逃げるようにして彼女は出ていってしまった。そして後からやって来る、脱力を伴う強烈なニヤけ。
口元を押さえて顔面崩壊をなんとかくい止める。こんな感情初めてでどんどん彼女に夢中になる自分が怖い。
「可愛いすぎてシンドイ……」
冬咲さんの残像はしばらく頭から消えなくて、どっぷり沼にはまったように脱出不能に陥っていた。
何度も繰返す可愛い仕草の無限ループ……
――――それから。
夢見心地に進んでゆく仕事に調子こいて、しっぺ返しみたいな衝撃をくらったのは、今年最後のアプロディタで仕事納めをした後のこと。
俺に起きた突然の大事件に心臓がバクンッと飛び跳ねた!
「あれ? 夏樹くんだ! 超偶然~」
「!!!?」
アキ!?
どうしてここに!?
ほんの数秒前まで浮足立って冬咲さんと歩いていたのに 、、、
「今日は人手が足りなかったので助かります」
「気にしないで。アプロディタさんでは何の問題もなく余裕ですから」
今日伺ってみるとインフルエンザの欠勤があっていつもより大変そうに見えた。これからサンプリング調査と報告書作成を冬咲さんが一人で行うと聞いて俺はサポートに志願してみた。
まだ一緒に彼女といたいし……
「UVケア商品の新作モニターをモデルさんにお願いしてるんです」
「真冬に夏商品の市場調査って大変ですね」
冬咲さんが商品のサンプルを抱え、俺はパソコンを持って、談笑しながら応接室のドアを開けたら……天国から真っ逆さま地獄の入口だった。
この機に恩を売っておいて冬咲さんの律義さにつけ込むような、俺の下心が招いた天罰かもしれない。
モニターモデルの中に、よりによってアキがいるとは!
まさか依頼先がアキの事務所だったなんて!
5人集まっていたモデル達の輪からアキが抜け出し、出入口で棒立ちになってしまった俺に駆け寄ってくる。
「久しぶりだね~? こうゆう仕事もするんだ。見て見て! まだ夏樹くんに貰ったピアスつけてるよっ」
「……あ~、そ、そう、」
相変わらず長い生足を見せつけるようなファッションで明るくて長い髪を揺らし、俺のそばに来て懐っこく話しかける。
つき合ってた頃はそうゆうとこが可愛かったんだけど、今この瞬間は脅威でしかない!
「……知り合いですか?」
「え? うっ、あぁ……えぇ、」
トライアングルの立ち位置で純粋な直角が疑問をぶつけると、歪んだ鈍角が言葉を濁すも……奔放で気儘な鋭角はこの関係を破壊しにかかった!
「夏樹くんは前につき合ってたセフ……元彼なんだよねっ」
「「 !!!! 」」
オワタ 、、、
この子セフレって言おうとして、気を遣ったかもしれないけど、言ったも同然だよ!?
もう言葉を失くし俺はあんぐりして、ヘラっとしているアキを眺めたあと、隣の冬咲さんに恐る恐る目線を移す。
彼女は大きく見開いた目を緩めると俺達にあからさまな社交辞令を口にした……
「凄く相性がいいみたいですね」
サァ――――ッ。
目が笑ってない!?
初めて見る表情に俺の血の気が引いた。始めましょう、と逆に彼女はキビキビ働いて。そんな様子から俺に脈がないことを、まざまざと思い知らされる。
離れた隅に着席しパソコンにモニターの回答を打ち込む作業。まるで針の椅子に座っているような、やたらと汗ばんでいる滑稽な自分にあきれてた――――。
「じゃあね、夏樹くん。また会えたらいいね」
「そうだね……ははっ」
ようやく調査が終了してモデル達はお帰りになった。やっと冬咲さんと二人きりになれたけれど、それはそれでぎこち無い雰囲気。
もう俺、脇の下びっしょりなってる!
訂正? 弁明?
とにかくこの沈黙を打破しないと、仕事も俺の面子も潰れそう……
「……軽蔑、した?」
「……今日の、モデル全員と知り合いなんですか?」
「ち、違うよ!?」
「……海浦さんの仕事は信頼してるので、」
「仕事じゃなくて、僕の、ことは……?」
「……優しい、方だと思っています。引き続き発表会まで宜しくお願いします」
よそよそしく冬咲さんが頭を下げる。
折角イイ感じで彼女に近づけたのに、初めましてよりも堅苦しくなってしまった。
はぁ~。あ~ぁ。
俺の下心が期待していたのは、忘年会に呼んでくれたりとか?
それと称して飲みに誘うとか?
仕事以外でも一緒の時間が欲しかった。
アプロディタでの仕事内容はだいたい目処がついている。後はデザインデータを入稿して印刷、プレス発表会を見届けたら契約終了だ。
年明けには新しいクライアントの案件も並行して始まる。これまでのように七葉社に足を運んで、頻繁に会える機会もなくなるわけで……何かきっかけが欲しかった。
どんな形でもいい、彼女との繋がりを手にしたい。
マドンナを自分の物にできるか?
そんな企みは叶うはずもなく、形式的な年の瀬と新年の挨拶がメールで届いただけだった。
このまま……もう終わりか、彼女と同じ香りはいつの間にか消えて無くなりそうに。
そんな折、唯一の危惧していた事態が発生してしまう――――
*
「海浦さん! 今日の栄美社の新作発表が……」
「はい、確認しました。今そちらに向かっています」
待ち望んでいた冬咲さんの声は慌てた様子で、とても浮かれていられる気分ではなかった。早急な対処が必要でアプロディタの皆さんも困っていることだろう。
俺も別のクライアントの所から急いで七葉社に直行していると、ちょうど冬咲さんから電話がかかってきたのだ。
もうすぐ着きます、その言葉を最後にして電話を切ったからか、ビルに入ると冬咲さんが1Fまで下りて来ている姿が目に入った。
俺にも気づいたようだ。まだ声をかけるには遠い位置だったので早足で近寄る。
「ごめんなさい!」
「わっ、な、なんで!?」
ちょうど初めましての挨拶をした場所で彼女と対面すると、すぐ俺に向かって深く頭を下げた。
驚きのあまり咄嗟に彼女の腕に手を添えて、必要のない謝罪を終えるように促す。
すると彼女はゆっくり頭を上げて、眉を歪ませ俺に詫びた。
「私が海浦さんの提案をもっと真剣に考えてたら、こんなことにならなかった……」
2月に入ったばかりの今日、春向けの新商品発表を行った栄美社の広告が、アプロディタで作成したデザインと酷似していたのだ。
フレーズは『守る』で背景が陽射しで構成されていた。
アプロディタの発表会は1ヶ月後で先を越されてしまった結果だ。ライバル社と差別化をはかるにはデザイン変更はやむを得ない。
それで俺が予備で作成していた方の、アプロディタのイメージ色を背景にしたデザインを使用することになり、彼女が責任を感じて謝罪に至ったのだろう。
「大丈夫、ひとりで抱え込まないで。今日の事は予測してたし入稿もギリギリ待って貰ってるし。ね?」
「でも、海浦さんにご迷惑を……」
「全然! デザインは被ちゃったけど、他社もそれで勝負かけたってことだから! 冬咲さんの直感が正解ってことでしょ? 早く出したモン勝ちだから変更は仕方ないけど」
「っ……」
なんて 、、、
切ない表情で俺を見つめるんだ……
唇をきゅっと閉じて瞳を揺らがせている。まるで何か零れるのを我慢しているみたいに。
彼女は責任感が強いから、どうしても自分で否を背負い過ぎてしまうんだろう。大人びた女性に見えるけれど、本当は少女のように繊細で戸惑いを隠せないときもある。
それが俺の前であってくれて、胸がいっぱいで苦しいほどに嬉しくてたまらない……
彼女の腕に添えた手はくっついたまま、まだ離したくはなかった。
「僕はあのとき冬咲さんに本音言って貰えて嬉しかったよ。君の本心が知りたかったから……」
「海浦さん……」
「もっと、何でも。君の気持ち、そのまま。たくさん伝えてくれたらって……」
「え……///」
彼女と繋げた片手に熱を込め、視線はより熱っぽく彼女を見つめて離さない。
可愛らしく幼い表情をしている彼女の目が次第にキョロキョロし始めて、本来の姿であろう恥ずかしがりの少女にお目にかかれてクスッと笑いが漏れる。
大人の男で口説くには少し早すぎた。
「ふっ、僕達同学年なんだからもっと気楽に話して……あれ?」
「ん?」
「髪の毛に紙くずが絡まってる?」
「あっ、さっきシュレッダーかけて……」
「待って、取るから……!」
「…………きゃっ」
パチッ!
彼女の耳のそばに手を近づけた途端、静電気が弾けてひとつ音を鳴らす。びっくりした彼女が目を閉じて体を竦めた。
痛そうな表情に俺は焦って咄嗟に……
「ごめん、ごめん! 痛かっ、た、ね……」
「!?」
咄嗟に俺は、彼女の頬をすりすりと撫でて――――――思いきり直接触れてしまっていた。
スベスベの肌が柔らかくて、なんとゆうか、想像を超えた触り心地に……放心状態。
忘れてた呼吸を慌てて吸い込み我に返ると、彼女の頬がみるみる赤く染まってゆく。
「はっ! うっかりだよ!? うっかり触っちゃって……痛かった?」
パッと手を離して言い訳すると、彼女は頬に自分の手をあてがって俯き横に首を振った。俺がしきりに送ってしまった熱を、彼女はしきりに隠そうとする。俺は隠そうにも元に戻せない、この溢れそうな愛しさを……もう、認めよう。
彼女が好きだと――――――
この場所で初めて出逢ったときに、一目惚れしていたんだ。
俺のスタイルだなんて……ただのカッコつけだ。こんなふうに心情を掻き乱されて小さな事に取り乱す、男が恋愛に溺れる姿はみっともないと虚勢を張ってた。
誰かを本気で好きになることを避けていた、だけなんだ。仕事の方が大切だと建前にして……
今まで薄っぺらい恋愛関係しか築いてこなかったから。会えないと胸がしくしく痛むことも、一日じゅう頭の中に彼女の姿が浮かんでいることも、初めての経験で年甲斐も無く参っている。
想像するより、大人の恋は……もどかしい。
*
――――プレス発表会当日。
会場は七葉社に近い高級ホテルのホール。15時開始に向けてアプロディタの皆さんは朝から準備に忙しいはずで……
早く手伝いに行きたかったが別件の処理に追われギリギリの到着になってしまった。
「冬咲さん!」
「海浦さん! ……間に合わないかと思って」
「いや、何が何でも参加するつもりでっ」
「もうすぐ始まります」
ホールの前で案内をしていた彼女を見つけて駆け寄った。七葉社のイベント用制服を着ているのですぐ気がついた。クリーム色のワンピースにグリーンのスカーフ。
いつもに増して清楚で美しい……
遅刻するかとハラハラして息もまだ整わないが、心の中ではうっとりと見惚れてた。
会場の中はたくさんのメディアでもういっぱいだ。名残り惜しいが彼女を独占できる時間は無さそうで、まず身支度を仕上げる必要性をハッとして思い出す。
「あ~、これ、ネクタイしないとマズいよな。ヘタクソでどうしよ……」
「……私が、やりましょう、か?」
「えっ? いいの!?」
「えっと、あの、あそこの柱の影で……」
俺が滅多に着ないYシャツの第一ボタンを留めながら、ポケットから取り出したネクタイに嘆いたところ。予想外な彼女の申しでに声が裏返りそうになってしまった。
時間がないのでそそくさと移動し、彼女にお願いして委ねてる……この近しい距離にすごく緊張して心臓の音がヤバい。
まるで、もう、そうゆう関係になったかのような?
恋人か嫁さんがしてくれるであろう、ネクタイを結んで貰うというシチュエーションに、クラクラするほど酔い痴れていた。
初めての経験が好きな女であって、好きな香りがすぐそばにあって。顔面がとろけそうに嬉しい反面、彼女の慣れた手つきは初めてではないと思われ 、、、残念な気持ちがつい口から漏れた。
「上手に結べるね……恋人にしてあげてる、とか?」
「えっ? あ、昔に……今、恋人はいません」
たどたどしく彼女が答える。やっぱり前にはしてあげたことがあるんだ・・・んんっ?
「恋人いないの!?」
「っ!?」
――――――あ。キスの、近さ。
「ごめんっ!」
「……いいえ」
喉元を伸ばしていた姿勢から急に彼女を見下ろしたら、俺を見上げた彼女の顔が目の前にあって。
思わず欲が飛び出そうになるのを、先に顔を背けた彼女の仕草に抑制された。でも、またとない機会を逃したくはない。
「不謹慎だけど……今日の仕事が終わったら、一杯だけつき合って、くれませんか?」
「……え、あの」
「二人きりで打ち上げしたいのと、冬咲さんの誕生日にお祝いできなかったから……」
「…………はい。空けておきます」
彼女がネクタイを結び終えて、優しく上から押さえつける。俺の胸に手のひらから返事を送るようにそっと……
そんなの勘違いしてしまうよ?
俺の胸の内を探るみたいな態度で惑わせたら、君に手が届きそうだと期待を抱いて。
もう、後戻りなんてできない。今この瞬間も、彼女が欲しくて欲しくて……唇を噛みしめる。
今夜、大人の恋に勝負をかける!
*
発表会のあったホテルのスカイラウンジに彼女を誘った。高層から望める夜景を目前にした二人掛けのシート、テーブルには柔らかな灯りのキャンドル。
ガラス窓の摩天楼の輝きよりも、店内の包まれるような温もり色の光よりも、何よりも隣の彼女が一番燦めいて見えた。
「乾杯。お疲れさま」
「……乾杯。お疲れさまです」
彼女のオーダーしたカクテルグラスのスイートマティーニに、俺のジントニックが入った薄ガラスのタンブラーを静かに合わせた。
「……もう一回、乾杯」
「ん?」
「遅くなったけど、誕生日おめでとう」
「……ふふっ、ありがとう」
ひとくち飲んだグラスをもう一度合わせて微笑んだ。人生で一番の至福の時かもしれない。全身の隅々まで癒やされた感覚で浮かれまくる。
でも、夢のようなひとときは何時までも続かなくて。今日の発表会を無事終えた労いと仕事関連の話を済ますと、和やかな会話も次第に途切れ、ガチガチに緊張して焦りで余裕がなくなった。
グラスの酒は半分を切り、無くなるまでにどうやって本当の目的を伝えたらいいのか……?
駄目元で誘うのとはわけが違う。本気の告白は初めてになるが失敗はしたくない。こんなにも執着するくらい好きだなんて、自分でも手に負えないんだ。
何もできない時間だけが刻まれてゆく。
二人掛のシートには彼女と俺だけなのに、怖くて近づけない臆病な俺は、彼女の瞳にも映してもらえない。
俯いてばかりにさせてしまって……
「無理、させちゃったかな?」
最上階のバーとか、カッコつけた振る舞いが裏目に出たと思った。居心地が悪そうに見える姿に内心がっかりなくせ、強がりに零した俺の声は 、、、彼女に気を遣わせたみたいだ。
「違うの……」
彼女に伝えられず溜め込んだ言葉が喉でつかえて。前のめりにジンでゴクゴクと流し、膝に両腕を乗せて項垂れそうな首を支えた。
横目に映る彼女の、より下向き加減な態度に……半ばあきらめかけてこっそりとため息でもつくところ、その隙に――――――
「……あなたが、好きなの」
――――――え?
なん・て・・!!
耳にした言葉の囁きを信じられず、彼女を見つめてみれば……恥じらう少女のように耳も顔も赤くして。
告白が本物だと、火照《ほて》るほどにときめいた。
一瞬にして酔いが回るような刺激は、彼女を求める欲望を掻き立て……顔にかかった横髪をそっとなぞり、頬に手を添えて強引に視線を奪う。
見つめる間にも、愛おしい気持ちが溢れ出すんだ。あたりまえにその恋しい唇を奪いにいった、けれど……
そのほんの僅かな時間の途中で、キスの仕方を忘れたみたいだ。まるで初めてのように。
控えめにそっと彼女の唇に触れあわせた。
あ、柔らかくて……
気持ちいい――――――
彼女のベルモットと俺のライム。香りが温かい二人の吐息で溶けあう。
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「――――――(チュッ)君が好きすぎて、どうしよう……」
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