夏雪の花に最後の恋をして。

美也

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7.雪解けは豊潤な夏に

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『……あなたが、好きなの』

 私の気持ちをちゃんと伝えよう、胸に秘めて二人だけの時間を過ごし……切羽詰まって出した答えに自分で驚いていた。
 そんな私の頬を、また彼は大きな温かい手で優しく包んでくれて。

 失敗も心配も全部消してくれそうな、魔法のような彼の眼差しに見つめられる。その柔らかに微笑む目元に私は特別な力を感じて、恥ずかしいのに視線を外せない。

 私……こんなにも彼を。
 海浦みうらさんを好きになってた――――――





 第一印象は背が高くて大きな男性だと思った。けれど見た目に反して、謙虚な姿勢にソフトな態度で接してくれる。それに仕事は細やかで配慮が行き届き、誠実に務めているのを感じ取れる。
 私達の間では、嫌な思いをせずやり易いので助かる、との評判で一致していた。

 私の中では、おもしろい人。という一面も追加されて、親しみを抱いていたのは確かだった。

「コーヒーとハーブティー、どちらにしますか?」
「もちろん、鳥入りのお茶で」

「ふははっ。ハーブティーですね」
「お願いします」

 私の好きなハーブティーも彼は好んでくれたようで、打ち合わせ後の作業の合間にお茶をお出しする。

 新商品のキャッチコピーが決まり、広告デザインの見本を作成してくれているところ。どう思うかとパソコンを見せられ、海浦さんに意見を求められた。

 春らしいくすみ色で女性の好みそうな流行りでもある背景のデザイン。商品ボトルの琥珀色ともマッチしていて優しい女性らしさを感じさせた。
 けれど私の見解に海浦さんは満足できなかったみたいだ。 

「ん~、ピンとこないか。僕のアプロディタさんのイメージだったんですけど。じゃあ、この日光を背景にした方は?」
「あのっ、私の意見を参考にするんですか?」

 続けて質問を受けて、私の好みがデザインに影響するのではないかと不安がよぎり、パソコン画面から少し遠ざかる。

「あぁ、そんなに固くならないで。直感が欲しいだけでアイデアが出てきたらいいなって」
「でも……チームでまとめた意見の方が、」

「僕が冬咲ふゆさきさんの本心を聞きたいだけ!」
「っ!? ……わかり、ました」

 自分の立場をわきまえると、皆の考えを優先させるべきとの意識が強かった。私がリーダーをあかりさんから任されているのは、勤務年数と未婚であることが大きいと自覚している。
 既婚している先輩方と経験の浅い後輩達の調整をとれる、真ん中の頃合いな年齢なのだ。

 これまでも調和を心掛けて仕事に携わってきた。それを覆すような海浦さんの言葉に少しドキッとして身構えてしまう。けれど……


「良くても悪くても、そのまんま言ってくれたら助かるから。思ってること聞かせて?」
「……何でも?」

 不思議と私の緊張をくような、海浦みうらさんから発せられる言葉に……私の気持ちはいつも隠していたのだろうかと、ふと省みる。

 どんな本心も前に出してもいいのかな?
 何でもいいかと迷いを彼に尋ねれば、当然との勢いで何度も頷いてくれた。

 春の陽射しをイメージした背景の光の調整を比べていく。直感で選んでいると『負けない』フレーズに合った光景を昔にも感じたことがある、希薄な記憶が思い出された。
 哀しい別れを経験した、あの夏。

「……黄色みのほうが夏みたいな 、、、強い陽射しに見えますね」
「そうだね……」

「……負けない、負けたく、ない。……黄色のこっちで! えっ!?」
「……っ!?」

 すっかり気を許していたものだから、振り向いたときに彼の顔が近くにあってびっくりした。跳ねた心臓の音が体中に走り出してしまう。

「あ、いや、ほら! もらったシャンプー! 香りが良くて好きになっちゃって! 毎日使ってます、冬咲さんの髪も同じ香りだなって……」
「えっ? ……はっ!///」

 髪がにおってた!?
 どうしよう!?
 私があまりに近づきすぎてハラスメントぽくなっちゃったかな!?
 ウチの商品を渡したのも海浦さんに気を遣わせてしまったかもしれない!

「あ、ど、どうぞごゆっくり、作業なさってください……」

 ささっと会議室を出てドアを閉めると、息を長く吐いてへなへなともたれかかった。かっかと熱い顔に手をあてて、早く冷めてと気持ちが焦る。

 恥ずかしい……
 恥ずかしいけど、心の奥でなぜか嬉しかったと感じている自分が、なかなか熱を下げてはくれなかった。

 その後、広告デザインは私の選択した色調で仕上げてもらったものを皆も気に入り、それに決定した。

 年内の仕事納めも間近に控えた社内ではインフルエンザが流行して、今年最後の海浦さんとの打ち合わせも手短かに切り上げてもらう。
 この後にサンプリング調査が入っていて、私一人で対応しなければならず準備に時間がかかるからだ。

 けれど、状況を知った海浦さんはアシスタントを申しでてくれて、報告書がすぐ作れるようにデータおこしをすると乗り気で……

「そんなの申し訳ないです! 部外者なのに……」
「え~どんな感じか見学もしてみたいな」

 私が断ろうとしても興味があるからと否を感じさせない言い回しで平気な態度を見せる。正直なところ、猫の手も借りたいほど社内は業務が滞っていた。

 どうしてかいつも、心の裏側を覗かれているような……
 気恥ずかしい気持ちになるのだけれど、嫌じゃなくむしろ、心地良く感じ始めている自分がいた。海浦さんのご厚意を受け取ることにして協力をお願いする。

 サンプルや備品をカゴに入れ持ち上げようとすると、すぐ手を伸ばして代わりに運んでくれようとしたり。改めて御礼を述べると、私に負担を感じさせないようにとの気遣いか、にこやかに海浦さんは応対して和ませてくれる。

 応接室まで案内するとドアを開けてくれて、紳士的な振る舞いに喜んでニコリと中へ入った。すると……


「あれ? 夏樹なつきくんだ! 超偶然~」

 ……え?
 集まっていただいたモニターモデルの一人がこちらに駆け寄ってきて、海浦みうらさんに気さくな感じで話しかける。 

「久しぶりだね~? こうゆう仕事もするんだ。見て見て! まだ夏樹くんに貰ったピアスつけてるよっ」
「……あ~、そ、そう、」

 明るいロングヘアをふわふわさせた長い足の可愛いモデルさんだ。話しぶりから二人は親しい仲のようだけれど、こんな場所で再会したりするって……? 

「……知り合いですか?」
「え? うっ、あぁ……えぇ、」

 私が質問すると海浦さんはしどろもどろ。先程から立ち竦んでいる様子で、いつもの柔らかな表情は一変して強張っている。
 そして明確な答えは彼の代わりにモデルの女の子が教えてくれた。

「夏樹くんは前につき合ってたセフ……元彼なんだよねっ」
「「 !!!! 」」

 セフ 、、、セフレ!?
 この二人がそんな関係を……?

 誠実な方だと思っていた矢先に突然の爆弾発言を受けて私の頭は一瞬沸騰する。急な嫌悪感を覚えたが、深入りせず早く仕事をこなそうと気持ちを切り替えた。

「凄く相性がいいみたいですね」

 二人に当たり障りない返事をすると早速調査に取りかかる。
 内心、なぜ、カッと怒りのようなものが生まれたのか……?
 モヤモヤしながらも考えないように努めた。私には関係のないこと、と自分に言い聞かせて。

 現に海浦さんは仕事のパートナーであって、申し分ない働きをしてくれている。
 いいえ、それ以上のサポートに助けられているのだから、偏見はやめよう。

 心の奥で葛藤を繰り広げては、冷静さを欠かないように注意した。入室時に話した以外に海浦さんと彼女は言葉を交わしていないが、同じ部屋にいるというだけで気になってしまうだろうから。
 それに少なからず私も……そこに気を取られている、知らんぷりはできない。

 途中で私が少しの間、退室して戻ってくると……
 廊下の壁にもたれて、海浦さんの元カノさんがスマホを見ていた。私に気づくとあたかも何か話をしたそうな仕草だったので、こちらから歩み寄って伺う姿勢をとった。

 何だろう?、とちょっぴり身構える。


「さっき私が言ったことですけど……」
「え? あぁ、海浦みうらさんとの、その……」

 さっきとは……真逆な、真面目な顔つきで彼女は話し出す。

「私に好きな人ができて夏樹なつきくんに別れてもらったんです。夏樹くんはいつも優しくしてくれました」
「……あの、何で私に?」

「あれ? 夏樹くんの彼女さんじゃないの?」
「えっ!? どうして!?」

 素直に感情を顔に出す子で、思ったこともそのまま口に出せるらしい。返って私が尻込みしてしまう。

「だって同じ香りしたから。だから夏樹くんシャネルの香水やめたんだと思って」
「同じ!? あー、私達は仕事上の関係者ですよ」

「そうなんだ。私が変なこと言っちゃったから誤解させたかと思って。でも、たぶん夏樹くんはあなたを好きなんじゃないかな?」
「えっ……」

 海浦さんが、私を好き……?
 私の動揺はお構い無しに彼女は次々と彼を推してくる。

「あんなキョドってる夏樹くん初めて見たんだよね。スゴいあなたの反応気にしてるし。仕事だから抑えてるんだろうけどバレバレ、あはっ」
「……えっと、彼に、頼まれて?」

 私は疑心暗鬼に裏を確認しようと伺うけれど、溌剌としている彼女は屈託のない笑顔で微塵もそんな駆け引きなど感じさせない。

「ん? 違う違う! 夏樹くんには良くしてもらったからお返し? 別れる時も私のこと応援してくれたから、私も夏樹くんを応援しようと思ったの。別れてから連絡もしてないよ? ホント今日はバッタリって感じ」
「……そ、そう」

 じゃあそれだけ、と満足そうに彼女は応接室に戻った。
 私も素直に本心を解き放てたら……
 ふぅ~と心から長いため息が絞り出された。

 若くて羨ましいという思いが、彼女と同じ年頃であろう20代前半の自分を記憶から引っ張り出す。

 いろいろあって……大人の恋に……
 簡単には踏み出せない。失敗はもう許されないと、私は慎重になりすぎて怖気づいている。そう、彼女に認識させられた。

 だから、困っている。
 本当の海浦さんを知りたがっている自分と、恋をしてみたいと気づいてしまった自分に――――――


「じゃあね、夏樹なつきくん。また会えたらいいね」
「そうだね……ははっ」

 調査が終了し、二人が別れの挨拶をするのを少し遠慮がちに見ていた。神経を使い過ぎたのか、やや疲弊して表情をうまく操れない。
 私の中で海浦みうらさんを警戒する気持ちも残されていて、彼への接し方が行方不明になってしまった。

「……軽蔑、した?」
「……今日の、モデル全員と知り合いなんですか?」

 意地悪な質問だとわかっていても聞きたくなった。案の定、彼は全身で狼狽えて反射する。

「ち、違うよ!?」
「……海浦さんの仕事は信頼してるので、」

 否定、してくることも。
 もともと悪い人じゃないと、わかっているくせに。
 仕事上では問題なく良好な関係を築けていられればいい、自分に言い聞かせるように答える。

 けれど、次に発した彼の心配は彼女から聞かされた恋愛感情を匂わせるものだった。
 別れていても心理を読み取れる親密度があったことを証明されたみたいで……いい気分がしなかった。

「仕事じゃなくて、僕の、ことは……?」
「……優しい、方だと思っています。引き続き発表会まで宜しくお願いします」

 元カノさんの言葉を引用し、私は頭を下げた。酷くさげすんだ気持ちが渦巻いていた気がする。
 羨ましい、若さでも素直さでもない。

 彼女がセフレの関係性も築けるほど、女として性の快感を得られる。その体に私は嫉妬しているのかもしれない。
 そう、心の奥でひっそりと羨む自分が醜く感じた。

 その後すぐ年末年始が訪れて仕事から離れたことで気持ちは落ち着きを取り戻していたと思う。
 海浦さんに新年の挨拶とスケジュールを確認すると、2月初旬にデザインデータを入稿して印刷し、確認作業を経てプレス発表会を迎えたら終了とのこと。新しいクライアントの作業が始まったらしく忙しそうだ。

 もう、あまり顔を合わせる機会も少ないだろう。必然的な接触がなければ、感情に振り回されることもないと予想できた。 
 こちらも仕事始めから発表会に向けての準備に追われ、1月が早々と過ぎ去り2月に入った初日のこと。

 アプロディタでは皆でライブ映像を囲んでいた。これから栄美社の春向け新商品発表が行われる。
 いよいよその時 、、、
 画面に釘づけになっていた私達は、ある映像を確認して落胆の声を漏らした。

 青いボトルに『守る』のフレーズで、春の陽射しをイメージしたであろう背景の広告デザインだったのだ。こちらの新作に決定していたデザインと酷似している。これでは1ヶ月後に発表会を控えている弊社が真似をしたと認識されてしまう。
 隣にいるあかりさんが口火を切った。

「広告デザインは変更したほうが良さそうね」
「はい。湘南wreathリースさんに至急で依頼してみます」


 あかりさんはあずさ部長に報告を、私達チームはデザインの再検討に。海浦みうらさんが作成したパターンは他に2つあった。

 光をモチーフにするなら木漏れ日はどうかと緑葉に調和させたデザインと、私達のイメージだと言って優しい桃色を背景にしたデザイン。

 2択なら桃色のパターンだと皆の意見が一致した。すぐに修正してもらう、と私はリーダーとして意気揚々に見せたが、胸の内はズキンズキンと震えを起こしていて……

 あの時、海浦さんは真剣に、最初に、私にそのデザインを見せてくれたのに!


「――――もしもし?」
「海浦さん! 今日の栄美社の新作発表が……」

 彼に連絡を入れて声を聞いた途端、はやる気持ちを抑えられずに早口で話し始めた。
 早く伝えたい、早く、彼に……

「――――もうすぐ着きます」

 海浦さんがこちらに向かって来てくれている、その言葉を聞いて私はすぐ1Fまで急いで下りて……
 すると、ビルに入って来た彼をちょうど確認して走り寄る。

「ごめんなさい!」
「わっ、な、なんで!?」

 早く、謝りたかったから……
 海浦さんを目の前にするなり勢いよく腰を折り曲げた。そっと腕に添えられた彼の大きな手に、優しさをまた痛感して胸が締めつけられる。

 あなたの考えを軽々しく扱って、あなたの気持ちを見ようとしなかった、私の至らなさを詫びたかった。
 でも海浦さんは……

『大丈夫、ひとりで抱え込まないで』
冬咲ふゆさきさんの直感が正解ってことでしょ?』

 多忙のところ駆けつけてくれたうえ、迷惑をかけている私を責めもせずに。逆に励ましを送って私の胸の痛みを取り払ってくれる。
 もう何も言えないほど、その優しさで胸はいっぱいになってしまって……

 体の奥の方できつく縛りついている、何か強固なモノが緩められたような。
 彼にほぐされている実感がもどかしい。
 私、私はいつも、ひとりで負けないようにって――――強くある為に自分に無理を……

「僕はあのとき冬咲さんに本音言って貰えて嬉しかったよ。君の本心が知りたかったから……」
「海浦さん……」

「もっと、何でも。君の気持ち、そのまま。たくさん伝えてくれたらって……」
「え……///」

 そんなに熱い視線で見つめられたら……
 急に恥ずかしくなって何処かに隠れたくなる。そんな心情も見透かされたのかフフッと笑われてしまった。
 ついでに、髪の毛にも紙くずが絡まっていたらしくて恥を重ね、慌てて髪をとかそうとすると……

「待って、取るから……!」
「…………きゃっ」

 パチッ!
 海浦さんの手が顔面に伸びてくると、静電気が耳のそばで発生して思わずビクリと体を震わせた。

「ごめん、ごめん! 痛かっ、た、ね……」
「!?」

 彼が私の頬をすりすりと撫でて――――――直接その手の体温を感じとる。
 大きくて安心するような温かさに包まれ、感触がとても心地いい。
 もっと・・・・・!?

 不埓な自分を発見してカアッと顔が熱くなる。すると、サッと手は離れていき慌てた海浦さんの声が私の心の底まで行き届いた。

「はっ! うっかりだよ!? うっかり触っちゃって……痛かった?」

 ――――この感覚を……私は覚えている。
 『うっかり』そう言って恥じらいながら向き合った、あの時と同じ、春風が吹き抜けたような温かさ。

 恋が始まる、この感覚。

 それを繰り返しても……いい、の?

 私は頬を押さえて俯き、簡単に認めてはいけないと必死に首を横に振って海浦さんに返事をする。
 恋じゃない、痛くない、と。

 もし、また痛みが伴う恋ならば……
 もう、私はきっと立ち直れない。


「――――このデザインでいくなら、フレーズを『負けない』じゃなくて『負けない』にするのはどうですか? こう、そばに寄り添う感じがして、僕的にはアプロディタさんのイメージと合致するんですが……」

 海浦みうらさんの提案を受けて感嘆の声が皆から上がった。緊急に設けたデザイン変更の打ち合わせ。
 ライバル社と被ってしまって、先程まで曇っていた雰囲気がパアッと明るくなり和やかな空間を作り出す。
 彼がかけた魔法みたいだ……

 私は1Fまで急いで海浦さんを迎えに行って、リスケを円滑に進める手筈だったのに。モタモタと有らぬ事までやらかして、仕事とは無関係の私情を挟みドギマギを隠しながらここにいる。
 海浦さんは会議室に入ってからものの数分で、私達の不安を解消して笑顔にしてくれた。ちょっと感動して……!

 海浦さんが、私に向かって、にっこりと微笑みを送った。それを受けて私は、精一杯答えるように、頬を頑張って持ち上げる。

 今はなぜか胸がジーンと熱く感嘆のきもちがいっぱいで……こっそり泣きたいくらいだから。うまく表情を作れない。

 私は、きっと、あの春から。
 上京して恋をしたあの春に戻って……もう一度やり直したい気持ちを、完全には消してなかったんだ。

 あの別れた夏に、誓った。
 『負けない』強い私になると……でも、ひとりで歯を食いしばって我慢するように、時に無理をしたりして。
 幸せだった頃に戻りたいと悔やむこともあった。

 『負けないで』そばで支えてくれる存在があったなら、どんなに心強いだろうかと――――――

 本当はそれを私が一番欲しいことに、今、気づいた。
 その優しくて大きな手を、安心する笑顔を、私が求めていることに……気づいた。


 ――――その淡い気持ちは日々を刻むごとに寂しさを伴って。仕事は順調に進捗する一方で、ため息をつく回数は増えてゆく。

 いよいよ迎えたプレス発表会当日。トラブル対応で遅くなると海浦さんから連絡を受けて、開始直前になってもまだ顔を見せない状況に……
 このまま、会えないまま、終わってしまう
のかとあきらめかけた。

冬咲ふゆさきさん!」

 ホールの前にやっと彼が現れて、私の心は安堵する。もうほとんどメディアの方々はホールへ案内した後だった。

「海浦さん! ……間に合わないかと思って」

 急いで来てくれたのか肩で息をして、その表情には疲労の色が滲んでいた。Yシャツのボタンも開いていて、乱れた呼吸で身支度を整え始めるも彼は慌てた様子で困り果てた。

「あ~、これ、ネクタイしないとマズいよな。ヘタクソでどうしよ……」
「……私が、やりましょう、か?」

「えっ? いいの!?」
「えっと、あの、あそこの柱の影で……」

 役に立てるならと時間も差し迫っていて、思わず大胆な行動に出てしまった。けれど人目をはばかり、身を隠せそうな場所に移動する。
 お願いします、と首にかけたネクタイを私に手渡され、うろ覚えながら結んでゆく。

 細い方をこれくらいにしてひと結び、後ろから前に……あぁ、緊張して手が震えそう。海浦さんと近くで向き合ってじっとしてたら、だんだん熱くなってきて。

 大きな肩幅やゴツっとした首まわりを見ていると、体つきがやっぱり男性らしいのだな、と意識させられてしまう。


「上手に結べるね……恋人にしてあげてる、とか?」
「えっ? あ、昔に……今、恋人はいません」

 少しジロジロ見過ぎたかと急に話しかけられてドキッとする。拍子に考えもなく言葉を返すと、彼の体が大きく揺れた。

「恋人いないの!?」
「っ!?」

 びっ、くり、し……
 突然に海浦みうらさんが声を荒げるから振り向くと、彼の顔で視界がいっぱいに。近いっ!
 不測に発生した危うい距離感に慌てて俯き跳ねた心臓を落ち着かせる。 

「ごめんっ!」
「……いいえ」

 ネクタイに集中して早く仕上げないと!
 後ろに回して上から間に通して……
 
「不謹慎だけど……今日の仕事が終わったら、一杯だけ付き合って、くれませんか?」
「……え、あの」

「二人きりで打ち上げしたいのと、冬咲ふゆさきさんの誕生日にお祝いできなかったから…」
「…………はい。空けておきます」

 彼からのお誘いに躊躇うことなく返事をしていた。きゅっと結び目を押さえてシャツの襟までネクタイを上げる。

 私の本音をもっと伝えて、そう海浦さんが言ってくれたから。包み隠さず自分の気持ちを素直に声にしたい。

 もうこれまでに、閉じこめていた憂いを彼にほぐして貰った……私も最後は自分でほどけるように――――――

 結び終えたネクタイの仕上げに手でなぞり、うまくいくよう願いをこめた。





 無事に発表会を終えて待ち合わせしたのはホテルの最上階にあるバー。夜景が見えるカップルシートは背もたれが高めでカーブを描いたシックなソファ。その前に置かれたテーブル上の仄かなキャンドルの光は、彼と私の二人だけの空間を包んでいた。

 お疲れの乾杯と誕生日祝いの乾杯を2度続けて、カクテルを一口また一口と弾む会話の間に味わう。
 おいしいと思ったお酒も、いざ、伝えたい言葉を口にできないでいると進まなくなってしまって。

 静かな時の流れの中で私の心臓の音が強くなってゆく。恋愛経験が乏しくて、このバーの大人らしい雰囲気に負けているよう。恥ずかしくて彼の顔も見れないでいると……

「無理、させちゃったかな?」

 彼が残念そうに沈んだ声でつぶやいた。
 私の態度が勘違いさせてるのかもしれない。早く切り出さなきゃいけないのに。

 これまでに嬉しかったことや、これからも一緒に過ごす時間があったらいいと思ってること。
 どうやって伝えたらいいの?

「違うの……」

 彼がテーブルのグラスに手を伸ばし、勢いよくカクテルを飲み干した。前のめりに手を組んで疲労を背負った姿勢をとる。

 1杯だけって……もう帰っちゃうから、私、早く言わなくちゃ――――――

「……あなたが、好きなの」

 自分で言っておきながら衝撃が走る。いろいろ考えた結果、声にした気持ちはただの告白で。
 私、海浦さんに、好きって……伝えたかったんだ。
 好き、なんだ――――――

 自覚したら、好きって言っちゃった後はどうしていいのか?
 何も考えてなくて自分に困る……!!

 私の横髪に海浦さんが触れて、頬を手のひらで包みこむ。あんまりに温かくて彼を見つめれば、優しい目元で彼も私を見つめている。

 私、この視線を浴びると、心から安心して……もっと恋しくなる。
 その気持ちまで届いたのか、彼の顔がゆっくり近づいて――――――そっと、口づけを。

 あぁ、唇の感触まで恋しい。
 バニラのほんのりした甘さとフルーティな爽やかさに香りづいた吐息。二人の呼吸で溶けたカクテルの風味が口元に温かく被さる。

 この、心地よいキスを止められず、何度も繰り返して……

「――――――(チュッ)君が好きすぎて、どうしよう……」


 唇を添えるだけのキスの間に、吐息のキスを挟んで。そのうえ甘い言葉まで囁かれたらクラクラしてきちゃう。
 私も、なんて。同じ気持ちとわかっていても声にする余裕がなくて……

 この優しい香りのキスに酔っていたら、大人の恋らしく急展開が訪れる。

「今夜は……朝まで、一緒にいてくれますか?」

 つまり、私と、寝たい……
 体の関係を結びたい、ってこと、よね?

 海浦みうらさんが私の額に自分のをくっつけて返事を待っている。それは……
 私と離れたくない、もっと深く繋がりたい。

 伝心のように感じて……私も同じだ、と首を小刻みに上下に振って答えた。

 瞼を開いて映った彼は「嬉しいっ……」とクシャクシャな笑顔で言った。なぜか普段よりもとても幼く見えて、恋心に狼狽えていた自身に安心感を覚え、私も微笑んでいた。
 トクトクと静かな緊張を胸に抱きながら、二人でバーを出てエレベーターに乗る――――――


 フロントで宿泊手続きをしたダブルの客室へ……ドアの前までやって来た。ここまでほとんど無口に目配せや仕草で辿り着いて、ドアを開けた彼が私に部屋へ入るよう合図をした。

 その先にはひとつしかないベッドが見えて、生々しさを感じた肌身がソワソワするが、これが大人の恋だと彼の前を私は通過した。

 カッチャン。と背後でドアが閉まると、海浦さんが私のバッグとコートを預かって近くのシェルフに置く。

「……ありがとう、っ!?」
「あの、よかったらネクタイ、外してくれませんか? 折角結んで貰ったからほどきたくなくて……」

 海浦さんは私の腰に手を回して引き寄せると、発表会前と同じように正面で向き合った。でも、あの時よりお互いの体は密着に近い。私は制服から着替えてブラウス1枚で彼はYシャツにネクタイ。

 彼がバーでジャケットは脱いでいたのに、ネクタイを取らなかった理由に……胸がときめく。
 私がそうさせたのだと。

「暑かったでしょう? 緩めるだけでも……」
「……ほどいたら、僕の理性が吹っ飛ぶと思う。引き締めてないと、君を抱きたくてたまらないから……いい?」

 ネクタイに手をかけると解く駆け引きを仕掛けられ、心臓がドクンと震え上がった。
 狙いを定めた男の人の眼つき。
 緊張や不安はないとは言えない。でも私の心は……このひとに惹かれてる。

 結び目から襟元に巻きついたタイを緩めて、締まった形を崩し解いていくと――――――

「んんっ!?」

 彼がグイッと私の手を掴む。大きな手で私の手を包んだまま力づくで早急にネクタイを解くと、後頭部をがっしり押さえられ熱烈なキスが始まった。
 さっきの優しいキスと全然違う、息を奪いにくるみたいに。唇も舌も力強くて逃してもらえない。

 海浦さんの言った、抱きたくてたまらない、が本物だと知らしめるように。ぎゅうっと抱きしめられて、まるで離さないと、私の全身にジリジリ伝えてくる。


「はっ、……んんっ、海浦みうらさっ……」
「……夏樹なつき、チュッ……名前、呼んで?」

「あっ……な、夏樹さん……」
「チュッ……ふふっ。雪乃ゆきのさん、ベッド行こ」

 えっ!?
 腿裏と腰を抱えられて彼より目線が高く浮かび上がる。驚いた拍子に腕を彼の首に回してしがみついた。
 彼の髪がふんわりと、本当に、私と同じ香りだ……

 かぐわしさにもときめく間に部屋の奥へ連れて行かれて。ゆっくり私を下ろすと、横髪をなぞり首筋に顔を埋めてキスを落とす。次々と夢中にしているかのように。

「雪乃さんのにおい、凄く好き。チュッ……」
「は、んっ……」

 ボタンが一番上から下へ外されて、首元に肩も露わになってゆく場所へ透かさずキスを。胸元から大きな手が肩に向かって滑ると、私の上半身はブラだけにされてしまう。
 そして膨らみにも彼の唇はおりてきて、肌を滑りおりた手は腰のジッパーを下げにかかった。

 スルッと服が足元に落ちて。ウエストから忍び込んだ大きな両手がヒップをなぞってストッキングを膝までおろす。おへそにキスをされたら力が抜けてベッドに尻もちをついた。

 次にパンプスを片足ずつストッキングも爪先までするり脱がされて。彼が片膝をつきベッドが沈むと、私は抱えられ下着姿で枕に寝かされる。
 そして、天井を仰ぐとすぐ彼が跨がって私を捉えた。

 さっとYシャツを肩から脱いではだけた裸体に、男らしさを見せつけられて急激な色情を感じ顔を横に背ける。

「……っ、」
「あんまり可愛い反応されると、狂っちゃいそうだよ……」

 そう言って肌と肌を合わせるように。腕を背中に回して抱きしめては、長いキスで私のことも狂わせる。
 おかしくなりそう……
 息が足らなくて彼に酔わされてる。

「はぁっ、はぁ……っ!!」
「…………綺麗だ。はっ、んっ――――」

 ブラのホックを外されると胸が開放されて楽になったけれど、舌の感触は刺激が強すぎて声を我慢できなかった。

「あんっ、あぁっ」
「可愛い……」

 彼の手も舌も大きくて愛撫されるひとつひとつにビリビリと身が震える。こんなの初めての感覚……
 ねっとりと熱い彼の体温がおりていって、おへそにも下腹部にも伝わると足からショーツが抜けていった。

 あ、 
 私は――――――。

 ベッドの上で裸になるのは出血以来だ……

 あの時から、誰とも繋げていない私の体は……抱かれても平気なの?
 大丈夫なの?
 もしまた 、、、

「……はぁ、雪乃さん、ほんとに綺麗。ん? …………えっと、初めて?」

 感じている顔ではなく、苦悶を思い出した泣きそうな顔を見られたくなくて……
 処女かと勘違いさせるほど硬直しているようだった。慌てて首を横に振る。

「……嫌だった?」

 不安そうな彼の声を耳にして、もっと強く首を振った。私の不安が彼を不安にさせている……
 彼を好きだから触って欲しい、でも、私が我慢しながらするのは違う。

 同じ過ちを繰り返してはいけない。

『――――君の本心が知りたかったから……
もっと、何でも。君の気持ち、そのまま。たくさん伝えてくれたらって……』

 私に、そう優しく言ってくれた。
 信じてみよう、彼を。

「…………痛く、しないで」

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