夏雪の花に最後の恋をして。

美也

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11.終わる夏と雪の結晶

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 燦々と輝いている陽射し。梅雨空の合間に顔を出した太陽は眩しすぎるくらいだ。
 こんな天気になると俺の心配症が発動して、雪乃さんの肌が気になってしまう。紫外線から守らなくてはと車で迎えに行き、俺の家まで連れてきた。

 もうすぐ梅雨明け。7月になり夏本番に向け季節が変わりゆく頃。
 俺達の目的は駐車場にあった。俺も雪乃さんも心待ちにして会いたかったのは……夏雪の花だ。

「今年も咲き始めたのね」
「去年より大きくなってない?」

 淡い緑色のハートに似た葉がつるにたくさん生えていてすでにフェンスを覆っている。二人で肩を寄せ合い観察中、花穂の蕾に白色の小さな花を見つけて雪乃さんはにっこり。
 緑の葉は天までとどけと成長しているようだ。

「花もいっぱい咲くのかしら?」
「そしたら……大雪だな」

 ふはっ、雪乃さんが吹き出して笑う。
 こんもりと花が積もって、まるで雪の塊みたいに満開に咲いた風景を想像してみる。大雪といったら雪かきが必要な非常事態。そんな故郷の雪模様も重なったのだろうか……

 今年の冬は、俺も挨拶に秋田へ行ったり?
 そうゆう展開になるかもしれない、よな……

 あと少しで夏雪の花がたくさんの初雪を風に舞わせる――――

『――――雪乃さん、愛してる。俺と結婚してください……』

 その時がもうすぐやって来る。
 近い現実になるであろう光景を今に重ねて、愛おしい雪乃さんの肩を抱き寄せた。
 夏雪の花にも俺にも優しく微笑んでくれる。

 本物の幸せを手に掴む、実感が胸の中で膨らんで満面の笑みを俺も雪乃さんに送った。


 ――――――この瞬間が最後の・・・

 俺は気づいてなかったんだ。

 幸せな時間は脆く崩れやすいことを、夢は現実に儚く消えてしまうことを……


 その日の夕方、雪乃さんとキッチンで夕食の準備をしていた時。カウンターの俺のスマホが着信で震え出した。

「ちょっと、電話出てくるね」
「うん。私が仕上げておくから大丈夫」

 画面を確認すると社長からで、俺はソファに移動して何の気なしに電話に出た。
 もしもし?
 と応答しながら座り要件を聞く体勢をとる。

 海浦? あー、どっから、あのな……

 いまいちはっきりしない社長の濁した言葉に注意深く聞き耳を立て、とんでもない事態が発覚する。

「はい、え? ……はぁ!? 親会社が倒産!?」

 社長から受けた衝撃の反動で勢いよくソファから立ち上がり咆哮して固まる。
 穏やかに雪乃さんと過ごそうとしていた休日に突如一撃が放たれた。

 ヤバい……マズいだろ……

 危機的状況を察知した途端、そんな漠然とした感情しか生まれず頭が回らない。スマホからの情報に焦燥感に駆られるばかり。
 緊急招集と締め括られ切れたスマホは重々しくて耐えきれず腕を垂れ下げた。

 最悪、だ……!!

 我に返りキッチンにいた雪乃さんの存在を思い出す。視線を向ければ、すぐ近くで俺の様子を凝視していた。
 俺と同じ蒼白した表情で……聞こえてた、よな?

「か、会社に行かなくちゃ……」
「……うん、その方がいい」

 いったい……
 どうなってしまうんだ!?

 一瞬にして幸せだった世界が暗転した。




 会社の危機に雪乃さんを家に置いて飛び出し帰宅したのは丸一日以上後だった。
 日曜の22時過ぎ、明日の動向に備える為に一旦解散。徒歩で自宅マンション前までたどり着く。

 結論の出ない予測や想定ばかり考えていても堂々巡りで頭がぼうっとしている。
 結局のところ、社長が駆けずり回っても有力な情報は得られないし、他の系列の社員も同様に困惑中と判明しただけ。

 急激な社会情勢悪化による海外事業の失敗で経営破綻とゆう概要しか把握できていない。
 どう考えても、本社で処理しきれないのだから……俺達なんて切り捨てられる。

 お先真っ暗、そんな状態で家に帰って来て力無く玄関を開けた 、、、!?

 俺はそこに残っている雪乃さんの靴を見つけて目を大きく見開く。

 あれ? え? なんで……

 確か、あのときの電話で俺は狼狽えてたけど雪乃さんに言ったはずだ。
 慌てながら支度して家を出る時に……

『いつ帰って来れるかわからないから、雪乃さんの都合で、悪いけど気をつけて帰ってね』
『大丈夫、私の事はいいから』

『ごめん、何かわかったら連絡する』
『うん、困ったら何でも言って』

 そうして最後に視線を合わせて頷いて、俺は家を出た。いつも日曜の夕方にはいろいろと用事を済ましながら一人で電車で帰って行くから。てっきりもう家に帰ったとばかり……

 まさか、俺の帰りを、待ってくれてた、のか?
 玄関ドアの前で呆けていると声がした。

「お帰りなさい」

 雪乃さんの姿を見た途端……
 心底安心して、無性に泣きたい自分がいた。

 靴も脱げずに立ち尽くし、子供みたいに情けない顔に……俺はなってたんだろう。
 雪乃さんはそんな俺を迎えに来てくれて、黙って優しく抱きしめる。

「…………っ」
「お帰り……」

 雪乃さんの温もりが沁み渡って、自分の求めた幸せがここにあることを実感した。

 『結婚してください』

 このタイミングでどうしてその言葉を言うことができないのか。あと少しで、幸せに手が届くところだったんだ。

 雪乃さんを俺のものにできたかもしれないのに!

 不安定な将来しかない今、準備していた言葉も、明るい未来を語る言葉も、声に出せず……

 愛しい人を、
 この幸せを、
 離してなるものか。

 この不条理にやたらと腹が立ち、欲だけが膨張し理性を狂わせる。体の奥深くで繋がりを求める情が強く弾けた。

 持ってた荷物はその場に捨てて、きつく雪乃さんを抱きしめる。

「――――――チュッ、はぁっ」
「ん!? ……ご、ご飯は?」

「雪乃さんしか、いらないっ」
「っ!?」

 唇に強く吸いついて、靴を脱いで迫りながら壁際に雪乃さんを押しつける。逃げないようにしてまた奪いにいった。

 強欲なキスをぶつけて苦しくなろうとも少しも離さずに……全てを雪乃さんで満たしたい……この焦燥感を消してしまいたい。

「はぁっ、はぁ、くっ……」
「はぁはぁ、っ夏、夏樹さん……」

 壁と俺の間に挟んだ雪乃さんの肩に顔を埋めて沈みこみ 、、、切実に懇願した。

「――――――抱かせて」


 たぶん……
 少し乱暴に引っぱって寝室に連れこむとすぐ雪乃さんをベッドに倒して、俺はTシャツを脱ぎ捨て上から覆い被さった。

 貪るように服を剥いで露わになった白肌にかぶりつくようにして 、、、

 きっと……
 俺は狂ってた。優しくしなきゃいけない、痛くしちゃいけない、体の真髄に刻んでいたのに。それさえ吹っ飛ばすくらいに、狂いたかった。雪乃さんの体で――――

「あぁ、ん――――」
「雪乃さん……雪……雪乃、雪乃っ――――」

 背中まで両腕を回して素肌をじっとり重ね抱きしめる。そうして熱が果てるまで俺自身を打ち込んで……
 僅かな隙間もないように繋がりあったんだ。


 その夜が明けるまで、雪乃さんが俺の腕の中にいてくれた。体温を感じながらウトウトしていた時間は、不安から遠ざかっていたような気がする。

「今日……仕事、だよね?」
「……うん。シャワー借りて帰るね」

「ごめん、車で送りたいけど……」
「大丈夫、私が、心配で帰れなかったの」

 ありがとう…… いいのよ……
 ようやくまともな会話を交わし、弱々しく抱きしめて口づけを落とした。

 帰ってくるなり無茶苦茶に体を求めた俺を責めもせずに、雪乃さんは全部を受け止めてくれて……
 俺は何をしてやれるのか、考えても答えは簡単に見つからず不透明な自分を忌まわしく思う。

 早朝に玄関で雪乃さんを見送り、そして、俺の戦いの日々が始まった。
 親会社が民事再生手続きに着手した一報が流れるとそれから休みなく対応に追われる日々。会社の存続に全身全霊を注ぐ。

 そんな状況で蔑ろにしている俺の事は、雪乃さんがさり気なくサポートしてくれていた。休日になると電車に乗って家に来て、料理や家事をしてくれる。

 それはまるで、あと少しで叶うかもしれなかった夢に描いた姿で……
 殺伐した毎日の中で、唯一の生きる意味で癒やしだった。

 気づけば8月。
 夏雪の花には目を向けないようにしていた。

 早く理想の俺にならなければ顔向けできない。プロポーズができない……
 だから優先すべきは仕事を安定させる事で、がむしゃらに働いて休日もなく家でも在宅ワークをしていた時だった。

「ねぇ……」

 雪乃さんのか細い声が俺の耳に届いたが……

「悪い、後でいい?」

 仕事の電話を切ったタイミングで話しかけられたが手が離せなかった。
 リビングテーブルにパソコンと積み重ねた資料。それしか視界に入らない、時間が当たり前のようになっていて……
 
 その時の雪乃さんの表情を……俺はちゃんと見ておけばよかった。
 後回しにしたことを忘れてはいけなかった。

 『ねぇ……』
 その後に続く言葉を……
 最も大切にするべきだったんだ。




 その暑い夏の日も――――
 家に籠りっぱなしで何時間パソコンを睨みつけていただろうか?

 目頭を押さえてひと息つくと、手元のコーヒーをひと口飲んでカップを置いた……
 あれ? 
 ハーブティーのカップがない。

 いつも雪乃さんが家に来てくれた時は、必ずコーヒーと並んでそこにあるはずなのに。

 急遽会社が破綻しかけて1カ月が経ち、ようやく救いの糸口が見つかったところ。世間は盆休みの初日と騒いでいる。

 早めのランチを食べて4時間……
 雪乃さんが見当たらない。

 俺が仕事をしている間は静かに家事をしてくれたり、ソファで休んでいたり気配を消しているけれど。
 見渡してもキッチンにはいないし何の音もしない。いつから俺独りでリビングにいたのかもわからなかった。

 気になってウロウロと部屋を一回りしてみたが、いつもの場所に雪乃さんのバックは置いてあって出かけてはいないようだが。
 寝室か?

 ガチャ。
 ドアを開いて映した光景に……刹那、息が止まった。

「――――――っ!!」

 驚愕と戦慄、2つ同時に支配される。
 ベッドにうずくまり苦渋の表情で横たわる
雪乃さんがそこに居た!

 打たれた胸の衝撃でドタバタよろけながら駆け寄るも、触れてもいいものか、おろおろとするばかり。

 どうして! 
 どうしたらいいんだ!?

「雪乃さん!? 苦しい!? 痛いのっ!?」

 冷や汗を流して息も絶えだえ 、、、返事はない。

 動かない……? 動けないんだ!
 尋常じゃないぞ!

 咄嗟の判断で慌ててスマホを取りに戻り、震える手で救急車を呼んだ。

「はぁはぁはっ! きゅ、救急車! 早くっ!」

 雪乃さんが! 雪乃さんがっ 、、、

 お願いだ! 
 助けて、助けてくれ!!

 どのくらいの間、こうして耐えていたのか。
 なぜ、気づいてやれなかったのか。

 後悔だけが俺の心を締めつける。
 くっ――――――

 決して苦しいとも痛いとも言わない。
 朦朧とする意識の中で、雪乃さんは時折瞼を震わせ顔を歪ませる。

 何かを……
 必死で我慢しているように見えた――――

 けれど俺には、傍らで雪乃さんの手を握り祈ることしかできなかったんだ。


「は――――――!?」

 目も口も開いたまま俺は停止した。
 救急車で病院に到着し治療室に運ばれる雪乃さんから引きはがされ。何分何十分落ち着かない状態で待っていたことか。

 ようやく指示された室内で医師から説明を受ける。俺に投げられた第一声に、瞬殺され固まった。

「ご本人は子宮の手術経歴があると仰っていましたし、今回のようなリスクがあることも承知でした。処置の承諾も得ましたので……」

 寝耳に水、頭の中はバグを発生していた。医師が淡々と話す説明に理解が追いつかない。
 雪乃さんの処置を待つだけ、俺にできることは、それだけ……

 虚脱状態で扉を抜けて、目の前にあった椅子に何とか身を委ねた。頭を抱え込み、何度も繰り返される絶望を押さえつけ……

「くっ――――――っ、」

 苦虫を噛み潰しきってあきらめに天を見上げた。消したくても、この事実は消え去ってくれない。


『残念ですが……流産しています』


 彼女には子宮の疾患がある。妊娠自体難しい体ではないかと思います。
 と婦人科の医師が言った。

 雪乃さんが頑なに守りたかったのは……
 俺と雪乃さんに授かった、小さな命だ――――――。


 『ねぇ……』
 ――――――赤ちゃんができたの。

 そう、雪乃さんは続けたかったんだ。
 なのに、

 『悪い、後でいい?』
 そんな粗末な言葉で――――――


 最も大切な、かけがえのない宝物を……失った。
 俺が言わせなかった。俺のせいだ!

 普段から雪乃さんは健康に気を遣っていたじゃないか。ハーブティーだって。
 母親になることを……
 持病と戦いながら望んでいたからだ。

 無鉄砲な俺を受け入れてくれたのは、俺と共に歩む未来を、雪乃さんが望んだあかしなのに……

 慎重さを欠いた自分に腹がたった。何も知らなかった自分が不甲斐なかった。

 苛立ちをこぶしで抑えひたいに打ちつけるたび、罪悪感がずしりずしりと、重く背中に積み重なる。

 泣きたい、でも泣けない。
 今更懺悔ざんげしても手後ておくれなだけだ。

 二度と、命は戻ってこない――――――


 淡いピンク色のカーテンに遮られたベッドの上の雪乃さんと対面した。

 俺が訪れたことを察知し、ケットを深くかぶり顔をそむける。小さく震える雪乃さんはひたすらに怯えた声で何度も繰り返した。

「……ごめんなさ、ごめんなさい」
「なんでっ、謝るのは俺の方だ……」

 ごめんなさい、
 雪乃さんの弱々しい悲鳴が空気を彷徨い続ける。

 かける言葉が見つからない。そもそも俺には慰める資格さえないんだ。

 恐ろしいほどの喪失感が二人の間の空気を重たく冷して 、、、
 まるで海の底に沈んでいくかのようだった。


 衰弱しきった雪乃さんを家に連れて帰り、ベッドに寝かせて自分も横になった。
 腕の中にきちんとしまって。何処へも行かないように。

 もう何ひとつ失くさないように――――

 俺が守る、気取りで……
 本当はただ俺が縋っていただけなんだ。

 だから、
 夜明けに目が覚めるまで――――

 雪乃さんが俺の中から……
 すり抜けたことに、気がつかなかった。

 空っぽな隣側を慌ててさすれば、枕元は湿っていて、俺側には置き手紙が残されていた。

 用事があるので帰ります。
 それは無理矢理な伝言に思えた。

 雪乃さんも俺と同じで……
 この現実でもがいている。溺れそうに息をしている。
 ただ、つらい――――――




 雪乃さんを一番に、仕事も大事に。
 あの日から改めた俺のスタイル……じゃなく、俺の生きかた、だった。
 こまめに連絡を。電話したりメッセを送ったりして様子を伺うけれど……

 明らかに返信は遅いしスルーも。ごめんね、だらけのやりとり。
 避けられている、そんな事はわかっていた。

 しつこくしていいものか、気持ちの整理がつくまで待つべきか。
 答えがわからない。

 今まで恋愛の修復を試みたことがないから。それでも……

 会いたい。
 そばにいてほしい。

 愛しい気持ちが消えることはなかった。ぎこち無い日々が過ぎて8月の終わり、

 『大事な話がしたい』

 雪乃さんから告げられると俺は反転、臆病に仕事のせいにして都合を悪くした。

 勝手だよ、ビビってる……

 嘲笑あざわらうかのように大型台風が関東を直撃して、、、


 夏雪の花が――――――ぜんぶ散った。


 心配して駐車場に見に行くと、散り散りの無惨な光景になっていた。まるで俺達の末路を示された、嫌な予感で心は締めつけられ……

 無理に仕事を片づけ東京へ、車を走らせた。

 雪乃さんの自宅マンション前。かれこれ数十分躊躇ためらっていると…………!!


「……夏樹さん? 仕事って、言ってたのに?」


 目を丸くして少し先で立ち止まり俺の姿を伺っていた。
 変わらぬ容姿に俺の心は息を吹き返し、たまらなく抱きしめたい気持ちをひた隠す。

「……早く終わったから、会いに来た」

 ――――・・・
 俺を家にあがらせ雪乃さんが淹れてくれたのは、お気に入りのオーガニックコーヒー。

 飢えた喉がゴクリと味わえば……ほんのり甘くて、ほろ苦い。

 俺と雪乃さんの、この間の空気とそっくり同じに感じた。

 落ち着くはずのこの場所が、なぜか緊張で全身を強張らせている。
 真向かいの椅子に座った雪乃さんが何を言い出すのか。

 話はしたいが聞きたくないことではないかと……身構えている。
 そして 、、、

「今日、水子供養に行ってきたの」
「――――――!!」

 雪乃さんの報告に強烈な疎外感を抱いた。
 ひとり、で?

「ごめんなさい。私が内緒にしてたから心配させたね……」
「俺のことはいいんだ……」

 今はただ、
 もっと近づきたい……
 この場を逃げ出したい……

 両方の狭間はざまで困惑する。そんな俺の表情を見て、雪乃さんは憐れに思ったのだろう。

「ひどい顔……仕事、大変でしょう?」
「やっと融資を得て再建の目処めどがたったよ」

「もっとちからになれたらよかった……」
「そんなことは……」

 心配させまいとした俺の返事に、雪乃さんは反省するように視線を落とす。

 ほのかな外灯の下で出逢えた時は安心してしまったが、こうして部屋明かりに照らされると、雪乃さんの瞼は重そうに見え、首すじもほっそりしたようだった。

 たった半月ほど、それだけ。
 その位のあいだ会わなかっただけなのに……

 知らない事や変化した事が両手でも掴みきれない数になってしまった気がした。

 勘違いであって欲しい。

 雪乃さんがやつれているにも関わらず凛として見えるのは…………覚悟、があるから?

 今を過去のように話すのは……
 もう、将来がないから――――――?


 ――――なぜ、ここで……
 俺に、雪乃さんの心が通じてしまうんだ?

 繋がった心理を認めたくないのに、俺は徐ろにそれを言葉にしてしまう。

「……俺達、もう、駄目なのか?」

 いさぎよく出そうとした声は震えていた。

「……私が、駄目なのよ」

 雪乃さんが俺をかばう。

 違う! 間違いだ!

 強く否定をする目的で切り出したはずなのに、喉元が詰まって声に出したくても届かず首を横に振り続ける。

「私ね、5年前に子宮筋腫が見つかって手術をしたの。全部は切除できなくて。妊娠にリスクがある事もわかってたから。何も話せてなかったこと、本当にごめんなさい……」

 雪乃さんが俺に謝って頭を下げた。

 そんなこと、しなくていい……

 俺こそ謝るべきなんじゃないか、俺が自分本位に求めてしまったから。今更だけれど、俺の身勝手な行為の許しを請う。

「俺があの時、痛く……した? 自分のコントロールができてなくて、ただ雪乃さんが欲しいって。もし、もしそれで雪乃さんを傷つけてしまったなら、もう二度とそんなことはしないから、だから……!」

 雪乃さんは強く首を横に振る。

「違うの。痛い思いなんてしてない。だから夏樹さんは何も悪くないの。全部、私のせい。ずっとピルを飲み続けてたのに……あの時は飲まなかった。私が夏樹さんの子供を望んでっ、望んで勝手に、それで守れなかったから――――」
「ならもう一度、今度はちゃんと、っ!」

 また、首を振る。ゆっくりと左右に険しい表情で雪乃さんは否定する。
 そして……

 望みのない言葉をぎゅっとした瞳のまま吐露した。

「新しくできた筋腫が 、、、検査をしたら悪性で、」
「え――――?」

「悪性の肉腫で、子宮を全摘出することに、」
「っ!? そんな……」

 なんて、ことだ――――――

 もう、もう二度と、子供を…………授かれない。

 目の前にある悲痛が俺の胸の奥を蝕んで……
 雪乃さんの背負った重い病に、怒りとやるせなさが沸々と込み上げる。

 なんで! どうして!

 雪乃さんがそんな目に合わなきゃいけないんだっ!?

 何処にもぶつけられない感情を、俺は表面に出してしまいながら、雪乃さんにかける言葉を懸命に見つけようとしていた。

 癇癪を起こしそうな子供を宥める母親のように雪乃さんは表情を柔らげて……
 俺にとって最も残酷な言葉を繋ぐ。 

「私は、本当に、幸せをたくさんもらったから……大丈夫。うん、大丈夫だから。夏樹さんには父親になる将来がっ――――――」

 は? 
 、、、なっ!? 
 ……何を考えてるんだよ、俺のことより自分を!

「俺が! 俺が夫になるだけじゃ、いけないのか?」

 強くぶつけた視線は雪乃さんの涙を誘った。

「私が……今までと同じように夏樹さんのそばにいる自信がないの」

 ――――――!?

 俺といると失くしたものを探してしまう……
 俺と連れ添うことになれば、いつも隣り合わせに苦痛がつき纏う。

 俺が、雪乃さんを、苦しめてしまう?
 俺が――――

「ちゃんと謝って、正直に気持ちを伝えて、未来のために……笑って別れたいと思ったの」

 雪乃さんは声を絞り出し震える唇で……
 無理に笑顔を作って見せる。

 俺を見つめる瞳から、涙があふれ零れ落ちた。

 そんなあからさまな作り笑いを初めて見たから……
 こらえきれずに、俺も涙を零した。

 雪乃さんがうまく笑えないのは 、、、

 別れを選んだことが悲しいからだろう。
 俺のために無茶をしているからだろう。

 これまで俺にくれた笑顔がぜんぶ、本物、だったんだな。

 今頃、俺のほうが……
 愛されていたことに気づくなんて――――――

 幸福と悲痛とぜになった俺の表情は……
 ひどい顔というより、みっともない顔をしているかもしれなかった。

 もう、引き際だ。

「……ごめん、ありがとう」


 心をひき裂いて席を勢いよく立ち、視線を振り切って雪乃さんから外した。
 急いで……我慢を切らさないよう、涙が止まらなくなる前に。

 玄関を通り抜け、雪乃さんの家を出た。

 ドアがバタンと閉じた音を耳にして、その後で……

「――――――ひっ、くっ……」

 泣くな。
 泣くな、泣くな。

 泣くな……

 あの子は……産声も上げれずに、消えてしまったんだ。

 守ってやれなかった俺が、悲しいから泣きたいなんて、許されないだろう?

 漏れ出そうな声を手で塞ぎ、唇を噛んでこの非情を押し潰したかった。

 一歩も動けずに……
 声を押し殺し、その場に崩れ落ちる。

 失ったものが大きすぎて、ぐしゃりと潰れ壊れたみたいに。

「ふっ…………うぅっ……」

 俺は、まるで、愛をわかっていなかった。
 雪乃さんのほうが自分を犠牲にして――――

 バカヤロウ!!

 最後まで、大事にしろよ。
 死ぬまで、守ってやれよ。

 そう、誓うと決めてたじゃないか、俺は……

 バカだな。勘違いしてたんだ。
 雪乃さんがそばにいてくれたから……俺は強く、強くなれる気がしてたんだ。

 俺の方が雪乃さんに守られていた、そうだろ?

 だから少しも、ここから、離れられない。足が竦んで立ち上がれもしない……

 意気地なしのこんな奴が誰かを幸せになんて、、、
 未来を預けてもらうなんて、、、

 最初からできるわけなかったんだ――――



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