夏雪の花に最後の恋をして。

美也

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12.愛の芽と幸せの代償

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『はい、え? ……はぁ!? 親会社が倒産!?』

 幸せな時間の終わりを告げる、それがきっかけだった。
 真っ青に引きつった表情の夏樹さんをなんとか見送り、ひとり残された部屋はとても物寂しく感じた。

 もしかしたら、当分帰って来ないかもしれない。でも、深夜に帰宅したり明日には戻ってくることだって……あぁ、混乱する。

 夏樹さんの状況を考えると居ても立っても居られなくて、いろいろと家事に手を出してみる。けれど、落ち着かなくて溜め息ばかり。

 気づけば0時を過ぎてしまって、いつ帰って来るかソファで待ちぼうけ。特に連絡を待っているスマホは音沙汰なく、倒産関連の検索をかければ不安が増すばかりだった。
 親会社が破産したら子会社が生き残れる可能性はほとんどない……

 夏樹さんはどうするの、かな……?
 例えば会社を独立させて再建するとか、再就職したりとか。以前はフリーランスもしてたみたいだけど 、、、

 いずれにしろ生活環境が変わったりして安定するまでにきっと、数年はかかるだろう。

 こんな時に私が愛の告白なんて――――迷惑、だったり。負担、になったり。

 それで私を嫌いになられてもイヤだなとも思う。
 でももう、夏雪の花は咲き始めていて……

 この機会を逃したら私の体は女性の機能を保てない? 
 ……それもイヤ。

 新しい筋腫もできてしまったし、数年の間に変化があってもおかしくない。妊娠しなければ筋腫が大きくなったり増えたりする可能性のほうが高いのだから。

 どうして、こんな事になっちゃったのかな……

 今日もずっと幸せで、希望ある未来が見えていたはずなのに。たった一本の電話で簡単に崩壊しちゃったみたい……
 悲しくて、寂しい。

 実感してしまうと涙が滲んできて、そっと目を閉じてソファに横になった。

 夏樹さんの家、こんなに広くて静かだったなんて。いつもの温もりがないことに、一段と心が寒々しく泣いていた。

 ひとりの夜が過ぎて――――
 朝が来てもまだ夏樹さんからの連絡はなかった。

 トボトボ洗面所に向かいショボショボな目を洗おうとして、夏樹さんが揃えてくれたアプロディタの商品に感情が揺さぶられる。

『どんなときも女性を癒やす優しい化粧品を』
 自社ブランドの理念が今一度身に沁みた。こんな時にこそ社員として商品の価値を最大限活用すべき!

 それで、商品も私のことも大事にしてくれる人を一番に優先しなくちゃ!

 お風呂をかりて基礎化粧品でケアをして、私は夏樹さんの帰りを待つことにした。明日月曜日の朝7時にここを出発すれば帰宅してギリギリ仕事に間に合う。それまでは夏樹さんの家にいることに決めた。

 きっと憔悴して戻って来るだろうから……
 その時に誰かいたほうが寂しくないと思った。ひとりの夜に私が感じたことを、夏樹さんに与えたくはない。

 今は、私が、そばにいてあげたい……


 そうして昼が過ぎて夜を迎え、22時を回ってソファで少しウトウトしていたら……
 カチャ。

 玄関から音が聞こえた気がして、手元に握りしめていたスマホを確認する。夏樹さんからの連絡はないけれど、帰って来たのかもしれない!

 物音がしないことに少し警戒しながらリビングドアをゆっくり開けて確かめた。
 ……あぁ、夏樹さんだ!

「お帰りなさい」

 玄関ドアの前で立っていた夏樹さんに私は堪らず声をかけた。ずっと待ちわびていたから。
 でも返事はない。

 そこから動けないみたいに棒立ちになって……気力も体力も失せているように見えた。酷い疲労を抱えてしまったのだろう。
 やつれた顔を歪ませて、あんまりに可哀想で可哀想で胸が締めつけられる。

 私が玄関まで歩み寄り、そっと夏樹さんの体を包むようにして抱きしめた。

 夏樹さんにやっと……会えてよかった。
 この温もりが恋しくて、会いたかったの。

「…………っ」
「お帰り……」

 もう一度声にして労いを伝える。届いたらいいと気持ちをこめて。
 私が癒やしてあげられるなら、いつまでもこうして抱いていてもいいとさえ思えた。

 余程疲れているのか何も喋らず私にされるがまま。包みこんだ体は少し震えているように感じるけれど……!

 ドサッと足元で音がすると、突然ギュウッと強く夏樹さんが私の背中に腕を絡ませて。話しかける間もなく唇を塞がれる!?

「――――――チュッ、はぁっ」
「ん!? ……ご、ご飯は?」

「雪乃さんしか、いらないっ」
「っ!?」

 体調を心配する前に私を求められ。夏樹さんはまるで何かに取り憑かれているみたいに、これでもかと私の息を奪いに来る。

 抵抗する気はないけれど、押さえつける力が強くて息苦しさでふらふらしていた。

「はぁっ、はぁ、くっ……」
「はぁはぁ、っ夏、夏樹さん……」

 壁にもたれて立っているのもやっと。夏樹さんは両腕で私を支えながらも、顔を擦りつけて私の肩でうずくまる。

 そして、抑えきれていない欲を私にどうにかしてと縋るように……

「――――――抱かせて」

 苦しそうに吐き出した。

 こんなに切なく誘われたのは初めてのことで、動揺して返事ができない私を……
 痺れを切らしたのか夏樹さんは寝室に連れ込んだ。


 いつもなら……
 優しく緩んだ目で私を見つめて、恥ずかしいくらい甘い言葉を囁きながら……
 そうしてゆっくり時間をかけて私を溶かしてゆく。

 いまは……
 焦っているみたいに早急で荒々しく、言葉よりチクリとするキスを落としながら……
 もう私の服を剥ぎ取って乱した呼吸を体中に被せる。

 暗がりの寝室でぼんやりと見えた夏樹さんの顔は、どうしようもない感情に狼狽えている……苦悩の表情を浮かべていた。

 無理もない。当然だわ。
 どうしていいのかわからない、そんな気持ちは最も苦しい不安だもの。

 自分が望んだわけでもないのにいきなり窮地に追いこまれる、そのやるせなさを……
 私も経験してわかるから。

 辛抱ならない気持ち、それを抱き合って分け合えるなら、今すぐそうしたい。

 つらい思い、夏樹さんだけに抱えさせたくないと……私は両手を伸ばして、私が夏樹さんを求めた。
 苦痛を破り突き抜け、その先へ。

「あぁ、ん――――――」
「雪乃さん……雪……雪乃、雪乃っ――――」

 名前を呼ばれるごとに深く繋がり、肌と肌はキツく結ばれる。

 激しい交わりで揺さぶられる体は、悲鳴をあげるのかと思われた。

 私の奥が焼けるように熱く意識が朦朧としていたから……
 『痛い』、苦い記憶が脳裏を掠める。

 でも、痛みじゃない。
 私、痛くない。

 夏樹さんの熱が伝わってくる腟内がぜんぶ、気持ちいい。

 必死に押し付けないようにしてる?

 全然そんな余裕はないはずなのに。
 私を両腕で包んで離さない、隙間もないほど密着させて拘束してる。

 一番強くぶつけたい私の中を、夏樹さん、無意識に守ってくれてるの?

 たちまち湧き上がる愛しい切なさと一緒に私はオーガズムに溺れ、同時に夏樹さんも精を放ったのだった。

 理想としていた結ばれ方、好きな人と一緒に絶頂を迎える、それを私は叶えた。

 その後も私達はまだ現実を離れて、二人の世界で不安から逃れるため快楽に浸る――――

 夜明けを迎えるまで、私のお腹はまだ熱くじんじんとしていた。ベッドの中で包むように夏樹さんが抱きしめてくれていて。

 快楽で満たされた時間が過ぎれば、また、少しの幸福と虚しい不安が付きまとう現実に戻ったようだった。

 まだ薄暗い明け方に肌を重ねたまま、これから出勤する段取りを会話した。ちゃんと理性を伴って。

 シャワーを借りるため私が先にベッドをおりた。洗面所の鏡に写した自分の裸をまじまじと見つめ、少し静ませたごちゃ混ぜの感情が目を覚ます……
 胸がキリキリと切なく痛い。

 鎖骨周りに残った夏樹さんの口づけた痕。

 右にも左にも、紅い小さな花が咲いているみたいだった。
 初めて……
 私の体が夏樹さんの物だと刻み込まれた証。

 そっと手を添えて、愛しさを噛み締めた。


 希望の灯火を…… 生命の奇跡を……

 私に生み出せる力があるのなら、どうか、幸運に恵まれますよう――――――

 ――――――私はその時願った。

 そして、その時から、ピルを飲んでいない。


 あの日、夏樹さんが家に帰ってくるのを待っていた日曜日は、ピルの休薬期間を3日オーバーしていた。
 日曜の夕方にクリニックへ行くつもりでいたのだ。いつも通りに夏樹さんの家から定期検診に行きピルを処方してもらい帰宅する、つもりだった。

 少しの飲み遅れくらいは大丈夫、今までに飲み忘れたことも何回かあったが問題はなかった。こんな緊急事態なのだから。クリニックを後回しにして夏樹さんの帰りを待ち、その結果私達は――――避妊しないで抱き合った。

 妊娠するかもしれない!
 でもピルを飲み始めたら排卵の可能性はほぼないだろう。ピルがあれば、の話だ。

 ピルを飲まなければ――――――妊娠、できる?

 可能性に賭けた、私が勝手にそれを選んだ。
 生命の芽が私に宿るなら――――――大切にしたかった。

 隠し事をしているような緊張感を抱え一日一日が過ぎゆく。

 一方で湘南wreathリースは会社を独立させる方向で、社員一丸となって挑戦していくと聞いた。
 頑張っている夏樹さんに対して私の中に後ろめたさが……ないとは言い切れない。

 休日も家で夜中まで働いている夏樹さんのもとへ、私は会いに行く。身の回りのことを代わりにしてあげないと、ご飯も食べないから心配で。

 そして私も――――――出血したらどうしよう、と自分自身が気が気でなかった。

 特に泊まりに来てベッドで横になる時は、祈るようにしてじっとして……
 仕事に切りをつけて寝室に夏樹さんがやって来ると、ドキリとして冷や汗が出そうだった。

 ベッドに入り私を抱きしめて……また求められたりしたら、どうやって言い訳しようか。また血まみれの惨状が起きたら、私はどうしたらいいのか。
 心配が不安を掻き立てる。

 せめて、妊娠検査薬を使うまで――――
 その時まで何も起こらないでいて・・・

 そうしてヒヤヒヤしながら、少しの期待もして2週間が過ぎた。

 ピルを飲み続けていたら、予定では休薬期間が始まる日。私はついに初めて妊娠検査薬を使用した。

 何度も説明書に目を通し妊娠の判定結果を覚えトイレに入る。じっとその検査キットを破裂しそうな心音で見続けて…………
 はぁっと息を飲む。


 ――――――私、妊娠してる!


 検査薬には赤い陽性反応がくっきりと表れていた。
 なぜ……私、泣いているのだろう?

 私はトイレの中でボロボロと涙が流れて止まらなくなり、それが嬉し涙だと気づくまで茫然とただ泣いていた。




 8月を迎えた始めの土曜日。
 妊娠周期でいえば、ちょうど妊娠2カ月目になる頃ではないかと思われた。

 その事実を夏樹さんに伝えるべきか、悩んで悩んで喉の奥の方に待機させたまま……
 お邪魔してから何時間も経過している。

 私は今キッチンで洗い物をしているが、電話中の夏樹さんの様子に意識は向いていて。
 また、少し痩せたかな……
 難しそうな顔で目を瞑りながらスマホに向かって会話をしていた。

 まだ検査キットを一度使っただけで、産婦人科で確かめていないのに、この段階で話をしたら……困惑するだろうな。

 葛藤は続いて迷いは拭えなかったけれど、言わないといけない気がして――――そばに近づいていた。

 ちょうど夏樹さんの通話が終わって、スマホを耳から下ろしたタイミングで私は意を決する!

「ねぇ……」

 夏樹さんに話しかけてみたけれど、発した声は縮こまらせていたぶん、とても臆病になってしまっていたようだ。

「悪い、後でいい?」

 私を見ることもなく……
 夏樹さんはすぐさまテーブルのたくさん積まれた資料を漁り始めた。

 重要な仕事の時に話しかけちゃったみたい。仕方ないわ。

 銀行から融資を得られるか大事な時だと聞いていたから、私は身を引いて邪魔にならないようにした。
 でも、なんだか、うまくいかなくて……

 急に泣きたくなった気持ちをきゅっと噛みしめ我慢する。

 情緒不安定になるのも妊娠中の症状だと思うから。つらいとか悲しいとか、お腹に伝わらないように心がけなきゃいけないね……

 買い物に行ってきます、とメモを置いて静かに家から出る。
 気分転換に外に出たと説明するよりは、夏雪の花に会いに行きたかったという理由が合っているかもしれない。

 高くのぼった太陽、暑い空気の中、強い陽射しに照らされて。まぶしいほどに白い花はたくさん咲き、ふわふわと風に揺られ遊んでいた。

「……本当に大雪になりそうね」

 1カ月前、夏樹さんとそんな会話をした。
 今では懐かしい感じもする、その幸せだった時が。

 来週は夏樹さんの30歳の誕生日がくるから、ちょっとでも心から笑顔になれて、お祝いできたらいいな。

「……みんなで、見れたらいいね――――」

 私は優しくお腹に手を当てて夏雪の花を見つめながら願った。

 今日は失敗しちゃったけれど、次は誕生日おめでとうって伝えて、巡り逢えたことにも感謝して。
 もう一度、妊娠検査薬で確かめてから、来週の日曜日には病院に行こう。

 それで、今度こそ、夏樹さんに言うんだ。

 私達に赤ちゃんを授かったと――――――




 夏樹さんの誕生日は日付けが変わると同時に電話をかけて、一番におめでとうを伝えた。今は大変だけど落ち着いたら、いつでもお祝いしようと加えて。
 今週末も会いに行くと話すと、少しだけ明るい夏樹さんの声が聞けたので私は安堵した――――


「いらっしゃい。ごめんね、いつもありがとう」
「おはよう。気にしないで。私が夏樹さんに会いたいから」

 玄関で抱擁してから部屋にあがる。こうして触れ合えるのも最近はここでだけ。
 ベッドを共にしても僅かな時間、以前に比べたらそう感じてしまう。ただ倒れない為に寝ている状況なのだから。

 案の定、夏樹さんの顔にはクマができていてご飯も食べていないと言う。私はすぐ料理にとりかかり、夏樹さんはテーブルに座って仕事を始めた。
 今日も明日もほとんどの時間を私達は別々に、家事と仕事に費やすのだろう。

 早めのランチを食べ終わり、一息、気が抜けてく変な感じ……急に倦怠感に襲われる。
 買い物に行って作り置きしなきゃいけないのに。やりたい事はたくさんあっても体が動かない。

 キッチンから近いソファで休憩しようと思い立ったけれど、直感で足が向かった先は違った。そおっと身を隠すように寝室へ入る。
 その時にはもう違和感に気づいていて……チクチクとするようなお腹を手で支えていた。

 ベッドに横にはなりたくない。でも無理をしたらいけないし。
 葛藤の末、我慢がきかずベッドに体を預けた。

 どうしよう――――――痛い、かも。

「ウッ……」

 疼痛が走りお腹を抱え込んだ。ベッドの上で私は丸くなる。一瞬にして嫌な記憶を思い出してしまった。

 だめよ……血だらけのベッドにしたくない。絶対イヤ!

 お願い……

 お願いします……神様……

 どうか      赤ちゃんを守って!


 ――――――――――・・・

「……はぁ、はぁ、はぁ、」

 時折眠っていたのか、意識を飛ばしていたのか、わからない。
 時間もどれくらい過ぎたのか、覚えていないし時計も見れない。

 ベッドのシーツに横にした体を押しつけて、お腹にだけは力が加わらないように。痛みを耐えて我慢して頑張るけれど 、、、

 ふと気を失いかけた、その時。
 バタバタと音がして、私に触れる何か……


「雪乃さん!? 苦しい!? 痛いのっ!?」


 夏樹さん……?
 あぁ、ごめん……ごめんなさい。

 私達の、赤ちゃんを……


 伝えたいのに、声が出ない――――――




 ――――――・・・ますか! ・・ですよ!
 何か、言ってる……


「わかりますか!? 病院ですよ!?」
「――――はっ!!」

「病院です。お名前言えますか?」
「……あ、」

 気絶していた?
 救急車に乗ってそれから、ここは……!

 慌ただしい雰囲気の声が飛び交う、記憶にあった場所と一致して、自分が治療室の診察台にいることを認識した。

 早く、早く、伝えなければ!

「……妊っ……妊娠、しています、」
「……婦人科の先生連絡して!」

 絞り出した私の声を女性看護師が耳を傾けて聞き取り、私とは正反対に声を張り上げた。

 どうか、どうか、無事で。
 無事で、ありますように――――――・・・


 何度、心で唱えていただろうか。

 今は祈るように…………同じ言葉を繰り返した。


 お願い、お願い、お願いします! 

 お願いっ!!


 ――――男性医師が私のそばにやって来た。

「超音波検査の結果をお伝えします。子宮内に胎嚢は確認できましたが……胎児の心拍は、ありませんでした」
「――――――――!!」

「稽留流産との判断です。自然に排出されず子宮内にとどまっている為に強い腹痛が起きます。このままでは大量出血の危険性もあるので緊急手術を……」
「ふっ、ううっ――――――」

 私達の赤ちゃん、赤ちゃ――――・・・


       ・・・――――私のせいっ、
 あぁ…………つわり、なかったのはそれで、
 っ 、、、


「……受精時に運命は決まっていて。染色体異常が原因の可能性が高く、成長できなかったのではないかと思われます。決して、お母さんのせいではないんです」
「ふぅうっ、ん――――っ   」

 お母さん……
 私、お母さんで、いられたの?

 守って、あげられ、なかったのに?

 重く……
 深く……
 悲しみが体に沈みこんで。

 抑えようにもとめどなく涙が溢れる。

 喪失感の中で男性医師と幾らかの受け答えを交わし、最終的に私は流産手術に同意の返事をしたのだった。

 あきらめなければいけない気持ちと、繋ぎとどめておきたい惜しみが同居する、自分のお腹に両手をあてて……
 私に宿った愛の芽を、大事に、感じて。

 放ったらかしの流れる涙をそっと拭いてくれた人が声をつまらせ、私の痛みに寄り添い慰めてくれた。

「……たくさん泣いていいのよ。だって、会いたかったものね。……とっても大事にしてたんだものね。きっと、赤ちゃんにも伝わってたわ……もうこれ以上苦しまないように、ちゃんと旅立たせてあげましょう? ね……」
「……ふえぇっ――――――」

 最後まで、
 お別れするまで、
 温もりを両手で感じて……私の大事に想う気持ちも、伝えたまま。

 点滴の麻酔が効いてくるまで私はそうしていて――――――


 次に麻酔から覚めた時、私の中身は空っぽになっていた。


 自分の体がただの器になったような無機質感で冷え冷えする。

 そして次に、私は夏樹さんに過ちを懺悔しなければいけないと……
 必ず訪れるその時に恐怖した――――


「……ごめんなさ、ごめんなさい」
「なんでっ、謝るのは俺の方だ……」

 顔向けもできず、現実を見ることもできず。すべてが崩壊してゆき、私が夏樹さんを巻きこんでしまった罪も重くのしかかる。

 迷惑しかかけていない私を夏樹さんはそれでも優しく包んで、守ってくれていたみたいだ。

 様々な痛みが薄れて起き上がった時、目に写ったのは夏樹さんの悩ましい寝顔だった。


 眉間に皺を寄せ苦々しい表情でとても安眠とは言い難い。まるでうなされているようだ。なのに目を覚ます気配はなく……

 疲労の上に苦痛を重ねた、私のせいで苦しみながら倒れている、そんな夏樹さんの姿を見ているのは酷くつらかった。

 そっとベッドを抜け出し物音を立てないようにして。メモを枕元に残し、涙をこらえられる寸前まで夏樹さんを見つめてから……家を出た。

 外は新鮮な朝光が広がり始めていて、真夏にしては爽やかな風が通っていた。導かれるように私は駐車場へ足を運び、夏雪の花の前に立つ。

 満開の白い花はふわりと甘い香りを漂わせていた。

 ヒリヒリした心に優しく染み込む。

 思い描いた幸せな姿とは程遠い切なさに押し潰されそうになるけれど、心を落ち着かせて最後に――――――母親らしく。


「……いっぱい綺麗なものを見て回ってね。きっと海も賑やかで楽しいと思うの。その後で、ちゃんと……送ってあげるからね」


 夏雪の花が真夏の初雪を降らせる。
 白い花びらの雪がひらひらと舞って、ゆらゆら風に乗り、明るい空へ旅立った。

「……いってらっしゃい」


 私も行かなきゃ。
 たぶん、あの子は、私に教えてくれたと思うから――――――・・・

 私は流産手術をする前に医師が話していた言葉を思い出していた。

『――子宮筋腫の治療は? ……そう、主治医はあなたの妊娠を? ……知らないか。できるだけ早く報告して術後の治療について確認をとってください。筋腫が全部で、個――――』

 そして、杉田レディースクリニックへ。盆休前の最後の診察に急遽予約外で入れてもらう。

 深呼吸をして先生の前の椅子に座りすべてを打ち明けた。

「私は……妊娠していました、昨日まで。腹痛で救急搬送されて、稽留流産の手術を受けました。妊娠6週2日目でした」
「……昨日?」

 先生はパソコンのキーボードを打つ手を止めて私をじっくり見つめた。その目は初めて見る大きさで、冷静沈着な先生の動揺をものがたっていた。

「はい。担当した医師が、筋腫は全部で9個あると言いました」
「……! 9個と断言したんですね?」

 私は頷いた。
 新しくできた筋腫が成長している、そういうことだ。

「今日はエコーで子宮の状態を確認します。それから、すぐMRIの予約を入れて……」

 看護師が他の病院は盆休だと耳打ちすると先生は、私が個人的に電話して確認すると言った。そうして、先生はツテを利用して私の検査を優先してくださったのだ。

 予め長く申請していた盆休は夏樹さんとつわりを考えてのことだったけれど、結果的に自分の療養と検査の為に費やした。

 それから、夏樹さんの家から逃げたままで状況説明が必要だったが……また悩ませ苦しめるのではないかと躊躇われて、

『主治医の診察を受けて安静にしてるから、私は大丈夫。ごめんね』

 夏樹さんの心配や厚意を断り続けた。
 検査結果がはっきりわかるまで。




 そして、その時がやって来た。
 杉田先生を目の前にして私は緊張し神経が尖っているようだった。先生がそれを衝撃的な言葉で砕く――――

「9個目の筋腫は低悪性度の肉腫の可能性が極めて高いと検査結果が出ました」
「っ!?」

「既存の筋腫に変化がないのにそれだけが急成長したこと、MRIの評定とAI診断、専門家の判断を総合して初期悪性腫瘍との判定です」

 、、、最悪の――――――――


 結果に胸が打ちひしがれて言葉を失う。
 少しの間……時が止まっていた、みたいだ。

 再び先生の声を耳にして我に返る。

「……先に主治医として今後の治療方針をお話します。生存率を最も高める為には子宮の全摘出手術をし、転移や拡散を防いで治癒を目指します。命を最優先に考えた場合、他の選択肢を勧められません。……ごめんなさいね、」
「っ! 
 わかっています、わかって、……先生、私は――――――
 生きます! 悔いのないように生きて……みせます!」

 あの子が、私を守ってくれたと思うから。
 救ってくれたと思うから。
 私は代わりに、精一杯、生きなくちゃ!

 あきらめる、自分を捨てる。
 そんなふうに悲観する気持ちが湧かなかったのは……命を授かれたこと、忘れたくないからだと思う。


 『大事な話がしたい』

 夏樹さんに私からメッセージを送った。結果を聞いた後すぐに決意が揺らがないうちに。でも……

 『しばらく仕事で時間が取れない』

 私達のすれ違いは、まだ、終わらないようだ。

 私がはぐらかすような態度をとっていたから、急に向き合おうなんて、驚くよね……

 時間をかけて、ともいかなくて。手術までのステップはたくさんあるし、もたもたできない。だからってまた事後報告みたいになるのも避けたくて。

 どうしたらいいのかな……?
 私は、夏樹さんとの関係を……どうしたいの?

 私は自分をどうするのか決めたけれど、夏樹さんにどうして欲しいのか、まだ決めてはいなかった。

 ちゃんと考えなくちゃ……
 夏樹さんの将来のことも。

 また、人生を見つめ直す転機が巡ってきた、そう思い返す夏8月の終わり頃。
 世間は大型台風が関東直撃との報道で騒がしく、鉄道の計画運休も発表されて仕事は在宅勤務となった。

 夜中に上陸した台風は暴風雨で荒々しい轟音を立て通過してゆく。眠れる状況ではないから、ベッドに座って一晩を過ごすつもりだった。

 寂しい夜はスマホを灯火にして……夏雪の花の明かりを見つめる。
 キャンドルのような優しさに包まれて心が穏やかになるようだった。

 そうして、
 私は、夏樹さんがそばにいる温もりを思い出して――――――

 たくさんの幸せな時間を思い返し、記憶に残した愛しい顔をぜんぶ……

 また大事にしまって――――――

 将来のことを心に決めた。




「……夏樹さん? 仕事って、言ってたのに?」

 台風の影響で在宅の仕事もなく、午後に鉄道が復旧したので私は水子供養に行ってきた。
 ちゃんと祈りを捧げて天国に送り届けた。

 宵空の下、星を見つけながら歩いて帰ってきたら、誰かが待ちぼうけしていて。
 夏樹さんだと気づいた途端、驚いて足がピタッと止まった。

「……早く終わったから、会いに来た」

 疲弊しきった顔で困ったように言う。
 私が大事な話と伝えたから無理をさせたのだろう。

 少し弱々しく見える夏樹さんにきゅうっと胸が切なく……
 将来の話をする時がもう来てしまったのだと胸がシクシク痛い……

 家にあがってもらって夏樹さんの好きなコーヒーを二人分淹れた。
 心を込めて、心を落ち着かせながら。

 そしていつも通りに……向かい合って座る二人の前のテーブルに置いた。

 そして深呼吸をして私から話を切り出した。供養をしてきた事、妊娠も病気も黙っていた謝罪、負担をかけてしまったお詫び。
 重い話を堅苦しく感じているのか、かしこまった夏樹さんの姿が目に映る。

 会社が再建できそうだと朗報を聞いても、大変な時に自分が余計に苦しめてしまった事が無念でならない。

 私が気を落として油断した、だから――――

「……俺達、もう、駄目なのか?」

 !! 
 夏樹さんにその言葉を言わせてしまった。
 私は急いで間違いを訂正する。

「……私が、駄目なのよ」

 夏樹さんが無言で何度も首を横に振る。

 本当に優しい……
 私が責められてもおかしくないのに。

 私は夏樹さんに自分勝手な振る舞いをきちんと謝らなければいけない。

「私ね、5年前に子宮筋腫が見つかって手術をしたの。全部は切除できなくて。妊娠にリスクがある事もわかってたから。何も話せてなかったこと、本当にごめんなさい……」

 最後に頭を下げた。
 私の考えが甘かった、私の過ちだ。

 一層重たい空気が私達の間を流れ、静かな空間に夏樹さんの震える声がこぼれてくる。

「俺があの時、痛く……した? 自分のコントロールができてなくて、ただ雪乃さんが欲しいって。もし、もしそれで雪乃さんを傷つけてしまったなら、もう二度とそんなことはしないから、だから……!」

 絶対に違う!
 と私は強く首を横に振る。

「違うの。痛い思いなんてしてない。だから夏樹さんは何も悪くないの。全部、私のせい。ずっとピルを飲み続けてたのに……あの時は飲まなかった。私が夏樹さんの子供を望んでっ、望んで勝手に、それで守れなかったから――――」
「ならもう一度、今度はちゃんと、っ!」

 その望みは、ない。

 私は言葉より先に首を左右に振り、できないと伝える。

 言いたくなくても、つらくても、私達に今度がないことを――――話さなきゃいけない。

「新しくできた筋腫が 、、、検査をしたら悪性で、」
「え――――?」

「悪性の肉腫で、子宮を全摘出することに、」
「っ!? そんな……」

 事実を伝えきって、そろりと瞼を開けて見た――――!!

 私は、また、その顔を……
 葛藤し苦しんで今にも泣きそうな表情を、夏樹さんにもさせてしまったのね。

 お願いだから、苦しまないで――――

「私は、本当に、幸せをたくさんもらったから……大丈夫。うん、大丈夫だから。夏樹さんには父親になる将来がっ――――――」

 安心させたかった、私の選んだ言葉に……夏樹さんは私への愛の言葉を強くぶつけてくる。

「俺が! 俺が夫になるだけじゃ、いけないのか?」

 真剣で鋭い視線に、その言葉が嘘偽りないものだと――――――

 涙が溢れるほど嬉しくて、
 息が止まるほど切なかった。

 夏樹さんが誰よりも大切だから、私にとって大切だから。

 父親になる幸せをあきらめてほしくない。

「私が……今までと同じように夏樹さんのそばにいる自信がないの」

 私は夏樹さんに失くしたものを生み出してあげられないから……

「ちゃんと謝って、正直に気持ちを伝えて、未来のために……笑って別れたいと思ったの」

 絶望の中でさよならをしても……
 月日が流れ、私が夏樹さんと出逢えたように。

 夏樹さんの未来に幸せな人生が待っていると願って――――――

 そこに私がいなくても、夏樹さんが幸せなら、私も幸せだと……

 笑顔で祝福してあげたい。

 そのときを思い馳せ、決して嫌で別れるのではないと、私はありったけの笑顔でさよならを・・・


「……ごめん、ありがとう」

 夏樹さんの優しい声が届いてすぐに。
 立ち上がった姿、そして一瞬にして目の前からいなくなった――――――

 私の見つめていた場所がぼんやりとにじんでゆく間に、足音は離れ物音もなくなり……玄関のドアが静かに閉まった。

 夏樹さんの消えた空席はもう曇って見えず、重たい瞼を閉じればボロボロと涙が流れ続ける。

 最後に、ずっと口にしたかった言葉を、まだ瞼の裏にある夏樹さんの残像に向けて、

「……ぁぃ・・・ っ、ふっ、ぅぅ」


 ―――― 愛してる ――――


 ただ、その言葉を、伝えたかったの。
 その気持ちを届けたくて……

 何が、いけなかったのかな。
 何処で、間違えたのかな。

 もっと早く伝えておけばよかった。
 もう二度と彼はここに戻ってこないのだから――――――



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