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第六話 夏と秋の狭間。僕の醜い過去へ
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俺は診察室の椅子に腰かけていた。
「皆口。訊いてくれよ。俺、体重が三キロも増えたんだぜ? ここに来てから本当によく食うようになったよ。クスリに溺れてた頃は食事何て気が向いた時しかしなかったのに」
俺は上機嫌に話していた。俺はいつエイズを発症してもおかしくない。本来なら瘦せ細って死んでいく俺の体重が三キロも増えたのが嬉しかった。まだ生きられるという思いがとにかく嬉しい。
「食欲増進の薬飲んでるからな。体重もそりゃ増えるよ」
俺の嬉しさとは引き換えに、皆口の表情はどこか険しかった。
「採血によるウィルス量の結果だけど、前より少し高くなってる。免疫細胞の数も相変わらず減少していて……これ、どういうことかわかるよな?」
気まずそうに口ごもりながら皆口は言う。
「つまり死ぬんだろ? わかってるよそれくらい……」
俺の嬉しさは消え失せる。
「もう一つわかってほしいことがある。ここは、このホスピスは緩和ケアと終末ケアを行う場所で、とにかく穏やかに自分の死を迎える場所なんだ。だから、病気が治るという考えだけは……」
皆口はまた口ごもった。いつものヘラヘラした態度は一体どこに行ったのだろうか。
「持ってほしくないんだろ? 大丈夫だって、そんなこと考えてないから」
俺は嘘をついた。本当は心の中や頭の中で、病気が治ってここを出る日が来ると……ホスピスにいるみんなが俺を祝福してくれてここを出ていく自分の姿を常に想像していた……
椅子から立ち上がり「今日もありがとう」といつもの礼の言葉を皆口に言い、俺は診察室を後にしようとした。
「歩生」
診察室のドアを開けたとき、皆口は俺を呼び止めた。
「何だよ?」
「ここにいるみんなはお前にとってもう家族同然な存在なんだ。雫や冷や俺だってそうだろ?」
皆口は似合わない態度の真剣な面持ちで言う。
「わかってるよそんなこと」
このホスピスに来て二か月余り、ここにいる人たちが家族同然なのは今の俺にとって当然なことだ。
「だから俺にできることがあったら何でも言えよな。俺たちは家族同然なんだから」
いつものヘラヘラ笑いを皆口は浮かべた。このほうがこいつらしかったから俺もどこかつられて笑ってしまう。
「大切にとっとくよ。皆口のできること」
皆口が頷くのを見ると俺は診察室を出た。
昼食までまだ少し時間があったから俺はホスピスの庭に出ると、大きく背伸びをした。太陽の下でこうすると生きている実感があるから毎日している。
「夏もそろそろ終わりだな」
いつもの背伸びを終えた俺は庭にある四段だけしかない石段に座った。夏の終わりが近いのがわかる。蝉の鳴き声が減っているし、涼しい風が時々吹いている。それにもうすぐ八月も終わりを迎える。秋が始まれば、今目にしている緑色の木々は紅くなり地面は落ち葉で溢れてきっとそれもおつなんだと俺は思った。季節。ヤク中のころは寒いも暑いも何とも思わなかった。
「おい! 歩生! 水遊びしようぜ!」
後ろからドバっと水をかけられた。しかも頭の上からだ。俺は無表情で濡れた顔を手で拭いながら石段から立ち上がり、これをやったクソガキの顔を見るために後ろを向いた。
「なぁ、こんなことして楽しいか?」
「うん! 楽しい!」
バケツを持った冷は本当に楽しそうに大笑いしている。
「このクソガキ……! 今日という今日は覚悟しろ……!」
俺は拳を鳴らしながら冷に近づく。グーじゃない。ここは大人らしくパーで思いっきり頭を殴ってやる。
「そんなことしていいのか? この庭走って逃げてやるぞ。走ったら私はまた気分が悪くなって処置室行きだぞ? そうなればお前のせいだ。皆口には急な運動は駄目だって言われてるしなー」
ニンマリ笑いを浮かべながら走るポーズをとる冷。
「またそうくんのかー」
何度も頷きながら俺も笑顔を見せるが、多分目は笑っていない。あの食い逃げ事件以来、このガキのおちょくった嫌がらせを俺はずっと受けていた。俺が怒ったのを察すると、冷はいつもどこかへと走って逃げようとする。急な運動をするとこいつは気分を悪くするようなので、いつもは諦めて折れてやっているが、今日はそうはいかない。もう我慢の限界だ。
「走ったりとかすんなよ。また気分悪くなったりとかしたら心配だからな」
できるだけ穏やかな表情を作って俺は言う。怒りの裏の表情をとにかく隠した。
「な、何だよ?! 急に優しい顔すんなよ気持ち悪い!」
警戒する冷に俺はゆっくりと近づいていく。
「あれ? お前少し髪伸びた? 何だかすげー大人っぽく見えるぞ?」
ここで逃がしたら元も子もないから、とにかく適当におだてる。
「そ、そうかなー……」
自身の金髪の髪をつまみながら照れだす冷。今だと俺は確信した。
「嘘だ。このガキ」
俺の穏やかな表情は一瞬にして消え、裏の怒りの表情をあらわにして冷に掴みかかる。
「き、汚いぞ! 放せよ!」
抵抗するが所詮十四かそこらのガキの力だ。他愛もない。俺は冷の背後に回ると、軽く息ができる程度にスリーパーホールドを決める。
「ふざけんな! 私は病人だぞ?!」
「はぁ?! 俺だって病人だろうが!」
必死で抵抗する冷。その刹那。肘打ちが俺の右横腹に命中する。ガキの力だが鋭く急所を付いた肘打ちによって俺は苦しさのあまり後ろへと倒れるが、それは冷も道ずれだった。スリーパーホールドの姿勢は決して崩したくない俺。
「放せ! こら!」
「放すか……! 一言でいいから俺に謝れ……! そっしたら放してやる……!」
「やだ!」
謝罪するかしないかの攻防戦が始まろうとしていたが、そこへ呆れた表情で俺たちを見下ろす人がいた。
「ほんと二人とも羨ましいくらいに元気だよね」
雫だった。呆れた表情を浮かべた後、彼女は苦笑しながら俺たちを見る。
「それで、どっちが悪いことしたの?」
訊いてくる雫。その答えは決まってるから俺は一番に声を上げた。
「こいつが俺に水かけたんだよ!」
「違うよ雫! 水遊びに誘っただけなのに、歩生が急に怒って、しかも私を騙し打ちしたんだ!」
そこそこ合っていることを言うクソガキ。
「歩生君。冷は年下だし、それに私たちは手下なんだよ? 我慢しなきゃいけない部分もあるでしょう?」
「何だ……その理不尽……」
俺があっけにとられた隙をついて冷は俺のスリーパーホールドから脱出すると、元気よく立ち上がった。
「なめんなよ!」
俺を人差し指でさして冷は叫んだ。その瞳は勝ち誇ったように俺を見下ろしている。
「そろそろお昼ご飯の時間だから呼びに来たんだよ。今日のお昼はみんなが大好きなカレーライスです」
雫が言うと冷は「やったー!」と両手を上げて喜び出す。
「それじゃ行くよ冷。歩生君はその濡れた服を何とかしてから来るように」
雫と冷は仲良く手をつなぎながら去っていく。去り際に後ろを振り向くクソガキは、俺に勝ち誇った嫌味な笑みをこぼした。
「せいぜい覚悟しとけよガキが……そのうちにマジで泣かしてやるからな……」
濡れたシャツを脱ぐ俺は冷への届かない怒りを込めて一人空しくシャツを絞るのだった。
「楽しそうだね。歩生」
後ろにきっと子供の頃の俺がいるんだと思う。ボロボロの服を着た子供の頃の俺が……メスなんてもう長いことやっていないのに、やりたくもないのに、後遺症なのか? それはしつこい幻覚で気が向いたときに現われやがるみたいだ……今の俺にとっていい迷惑に他ならなかった……
もう忘れたい子供時代なのに……
「待てよ。俺もカレー、一緒に食うぞ」
無視するのが一番だった。いっそのこと向き合おうかと考えてしまうが。向き合ってどうなる? 惨めな気分になるだけだ……俺はまだ少しだけ濡れているシャツを着ると食堂へと歩いた。子供の頃の俺はじっと俺の背中を見ている気がした……
俺たちはいつものように丸テーブルに三人仲良く座る。トレーに乗ったカレーライスにコールスロー。それに桃のパックジュースまである。
「それじゃあ、手を合わせましょう。いただきます」
食事の時はいつも雫が先にいただきますと言う。俺たちも続いて
「いただきます」
「いただきまーす!」
と言う。俺は、まさか自分がこんな言葉を使う日が来るとは思わなかったが、今では慣れた言葉だった。
「うめぇー」
ガツガツとカレーを食べる冷。本当に女らしさが微塵もないガキだ。呆れながら俺はカレーを口に運ぶ。ここのカレーは確かに美味しい。俺の母さんが作ってくれたレトルトのカレーとは大違いだ。まぁ、そんな母さんの手抜きカレーも懐かしくは思うが……
「歩生。その桃のジュースいらないんならくれよ」
口元をカレーで汚した冷が言う。雫はすかさずおしぼりで冷の口元を拭いた。実に手下らしい行動だ。
「やらないよ。ちゃんと最後に飲むから」
こういう甘いものは食後のデザートにしたい俺。
「くれよ。くれ、くれ、くれ」
物をねだる甘えた手招きを冷はした。
「そうか。どうしてもほしいなら、さっき俺に水かけたこと頭下げて謝れ」
このガキがちゃんと謝るんなら、しかも頭下げて謝るんなら桃のパックジュースの一つくらい喜んで差し出してやる。
「お前に下げる頭なんかねぇよ。ふざけてんのか?」
けろりとしながらこのクソガキは言いやがる。
「ガキー! てめぇー!」
怒りのあまり俺は椅子から立ち上がる。
「まぁ、まぁ、落ち着きなよ。今は楽しい食事中なんだから」
俺を制止する雫。彼女は優しい母のような穏やかな表情を浮かべている。
「はい、冷様。私のジュースでよければお飲みください」
自分の桃のジュースを差し出す雫。クソガキはありがとうも言わず欲にまみれた表情でパックジュースを受け取った。
「いいのかよ? そんなのこいつのためにならないぞ?」
俺が雫に訊くと彼女は
「今が楽しければ幸せでしょ? それに冷様の喜ぶお顔が今日も見れて私は手下としてとても充実しています」
桃のパックジュースを貪欲に飲む冷の姿を、彼女は微笑みながら嬉しそうに見ていた。
「このガキは神か何かか……?」
もしそうなら貪欲な神の姿を俺は見ていることになる。
「そうだぞ。今すぐ拝め」
パックジュースのストローから口を放す貪欲な神は無表情に言った。
「嫌だ。拝んだら負けになる気がする」
苦笑して俺は貪欲な神である冷を否定する。
「冷様。あなたが与えてくれる糧と日々には感謝しかありません」
両手を握って冷に祈りやがる雫に俺は呆気にとられた。糧とか言ったがこのクソガキが作ったカレーじゃない。
「うむ」
偉そうに返事するガキ。雫は幸せそうにカレーを食べ始めた。その光景を見ていた食堂にいる爺さん婆さん達は笑い始める。
「祈んなよ雫。このガキが調子乗るだけだけだろうが」
気が付けば俺も笑っていた。この二人と俺がどうしていつも一緒にいるのか今ならわかる気がする。それは楽しいからでもあり、死への恐怖が紛れるからだ……心から笑うということを自然とこの二人に教えられたから……
その日の夜。俺は自室であるE号室でテレビを見ていた。時刻は間もなく午後十時を回ろうとしていた。この時間はニュース番組ばかりで退屈すぎてもう寝ようと思ったのだが。
「板串場地区で起きた反社会勢力による内部抗争事件の速報です」
テレビの中の女性ニュースキャスターが顔色一つ変えずに伝えた事件。板串場地区の反社会的勢力……
「事件現場となった飲食店で反社会勢力のトップであった榊一、二十七歳が首から血を流して死んでいるのが見つかり、事件現場で暴行を受けたとされる接客業の女性宮沢ゆかさん二十歳が搬送された病院で脳挫傷による死亡が確認されました」
榊一という名前が出た時点で、それは俺が属していた半グレだった。その証拠にテレビ画面には榊の顔写真が映る。次には笑顔を見せる宮沢ゆかという女性の顔写真。この女性に俺は見覚えがあった。確か榊のお気に入りの風俗嬢だ。
「現場近くの路上で榊一氏の配下である竹岡亮さん二十二歳と伊藤実さん十九歳が鈍器のようなもので頭を殴られて死亡しているのが見つかり、重軽傷を負っている津川麻尋さん十七歳は病院に運ばれて意識不明の状態です。警察は目撃情報などから近くの空き民家に潜伏していた安藤優助容疑者を殺人の疑いで逮捕しました。警察の取り調べのさいに安藤容疑者は、「榊のことは前々から気に入らなかったから殺した。追いかけたきた三人も自分を殺しそうだったので、ああするしかなかった。全部自分が一人でやった」と供述しています」
安藤優助。パトカーの後部座席の真ん中に座ている彼の姿がカメラのフラッシュライトと共にテレビに映る。切り傷だらけの顔。紛れもなくそれはお優しい金髪のお方だった。堪らず俺はテレビの電源をオフにする。
「……死刑になるよ……あんた……」
一人はまだ生きているとしても、金髪のお方、安藤は三人殺している。二人殺せばこの国の裁判では死刑になる。学のない俺でもそれくらいは知っている。ベッドの上に横になり俺は白い天井を空しく見ていた。カーテンが閉められた窓の外からは、夏の終わりらしく微かな鈴虫の鳴き声が聞こえていた。
ドン! ドン!
ドアが叩かれる音に俺はベッドから飛び起きる。
「おい! 歩生!」
「こら駄目だよ。ドア蹴っちゃ!」
ドアの外にいるやつらがわかった。ベッドから起き上がると俺はドアを開ける。
「歩生! マシュマロ食おうぜ!」
冷は満面の笑みでマシュマロの入った袋を掲げて俺に見せていた。
「食べよう。食べよう」
冷の後ろに立つ雫も頷きながら言う。こいつは何だか嬉しそうにしている。
「もう寝るから、二人で食べろよ」
断る俺。安藤の事件のことを知って、今夜はとにかく静かに眠りたかった。
「何だよー! せっかく食堂から盗んだんだぜー!」
「そうだよ! 浜辺で焚き火して三人で食べようよ!」
「マシュマロって焼くと膨らんで旨いんだぜー!」
叫びやがる二人。「食べよう! 食べよう!」「行こう! 行こう!」などの声を上げて騒ぎ出すから、ほかの部屋にいる爺さん婆さんがドアから次々と顔を出し始める。
「あ、すいません……」
雫は騒音によって迷惑をかけた爺さん婆さんに申し訳なさそうに頭を下げて謝罪した。
「歩生。お前のせいだぞ」
癇に障ったが、夜も遅いからこれ以上騒がれたくもない。ただでさえここの爺さん婆さん達からは白い目で見られている。俺は騒ぎを起こした元麻薬中毒者だから……
「行くよ……」
俺はとぼとぼと部屋を出た。
「知ってた? 夏の終わりの夜の海が凄く綺麗なこと?」
廊下を歩きながら問いかける雫に俺は暗い表情を隠すかのように頷いて見せた。
「綺麗だよね。すごく……」
隠した俺の暗い表情を察したかのように雫は笑ったが、その笑みはどこかぎこちなかった。
夏の終わりの夜の浜辺は静かな波の音に涼しい海風が吹いていた。俺たちは焚き火をするために三人で浜辺に打ち上げられた乾いた木を集める。月明かりのおかげで木を見つけるのは比較的に容易だった。
「雫、歩生、こっちだぞ!」
冷が俺たちを呼ぶ。手下の俺たちは砂浜に乾いた木を置いた。
「ライター盗んできたんだぜ。愛ちゃんストレス爆発してとうとう煙草吸い出したよ!」
月明かりの下でニンマリ笑いを浮かべる冷。愛ちゃんとはホスピスの看護師で、俺にはいつも庭で洗濯物を干しているイメージがある。
「冷がババァとか言うからでしょ? もう、愛ちゃん結構傷ついてるんだからね! いけませんよ!」
叱る雫だったが、このガキがこの程度で懲りるなど夢物語に近いものだと俺は思う。
「知るかよ。燃やす木も集まったし、火点けるよー」
冷は木をライターで炙った。海水で乾燥してた木だからよく燃えた。砂浜が辺り一面が真っ赤な色に染まる……俺たち三人は焚き火を囲んで砂浜に座った。
「マシュマロ! マシュマロ!」
マシュマロを枝に突き刺して焚き火ので炙る冷。マシュマロにいい感じに焦げ色がついてうまそうに思えた。
「二人の分も焼いてやるからな! 待ってろよ!」
「さすが俺たちのボスですね!」
焼いたマシュマロとやらがどんなものか知りたいから、俺はガキをおだてた。とにかく調子に乗らせてやる。
「当たり前だろ。手下は大事にすると決めてるんだ!」
予想通り冷は調子に乗ってくれた。
「……なぁ、月島よぉ……」
俺の隣に見覚えのある人が座ってきた……横顔でもそれが誰だかわかる……榊一だ。
「……死にかけ同士仲良くしてお前楽しそうだな……ヤク中だった頃とは大違いで、俺や安藤やその仲間たちには見せたことない笑った顔しやがる……」
俺のすぐ隣で榊は不敵に笑った。
「仲間とかじゃねぇよ……とくにお前はな……人の痛み何てわからない最低野郎だろ……?」
「……おお、言うねぇー……ここで手を出したいところなんだが……俺、死んじまってるから、首刺されて殺されてるから無理なんだわ……」
榊の首からはおびただしい血が流れていた……死んでるくせにゴフッ、ゴフッと咳しやがる……しかも吐血していた……焚き火の光が照らす白い砂浜に榊の血が飛び散る……
「……それより安藤、金髪のゾンビ顔野郎は可哀そうだよなー……俺も含めて三人殺したから死刑だぞ……死刑……拘置所で首吊りになって……後は俺みたいになるんだよ……俺のいる場所は冷たいぞ……心がどこにあるかもうわからないんだ……死んだのに、もう何も感じないはずなのにも関わらず苦しいんだ……俺は悪いことばかりしていたからなー……当然の報いだ……月島ぁ……お前も悪いことばかりしてきたから……死んだらきっと俺みたいになるぜ……きっと……だからなぁ、死んだらそれで終わりって考え捨てろ……」
吐き捨てるように言うと、榊はまた吐血しながら不気味に笑った……
「歩生君?」
焚き火の向こうで雫が不思議そうに小首を傾げてた。
「え?」
我に返るとはこのことなのか? 辺りを見渡しても榊一の姿はない……
「なに? マシュマロそんなに美味しかった?」
可笑しそうに笑う雫が訊く。手には枝がある。きっとマシュマロが刺さっていた……食べた記憶はない……
「え? ああ……うん……」
味何て覚えていないから、曖昧な返事をするしかない俺。ガキの頃の俺といい、榊まで現われやがった……妙な幻覚、これはきっと薬物を絶ったことによる後遺症なんだと自分に言い聞かせた……
「冷様は寝ちゃったね」
「え?」
砂浜であぐらをかいて座る俺の膝に軽い重みがあった。冷が俺の膝を枕代わりにしてスヤスヤと眠っている。
「ガキ……」
起こそうとも思ったが、無垢な寝顔だから気が咎めてしまう。
「普通の女の子でいてほしいよね」
焚き火が照らす砂浜で唐突に雫が口を開いた。
「病気なんか治って、髪色落として、ピアスなんか外して、セーラー服を着て、学校に通って、友達がたくさんできて幸せになってほしい」
語ったのは雫からした冷の理想像なんだと俺は思う。甘い夢のような理想像。冷の病気が治るなんて奇跡でも起こらない限り無理だ。だからホスピスにいるんだ。
「このガキから生意気取ったら、何も楽しくない少女の出来上がりだよ」
スヤスヤ眠る冷の頭を撫でながら言う俺。
「冷はこのままでいい、生意気できっといいんだよ……」
そうじゃなきゃ、俺は死への絶望で壊れてしまいそうだったから……冷と張り合えるから紛れるんだ……それに雫もいるから……初めての恋だから……報われない恋だから……
「な、なぁ、雫は好きな人とかいるの?」
報われないとわかっていても訊いてしまう俺。雫は「え?」と少し驚いた表情を見せた。唐突にこんな質問したんだから当然の反応だ。馬鹿な俺。もし、いるという言葉が返ってきたら俺はどんな顔したらいいんだよ……
「いるよ。高校で同じクラスだった同級生で、名前は修一君。私はいつも修ちゃんって呼んでた」
「へぇー、まぁ、意外かな……」
傷ついたのをごまかすように、焚き火に薪をくべる俺は平静を装う。意外でも何でもない。雫ほど綺麗ならいないほうがおかしいんだ。平静を装うってはいるが、きっと今の俺は悲し気な表情をしていると思う……
「病気、その修一ってやつにうつされたのか?」
動揺したのか? 馬鹿な俺は訊いてしまっていた。しまったと思えばもう遅い。
「そんな違うよ。私が小学生の頃に交通事故に遭って、出血が多かったから輸血することになったの……その血液にHIVが入ってて……十年してからだよ、感染してるってわかったのは……ずっと体調崩してて、病院にいったら……陽性で、エイズ……発症しかけてるって診断された……」
俺みたいな元薬中のクズが感染するのは当然だと思いたい。けど、雫のようないい子が不幸にも感染するのなんて間違っている……
もし神様がいるのなら、それはきっと残酷な存在だ……
「雫……お前、その彼氏と……」
これ以上馬鹿なことを訊くなと自分を言い聞かせたいのに……どうしてか口が開く……きっと知りたいからなんだと思う……
「大丈夫だよ……修ちゃんはいつも避妊していたし……多分だけど……大丈夫だよ……」
つまりゴムはしていたわけだ……けど、その修一ってやつがいつも雫を抱いたんだと思うと、俺は純粋に嫉妬した感情になっていた……
「歩生君はどうして? どうして感染したの?」
「知りたい?」
訊いてくる雫に俺は弱々しく笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。嫌ならもう答えなくていいよ……なに訊いてんだろ、私……」
雫は焚き火だけを見つめていた。気まずい沈黙なんか嫌いだ。だから俺は勝手に喋ることにする。
「俺は知っての通り前は薬物依存でどこの誰かが使てたかわからない注射器を使いまわしてた。これが原因かもしれないし、もう一つ心当たりがあって、十五くらいの頃に顔色の悪い外国人の女に誘惑されて……SEXして……もしかしたらそれが原因なのかもしれないし……」
哀れむような視線で俺を見る雫。その視線から逃げるように俺は暗い海を見つめた。
「皆口に言われたよ。エイズの発症が速いって……薬物のせいで免疫がやられたんだって……だから免疫細胞ってやつが著しく少ないって……」
こんな話をすれば、体重が三キロ増えたことなんて何の意味もないことだとわかる。再び嫌いな気まずい沈黙が始まった。パチパチと音を立てる焚き火を俺は見つめるしかない。
「歩生君はどうして……歪んでいたの?」
俺はハッとしながら雫を見た。焚き火に照らされた綺麗な雫の顔。その口元は微かに微笑んでいる。
俺が……自分が歪んだ理由……
「歩生。知ってもらおうよ」
すぐ後ろでガキの頃の俺の声がした。
「ああ……そうだな……」
呆然と焚き火を見つめながら、俺は語り始める。惨めな子供時代を……
俺が小学生に上がった頃。自分が貧困の家庭にいるんだとわかった。狭いアパートで母と俺、そしてクソな義理の父親と三人で暮らしていた。この義理の父親は本当にクソで、ろくに働きもせずに朝から酒に酔っては俺と母さんをよく殴った。
「約束したじゃない! 私と歩生を幸せにするって約束したじゃない!」
このクソに殴られては母さんは俺をかばいながら殴られて、涙ながらによくこんなことを叫んでいた。
「血のつながらないガキなんて知るか。お前は黙ってソープで股開いとけ。なぁ?」
クソは、義理の父親は不敵に笑った。目を見開いた悪魔のような笑い声に俺はいつも恐怖するしかなかった。母さんは風俗で働いていて、客だったこいつに騙されて一緒になってしまった。母さんが体を売って稼いだ金の大半はこのクソに奪われていた。最悪な家庭と日々。これと同じくらいに最悪だったのが学校だった。
「いってらっしゃい。歩生。車には気を付けるのよ」
母さんはアパートの外まで出ては、俺の通学を見送った。殴られて痣が残る顔で母さんは笑顔で僕に手を振っていた。いってきますという言葉を言うのが当然だけど、僕は一度も母さんに言ったことがない……
通学路を歩く僕。周りには綺麗な制服を着た同級生や上級生がランドセルを背負い「おはよう」と朝の挨拶をしていた。彼ら彼女らとは正反対で、汚い普段着で何本かの鉛筆とノートが入ったスーパーの袋を持って登校する僕をみんなは蔑むか、見て見ぬふりをした。僕の母さんに学校の制服や教材。ましてやランドセルなんて買うお金はない。母さんが稼いだお金は、ほぼあいつが、義理の父親が持っていくから……
学校の自分の席に座ると、僕は俯くしかやることがない。周りではふざけあったり、楽しく談笑しあう声がするが、僕には住んでる世界が違った……きっと誰も僕の名前を知らない……その証拠に担任の先生は出席を取るとき、いつも僕の名前を飛ばしていた……授業も教科書がないからただ鉛筆を持って白紙のノートを見つめるだけ……体育の時間も体操着がないから、みんなが楽しそうにドッジボールをしているのを黙って見ていた。心が少しだけ安らぐのは給食の時間だけ。学校生活は誰とも会話をせずにいつも終わっていた。
狭いアパートに帰ると母さんはいつも訊く。
「歩生。今日学校はどうだった? 友達とは仲良く遊べた?」
「……」
僕は黙っていることしかできなかった……母さんは心配そうに僕を見るしかできなかったんだと思う。そして夜になればあいつが酒を飲んで暴れて僕と母さんを殴った。僕の体にも次第に母さんと同じような痣が目立つようになる。
金曜日。僕にとっては最悪な曜日だ。この日のお昼はお弁当の日と呼ばれ、給食は出ない。同級生たちは机を囲み、色とりどりのお弁当を自慢しながら食べ始める。僕は席に座り俯いているしかない。とにかくお腹が空く。
「おい、これ食べたいか?」
小太りの同級生がサンドイッチを嫌味な笑みを浮かべて差し出してくる。お腹が空いていた僕は一度だけ頷くと、小太りの同級生はサンドイッチをわざとらしく床に落とした。
「お前、ビンボーだから床に落ちた食べ物食べられるだろ!?」
小太りの同級生は笑う。僕が床に落ちたサンドイッチを食べるのを心待ちにしているようだった。
「うちの父ちゃんが言ってたぜ。お前の母ちゃんはスケベって生き物でイジメたら喜ぶって! 息子のお前もそうだって父ちゃん言ってたぜ!」
僕はどう言われてもいい。でも、母さんの悪口は許せなかった……僕は椅子から立ち上がると、小太りの同級生を殴った。殴ったら彼は鼻血を出して後ろから床に倒れる。倒れた彼に馬乗りになって、僕は無我夢中で殴った……
後は僕にも……俺にも何があったか覚えていない……
夕方、母さんは学校の職員室に呼ばれた。ソファに座らされる僕と母さん。ガラス机を挟んだ向かい側のソファには教頭先生と一度も僕の名前を呼んだことのない担任の先生が険しい顔で座っていた。
「歩生が、うちの子が本当にすみません」
母さんは深々と教頭先生と担任の先生に頭を下げた。それを見た担任の先生は呆れた表情でため息をつく。
「すいませんじゃすまされませんよ。あなたの息子が殴って病院送りにしたのはね。我が校に多額の寄付をしてくれてる有力者さんの息子さんなんですよ? この意味がわかりますか?」
母さんは気まずそうに頷いたのを見て、次に教頭先生が口を開く。
「制服もないし教材もない、ランドセルも息子に買い与えてないって、あんたはどうして息子を学校に通わせてるの? 公立でもここは慈善団体じゃないんですよ?」
「すみません……」
母さんはまた頭を下げて謝る。
「私は……私は、小学校にも通ったことのない無学だから……だからこの子にだけはちゃんとした教育を受けさせたくて……」
母さんの弱者の訴えに、担任の先生は再びため息をつく。
「無学ねー……そりゃ育児放棄にもなるわなー……」
担任の先生は呆れたように笑う。見下したかのような蔑んだ目で僕と母さんを見ていた。
「とりあえずはね。制服と教材を買うまで、その息子は学校に来させないで」
同じく蔑んだ目で僕と母さんを見ていた教頭先生は面倒くさそうに言った。
狭いアパートへの帰り道。母さんは僕の手をつなぎながら歩いていた。
「教材や制服何て買うお金ないし、困ったねー」
手をつなぎながら母さんは僕を見て微笑んだ。あの男に殴られて痣のできた母さんの顔……僕は見たくなくてすぐに俯きながら歩く。
「それにしても育児放棄かー、まぁ、そう言われても仕方ないかな……」
母さんは僕とつないでいた手を放し、僕の目線までしゃがむと、愛おしそうに頭を撫でてくれた。痣のできた母さんの顔が嫌でも視界に入る。
「服……買ってあげられなくてごめんね……お弁当作ってあげられなくてごめんね……お腹空いてるでしょ? だから帰ったらカレーを食べさせてあげます!」
「本当?」
「うん!」
「わぁー!」
僕は口を開いた笑顔で母さんの顔を見ることができた。
狭いアパートに帰ると、あいつはいない。昼間はいつもどこかへ出かけていた。母さんは鍋に水をためて、そこにレトルトカレーを入れた。電子レンジでご飯のパックを温める。
「手抜きだね」
僕が言うと母さんは
「うふふ。そうだね」
どこか幸せそうに笑うから、僕もつられて笑ってしまう。母さんのカレーはレトルトでも美味しかった。カレーを食べる僕のことを見て、母さんは幸せそうに笑みを浮かべていた。
「母さんは食べないの?」
僕が訊くと母さんは
「いらない。美味しそうに食べる歩生のことを見てるだけで嬉しいの」
幸せそうな笑みを崩さずにそう言った。僕にはわかっていることだった。このレトルトのカレーは大切な日のためにとっておいたものだ。例えば僕の誕生日とか……今日は僕の誕生日じゃない……
「ねぇ、歩生。食べ終わったら海行こうか」
「え? 海?」
「母さん。海に行きたくてね」
この寂れた田舎町で、夏でも観光客なんて来ない海に母さんがどうして行きたいのか僕には不思議だった。僕がカレーを食べ終わると、母さんは僕と手をつなぎ二人で海へと出かけた。狭いアパートを少し行った先に防波堤があって石段の階段がある。その階段を下ると人気のない砂浜があって、目の前には寂しげな海がある。
「何にもないね」
そこにはただの寂し気な波景色しかない。ふと僕が母さんを見ると、脅えているのか? それとも笑っているのか? そのどちらともとれる表情をしていた。
「駄目……やっぱり駄目……できない……死にたくない……」
母さんがこの海で何をしようとしたのか、今の俺には理解できる。
「歩生! ごめんなさい! 母さんもう限界なの!」
僕を抱きしめてた母さんは、小刻みに震えていた。そして抱きしめ終わると、とぼとぼと一人砂浜を歩いていく。
「母さん。どこいくの?」
僕が訊いてついて行こうとすると
「ついてこないで! そこにいてじっとしてるの!」
僕に背を向けたまま母さんは怒鳴った。
「……歩生……迎えに来るから……」
母さんは落ち着きを取り戻したかのようにまた砂浜をとぼとぼと歩いていく……微かだが僕の耳には聞こえた。母さんが鼻歌を歌っていることに……
夜になってからだ。砂浜で一人座る子供の頃の俺が警察に保護されたのは……ようやく俺が母さんに捨てられたとわかったのは児童養護施設に入れられた最初の日だった……どういうわけか? 養育権なしと判断された義理の父親がよく施設に面会にやってきた。仕事が決まったとか、酒をやめたとか色々俺に話してきたが、俺があいつと口を利くことはなかった。
中学に入った頃に俺は覚えた。欲しいものがあったら奪う。気に入らない奴は屈服するまで殴ればいいと……
施設にも帰らずに夜の町を徘徊し、喧嘩に明け暮れて調子に乗っていたところを、まだ小規模だった半グレのリーダーである榊一に拾われた。おもにやらされていたのは薬物の売買。それをやっただけで榊は住む場所もくれたし、金も払ってくれた。間違いだらけの日々を送っていることは自分でもわかっているのに、俺には何の疑問もなかった……
焚き火の火は弱くなり、今にも消えそうになっていたが、若干は明るい月明かりのおかげで雫の顔はちゃんと見えている。冷は起きる気配などなく俺の膝の上で気持ちよさそうに寝息をたてている。
「歩生君は……今も過去もずっと悲しいんだね……」
消えそうな焚き火と薄暗い月明かりの中で雫は言った。
「悲しいって、俺には過ぎたこと……」
雫がどうして俺を……僕を悲しいというのかがわかった……目には大粒の涙が溢れていたから……
「何だよこれ……? どうしたんだよ、俺……」
悲しさがあふれ出ていた……自分の心が苦しい悲しいとずっと叫んでいたんだ……叫んでいたのに……俺は知らないふりして生きていたんだ……
「歩生君はお母さんのこと好きだった?」
涙を拭っていると雫がすぐそばにいてくれた。
「大好きだった……大好きで信じていたのに……俺は捨てられた……」
「悲しかったね……だけどもう大丈夫だよ……私たちがいるから……」
雫は目に涙をためながら言ってくれた。
「そうだぞ、歩生……泣くなよ……手下クビにするぞ……」
いつの間にか目を覚ましていた冷は、俺の膝の上で薄目を開けながら言う。
「クビは嫌だな……」
涙を拭い若干笑いながら俺は言う。
「それはどうしてだ……?」
寝ぼけ眼な冷は訊く。
「どうしてかな?」
目に涙をためながらも雫は笑って訊く。
「お前らと飽きるまで一緒にいたいから」
これがあと何年生きるかわからない僕の本当の気持ち……
「歩生、やっと誰かに知ってもらえたね」
薄暗い砂浜に子供の頃の俺が安心しきった笑みを浮かべながら立っている。俺が笑みを返すと、子供の頃の俺は砂浜の闇に消えていく……お前がどうして幻覚のように見えていたのかがわかった……
そうだ……俺は誰かに知ってほしかたんだ……子供の頃に俺が感じたことを……惨めさと悲しみを誰かに知ってほしかったんだ……
消えそうな焚き火……薄暗い砂浜……静かな波の音がする中で、雫は俺を優しく抱きしめてくれた……まるで母さんのように……
「……私たちは一人じゃない……」
最悪な病を患っているのに、一人じゃない自分が世界で一番の幸せ者に思えた……雫や冷もきっとそうだろ……?
朝、E号室の洗面台で俺は顔を洗っていた。ふと鏡を見ると顔立ちがどこか穏やかになった気がした。幽霊みたいな顔はどこへやら、前はもっと殺伐とした顔をしていたはずだ。
トントンっと誰かが部屋のドアをノックする。
「今、行くよ」
俺は洗面台を後にして部屋のドアを開けるとそこには雫が立っていた。
「おはよう」
と雫が言うと俺も「おはよう」と朝の挨拶を返す。
「少し話しがあるんだけど、中に入ってもいいかな?」
「え? ああ、いいよ」
「お邪魔します」
「まぁ、座れよ」
「ありがとう」
部屋にある一人用のソファーに腰かける雫。
「話って?」
雫は口ごもって俯くが、すぐに俺の目を見た。
「あのね、旅行してみない?」
「え? 旅行?」
俺は思わず笑いながら訊き返していた。
「みんなで思い出の場所を旅行しよう」
雫が言うみんなとはつまり冷も入っているんだろう。
「いや、思い出の場所って……」
苦笑する俺。昨夜、砂浜で話した通り俺の思い出なんて最悪だ。
「もしかしたら、歩生君のお母さん、その場所に帰っていて歩生君のこと待っているかも」
一人用のソファーから立ち上がり、興奮した表情を見せる雫。思い出の場所旅行とやらをとにかくしたいらしい。母さんがあの寂れた町に、狭いアパート帰っている? ありえないと思いつつ、心のどこかで希望とやらを膨らませてしまう。もしかしたら会えるかもしれないという希望を。
「旅費とかどうすんだ? 俺たち金ないぞ」
俺が言うと、雫は申し訳なさそうな笑みを浮かべて言った。
「そのことなんだけど……皆口先生に頼もうかなって……」
雫の計画には随分な図々しさを感じてしまう。第一、皆口がそこまで金を持っているとは思えない。前に小遣い制とか言っていたのを思い出す。
「駄目かな……やっぱり……」
俯く雫は残念そうに笑った。ほっとけなかった。
「一緒に頼んでやるよ」
雫は太陽のような笑みを見せてくれた。どうして雫がこんな旅行をしたいのかは、俺には察しが付いていた。きっと修一とかいう恋人に会いたいんだ。焼けはするけど、それが雫の願いなら俺は叶えてやりたい。
ホスピスの診察室の前で騒いでいる冷がいた。
「皆口! どうしたんだよその顔! また嫁さんにでもやられたのか?」
けたたましい笑い声を上げる冷。その目の前には頬に手を当てている皆口がいる。
「そうだよ。引っかかれたんだよ」
「どうして引っかかれたの? 浮気でもした?」
「なわけないだろ。ちょっと酒飲んで帰ったらこうなったんだよ」
頬から手をどける皆口。痛々しい赤い引っかき傷を見て俺は思わず噴き出した。俺と雫に気が付くと皆口は面倒くさそうに俺たちを見た。
「どんな店で酒飲んで帰ったらそうなんだよ! 絶対女のいる店で飲んだってバレたんだろう!」
すかさず痛いところをついてやった俺が言うと、それはもちろん図星だったようで皆口は落ち込んだような表情を見せる。
「歩生君。悪いよ」
そう言いながら注意する雫は笑いをこらえていた。
「皆口、あのさー」
落ち込んだ皆口に向かって俺は本題に入った。思い出の場所旅行について。駄目で元々なことだ。きっと答えは決まってる。
「いいよ。へそくり出してやるから、行こう」
まさかの皆口の回答だった。
「とにかく今は妻から逃げたいからな……今日も家帰ったらまだ怒ってると思うし……」
窓の外を遠い目で見る皆口。
「薬局で薬貰って荷物まとめろお前ら。すぐに出るぞ」
俺と雫に冷の三人はすぐに薬局へと向かおうとしたが
「ああ、おい!」
そんな俺たちを皆口は呼び止める。
「誰か一人でも気分や体調が悪くなったらすぐに帰るからな! これだけは約束だぞ!」
「うん!」
「はい!」
「わかってるって!」
俺たち三人は仲良く返事を返すのだった。
「皆口。訊いてくれよ。俺、体重が三キロも増えたんだぜ? ここに来てから本当によく食うようになったよ。クスリに溺れてた頃は食事何て気が向いた時しかしなかったのに」
俺は上機嫌に話していた。俺はいつエイズを発症してもおかしくない。本来なら瘦せ細って死んでいく俺の体重が三キロも増えたのが嬉しかった。まだ生きられるという思いがとにかく嬉しい。
「食欲増進の薬飲んでるからな。体重もそりゃ増えるよ」
俺の嬉しさとは引き換えに、皆口の表情はどこか険しかった。
「採血によるウィルス量の結果だけど、前より少し高くなってる。免疫細胞の数も相変わらず減少していて……これ、どういうことかわかるよな?」
気まずそうに口ごもりながら皆口は言う。
「つまり死ぬんだろ? わかってるよそれくらい……」
俺の嬉しさは消え失せる。
「もう一つわかってほしいことがある。ここは、このホスピスは緩和ケアと終末ケアを行う場所で、とにかく穏やかに自分の死を迎える場所なんだ。だから、病気が治るという考えだけは……」
皆口はまた口ごもった。いつものヘラヘラした態度は一体どこに行ったのだろうか。
「持ってほしくないんだろ? 大丈夫だって、そんなこと考えてないから」
俺は嘘をついた。本当は心の中や頭の中で、病気が治ってここを出る日が来ると……ホスピスにいるみんなが俺を祝福してくれてここを出ていく自分の姿を常に想像していた……
椅子から立ち上がり「今日もありがとう」といつもの礼の言葉を皆口に言い、俺は診察室を後にしようとした。
「歩生」
診察室のドアを開けたとき、皆口は俺を呼び止めた。
「何だよ?」
「ここにいるみんなはお前にとってもう家族同然な存在なんだ。雫や冷や俺だってそうだろ?」
皆口は似合わない態度の真剣な面持ちで言う。
「わかってるよそんなこと」
このホスピスに来て二か月余り、ここにいる人たちが家族同然なのは今の俺にとって当然なことだ。
「だから俺にできることがあったら何でも言えよな。俺たちは家族同然なんだから」
いつものヘラヘラ笑いを皆口は浮かべた。このほうがこいつらしかったから俺もどこかつられて笑ってしまう。
「大切にとっとくよ。皆口のできること」
皆口が頷くのを見ると俺は診察室を出た。
昼食までまだ少し時間があったから俺はホスピスの庭に出ると、大きく背伸びをした。太陽の下でこうすると生きている実感があるから毎日している。
「夏もそろそろ終わりだな」
いつもの背伸びを終えた俺は庭にある四段だけしかない石段に座った。夏の終わりが近いのがわかる。蝉の鳴き声が減っているし、涼しい風が時々吹いている。それにもうすぐ八月も終わりを迎える。秋が始まれば、今目にしている緑色の木々は紅くなり地面は落ち葉で溢れてきっとそれもおつなんだと俺は思った。季節。ヤク中のころは寒いも暑いも何とも思わなかった。
「おい! 歩生! 水遊びしようぜ!」
後ろからドバっと水をかけられた。しかも頭の上からだ。俺は無表情で濡れた顔を手で拭いながら石段から立ち上がり、これをやったクソガキの顔を見るために後ろを向いた。
「なぁ、こんなことして楽しいか?」
「うん! 楽しい!」
バケツを持った冷は本当に楽しそうに大笑いしている。
「このクソガキ……! 今日という今日は覚悟しろ……!」
俺は拳を鳴らしながら冷に近づく。グーじゃない。ここは大人らしくパーで思いっきり頭を殴ってやる。
「そんなことしていいのか? この庭走って逃げてやるぞ。走ったら私はまた気分が悪くなって処置室行きだぞ? そうなればお前のせいだ。皆口には急な運動は駄目だって言われてるしなー」
ニンマリ笑いを浮かべながら走るポーズをとる冷。
「またそうくんのかー」
何度も頷きながら俺も笑顔を見せるが、多分目は笑っていない。あの食い逃げ事件以来、このガキのおちょくった嫌がらせを俺はずっと受けていた。俺が怒ったのを察すると、冷はいつもどこかへと走って逃げようとする。急な運動をするとこいつは気分を悪くするようなので、いつもは諦めて折れてやっているが、今日はそうはいかない。もう我慢の限界だ。
「走ったりとかすんなよ。また気分悪くなったりとかしたら心配だからな」
できるだけ穏やかな表情を作って俺は言う。怒りの裏の表情をとにかく隠した。
「な、何だよ?! 急に優しい顔すんなよ気持ち悪い!」
警戒する冷に俺はゆっくりと近づいていく。
「あれ? お前少し髪伸びた? 何だかすげー大人っぽく見えるぞ?」
ここで逃がしたら元も子もないから、とにかく適当におだてる。
「そ、そうかなー……」
自身の金髪の髪をつまみながら照れだす冷。今だと俺は確信した。
「嘘だ。このガキ」
俺の穏やかな表情は一瞬にして消え、裏の怒りの表情をあらわにして冷に掴みかかる。
「き、汚いぞ! 放せよ!」
抵抗するが所詮十四かそこらのガキの力だ。他愛もない。俺は冷の背後に回ると、軽く息ができる程度にスリーパーホールドを決める。
「ふざけんな! 私は病人だぞ?!」
「はぁ?! 俺だって病人だろうが!」
必死で抵抗する冷。その刹那。肘打ちが俺の右横腹に命中する。ガキの力だが鋭く急所を付いた肘打ちによって俺は苦しさのあまり後ろへと倒れるが、それは冷も道ずれだった。スリーパーホールドの姿勢は決して崩したくない俺。
「放せ! こら!」
「放すか……! 一言でいいから俺に謝れ……! そっしたら放してやる……!」
「やだ!」
謝罪するかしないかの攻防戦が始まろうとしていたが、そこへ呆れた表情で俺たちを見下ろす人がいた。
「ほんと二人とも羨ましいくらいに元気だよね」
雫だった。呆れた表情を浮かべた後、彼女は苦笑しながら俺たちを見る。
「それで、どっちが悪いことしたの?」
訊いてくる雫。その答えは決まってるから俺は一番に声を上げた。
「こいつが俺に水かけたんだよ!」
「違うよ雫! 水遊びに誘っただけなのに、歩生が急に怒って、しかも私を騙し打ちしたんだ!」
そこそこ合っていることを言うクソガキ。
「歩生君。冷は年下だし、それに私たちは手下なんだよ? 我慢しなきゃいけない部分もあるでしょう?」
「何だ……その理不尽……」
俺があっけにとられた隙をついて冷は俺のスリーパーホールドから脱出すると、元気よく立ち上がった。
「なめんなよ!」
俺を人差し指でさして冷は叫んだ。その瞳は勝ち誇ったように俺を見下ろしている。
「そろそろお昼ご飯の時間だから呼びに来たんだよ。今日のお昼はみんなが大好きなカレーライスです」
雫が言うと冷は「やったー!」と両手を上げて喜び出す。
「それじゃ行くよ冷。歩生君はその濡れた服を何とかしてから来るように」
雫と冷は仲良く手をつなぎながら去っていく。去り際に後ろを振り向くクソガキは、俺に勝ち誇った嫌味な笑みをこぼした。
「せいぜい覚悟しとけよガキが……そのうちにマジで泣かしてやるからな……」
濡れたシャツを脱ぐ俺は冷への届かない怒りを込めて一人空しくシャツを絞るのだった。
「楽しそうだね。歩生」
後ろにきっと子供の頃の俺がいるんだと思う。ボロボロの服を着た子供の頃の俺が……メスなんてもう長いことやっていないのに、やりたくもないのに、後遺症なのか? それはしつこい幻覚で気が向いたときに現われやがるみたいだ……今の俺にとっていい迷惑に他ならなかった……
もう忘れたい子供時代なのに……
「待てよ。俺もカレー、一緒に食うぞ」
無視するのが一番だった。いっそのこと向き合おうかと考えてしまうが。向き合ってどうなる? 惨めな気分になるだけだ……俺はまだ少しだけ濡れているシャツを着ると食堂へと歩いた。子供の頃の俺はじっと俺の背中を見ている気がした……
俺たちはいつものように丸テーブルに三人仲良く座る。トレーに乗ったカレーライスにコールスロー。それに桃のパックジュースまである。
「それじゃあ、手を合わせましょう。いただきます」
食事の時はいつも雫が先にいただきますと言う。俺たちも続いて
「いただきます」
「いただきまーす!」
と言う。俺は、まさか自分がこんな言葉を使う日が来るとは思わなかったが、今では慣れた言葉だった。
「うめぇー」
ガツガツとカレーを食べる冷。本当に女らしさが微塵もないガキだ。呆れながら俺はカレーを口に運ぶ。ここのカレーは確かに美味しい。俺の母さんが作ってくれたレトルトのカレーとは大違いだ。まぁ、そんな母さんの手抜きカレーも懐かしくは思うが……
「歩生。その桃のジュースいらないんならくれよ」
口元をカレーで汚した冷が言う。雫はすかさずおしぼりで冷の口元を拭いた。実に手下らしい行動だ。
「やらないよ。ちゃんと最後に飲むから」
こういう甘いものは食後のデザートにしたい俺。
「くれよ。くれ、くれ、くれ」
物をねだる甘えた手招きを冷はした。
「そうか。どうしてもほしいなら、さっき俺に水かけたこと頭下げて謝れ」
このガキがちゃんと謝るんなら、しかも頭下げて謝るんなら桃のパックジュースの一つくらい喜んで差し出してやる。
「お前に下げる頭なんかねぇよ。ふざけてんのか?」
けろりとしながらこのクソガキは言いやがる。
「ガキー! てめぇー!」
怒りのあまり俺は椅子から立ち上がる。
「まぁ、まぁ、落ち着きなよ。今は楽しい食事中なんだから」
俺を制止する雫。彼女は優しい母のような穏やかな表情を浮かべている。
「はい、冷様。私のジュースでよければお飲みください」
自分の桃のジュースを差し出す雫。クソガキはありがとうも言わず欲にまみれた表情でパックジュースを受け取った。
「いいのかよ? そんなのこいつのためにならないぞ?」
俺が雫に訊くと彼女は
「今が楽しければ幸せでしょ? それに冷様の喜ぶお顔が今日も見れて私は手下としてとても充実しています」
桃のパックジュースを貪欲に飲む冷の姿を、彼女は微笑みながら嬉しそうに見ていた。
「このガキは神か何かか……?」
もしそうなら貪欲な神の姿を俺は見ていることになる。
「そうだぞ。今すぐ拝め」
パックジュースのストローから口を放す貪欲な神は無表情に言った。
「嫌だ。拝んだら負けになる気がする」
苦笑して俺は貪欲な神である冷を否定する。
「冷様。あなたが与えてくれる糧と日々には感謝しかありません」
両手を握って冷に祈りやがる雫に俺は呆気にとられた。糧とか言ったがこのクソガキが作ったカレーじゃない。
「うむ」
偉そうに返事するガキ。雫は幸せそうにカレーを食べ始めた。その光景を見ていた食堂にいる爺さん婆さん達は笑い始める。
「祈んなよ雫。このガキが調子乗るだけだけだろうが」
気が付けば俺も笑っていた。この二人と俺がどうしていつも一緒にいるのか今ならわかる気がする。それは楽しいからでもあり、死への恐怖が紛れるからだ……心から笑うということを自然とこの二人に教えられたから……
その日の夜。俺は自室であるE号室でテレビを見ていた。時刻は間もなく午後十時を回ろうとしていた。この時間はニュース番組ばかりで退屈すぎてもう寝ようと思ったのだが。
「板串場地区で起きた反社会勢力による内部抗争事件の速報です」
テレビの中の女性ニュースキャスターが顔色一つ変えずに伝えた事件。板串場地区の反社会的勢力……
「事件現場となった飲食店で反社会勢力のトップであった榊一、二十七歳が首から血を流して死んでいるのが見つかり、事件現場で暴行を受けたとされる接客業の女性宮沢ゆかさん二十歳が搬送された病院で脳挫傷による死亡が確認されました」
榊一という名前が出た時点で、それは俺が属していた半グレだった。その証拠にテレビ画面には榊の顔写真が映る。次には笑顔を見せる宮沢ゆかという女性の顔写真。この女性に俺は見覚えがあった。確か榊のお気に入りの風俗嬢だ。
「現場近くの路上で榊一氏の配下である竹岡亮さん二十二歳と伊藤実さん十九歳が鈍器のようなもので頭を殴られて死亡しているのが見つかり、重軽傷を負っている津川麻尋さん十七歳は病院に運ばれて意識不明の状態です。警察は目撃情報などから近くの空き民家に潜伏していた安藤優助容疑者を殺人の疑いで逮捕しました。警察の取り調べのさいに安藤容疑者は、「榊のことは前々から気に入らなかったから殺した。追いかけたきた三人も自分を殺しそうだったので、ああするしかなかった。全部自分が一人でやった」と供述しています」
安藤優助。パトカーの後部座席の真ん中に座ている彼の姿がカメラのフラッシュライトと共にテレビに映る。切り傷だらけの顔。紛れもなくそれはお優しい金髪のお方だった。堪らず俺はテレビの電源をオフにする。
「……死刑になるよ……あんた……」
一人はまだ生きているとしても、金髪のお方、安藤は三人殺している。二人殺せばこの国の裁判では死刑になる。学のない俺でもそれくらいは知っている。ベッドの上に横になり俺は白い天井を空しく見ていた。カーテンが閉められた窓の外からは、夏の終わりらしく微かな鈴虫の鳴き声が聞こえていた。
ドン! ドン!
ドアが叩かれる音に俺はベッドから飛び起きる。
「おい! 歩生!」
「こら駄目だよ。ドア蹴っちゃ!」
ドアの外にいるやつらがわかった。ベッドから起き上がると俺はドアを開ける。
「歩生! マシュマロ食おうぜ!」
冷は満面の笑みでマシュマロの入った袋を掲げて俺に見せていた。
「食べよう。食べよう」
冷の後ろに立つ雫も頷きながら言う。こいつは何だか嬉しそうにしている。
「もう寝るから、二人で食べろよ」
断る俺。安藤の事件のことを知って、今夜はとにかく静かに眠りたかった。
「何だよー! せっかく食堂から盗んだんだぜー!」
「そうだよ! 浜辺で焚き火して三人で食べようよ!」
「マシュマロって焼くと膨らんで旨いんだぜー!」
叫びやがる二人。「食べよう! 食べよう!」「行こう! 行こう!」などの声を上げて騒ぎ出すから、ほかの部屋にいる爺さん婆さんがドアから次々と顔を出し始める。
「あ、すいません……」
雫は騒音によって迷惑をかけた爺さん婆さんに申し訳なさそうに頭を下げて謝罪した。
「歩生。お前のせいだぞ」
癇に障ったが、夜も遅いからこれ以上騒がれたくもない。ただでさえここの爺さん婆さん達からは白い目で見られている。俺は騒ぎを起こした元麻薬中毒者だから……
「行くよ……」
俺はとぼとぼと部屋を出た。
「知ってた? 夏の終わりの夜の海が凄く綺麗なこと?」
廊下を歩きながら問いかける雫に俺は暗い表情を隠すかのように頷いて見せた。
「綺麗だよね。すごく……」
隠した俺の暗い表情を察したかのように雫は笑ったが、その笑みはどこかぎこちなかった。
夏の終わりの夜の浜辺は静かな波の音に涼しい海風が吹いていた。俺たちは焚き火をするために三人で浜辺に打ち上げられた乾いた木を集める。月明かりのおかげで木を見つけるのは比較的に容易だった。
「雫、歩生、こっちだぞ!」
冷が俺たちを呼ぶ。手下の俺たちは砂浜に乾いた木を置いた。
「ライター盗んできたんだぜ。愛ちゃんストレス爆発してとうとう煙草吸い出したよ!」
月明かりの下でニンマリ笑いを浮かべる冷。愛ちゃんとはホスピスの看護師で、俺にはいつも庭で洗濯物を干しているイメージがある。
「冷がババァとか言うからでしょ? もう、愛ちゃん結構傷ついてるんだからね! いけませんよ!」
叱る雫だったが、このガキがこの程度で懲りるなど夢物語に近いものだと俺は思う。
「知るかよ。燃やす木も集まったし、火点けるよー」
冷は木をライターで炙った。海水で乾燥してた木だからよく燃えた。砂浜が辺り一面が真っ赤な色に染まる……俺たち三人は焚き火を囲んで砂浜に座った。
「マシュマロ! マシュマロ!」
マシュマロを枝に突き刺して焚き火ので炙る冷。マシュマロにいい感じに焦げ色がついてうまそうに思えた。
「二人の分も焼いてやるからな! 待ってろよ!」
「さすが俺たちのボスですね!」
焼いたマシュマロとやらがどんなものか知りたいから、俺はガキをおだてた。とにかく調子に乗らせてやる。
「当たり前だろ。手下は大事にすると決めてるんだ!」
予想通り冷は調子に乗ってくれた。
「……なぁ、月島よぉ……」
俺の隣に見覚えのある人が座ってきた……横顔でもそれが誰だかわかる……榊一だ。
「……死にかけ同士仲良くしてお前楽しそうだな……ヤク中だった頃とは大違いで、俺や安藤やその仲間たちには見せたことない笑った顔しやがる……」
俺のすぐ隣で榊は不敵に笑った。
「仲間とかじゃねぇよ……とくにお前はな……人の痛み何てわからない最低野郎だろ……?」
「……おお、言うねぇー……ここで手を出したいところなんだが……俺、死んじまってるから、首刺されて殺されてるから無理なんだわ……」
榊の首からはおびただしい血が流れていた……死んでるくせにゴフッ、ゴフッと咳しやがる……しかも吐血していた……焚き火の光が照らす白い砂浜に榊の血が飛び散る……
「……それより安藤、金髪のゾンビ顔野郎は可哀そうだよなー……俺も含めて三人殺したから死刑だぞ……死刑……拘置所で首吊りになって……後は俺みたいになるんだよ……俺のいる場所は冷たいぞ……心がどこにあるかもうわからないんだ……死んだのに、もう何も感じないはずなのにも関わらず苦しいんだ……俺は悪いことばかりしていたからなー……当然の報いだ……月島ぁ……お前も悪いことばかりしてきたから……死んだらきっと俺みたいになるぜ……きっと……だからなぁ、死んだらそれで終わりって考え捨てろ……」
吐き捨てるように言うと、榊はまた吐血しながら不気味に笑った……
「歩生君?」
焚き火の向こうで雫が不思議そうに小首を傾げてた。
「え?」
我に返るとはこのことなのか? 辺りを見渡しても榊一の姿はない……
「なに? マシュマロそんなに美味しかった?」
可笑しそうに笑う雫が訊く。手には枝がある。きっとマシュマロが刺さっていた……食べた記憶はない……
「え? ああ……うん……」
味何て覚えていないから、曖昧な返事をするしかない俺。ガキの頃の俺といい、榊まで現われやがった……妙な幻覚、これはきっと薬物を絶ったことによる後遺症なんだと自分に言い聞かせた……
「冷様は寝ちゃったね」
「え?」
砂浜であぐらをかいて座る俺の膝に軽い重みがあった。冷が俺の膝を枕代わりにしてスヤスヤと眠っている。
「ガキ……」
起こそうとも思ったが、無垢な寝顔だから気が咎めてしまう。
「普通の女の子でいてほしいよね」
焚き火が照らす砂浜で唐突に雫が口を開いた。
「病気なんか治って、髪色落として、ピアスなんか外して、セーラー服を着て、学校に通って、友達がたくさんできて幸せになってほしい」
語ったのは雫からした冷の理想像なんだと俺は思う。甘い夢のような理想像。冷の病気が治るなんて奇跡でも起こらない限り無理だ。だからホスピスにいるんだ。
「このガキから生意気取ったら、何も楽しくない少女の出来上がりだよ」
スヤスヤ眠る冷の頭を撫でながら言う俺。
「冷はこのままでいい、生意気できっといいんだよ……」
そうじゃなきゃ、俺は死への絶望で壊れてしまいそうだったから……冷と張り合えるから紛れるんだ……それに雫もいるから……初めての恋だから……報われない恋だから……
「な、なぁ、雫は好きな人とかいるの?」
報われないとわかっていても訊いてしまう俺。雫は「え?」と少し驚いた表情を見せた。唐突にこんな質問したんだから当然の反応だ。馬鹿な俺。もし、いるという言葉が返ってきたら俺はどんな顔したらいいんだよ……
「いるよ。高校で同じクラスだった同級生で、名前は修一君。私はいつも修ちゃんって呼んでた」
「へぇー、まぁ、意外かな……」
傷ついたのをごまかすように、焚き火に薪をくべる俺は平静を装う。意外でも何でもない。雫ほど綺麗ならいないほうがおかしいんだ。平静を装うってはいるが、きっと今の俺は悲し気な表情をしていると思う……
「病気、その修一ってやつにうつされたのか?」
動揺したのか? 馬鹿な俺は訊いてしまっていた。しまったと思えばもう遅い。
「そんな違うよ。私が小学生の頃に交通事故に遭って、出血が多かったから輸血することになったの……その血液にHIVが入ってて……十年してからだよ、感染してるってわかったのは……ずっと体調崩してて、病院にいったら……陽性で、エイズ……発症しかけてるって診断された……」
俺みたいな元薬中のクズが感染するのは当然だと思いたい。けど、雫のようないい子が不幸にも感染するのなんて間違っている……
もし神様がいるのなら、それはきっと残酷な存在だ……
「雫……お前、その彼氏と……」
これ以上馬鹿なことを訊くなと自分を言い聞かせたいのに……どうしてか口が開く……きっと知りたいからなんだと思う……
「大丈夫だよ……修ちゃんはいつも避妊していたし……多分だけど……大丈夫だよ……」
つまりゴムはしていたわけだ……けど、その修一ってやつがいつも雫を抱いたんだと思うと、俺は純粋に嫉妬した感情になっていた……
「歩生君はどうして? どうして感染したの?」
「知りたい?」
訊いてくる雫に俺は弱々しく笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。嫌ならもう答えなくていいよ……なに訊いてんだろ、私……」
雫は焚き火だけを見つめていた。気まずい沈黙なんか嫌いだ。だから俺は勝手に喋ることにする。
「俺は知っての通り前は薬物依存でどこの誰かが使てたかわからない注射器を使いまわしてた。これが原因かもしれないし、もう一つ心当たりがあって、十五くらいの頃に顔色の悪い外国人の女に誘惑されて……SEXして……もしかしたらそれが原因なのかもしれないし……」
哀れむような視線で俺を見る雫。その視線から逃げるように俺は暗い海を見つめた。
「皆口に言われたよ。エイズの発症が速いって……薬物のせいで免疫がやられたんだって……だから免疫細胞ってやつが著しく少ないって……」
こんな話をすれば、体重が三キロ増えたことなんて何の意味もないことだとわかる。再び嫌いな気まずい沈黙が始まった。パチパチと音を立てる焚き火を俺は見つめるしかない。
「歩生君はどうして……歪んでいたの?」
俺はハッとしながら雫を見た。焚き火に照らされた綺麗な雫の顔。その口元は微かに微笑んでいる。
俺が……自分が歪んだ理由……
「歩生。知ってもらおうよ」
すぐ後ろでガキの頃の俺の声がした。
「ああ……そうだな……」
呆然と焚き火を見つめながら、俺は語り始める。惨めな子供時代を……
俺が小学生に上がった頃。自分が貧困の家庭にいるんだとわかった。狭いアパートで母と俺、そしてクソな義理の父親と三人で暮らしていた。この義理の父親は本当にクソで、ろくに働きもせずに朝から酒に酔っては俺と母さんをよく殴った。
「約束したじゃない! 私と歩生を幸せにするって約束したじゃない!」
このクソに殴られては母さんは俺をかばいながら殴られて、涙ながらによくこんなことを叫んでいた。
「血のつながらないガキなんて知るか。お前は黙ってソープで股開いとけ。なぁ?」
クソは、義理の父親は不敵に笑った。目を見開いた悪魔のような笑い声に俺はいつも恐怖するしかなかった。母さんは風俗で働いていて、客だったこいつに騙されて一緒になってしまった。母さんが体を売って稼いだ金の大半はこのクソに奪われていた。最悪な家庭と日々。これと同じくらいに最悪だったのが学校だった。
「いってらっしゃい。歩生。車には気を付けるのよ」
母さんはアパートの外まで出ては、俺の通学を見送った。殴られて痣が残る顔で母さんは笑顔で僕に手を振っていた。いってきますという言葉を言うのが当然だけど、僕は一度も母さんに言ったことがない……
通学路を歩く僕。周りには綺麗な制服を着た同級生や上級生がランドセルを背負い「おはよう」と朝の挨拶をしていた。彼ら彼女らとは正反対で、汚い普段着で何本かの鉛筆とノートが入ったスーパーの袋を持って登校する僕をみんなは蔑むか、見て見ぬふりをした。僕の母さんに学校の制服や教材。ましてやランドセルなんて買うお金はない。母さんが稼いだお金は、ほぼあいつが、義理の父親が持っていくから……
学校の自分の席に座ると、僕は俯くしかやることがない。周りではふざけあったり、楽しく談笑しあう声がするが、僕には住んでる世界が違った……きっと誰も僕の名前を知らない……その証拠に担任の先生は出席を取るとき、いつも僕の名前を飛ばしていた……授業も教科書がないからただ鉛筆を持って白紙のノートを見つめるだけ……体育の時間も体操着がないから、みんなが楽しそうにドッジボールをしているのを黙って見ていた。心が少しだけ安らぐのは給食の時間だけ。学校生活は誰とも会話をせずにいつも終わっていた。
狭いアパートに帰ると母さんはいつも訊く。
「歩生。今日学校はどうだった? 友達とは仲良く遊べた?」
「……」
僕は黙っていることしかできなかった……母さんは心配そうに僕を見るしかできなかったんだと思う。そして夜になればあいつが酒を飲んで暴れて僕と母さんを殴った。僕の体にも次第に母さんと同じような痣が目立つようになる。
金曜日。僕にとっては最悪な曜日だ。この日のお昼はお弁当の日と呼ばれ、給食は出ない。同級生たちは机を囲み、色とりどりのお弁当を自慢しながら食べ始める。僕は席に座り俯いているしかない。とにかくお腹が空く。
「おい、これ食べたいか?」
小太りの同級生がサンドイッチを嫌味な笑みを浮かべて差し出してくる。お腹が空いていた僕は一度だけ頷くと、小太りの同級生はサンドイッチをわざとらしく床に落とした。
「お前、ビンボーだから床に落ちた食べ物食べられるだろ!?」
小太りの同級生は笑う。僕が床に落ちたサンドイッチを食べるのを心待ちにしているようだった。
「うちの父ちゃんが言ってたぜ。お前の母ちゃんはスケベって生き物でイジメたら喜ぶって! 息子のお前もそうだって父ちゃん言ってたぜ!」
僕はどう言われてもいい。でも、母さんの悪口は許せなかった……僕は椅子から立ち上がると、小太りの同級生を殴った。殴ったら彼は鼻血を出して後ろから床に倒れる。倒れた彼に馬乗りになって、僕は無我夢中で殴った……
後は僕にも……俺にも何があったか覚えていない……
夕方、母さんは学校の職員室に呼ばれた。ソファに座らされる僕と母さん。ガラス机を挟んだ向かい側のソファには教頭先生と一度も僕の名前を呼んだことのない担任の先生が険しい顔で座っていた。
「歩生が、うちの子が本当にすみません」
母さんは深々と教頭先生と担任の先生に頭を下げた。それを見た担任の先生は呆れた表情でため息をつく。
「すいませんじゃすまされませんよ。あなたの息子が殴って病院送りにしたのはね。我が校に多額の寄付をしてくれてる有力者さんの息子さんなんですよ? この意味がわかりますか?」
母さんは気まずそうに頷いたのを見て、次に教頭先生が口を開く。
「制服もないし教材もない、ランドセルも息子に買い与えてないって、あんたはどうして息子を学校に通わせてるの? 公立でもここは慈善団体じゃないんですよ?」
「すみません……」
母さんはまた頭を下げて謝る。
「私は……私は、小学校にも通ったことのない無学だから……だからこの子にだけはちゃんとした教育を受けさせたくて……」
母さんの弱者の訴えに、担任の先生は再びため息をつく。
「無学ねー……そりゃ育児放棄にもなるわなー……」
担任の先生は呆れたように笑う。見下したかのような蔑んだ目で僕と母さんを見ていた。
「とりあえずはね。制服と教材を買うまで、その息子は学校に来させないで」
同じく蔑んだ目で僕と母さんを見ていた教頭先生は面倒くさそうに言った。
狭いアパートへの帰り道。母さんは僕の手をつなぎながら歩いていた。
「教材や制服何て買うお金ないし、困ったねー」
手をつなぎながら母さんは僕を見て微笑んだ。あの男に殴られて痣のできた母さんの顔……僕は見たくなくてすぐに俯きながら歩く。
「それにしても育児放棄かー、まぁ、そう言われても仕方ないかな……」
母さんは僕とつないでいた手を放し、僕の目線までしゃがむと、愛おしそうに頭を撫でてくれた。痣のできた母さんの顔が嫌でも視界に入る。
「服……買ってあげられなくてごめんね……お弁当作ってあげられなくてごめんね……お腹空いてるでしょ? だから帰ったらカレーを食べさせてあげます!」
「本当?」
「うん!」
「わぁー!」
僕は口を開いた笑顔で母さんの顔を見ることができた。
狭いアパートに帰ると、あいつはいない。昼間はいつもどこかへ出かけていた。母さんは鍋に水をためて、そこにレトルトカレーを入れた。電子レンジでご飯のパックを温める。
「手抜きだね」
僕が言うと母さんは
「うふふ。そうだね」
どこか幸せそうに笑うから、僕もつられて笑ってしまう。母さんのカレーはレトルトでも美味しかった。カレーを食べる僕のことを見て、母さんは幸せそうに笑みを浮かべていた。
「母さんは食べないの?」
僕が訊くと母さんは
「いらない。美味しそうに食べる歩生のことを見てるだけで嬉しいの」
幸せそうな笑みを崩さずにそう言った。僕にはわかっていることだった。このレトルトのカレーは大切な日のためにとっておいたものだ。例えば僕の誕生日とか……今日は僕の誕生日じゃない……
「ねぇ、歩生。食べ終わったら海行こうか」
「え? 海?」
「母さん。海に行きたくてね」
この寂れた田舎町で、夏でも観光客なんて来ない海に母さんがどうして行きたいのか僕には不思議だった。僕がカレーを食べ終わると、母さんは僕と手をつなぎ二人で海へと出かけた。狭いアパートを少し行った先に防波堤があって石段の階段がある。その階段を下ると人気のない砂浜があって、目の前には寂しげな海がある。
「何にもないね」
そこにはただの寂し気な波景色しかない。ふと僕が母さんを見ると、脅えているのか? それとも笑っているのか? そのどちらともとれる表情をしていた。
「駄目……やっぱり駄目……できない……死にたくない……」
母さんがこの海で何をしようとしたのか、今の俺には理解できる。
「歩生! ごめんなさい! 母さんもう限界なの!」
僕を抱きしめてた母さんは、小刻みに震えていた。そして抱きしめ終わると、とぼとぼと一人砂浜を歩いていく。
「母さん。どこいくの?」
僕が訊いてついて行こうとすると
「ついてこないで! そこにいてじっとしてるの!」
僕に背を向けたまま母さんは怒鳴った。
「……歩生……迎えに来るから……」
母さんは落ち着きを取り戻したかのようにまた砂浜をとぼとぼと歩いていく……微かだが僕の耳には聞こえた。母さんが鼻歌を歌っていることに……
夜になってからだ。砂浜で一人座る子供の頃の俺が警察に保護されたのは……ようやく俺が母さんに捨てられたとわかったのは児童養護施設に入れられた最初の日だった……どういうわけか? 養育権なしと判断された義理の父親がよく施設に面会にやってきた。仕事が決まったとか、酒をやめたとか色々俺に話してきたが、俺があいつと口を利くことはなかった。
中学に入った頃に俺は覚えた。欲しいものがあったら奪う。気に入らない奴は屈服するまで殴ればいいと……
施設にも帰らずに夜の町を徘徊し、喧嘩に明け暮れて調子に乗っていたところを、まだ小規模だった半グレのリーダーである榊一に拾われた。おもにやらされていたのは薬物の売買。それをやっただけで榊は住む場所もくれたし、金も払ってくれた。間違いだらけの日々を送っていることは自分でもわかっているのに、俺には何の疑問もなかった……
焚き火の火は弱くなり、今にも消えそうになっていたが、若干は明るい月明かりのおかげで雫の顔はちゃんと見えている。冷は起きる気配などなく俺の膝の上で気持ちよさそうに寝息をたてている。
「歩生君は……今も過去もずっと悲しいんだね……」
消えそうな焚き火と薄暗い月明かりの中で雫は言った。
「悲しいって、俺には過ぎたこと……」
雫がどうして俺を……僕を悲しいというのかがわかった……目には大粒の涙が溢れていたから……
「何だよこれ……? どうしたんだよ、俺……」
悲しさがあふれ出ていた……自分の心が苦しい悲しいとずっと叫んでいたんだ……叫んでいたのに……俺は知らないふりして生きていたんだ……
「歩生君はお母さんのこと好きだった?」
涙を拭っていると雫がすぐそばにいてくれた。
「大好きだった……大好きで信じていたのに……俺は捨てられた……」
「悲しかったね……だけどもう大丈夫だよ……私たちがいるから……」
雫は目に涙をためながら言ってくれた。
「そうだぞ、歩生……泣くなよ……手下クビにするぞ……」
いつの間にか目を覚ましていた冷は、俺の膝の上で薄目を開けながら言う。
「クビは嫌だな……」
涙を拭い若干笑いながら俺は言う。
「それはどうしてだ……?」
寝ぼけ眼な冷は訊く。
「どうしてかな?」
目に涙をためながらも雫は笑って訊く。
「お前らと飽きるまで一緒にいたいから」
これがあと何年生きるかわからない僕の本当の気持ち……
「歩生、やっと誰かに知ってもらえたね」
薄暗い砂浜に子供の頃の俺が安心しきった笑みを浮かべながら立っている。俺が笑みを返すと、子供の頃の俺は砂浜の闇に消えていく……お前がどうして幻覚のように見えていたのかがわかった……
そうだ……俺は誰かに知ってほしかたんだ……子供の頃に俺が感じたことを……惨めさと悲しみを誰かに知ってほしかったんだ……
消えそうな焚き火……薄暗い砂浜……静かな波の音がする中で、雫は俺を優しく抱きしめてくれた……まるで母さんのように……
「……私たちは一人じゃない……」
最悪な病を患っているのに、一人じゃない自分が世界で一番の幸せ者に思えた……雫や冷もきっとそうだろ……?
朝、E号室の洗面台で俺は顔を洗っていた。ふと鏡を見ると顔立ちがどこか穏やかになった気がした。幽霊みたいな顔はどこへやら、前はもっと殺伐とした顔をしていたはずだ。
トントンっと誰かが部屋のドアをノックする。
「今、行くよ」
俺は洗面台を後にして部屋のドアを開けるとそこには雫が立っていた。
「おはよう」
と雫が言うと俺も「おはよう」と朝の挨拶を返す。
「少し話しがあるんだけど、中に入ってもいいかな?」
「え? ああ、いいよ」
「お邪魔します」
「まぁ、座れよ」
「ありがとう」
部屋にある一人用のソファーに腰かける雫。
「話って?」
雫は口ごもって俯くが、すぐに俺の目を見た。
「あのね、旅行してみない?」
「え? 旅行?」
俺は思わず笑いながら訊き返していた。
「みんなで思い出の場所を旅行しよう」
雫が言うみんなとはつまり冷も入っているんだろう。
「いや、思い出の場所って……」
苦笑する俺。昨夜、砂浜で話した通り俺の思い出なんて最悪だ。
「もしかしたら、歩生君のお母さん、その場所に帰っていて歩生君のこと待っているかも」
一人用のソファーから立ち上がり、興奮した表情を見せる雫。思い出の場所旅行とやらをとにかくしたいらしい。母さんがあの寂れた町に、狭いアパート帰っている? ありえないと思いつつ、心のどこかで希望とやらを膨らませてしまう。もしかしたら会えるかもしれないという希望を。
「旅費とかどうすんだ? 俺たち金ないぞ」
俺が言うと、雫は申し訳なさそうな笑みを浮かべて言った。
「そのことなんだけど……皆口先生に頼もうかなって……」
雫の計画には随分な図々しさを感じてしまう。第一、皆口がそこまで金を持っているとは思えない。前に小遣い制とか言っていたのを思い出す。
「駄目かな……やっぱり……」
俯く雫は残念そうに笑った。ほっとけなかった。
「一緒に頼んでやるよ」
雫は太陽のような笑みを見せてくれた。どうして雫がこんな旅行をしたいのかは、俺には察しが付いていた。きっと修一とかいう恋人に会いたいんだ。焼けはするけど、それが雫の願いなら俺は叶えてやりたい。
ホスピスの診察室の前で騒いでいる冷がいた。
「皆口! どうしたんだよその顔! また嫁さんにでもやられたのか?」
けたたましい笑い声を上げる冷。その目の前には頬に手を当てている皆口がいる。
「そうだよ。引っかかれたんだよ」
「どうして引っかかれたの? 浮気でもした?」
「なわけないだろ。ちょっと酒飲んで帰ったらこうなったんだよ」
頬から手をどける皆口。痛々しい赤い引っかき傷を見て俺は思わず噴き出した。俺と雫に気が付くと皆口は面倒くさそうに俺たちを見た。
「どんな店で酒飲んで帰ったらそうなんだよ! 絶対女のいる店で飲んだってバレたんだろう!」
すかさず痛いところをついてやった俺が言うと、それはもちろん図星だったようで皆口は落ち込んだような表情を見せる。
「歩生君。悪いよ」
そう言いながら注意する雫は笑いをこらえていた。
「皆口、あのさー」
落ち込んだ皆口に向かって俺は本題に入った。思い出の場所旅行について。駄目で元々なことだ。きっと答えは決まってる。
「いいよ。へそくり出してやるから、行こう」
まさかの皆口の回答だった。
「とにかく今は妻から逃げたいからな……今日も家帰ったらまだ怒ってると思うし……」
窓の外を遠い目で見る皆口。
「薬局で薬貰って荷物まとめろお前ら。すぐに出るぞ」
俺と雫に冷の三人はすぐに薬局へと向かおうとしたが
「ああ、おい!」
そんな俺たちを皆口は呼び止める。
「誰か一人でも気分や体調が悪くなったらすぐに帰るからな! これだけは約束だぞ!」
「うん!」
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「わかってるって!」
俺たち三人は仲良く返事を返すのだった。
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