明日の家のホスピス~感染した僕達~

天倉永久

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第七話 近くの秋。思い出の場所旅行、歩んで生きること

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揺れる電車の車内で俺はどこかそわそわしながら窓の外を見ては通路を挟んだ隣の席でトランプに興じる雫と冷に愛ちゃんを見る。

「愛ちゃん、その顔はババ引いたの?」

「ババァがババ引いたよ! ババァだけに!」

大笑いする冷に無理矢理この旅行に連れてこられた愛ちゃんは何枚ものトランプを片手に持ちながら、顔を真っ赤にして悔しそうな涙目で冷を見ていた。

「まずババァって言うのいい加減やめなさいよね! それから雫ちゃんも笑わない!」

怒りを露にする愛ちゃんに雫は静かに「ごめんなさい」と謝罪するが冷は

「ババァ! ババァ! 怒るとますます年取るぞー! ほら年取るぞー!」

楽しそうにコールする。愛ちゃんは怒りに身を任せたまま雫が片手に持つトランプを一枚引くが、涙目が一層深くなった。その光景を見て俺は少しだけ笑みをこぼすが、そわそわが消えることはなかった。

「どうした? 何か不安か?」

向かいの席に座る皆口が訊いてくる。旅行ということもあって皆口はさすがに白衣は着ておらず、ポロシャツとジーンズといったラフな服装だった。

「不安ってわけじゃねぇよ。ただ帰るのは本当に久しぶりで……」

俺が故郷にいたのは小学生だったころまでで、それ以降は帰っていなかった。この旅行に参加した時に気づいた。生まれた場所をずっと避けていたことに……暴力、惨め、貧相な愛と裏切り……いい思い出なんてないに等しい……

「故郷に誰かいないの? 親しい人とか、友達とか?」

訊いてくる皆口に俺は

「いるかもしれないし……いないかもしれない……」

曖昧な返事を返した。故郷に友達と呼べる人間は一人もいないが、母さんがもしかしたらいるかもしれないという希望があった。俺が生まれ育ったあの狭いアパートで一人で暮らしていて俺を待っているかもしれない。それは何の確証もないが、どういうわけか俺は希望を持っていた。俺を、自分を捨てた母親なのに……

「皆口はいいの? ホスピスに医者不在で……それも愛ちゃんまで無理矢理つれてきてさぁ……」

とにかく話題を変えるために俺は皆口に訊いた。

「いいんだよ。ホスピスのことは知り合いの町医者に頼んであるし、それに愛ちゃん。何かあったとき、看護師はいたほうがいいだろ? 俺は嫁が激怒してるから家にも帰れないし……」

皆口は頬にある少しはマシになった赤い引っかき傷を擦りながら言う。

「こんな遠出してたらよけい怒るだろ? 奥さん知ってんのか?」

「それ言うなよ。憂鬱になるだろ」

困ったかのような憂鬱そのものな顔をする皆口に俺は小さく笑った。重かったそわそわが少しだけ軽くなった気がしたと同時に電車はトンネルの中へと入る。短いトンネルを抜けた先に俺にとって久しぶりに見る故郷の海があった。

「うお。海じゃん」

冷が俺と皆口のいる座席へとやってくると車窓から海を眺め始める。

「何だか寂しそうな海だな。砂浜も何だか汚いし」

冷が言うのも無理はなかった。観光客も来ない田舎の海沿いの町だから、砂浜の手入れなんてされてない。明日の家の私有地である綺麗な海と白い砂浜とは大違いな場所でしかない。

寂れた駅に停車する電車。旅行鞄を持った俺たちが下車すると、そこは人一人いない無人駅だった。俺が子供の頃は確か何人かの駅員はいたはずだ。

「静かな場所だね……ここ……」

雫が言う。秋になりかけた風が雫の黒い髪をなびかせる。その風が微かに潮の匂いを運んできていた。

「静かになりすぎなんだよ」

俺は重い足取りで駅のホームを歩いた。
無人駅から出て、すぐに向かったのは生まれ育った狭い木造のアパート。外見は一層古くなっていた。子供の頃住んでいた二階にある202号室を前にして、どこか震える手で俺は古びたインターホンを押した。雑な電子音が鳴る。ドアの向こうの部屋で、笑うあの頃の母さんに笑みを返した自分の記憶が蘇るのだが、誰かが出て来る気配はなかった。

「歩生君。どう? 誰かいた?」

下で待って訊いてくる雫に俺は空しく首を左右に振った。同じく下にいた皆口と冷に愛ちゃんは哀れみの表情で俺を見ていた。

「誰もいないならもうしょうがないよ。もう降りてきなさい」

愛ちゃんは優しく言うが、俺にはやりきれなさが残った。残ったから、このままこの寂れた海沿いの田舎町を去るのは嫌だった。

「ごめん。悪いけど、まだ一つだけ行きたい場所があるんだ」

俺が行きたい場所。ここからすぐ近くにある海。防波堤があって、欠けた石段を下りた先に、俺が母さんに捨てられた人気のない海があった。秋が近いといっても、季節にはまだ夏が残っているのに、近くで見る海の色はまるで真冬のような寂しげな色をしていた。

「寂しい場所だな……いるだけで孤独に殺されそう……」

冷が至極真っ当なことを言う。

「……ここで捨てられたんだ俺……大好きだった母さんに……」

手入れされてない砂浜で、俺は空しく笑い、真冬のような寂しげな海をただ見つめた……

「そっか……辛い思いしたんだ……」

冷が俯いて言うのがわかった。

「歩生? お前、もしかして歩生なのか?」

それは聞き覚えのある声。思い出したくもない聞き覚えのある声でしかなかった。目を見開いて声のするほうを見ると、中年太りの男が驚いた表情で俺を見ていた。老けてはいたが俺はこいつを知っている。酒に酔っては俺と母さんを散々殴っていた義理の父親だ。

「ああ、そうだよ」

溜息交じりに俺は答えた。まさか顔も見たくないこいつがまだこの町にいることくらい考えるべきだったと後悔した。

「心配していたんだぞ! 施設に面会に行ったら行方不明だって聞かされて……警察に行っても素行不良の少年にはよくあることだって……あの……そのな……相手にもされなくてな……」

そういえばこいつ、俺が帰らなくなった児童養護施設にちょくちょく面会に来ていたっけ。あのときは口も利きたくなかったが今は違う。

「何が心配だよ。俺や母さんの人生壊しといて……俺はいつもお前の存在に! お前の暴力に脅えていたんだぞ! 赤の他人のくせによ! 善人面してんじゃねぇぞ!」

波の音がする中で俺の怒声が響いた。すぐそばにいた冷は驚いたような悲しいような表情で俺を見ていた。

「行くぞ」

俺は冷の手を取り砂浜を後にしようとした。

「すまん。すまなかった……」

後ろでクソ野郎の謝罪の言葉が聞こえたが無視する。

「歩生。あの人、頭下げてるぞ」

冷はきっと後ろを振り向いたんだ。

「いいんだよ。ほっとけ」

俺が吐き捨てるように言うと、冷は俺から手を振りほどいた。

「よくないだろ! きっと悪い人じゃない! 不器用なだけなんだよ!」

冷が言うのは、はっきり言って綺麗事だ。

「悪い奴なんだよ! あいつは! お前はガキだから! 何にも知らないからそんなことが言えんだよ!」

また怒声を上げる俺に冷は屈しもせずにどこか意思の強そうな目で俺を見る。

「おい、まぁ、待てよ」

一部始終を見て聞いていたであろう皆口が寄ってくる。その後ろでは心配そうな面持ちで俺を見る雫と愛ちゃんがいる。

「あの人、お前の肉親か何かか?」

訊いてくる皆口に俺は全てを話した。まだ頭を上げない男が俺や母さんに何をしてきたのかを……酒にギャンブル、そして暴力……こいつさえいなければ……俺はこうはならなかった……

「気持ちはわかるよ」

「へぇー、どうしてわかんだよ?」

皆口の言葉に俺は薄ら笑いを浮かべて嫌味を込めて訊くしかない。

「俺もそうだったから。俺の場合は実の親父だったけど、毎日殴られた。医者のくせにアル中で、おふくろは気ばかり使って、最後には体壊して死んで、親父はそれ以来酒に歯止めが利かなくなってなぁ、医者もクビになって、とうとう頭がおかしくなって自分から命を絶ったよ……」

一部に過ぎないと思うが皆口は過去を語った。俺の薄ら笑いは消えた。

「最低な親父だったけど、今になってみて思うんだ。怖がらずに面と向かって話しすればよかったなって……酷なこと言って悪いけど……お前は長くないんだ……後悔してからじゃ遅いと思う……」

俺が後ろを向けばクソ野郎は頭を下げたままでそこを動こうとしなかった。

「駅で待ってるから、少しでいいから話しだけでもしてこい」

去っていく皆口。愛ちゃんもそれに続き、冷も去っていく。雫は去っていくとき俺に笑みを浮かべた。まるでがんばれとでも言うような笑みで……
手入れされてないこの砂浜に俺と義理の父親と二人だ。俺はまだ頭を下げている義理の父親に近づく。

「もういいから頭上げろよ」

「駄目だ……! 下げさせてくれ……! お前から母親を奪ったのは俺のせいだ……!」

この男が反省しているのはわかる……わかっているけど許せない……だけど……

「話ししようよ。それじゃ話せないだろ?」

俺が言うと義理の父はゆっくりと頭を上げる。こいつと目が合ったときにわかった。酷く寂しげな目をしていることに。

「歩生……」

話し辛そうにしているから俺から切り出すことにした。

「今はどうしてんの? 仕事とかは? ちゃんっとやってんの?」

俺が訊くと義理の父親はただ冬色の海を見た。

「ここからすぐ近くにある魚市場で働いている。ずっと安月給だけど、勤めてもう十年以上になるかな」

そう答えるこいつの口調は以前とは違う。暴力を振るっていたころはもっと荒々しかったが、今はどこか穏やかな口調だ。

「酒は? まだ毎日飲んでるの?」

「飲んでない。あいつに……お前の母親に捨てられてから一滴も飲んでない」

「そっか」と俺は一言返事するだけだった。

「さっきいた人達はお前の友達か?」

訊いてくる義理の父親に俺は

「俺がいるホスピスの人達だよ」

嘘をつく必要もないから正直に答えた。

「ホスピスって……お前……」

俺は……元半グレで元麻薬中毒者で、HIVに感染していてエイズを発症しかけていることをまた正直に答えた……自分の余命が少ないからホスピスにいることも正直に答えた……

「そんな……俺のせいだ……お前が生きられないのは俺のせいじゃないか……!」

海を見ていた義理の父親は俯いた。

「あんたのせいでもあるのかもしれないけど……俺のせいでもある……」

だってそれは本当のことだから……

「なぁ、あんた……どうして俺と母さんのこと殴ったりしたんだ……?」

知りたいこと、本当に心から教えてほしいことだから俺は訊いた。

「怖かったんだ。それに、どう愛せばいいかわからなかった……あの頃はお前が知っての通り俺は酒浸りで、馴染みの風俗にあいつが勤めていてな……すぐに仲良くなって一緒になろうってなった……そこまではよかったんだ……あいつに息子が、お前がいることは聞かされていたけど、俺は親もいない天涯孤独のクズだから……家族何てどういうものか知らなかったし……とにかく怖かった……それに愛しかたも知らないし……どうすればいいのかがかわからなかったから……」

それがこいつが暴力を振るっていた理由だった。怖かった。愛を知らない。それが理由……

「逃げて好きに生きればよかったんだ。母さんじゃなくて、あんたが消えればよかったんだ!」

目頭が熱くなる。怒りに満ちた目で俺はこいつを見るしかない。

「あいつに捨てられて気づかされたのかもしれない! 俺はまた一人になりたくないだけだったんじゃないかって……! だからせめてお前とだけでも一緒にいようと努力したけど駄目だった……」

こいつは行政から養育権なしと判断されたんだ。

「遅いだろそんなの……遅いだろそんなの! 今さら優しくなったってなぁ! そんなの遅すぎるだろうがっ!」

冬色の海を見つめる義理の父親。彼の悲しそうな横顔めがけて俺は怒声を上げるのだった。俺は手入れされてない砂浜をとぼとぼと去るしかなかった。

駅ではみんなが待っていた。とぼとぼと歩いてきた俺を見て皆口が駆け寄ってくる。ほかのみんなも心配そうな面持ちで俺を見ていた。

「済んだのか話し?」

訊いてくる皆口に俺は何度か頷いて見せる。とにかく言いたいことは言えたはずだ。

「あ! おっさん! 不器用なおっさん!」

冷が勢いよく両手を振った先。後ろを向けば息を切らせたあいつがいた。

「歩生……!」

近づいてくる義理の父親に皆口は一礼した。

「先ほどは挨拶もせずにすいません。私はホスピス医の皆口と申します」

義理の父親は息を切らせながらも頭を深く皆口に下げた。

「何しに来たんだよ」

愛想なく俺は訊く。

「いつか渡そうと思ってたんだ。これを」

差し出してきたのはボロい封筒だった。

「少ないけど、コツコツ貯めたんだ。そ、その、お前のために……」

封筒の中身はどうやら金らしい。それでこの男が、自分のしてきたことを許せとでもいうのだろうか。俺はただ黙って立ち尽くす。

「さぁ、ほら」

義理の父は俺の手を取ると、ボロい封筒を握らせた。その刹那気づいた。こいつの手がボロボロで傷だらけであることに。きっと仕事が辛いんだ。

「何のもてなしもできないと思うけど、またいつでも帰ってこい。今日は成長したお前の顔が見れて本当に嬉しかった」

俺は何も言わず。義理の父を背にして去っていく。皆口が「おい」と俺を呼び止めるが無視した。

「歩生! 病気になんか負けるな! 歩んで生きろ! 強い名前をしているんだから!」

足を止める俺。ホスピスにいる時点でもう負けていると声にしたかった。

「歩生君。何か言わないと駄目! 冷から聞いたけど、あの人はもう悪い人じゃない!」

一部始終を見ていた雫がきつい口調で言った。俺はやや後ろを振り向いて

「またな」

とだけ言った。義理の父がどんな顔をしたのかはわからなかった。

走る電車の車内。向かいの席には雫がいる。

「たく……なんであいつと出会うんだよ……」

流れる窓の景色を見ながら俺は悪態ぽくつぶやいた。

「そんな、歩生君のこと本当に心配してるんだよ」

雫が言うと俺は

「そうかよ」

と一言口にした。受け取らされたボロい封筒が手元にある。俺は溜息交じりに封筒の中身を見ると、千円札、五千円札、一万円札が無造作に入れられていた。全部合わせて十万円くらいだと思う。

「本当に不器用かよ……変わったなあいつ……」

あいつは確か安月給だと言っていた。この金を貯めるのにいったい何年かかったのかと考えてしまうと、到底使う気にはなれなかった……

「あ、今何だか優しい顔したね。歩生君はその表情が本当に似合うよ」

「うるせぇよ」

俺は照れくさく笑うとそっぽを向いた。向いた先が皆口と冷と愛ちゃんが座る座席だ。三人はニヤニヤしながら俺を見ていた。

「そんな顔できんならもっとそうしろよ」

「尖っていたころのお前はどこいったんだー」

「歩生君が、またなって言ったときあの人本当に嬉しそうな顔してたよ」

俺はこいつらを無視して、また流れる窓の景色を見た。
そっか……あいつ嬉しそうな顔したのか……
俺の育った海沿いの田舎町から数駅くらいに停車した電車から降りると、駅の外は若干都会な町で人通りがそこそこ多い。

「ひ、人が多いな……」

不安げな表情で冷は俺を見ている。

「何だよ。お前まさか緊張してるのか?」

「ち、違う。私は田舎の町しかしらないから……人が多いのには慣れなないというか……」

「正直に言えよ。緊張していますって」

「た、助けてくれ……」

涙目を見せる冷。こうしてみると可愛らしい奴だと思うが、俺はこいつの手下としては情けなく感じてしまう。

「大丈夫ですよ冷様。私たちがいるじゃありませんか」

雫は冷に右手を差し出した。冷は不安げな表情のまま雫の手を取る。

「人通り多いくらいで緊張すんなよ。ほら」

俺は冷に左手を差し出すと、冷は手を握ってくれる。その手は小刻みに震えていてよほど緊張しているのがわかった。冷の左手を取る雫と冷の右手を取る俺は歩き出す。

「お前ら、放したら許さないからな……!」

念を押す冷。雫は「そんなことしませんよ」と笑顔で言う。俺はこいつに妙な恨みを買いたくないから放さないことにした。実際放したらどういう反応をするのかが見てみたいものだが。

「冷、旅館まであと少しだから頑張るんだぞ」

前を歩く皆口が後ろを向きながら言う。

「うふふ。手下というよりかは、可愛い妹を守るお兄さんとお姉さんだね」

愛ちゃんは冷を見て笑う。俺が冷の顔を見ると、こいつの顔はみるみると赤くなっていく。

「こいつらは私の可愛い手下だ!」

俺と雫と皆口と愛ちゃんは笑い声を上げた。

旅館に到着した俺たちは愕然とした。狭く汚らしいビルに島津温泉旅館と書かれた電光板が不規則に点滅していた。

「皆口さぁー、もっといいとこなかったのかよ」

俺が訊くと皆口は呆然としながら島津温泉旅館を見つめていた。

「贅沢言うなよ。俺のへそくりじゃ、ここが限界だったんだ」

ここで一泊してから明日は違う町に行く。次は雫が生まれ育った町にへだ。

「温泉なんて私は初めてだぞ!」

「ですよね冷様。後でお背中お流しします」

緊張を忘れたであろう冷はようやく俺と雫の手を放すことができた。

「そういえば俺も旅館なんて初めてだな」

旅館の中に入り、薄暗いフロントで皆口はチェックインをすます。泊まるのは二階の客室で俺と皆口は一緒の部屋で、女三人は当然仲良く同じ客室に宿泊することになった。

「うわ、狭っ」

俺は堪らず声に出してしまう。畳五畳ほどの部屋に布団がしまわれているであろう襖があって、あとは小さなテレビが置いてあるだけ。トイレは共同らしく、二階の自販機横にトイレがございますと壁に張り紙がされていた。ホスピスの居心地のいいE号室が恋しくなる。

「温泉行こうぜー!」

「こら! 冷ちゃん! 走っちゃ駄目だって!」

「そうだよ。また気分悪くなるよ」

ドアの向こう。廊下ではしゃぐ冷の声がした。おそらく走っているのだろう。愛ちゃんと雫が注意する声が聞こえた。

「俺たちも行くか、温泉」

旅行鞄を畳に置く皆口が言う。

「だな」

俺も同じく旅行鞄を畳に置いた。
どうせ汚くて狭い旅館の温泉だと思ったが、実際はその逆で広々として清潔だった。足を伸ばして入ることのできるでかい湯舟。温泉なんて生まれて初めてな俺は天井を向き笑みを浮かべた。

「こりゃ、上がった後のビール最高だぞ」

浮かれる皆口。

「帰った後の奥さんの顔浮かばねぇのかよ」

俺がいたずらにからかうと、皆口の浮かれた表情は絶望に沈んだ。
風呂上り、浴衣を着て食事が用意されている広間に集まる俺たち。皆口は現実を忘れようとしているらしく、ビールをたらふく飲んでいた。そんな皆口の姿がおかしくて俺たちは心から笑うことができた。死なんて忘れることができた。きっと今笑っている雫や冷も同じ気持ちなはずだが、冷の笑みはどこかぎこちないものに感じた。

「歩生ー! いや、歩生君! お前も飲んじゃえよ!」

俺の肩に手を回しながら皆口は絡んでくる。

「俺は未成年だってんだ! 愛ちゃんに飲ませろよ!」

薬物は散々やってきたけど俺は酒を飲んだことがない。笑いながら皆口の手を振りほどくと、皆口は愛ちゃんにビールをつぎに行く。

「いやー、いつも安月給でごめんなさい!」

「今はいいですけど、来年こそは昇級お願いしますよ」

皆口はペコペコ頭を下げながらグラスを差し出す愛ちゃんにビールを注ぐ。

「冷様。ご機嫌直してくださいよ」

「だって私だけ浴衣着てないんだぞ……」

しょんぼりしている冷はいつもの服装である黄色いシャツと黒い短パン姿だ。なるほど、ぎこちない笑みを浮かべていた理由は浴衣を着れなかったからだ。

「浴衣がぶかぶかだったから仕方ないじゃないですか。そのほうがいつもの冷様らしくて可愛いですよ。さぁ、冷えたオレンジジュースを飲みましょう」

ご機嫌を取るように雫は冷のグラスにオレンジジュースを注いだ。しょんぼりしたこいつの姿は俺にとっては新鮮だ。そういえば俺はこいつに色んな嫌がらせを受けている。

「あららー、おチビさまは浴衣着れなくて残念ですねー、僕はこんなのに手下にされてるんですかー」

舐めた口調で俺は言ってやった。冷、おチビさまはよほどショックなのか口元をヒクつかせた。

「冷様、ほっときましょうよ」

冷をなだめる雫は微かな声で俺に「バカ」とだけ言った。少し応えたが、冷の悔しがる姿を見て食事を食べることにする。魚の刺身に醤油をつけて食べたとき、俺は自分の異変に気付いた。

「え……?」

無我夢中というか、どこか焦りながらで刺身に醬油をつけて最後の一切れまで口に運ぶが、味が全くしなかった……

「歩生君。どうしたの? そんなにお腹空いてた? よければ私のも食べる?」

少し酒に酔った愛ちゃんが刺身の乗った皿を差し出す。

「そうなんだよ。今日は会いたくもないやつと会って色々あったから、なんだか腹減っちゃって」

愛ちゃんから刺身の乗った皿を受け取り、また醬油をつけて食べるが相変わらず味がしなかった。嬉しそうに食べてるように装う俺。ここで俺に何かあればこの旅行は潰れてここで終わりだ。皆口は明日の朝にでも早々に俺たちと一緒にホスピスに帰ると思うから、俺は平静でいるしかなかった。雫のがっかりする顔を見たくない……


「たく! 少しくらい自分で歩けよ! 病人に担がせんな!」

酔っぱらった皆口に肩を貸し部屋まで戻ると、このホテルの従業員が敷いたであろう布団の上に寝かせる。

「歩生……薬はちゃんと飲んで寝ろよ……」

そう言い残すと皆口は寝息を立てて気絶するように眠った。

「わかってるよ」

自分の旅行鞄から薬袋を取り出し、抗ウイルス薬と吐き気止めと下痢止めをミネラルウォーターで俺は流し込んだ。

「寝るか……」

味覚がないことはきっと疲れているだけだろうと自分に言い聞かせ、俺は部屋の電気を消して布団の上に横になった……瞳を閉じた暗闇の中……その暗闇はいつだって俺を不安にさせた……死んでしまえばこの暗闇をいつまでも見ることになるから……

ふと瞳を開ければ、そこは暗闇で俺は朦朧としながら歩いていた。歩いていた自分は暗い階段を下っていたことに気づくが歩みを止めることはできなかった。行きつく先がどこだか知っているから……そこは俺が落ちて当然な場所でそこが居場所だと気づくから……
暗い階段を降りた先は暗く深い水の中……そこで俺は溺れる……いつまでも……そして、いつまでも……息ができなくなって、苦しくなっても、俺はもがくことはなかった……薬物や殺人未遂……相沢千秋に病気をうつしたこと……悪いことばかりしてきた俺には当然の報いだ……そう、ずっといつまでも続く当然の報い……この光のない黒い水の中でずっと……

悪寒と息苦しさの中で俺は目を覚ました。身を起こした布団は俺がかいた寝汗でぐっしょりと濡れている。症状は吐き気と頭痛と倦怠感、そして発熱もしていた……すぐ隣でいびきを立てて寝ている医者である皆口を起こせばよかったのにしなかった……俺のせいでこの旅行をぶち壊すわけにはいかないから……
俺はフラフラと立ち上がり部屋を出て、朦朧とする意識の中でトイレへと歩いた……トイレは確か自販機の横だったはずだ……
たどり着いたトイレ。俺は洋式のトイレに顔をうずめて、胃の中にあったものを吐き出した……吐き気止めはちゃんと飲んだはずなのに、気持ち悪さが治まる気配がない……濁った透明な水をただ吐き続けた……

『……月島ぁー……どうやらもうすぐだなー……だからそんなあがくなよ……』

榊一が便器に顔をうずめる俺をあざ笑っている気がする……

「死なない……死なない……死なないよ……」

口に着いたゲロを拭い、吐き終わり立ち上がった時、俺の意識は闇に落ちた……趣味の悪い榊の笑い声が聞こえた気がする……
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