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第1章 法廷のシーメール

02: 鑑定医の仕事

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 BOWWOW!! BOWWOW!!

 ・・・失礼した。
 取り調べ室で飼っている「犬」が、そそうをしたようだ。
 ああやって人を呼び、自分のそそうの後始末をさせようとする。
 まあ「犬」には手がなく、使えるのは前脚と鼻と口だけしかないのだから、仕方がないだろう。
 それにこの「犬」は、一応「容疑者」なのでね。
 多重人格についてはご存じの方も多いだろうが、この容疑者のように「犬」が混じっているケースは珍しい筈だ。
  これは後日、指尻ゑ梨花女史に教えて貰ったのだが、「人外人格」と呼ばれるものらしい。
 門外漢の私から言わせると、「犬」には「犬格」はあっても「人格」はないのだから、この言い方は正確ではないと思う。
 精密には「犬になりたがっていた男の病が高じて、ついに本物の犬になってしまった」その人格的存在と言ったところか。
 ゑ梨花女史は、そうではないと言っていたが、この部分だけは譲る気はない。
 私が刑事だからだ。
 この容疑者には、三つの人格があって、第一人格は極めて普通の男性のものだ。
 いや、大病院の理事長の息子で、腕は三流の医者を、普通と呼べばだがの話だが。
 二人目は、「屠殺者」と名乗る男。
 問題の三人目が「犬」。
 この犬について他の二人は、「今はグレート・デーンの姿をしている」と証言している。

 取り調べが始まった当初、三人はそれぞれが、自分の妻を殺したのは誰かと、お互い同士を疑っていたようだが、つい最近、彼らの中ではこのグレート・デンが「犯人」だと話がまとまったらしい。

 『この俺が、あの男の為にグレート・デーンの皮を剥ぎ与えてやったのに、俺に罪を着せるとは、なんて恩知らずな奴だ。』と屠殺者は言っていた。
 『フン、なにせ、あの男の生業は屠殺だからね、私の妻をあんな風に殺害するのはわけないさ。殺ったのはアイツに決まってる。』と、医療ミスを連発するヘボ医者は、口の端に泡を溜めて我々に訴えていたのだ。
 その二人が途中で意を翻した。
 そして問題のグレート・デーンが、俺は無実だと『BOWWOW!! BOWWOW!! WOW!!WOW!!』と吠えている。
 ・・・・まあ、そのような感じだ。
 しかし取調中でも、人権には配慮をしないといけない。
 たとえ相手が「犬」でもね。
 だから、我々6係に、取り調べの可視化等という、ふざけた事は言わないでくれたまえよ。
 話を続けよう。
 犬?心配しないで頂きたい、部下の者に始末をさせるからね。
 もちろん、しつけも、しっかりしなおすつもりだ。


 犯罪が起こった場合、犯人を特定して行く材料として、現場の遺留品や目撃者の証言など、いろいろな「証拠」がある。 
 しかし、これといった遺留品もなければ、目撃者もいない、ただ死体だけが見つかるというケースになると捜査は、極めて難航する。
  こういった場合、裏方で大いに活躍してくれる人々の中に、「鑑定医」という人間が存在する。 
  刑事事件に限らず、民事事件の領域でも、「親子関係不存在」や「認知」の訴えのように、誰が相続人であるのかが争われるような場合にも、やはりこの鑑定医が活躍する。 
 更に付け加えて言うなら、鑑定医は医師であることは言うまでもないが、それぞれの専門分野を更に「法医学」として身につけている人々をさす。 
 法医学とは、応用医学の一部門である社会医学に属する医学である。
 法律上で問題となる医学的事項についてを研究することによって、適切な法律の運用に助力する医学ともいわれている。
 勿論、医学であるから、「心の病」に関する鑑定医も存在する。 
 私と指尻ゑ梨花女史が出会うきっかけとなった蛸蜘蛛屋敷事件に対する裁判では、精神鑑定医である指尻ゑ梨花の証言が、その裁判の結果を左右する程の大きなウェイトを占めていた。 

 しかし私は6係を預かる警部として、この司法精神鑑定医の証言については、次のような学者の内部意見がある事を、しっかり心に留めておきたいと思っている。 
「精神鑑定を厳密に言えば、容疑者が犯行時に精神病であったか否かを診断し、更に裁判官や検察官に心神喪失者か心神耗弱者か否かの判断の資料を提供するものである。決して『動機や動機形成の過程』を解明したり、『心理状態などを調べる』ものではない。つまり『なぜこんな凶悪な事件が起こったのか』等という、低俗な物語作りに加わってはならないのである。精神鑑定は、あくまでも専門の精神科医によって、被告が犯行時に精神病であったか否かを判断するものでなければならない。それ以上でも、それ以下でもあってはならないのだ。」 

 だが実際には、昨今、多発する想像を絶した犯罪にうろたえ、早急に「説明」を求めようと、社会は右往左往する。
 例えば最近、6係が扱った事案では、ハイヒールフェチ・ブーツフェチが昂じた挙句の果に、女性を殺害、その死体の脚や足を切断し、それを利用した人皮のヒールやブーツを数多く作った男がいるが、この残虐行為に、「説明」などが必要なのだろうか?
 私は必要だとは思わない。
 しかし必要がなくても、人々は「説明」を追い求める事だろう。
 そんな状況の中で、精神鑑定が逸脱した役割を社会から与えられる可能性は大いにあり得るのだ。
 第一、この正論を私に提示した某精神鑑定医自身が、ある事件の中で、彼自身の言う「低俗な物語作り」に加担してしまったのだから。
 もちろん、彼自身があの「世界一奇妙で美しいセルフボンデージ死体」を世間に晒したのだから、そこに「低俗な物語作り」が発生しても無理はないのだが。
 (彼自身が当事者として関与したこの「事件」については、またいずれ報告する機会があるだろうから、ここでは触れない。もちろんそれは、我々、特殊犯捜査第6係が関わる事の多い、一見猟奇的な事件だが、背後に大きな策謀が渦巻く事案だった。) 

 そういった意味で、蛸蜘蛛屋敷事件において鑑定医・指尻ゑ梨花が法廷で見せた態度は、実に正確で誠実なものだったと言える。
 その公明さが、私が指尻ゑ梨花女史を第6係の外部コンサルタントに補した大きな理由なのである。 
 もちろん、指尻ゑ梨花女史が、時折そっと呟く、「私は、時々、犯罪そのものを、犯してやりたくなるの。」の言葉に秘められた犯罪に対する苛烈さも重要ではあったが。

 だが私は、あの蛸蜘蛛屋敷事件に限っては、今もって思うのである。
 この優秀な精神鑑定医・指尻ゑ梨花が、この事件で診断すべき相手とは、被告人Mではなく、事件が起こった場所の責任者、つまり被告・被害者2名の雇い主である神室家当主・神室三平ではなかったかと。
 残念な事に、我々、特殊犯捜査第6係は、その本丸を落としきれなかったのではあるが。

 ここで鑑定医・指尻ゑ梨花女史が、裁判で関わる事になった「蛸蜘蛛屋敷事件」の裏話を少しばかりしておこう。
 被告人Mと被害者Aは、両名とも神室家の使用人として、街から流れ着き、雇い入れられた男達だが、それは表面上の話だ。
 驚くべき事に、AとMは、双子姉妹に生まれ変わらされるべく、神室家の客分でもあった医師・柊によって、非合法とも言える整形手術のメスをその身体に入れられていたのだ。 
 ・・雇用主の命令で、性転換手術とも取れるものを施術される。
 しかもその手術は、彼らの契約条項の中に、しっかり明記されており、彼らはそれを承認していた。
 もちろんこの手術の表面上の名目は、「性転換手術」ではなかったが。
 常識的に考えて、雇い入れ条件の中に「手術」を必要とする使用人や雇い主が、どこの世界に存在するだろうか。 
 しかし、この事件が起こった頃には、彼らはすでに外見上、ほとんど女性の姿を示していたのである。 
 人は、「平成の世の中で、まさか、こんな奴隷めいたことが?」と思うかも知れないが、田舎にいけば、四方の住人に対して未だに絶大な権力を持つ旧家が存在し、実際、この事件はそんな旧家(神室一族)当主の肥大し、ねじ曲がった欲望が産み出した結果なのだ。
 だがその結果が、法に照らし合わされた時、彼らの罪は浮かび上がってこず、ただ旧家に雇われていたMがAを刺し、Aの身体を放置し死に至らしめたという事実だけが、残ったのである。

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