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失恋ゾンビの俺
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冬晴れの朝は都心からも富士山がはっきり見える。
東京で働き三年が経ったが、ついこの前までそんなことは知らなかった。
奇跡が起きたのは、三ヶ月前のことだ。
小さな広告代理店の営業マンだった俺は、誰もが知っている外資系IT企業への転職を成功させた。
今では地上三十階にあるオフィスにデスクを構え、かつて頭を下げるために通った企業を見下ろしている。
「高原さん、ミーティング始めましょう」
上司の声に立ち上がる。
指定のミーティングルームは、コンパクトながら観葉植物や、遊び心のあるオブジェが飾られ、遊び心にあふれている。シミひとつないベージュのカーペットの上に用意されているのはオフィスチェアとデスクではなく、飴色のソファセットだった。
一人がけのソファに腰を下ろすと、柔らかな革の感触が全身を受け止めてくれる。ゆったりとした作りは恋人と二人でイチャつくのにちょうど良さそうだ。
柔らかな体を膝の上で横抱きにすれば、すぐにキスが始まり、洋服なんて邪魔になるだろう。汗ばむ肌が革にシミを作らないかと、心配しながらも快楽に夢中になる姿をじっくりと味わうのが良い。ぎりぎりまで焦らして、熟れた体が背もたれにつかまり、早くちょうだいと腰を突き出すのを——
「始めてもよろしいですか?」
感情のない声に不埒な妄想がかき消される。残念ながら、目の前に座るのは自分の上司で、恋人じゃない。
思わずため息がもれた。
これから四半期に一度の評価を告げる面談が始まるところだった。
転職後初の評価を聞くことに緊張はしていない。
自信があるから?
いいや。俺のやる気はどん底で、仕事に全く興味がないから。
上司の背後に広がる全面窓にはゾンビみたいな俺が映っていた。太い眉も、笑うと垂れる二重の目も健在なのに、ワイルドで気さくと評判の男はどこかに消えてしまった。
「高原直一さん」
「ふぁい」
腑抜けた返事を返せば、冷えた視線が俺を射る。
上司の加賀美慶吾は五つ年上の三十一歳で、氷の貴公子とあだ名される美貌の男だ。漆黒の髪を後ろに流し、高級なスーツを着てモデルのようにたたずむが、全く愛想がなく、上から目線の厳しいことしか言わない。男女問わず周囲の興味を集めるが、俺にはどうでも良かった。
切れ長の瞳より、幼さを感じるくらいのどんぐりまなこが良い。つんと尖った鼻も、薄い唇も薄情な印象で物足りない。評価を告げる声は平坦で、ちっとも興味を持てないまま、頭の中を通り過ぎていった。
唐突に、たーかちゃん♡と弾む声で甘えてくるタヌキ顔の恋人の姿が頭に浮かんだ。
いや、元・恋人か。
付き合って一年。男同士の俺たちは結婚できないが、添い遂げる覚悟はあった。だから同性パートナーも扶養対象になる外資系企業に転職を決めたのに、
——がんばれ♡って応援したい相手ができたの……
じゃねぇよ。
「はぁ……」
失恋の痛手は深刻だ。
二度目のため息がもれると、同じように加賀美も息をついた。
「一ヶ月目の契約件数はトップだったのに、先々月は前月比五十パーセント減で、先月はゼロですか。手抜きもここまでくると清々しい。高原さん。あなたはやればできるでしょう。このままお荷物でいるなら、クビになります。脅しではなく、去年の人員整理は世界的なニュースに……」
二言目には、エビデンスは? と詰めてくる上司らしく、データと前例を添えてチクチクと俺を非難してくる。
——やればできる。
そんなの言われなくても知ってる。
一歩踏み出せば、どこまでも走っていけるスタミナも能力もあるが、肝心なスタートが切れないのだ。
好きな男にがんばれ♡と応援されないことには始まらない。
それが俺の弱点だった。
「自分のことを感覚派だと思ってるかもしれませんが、違います。自分の強みを分析して動けば、もっと効率よく結果が出せるようになるでしょう。例えば……」
俺の営業スタイルを全否定する辛口コメントはまだまだ続く。
ツンケン美形にリードされる趣味はない。
俺が好きなのは、ゆる~いかわい子ちゃんを甘やかすことなんで。
もちろんそんなことは口にできないから、曖昧に頷いておいた。
「来期は期待しています。今夜はホリデーパーティがあるので、存分に楽しんで英気を養ってください」
「パーティ……!」
すっかり忘れていた出会いの予感に、突然力がみなぎってくる。目を輝かせる俺に、容赦ない氷の視線が突き刺さる。
「詳細はスケジュールに入っています。……プライベートに口出しする気はありませんが、私はセクハラ防止研修の手配などしたくありません」
「はい! 失礼しまっす」
セクハラが怖くて恋ができるかってんだ!
恋人ができたら週末は全力でラブラブしたい俺は、金曜午後のスケジュールを空けてある。これ幸いとヘアサロンに飛び込んだ。
「かっこ良くしてくださぁい!」
上機嫌にオーダーするとスタイリストもノリノリでカットしてくれた。
前髪長めのショートマッシュはシャワー後のギャップがやばいとのことで、普段は前髪をおろしておくことを勧められた。
「ここぞってところで思いっきりやっちゃってください! 落ちない子はいませんよ。ほら」
スタイリストの手が前髪をかきあげると、太めの上がり眉と少し垂れた二重の目が顔をだす。ワイルドな魅力が帰ってきた。ヘアカットによって色気が大幅増加した俺は、もうゾンビじゃない。
スタイリストに親指をグッとあげて店をあとにした。
そのままセレクトショップでワイシャツを買い、着替えた。品のあるプレーンな白シャツだが、一つずつボタンホールが違う色糸で縁取られている。ネクタイをしたら隠れてしまうが、遊び心があっていい。
キミの一番好きな色は何色? じゃあ、そこ外して。二番目は……あ、俺ばっかりごめんね。お礼に君のボタンも外してあげる。あれ、エッチな色したボタンがシャツの下に隠れてるじゃないか——
ベッドインのシミュレーションはバッチリだった。あとは相手を見つけるだけだ。
俺は一途な上に、失恋したら周りが見えなくなる。転職して三ヶ月が経つが、同僚の顔はみんなジャガイモでしかない。
今夜はその中からタヌキ顔のかわい子ちゃんを見つけてみせる。
久々にやる気が燃えてくるのを感じていた。
東京で働き三年が経ったが、ついこの前までそんなことは知らなかった。
奇跡が起きたのは、三ヶ月前のことだ。
小さな広告代理店の営業マンだった俺は、誰もが知っている外資系IT企業への転職を成功させた。
今では地上三十階にあるオフィスにデスクを構え、かつて頭を下げるために通った企業を見下ろしている。
「高原さん、ミーティング始めましょう」
上司の声に立ち上がる。
指定のミーティングルームは、コンパクトながら観葉植物や、遊び心のあるオブジェが飾られ、遊び心にあふれている。シミひとつないベージュのカーペットの上に用意されているのはオフィスチェアとデスクではなく、飴色のソファセットだった。
一人がけのソファに腰を下ろすと、柔らかな革の感触が全身を受け止めてくれる。ゆったりとした作りは恋人と二人でイチャつくのにちょうど良さそうだ。
柔らかな体を膝の上で横抱きにすれば、すぐにキスが始まり、洋服なんて邪魔になるだろう。汗ばむ肌が革にシミを作らないかと、心配しながらも快楽に夢中になる姿をじっくりと味わうのが良い。ぎりぎりまで焦らして、熟れた体が背もたれにつかまり、早くちょうだいと腰を突き出すのを——
「始めてもよろしいですか?」
感情のない声に不埒な妄想がかき消される。残念ながら、目の前に座るのは自分の上司で、恋人じゃない。
思わずため息がもれた。
これから四半期に一度の評価を告げる面談が始まるところだった。
転職後初の評価を聞くことに緊張はしていない。
自信があるから?
いいや。俺のやる気はどん底で、仕事に全く興味がないから。
上司の背後に広がる全面窓にはゾンビみたいな俺が映っていた。太い眉も、笑うと垂れる二重の目も健在なのに、ワイルドで気さくと評判の男はどこかに消えてしまった。
「高原直一さん」
「ふぁい」
腑抜けた返事を返せば、冷えた視線が俺を射る。
上司の加賀美慶吾は五つ年上の三十一歳で、氷の貴公子とあだ名される美貌の男だ。漆黒の髪を後ろに流し、高級なスーツを着てモデルのようにたたずむが、全く愛想がなく、上から目線の厳しいことしか言わない。男女問わず周囲の興味を集めるが、俺にはどうでも良かった。
切れ長の瞳より、幼さを感じるくらいのどんぐりまなこが良い。つんと尖った鼻も、薄い唇も薄情な印象で物足りない。評価を告げる声は平坦で、ちっとも興味を持てないまま、頭の中を通り過ぎていった。
唐突に、たーかちゃん♡と弾む声で甘えてくるタヌキ顔の恋人の姿が頭に浮かんだ。
いや、元・恋人か。
付き合って一年。男同士の俺たちは結婚できないが、添い遂げる覚悟はあった。だから同性パートナーも扶養対象になる外資系企業に転職を決めたのに、
——がんばれ♡って応援したい相手ができたの……
じゃねぇよ。
「はぁ……」
失恋の痛手は深刻だ。
二度目のため息がもれると、同じように加賀美も息をついた。
「一ヶ月目の契約件数はトップだったのに、先々月は前月比五十パーセント減で、先月はゼロですか。手抜きもここまでくると清々しい。高原さん。あなたはやればできるでしょう。このままお荷物でいるなら、クビになります。脅しではなく、去年の人員整理は世界的なニュースに……」
二言目には、エビデンスは? と詰めてくる上司らしく、データと前例を添えてチクチクと俺を非難してくる。
——やればできる。
そんなの言われなくても知ってる。
一歩踏み出せば、どこまでも走っていけるスタミナも能力もあるが、肝心なスタートが切れないのだ。
好きな男にがんばれ♡と応援されないことには始まらない。
それが俺の弱点だった。
「自分のことを感覚派だと思ってるかもしれませんが、違います。自分の強みを分析して動けば、もっと効率よく結果が出せるようになるでしょう。例えば……」
俺の営業スタイルを全否定する辛口コメントはまだまだ続く。
ツンケン美形にリードされる趣味はない。
俺が好きなのは、ゆる~いかわい子ちゃんを甘やかすことなんで。
もちろんそんなことは口にできないから、曖昧に頷いておいた。
「来期は期待しています。今夜はホリデーパーティがあるので、存分に楽しんで英気を養ってください」
「パーティ……!」
すっかり忘れていた出会いの予感に、突然力がみなぎってくる。目を輝かせる俺に、容赦ない氷の視線が突き刺さる。
「詳細はスケジュールに入っています。……プライベートに口出しする気はありませんが、私はセクハラ防止研修の手配などしたくありません」
「はい! 失礼しまっす」
セクハラが怖くて恋ができるかってんだ!
恋人ができたら週末は全力でラブラブしたい俺は、金曜午後のスケジュールを空けてある。これ幸いとヘアサロンに飛び込んだ。
「かっこ良くしてくださぁい!」
上機嫌にオーダーするとスタイリストもノリノリでカットしてくれた。
前髪長めのショートマッシュはシャワー後のギャップがやばいとのことで、普段は前髪をおろしておくことを勧められた。
「ここぞってところで思いっきりやっちゃってください! 落ちない子はいませんよ。ほら」
スタイリストの手が前髪をかきあげると、太めの上がり眉と少し垂れた二重の目が顔をだす。ワイルドな魅力が帰ってきた。ヘアカットによって色気が大幅増加した俺は、もうゾンビじゃない。
スタイリストに親指をグッとあげて店をあとにした。
そのままセレクトショップでワイシャツを買い、着替えた。品のあるプレーンな白シャツだが、一つずつボタンホールが違う色糸で縁取られている。ネクタイをしたら隠れてしまうが、遊び心があっていい。
キミの一番好きな色は何色? じゃあ、そこ外して。二番目は……あ、俺ばっかりごめんね。お礼に君のボタンも外してあげる。あれ、エッチな色したボタンがシャツの下に隠れてるじゃないか——
ベッドインのシミュレーションはバッチリだった。あとは相手を見つけるだけだ。
俺は一途な上に、失恋したら周りが見えなくなる。転職して三ヶ月が経つが、同僚の顔はみんなジャガイモでしかない。
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