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第一章 『憧憬』
第七話 俺以外の前じゃ、着たら駄目だよ
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恐る恐る、お湯が溢れない様にと気を付けて入った湯船の中。自分の体積を受けてもお湯が溢れない事を確認してから、漸く肩までお湯に浸かって、ふぁ、と詰めていた息を吐く。そして、お湯を掬って顔を洗おうとした所で、自分の身体の異変に気が付いた。腕の感覚があまりに希薄すぎて、上手くお湯を掬えない。限界を超過して酷使されたその手は、まるで自分の物では無い様な、ふわふわとした不思議な感覚を僕に与えた。
自分でも信じられない。『トップアスリートの言う中級から上級の課題』を、自分の手で完走するなんて。
的確な律のアドバイスと応援があったからこそだとは分かっていても。ふつふつと胸の奥から、嬉しさが込み上げてくる。これは、帰ったら歩に自慢していい案件だなぁ、とは思うけれど。ただ、もう一度同じ事をしろと言われたら、例え体力が回復していても、全く持って自信がなかった。僕の中にある、日頃は埃を被っている何らかのスイッチが入ってしまって、それが結果的にゴールまで辿り着けた要因になったとしか思えなかったから。
トップアスリートともなれば、そのスイッチの切り替えを自在に行えるらしいのだけど。数々の試練や練習や試合を乗り越えて、自分自身の限界と常に向き合ってきた人達だからこそ習得した妙技だと思うから。僕には、そんな妙技を会得するのは、土台難しい話だとは分かっている。だけど。
「………きもち、よかったなぁ」
きっと、僕は、スポーツクライミングを、自分の出来る年齢まで、ずっと続けていくんだろう。時には自分より年下の人に教わりながら、時には、自分よりも年上の人を応援しながら。そんな、豊かな趣味、生き方を選んで来られた僕の人生は、きっと、誰に自慢するでもなくとも、豊かな色に彩られている筈だ。
「真澄さん、着替え、此処に置きますね。お湯加減はどうですか?温かったら、温め直しますよ」
お風呂場の扉の向こうから、律が穏やかに声を掛けてきた。だから僕は、湯船に肩まで浸かっていた身体を、ぴん、と伸ばして、慌てて感謝を述べた。
「うん、大丈夫。ありがとう、律。あと、先にお風呂頂いてしまって、ごめんなさい」
「真澄さんはお客さんなんだから、いいんですよ。ゆっくり入って下さいね」
「……うん、だけど、色々ほんとに、ありがとうね」
お風呂場の扉の向こうで、律が、くすり、と微笑んだ気配を感じる。今日は、本当に律にお世話になったから、何度お礼を口にしたのか、自分でも数えるのを忘れてしまった。だからこうして、苦笑混じりに『気にしなくて良いよ』を言わずとも伝えてくれる律には、気を使わせてしまって申し訳ない気持ちになった。
だけど、律に言われた通り、こうしてお風呂を頂いて正解だった。スポーツクライミングは全身運動だから、冬という季節も関係無くびっしょりと全身に汗を掻いていたし、こんな風にクライミングに親しめる機会が貰えるとは夢にも思わず、全くといって想定していなかったから、日中に必要な着替えは余分に用意していなかったしで。先回りして気遣いを向けてくれた律には、もう頭が上がらないな、と年上として恥ずかしくなってしまった。
お風呂から出たら、出前で注文した近所のお寿司屋さんのお寿司を一緒に食べてから、殆ど全てを律が獲得したトロフィーや賞状で埋め尽くしたご自宅の一室を、律自らが案内してくれる事になっている。これは、事前にした話し合いで決まった話だったのだけど、恥ずかしがり屋というか、基本的に謙虚を絵に描いた様な性格をしている律は、かなりの勢いで躊躇していた。
その一室を作ったのは律のご両親らしく、律自身は部屋の制作に関与していないから、上手く紹介出来るか分からない、と言って、遠回しに僕に諦めて欲しいを伝えてきたので。僕は、もっと自分の功績を他人に自慢しても良いのになぁ、と勿体無い気持ちになった。
けれど、結果は結果として自分自身の中に取り置き、その栄光自体には日頃から目を向ける事なく、今現在の自分自身のクオリティの向上にこそ重きを置く律は、只管にクールで格好が良い。だから、其処に無理を言って案内を頼み込んだ僕は、厚顔無恥というか、ファンとして踏み込んでいい領域を逸脱しまくっていたのだけど。
『分かりました。ただ、案内には時間が掛かるかも知れないから、その日は泊まっていって下さいね』
可愛過ぎる交換条件を提示する律に、敢えなくハートを撃ち抜かれてしまった。それから一週間、どうやって生きてきたのか自分でも分からない。
クライミングをする予定は無かったから、日中の着替えを予備で用意していなかったので、お風呂から上がって扉を開けた目の前に用意されていた律の私服に着替えていく。初めは憧れの人の私服を借りるという状況にドキドキして、畳まれてある服に、手を伸ばしたり引っ込めたり、胸に手を当てて深呼吸して心臓を落ち着かせたりと、着る前にだいぶと躊躇してしまったけれど。あんまり遅くなると律を待たせてしまうからと、頭をぶんぶんと振って、真っ赤になっているだろう両頬を手の平で叩いて気合いを入れ、耳まで熱くなっているのを自覚しながら、震える手で懸命に着替えを終わらせた。お風呂に入っている間にマッサージをしたから、多少腕や手の感覚が戻っている。これなら、食事も問題なく摂れそうだ。
洗面台にあるドライヤーをお借りして髪の毛をサッと乾かしてから居間に戻ると、ソファに浅く腰掛けて、TVを見るでもなくご自宅の庭にぼんやりと視線を移していた律の姿があった。本人にとっては見慣れているだろうその景色を眺めている姿には、少しだけ首を傾げてしまったけれど、練習で疲れているのかな?と思って、一応、気遣いのつもりで、小さく声を掛けた。
「……あの、律。お風呂ありがとう」
ぼんやりと庭に寄せていた視線を、パッと僕に向けると、律は、何某か口にしようとしてからそれを止め、そのまま何も言わずに、口をぽかんと開きながら、全身を確認する様にまじまじと僕を見つめた。何故だか酷く居た堪れない気持ちになる。やっぱり、いくら勧められたからといって、言われた通り本当に用意した私服を着てくるなんて、と常識を疑われたんだろうか。だとしたら、どう印象をリカバリーしたものか。今更着てしまった物を脱いだ所で無意味だし……
「……ごめんなさい、いくら好意で用意してくれても、本当に着てくるなんて、常識が無いよね。やっぱり、明日用に持ってきた服に着替えてくるね」
「……ッ、いや、真澄さん、すみません!そんなつもりで黙っていたんじゃなくて……誤解させて、俺こそ、すみません」
居間にあるソファと、居間の入り口という離れた距離を設けたまま、お互いに謝り合うという構図に、自分でも何が何だか分からない。だけど、どうやら律は、僕に対して不快な気持ちを抱いていた訳じゃ無いんだなと知れて、ホッと胸を撫で下ろした。
「あの、ですね。その服、俺が高校生の時に気に入って買って貰ったやつだったんですけど。それから一気に身長が伸びてしまって、結局一、二回しか着た事が無かったんです。だから、誤解させたお詫びに、良ければ貰ってくれませんか?」
「え?!そんな大切な物、貰えないよ……っ」
「俺が持っていても、箪笥の肥やしにしかならないので。真澄さんが着てくれるなら、寧ろ好都合なんです。あ、でも、気に入らないなら、話は別なんですけど……」
ああ、僕が言葉足らずな所為で、誤解が誤解を呼んでいる。そんなつもりで言ったわけじゃないのに、律は気遣いが過ぎるから、僕の断り文句を社交辞令だと受け止めてくれたんだな……なんて良い子なんだろう。スポーツが出来るだけじゃなく、こんなにも気遣いがあって優しい子に育ててくれた律のご両親に感謝しないとなぁ。
「気に入らないなんて、そんな事ないよ。ただ、ファッションに疎い僕でも知ってるブランドだし、本当に申し訳ないと思って。それに、僕が着ても勿体無いから……」
「何言ってるんですか。凄く似合ってますよ、真澄さん。昔の自分良くやったなぁ、って自分を褒めてたくらいなのに。あ、でも、ちょっとこっち来て?」
何故だか、凄く上機嫌になっている様に見える律に手招かれて、何だろう?と思いながら律の座っているソファのある場所に近付くと、それでもまだ距離が足りないとでも言わんばかりに更に手招きされた。いよいよ、律にどんな意図があるのか分からなくて、『???』と頭の上に疑問符を並べていると、律に向けて上半身を傾けた瞬間に、オープンフロントになっているネックラインに人差し指を、ずぼ、と第二関節まで突っ込まれ、そこから地肌を覗かれた。
「首元が余り過ぎて、肩まで見えてる。俺以外の前じゃ、着たら駄目だよ」
言われた事の意味が分からなくて、きょとん、と目を丸くする。暫くの間、律の意図を把握しようとして、頭の中をフリーズさせてしまった……ああ、肩まで見えてしまっていてだらし無いから、外で着たら恥ずかしいよ、気を付けなよっていう意味かな?律は、僕の反応を伺う様な、鋭い眼差しで僕を見つめている。返事を待たれているんだ、と分かって、僕は慌てて自分なりに用意した返事を口にした。
「う、ん……分かった。この服は、お部屋着にするね。それで、律以外の前では、恥ずかしいから着ないようにする。教えてくれて、ありがとう、律」
自分が高校時代に着ていた服なのに、成人した僕が着て、首元が肩まで見えるくらい余るとは流石に思わなかったんだろう。気が付かずに外で着て、恥ずかしい思いをせずに済んで良かった。身体はもやしみたいに細いし、身長も肩幅も小さくて、日光を避けた生活をしているから肌は全身真っ白で……きっと僕は、スポーツの世界で国を跨いで活躍する律の周りには居ないタイプの人間だった筈だ。言葉にはしなくても、呆れてしまっているんだろうな。けれど、優しくて気遣いのある律は、ジッと僕の顔を見つめたまま、喉仏を微かに動かして唾と言葉を飲み込んで、それ以上、何も言ってこなかった。
「律は、優しいね。僕みたいに抜けてる人間にも、こうして気遣ってくれて……誰かから服を貰ったりした事ないから、お返しに何を返せばいいのか分からないんだけど、何か、僕に出来る事はないかな?」
幼馴染の歩とは、小さな頃から一緒にいたけど、歳が近いからお下がりや着なくなった物を貰ったりあげたりといった事はしてこなかった。それに、歩には弟さんがいるので、基本的に歩の着なくなった服は、体格の似ている弟さんに流れていく。その為、僕はお洒落を楽しむ歩を見ていても、これまで殆どノータッチを貫いていた。だから、お下がりとはいえ、こうして服を貰った限りは、何かお返しをしなくちゃ、と思うのだけど。その経験値が殆ど無い僕は、一体何をお返ししたらいいのか分からず、弱り果ててしまう。だから、情け無いのを分かった上で、服をくれた本人である律に、それを尋ねてしまった。
律は、『そんな事も分からないの?』と言わんばかりに、唖然とした表情を浮かべている。僕は、それにも申し訳が無くなってしまって、頭の中で土下座せんばかりに謝り倒した。
「貴方って、誰に対しても、こんな風なんですか?……距離感とか、態度とか、言葉の選び方とか」
ああ、やっぱり。律、不機嫌になってる。というか、呆れてるの方が近いかな。僕が、あんまり気が利かないから。プレゼントのお返しをあげる相手に聞くのは、普通に考えて、もっと仲良くなってからだよね。それくらい自分で考えてよ、って思われて当然だ。大人として恥ずかしい……もっと反省しなくちゃ。
「……ごめんなさい」
「……もう、いいです。出前は届いてるので、先に食べましょう。賞状とかトロフィーがある部屋は、事前の打ち合わせ通り、その後で案内しますから」
舌打ちされないだけマシ、という、苛立ちを押し殺した声や態度をその場に残して、律はソファから立ち上がり、隣の部屋にあるキッチンに向かって歩いて行った。その背中には、今はまだ話し掛けてくるな、という怒りの感情を纏わせているのが一目で読み取れて。僕は、何も言わずに……言える筈も無く、その背中を見送った。
早く、お手伝いしなくちゃ。確かに僕は、律にとってお客さんかもしれないけれど。だからといって、上げ膳据え膳を甘んじて受け入れる訳にはいかない。だけど、自分の両足を中心として、全身から力がへなへなと抜けてしまって。その場から、ぴくりとも身動きが取れなくなってしまった。
律に、嫌われた……否、嫌われるまでは行かなくても、間違いなく、律の中にある、僕の心象は下がってしまった。これまで、ずっと自分なりに頑張って、好感のある態度を心掛けていたのに、それも全て、水の泡。
一体、何やってるんだろう、僕。
「……っ、……ぅ……」
いっそ、消えてしまいたい。
こんな些細な事で、と言われてしまえば、確かにそうなんだけど。でも、それが僕の、混じり気の無い本心だから。ずっと心の支えにしていた、憧れの存在に見捨てられてしまったら、こうなってしまうのは、ある程度仕方がないのかもしれないな、と思って。その涙を止める手立てが無くなってしまった。
それでも、この涙を、律にだけは、見せてはいけない。彼に迷惑を掛けたり、彼の罪悪感を呼び起こす様な真似だけはしたくない。いや、違う。本当は、僕は、そんなに綺麗な人間なんかじゃない。
『嗚呼、成る程。この人、そういう人なんだ』
これ以上、そんな風に彼に思わせてしまうのが、怖いだけなんだ。
恐る恐る、お湯が溢れない様にと気を付けて入った湯船の中。自分の体積を受けてもお湯が溢れない事を確認してから、漸く肩までお湯に浸かって、ふぁ、と詰めていた息を吐く。そして、お湯を掬って顔を洗おうとした所で、自分の身体の異変に気が付いた。腕の感覚があまりに希薄すぎて、上手くお湯を掬えない。限界を超過して酷使されたその手は、まるで自分の物では無い様な、ふわふわとした不思議な感覚を僕に与えた。
自分でも信じられない。『トップアスリートの言う中級から上級の課題』を、自分の手で完走するなんて。
的確な律のアドバイスと応援があったからこそだとは分かっていても。ふつふつと胸の奥から、嬉しさが込み上げてくる。これは、帰ったら歩に自慢していい案件だなぁ、とは思うけれど。ただ、もう一度同じ事をしろと言われたら、例え体力が回復していても、全く持って自信がなかった。僕の中にある、日頃は埃を被っている何らかのスイッチが入ってしまって、それが結果的にゴールまで辿り着けた要因になったとしか思えなかったから。
トップアスリートともなれば、そのスイッチの切り替えを自在に行えるらしいのだけど。数々の試練や練習や試合を乗り越えて、自分自身の限界と常に向き合ってきた人達だからこそ習得した妙技だと思うから。僕には、そんな妙技を会得するのは、土台難しい話だとは分かっている。だけど。
「………きもち、よかったなぁ」
きっと、僕は、スポーツクライミングを、自分の出来る年齢まで、ずっと続けていくんだろう。時には自分より年下の人に教わりながら、時には、自分よりも年上の人を応援しながら。そんな、豊かな趣味、生き方を選んで来られた僕の人生は、きっと、誰に自慢するでもなくとも、豊かな色に彩られている筈だ。
「真澄さん、着替え、此処に置きますね。お湯加減はどうですか?温かったら、温め直しますよ」
お風呂場の扉の向こうから、律が穏やかに声を掛けてきた。だから僕は、湯船に肩まで浸かっていた身体を、ぴん、と伸ばして、慌てて感謝を述べた。
「うん、大丈夫。ありがとう、律。あと、先にお風呂頂いてしまって、ごめんなさい」
「真澄さんはお客さんなんだから、いいんですよ。ゆっくり入って下さいね」
「……うん、だけど、色々ほんとに、ありがとうね」
お風呂場の扉の向こうで、律が、くすり、と微笑んだ気配を感じる。今日は、本当に律にお世話になったから、何度お礼を口にしたのか、自分でも数えるのを忘れてしまった。だからこうして、苦笑混じりに『気にしなくて良いよ』を言わずとも伝えてくれる律には、気を使わせてしまって申し訳ない気持ちになった。
だけど、律に言われた通り、こうしてお風呂を頂いて正解だった。スポーツクライミングは全身運動だから、冬という季節も関係無くびっしょりと全身に汗を掻いていたし、こんな風にクライミングに親しめる機会が貰えるとは夢にも思わず、全くといって想定していなかったから、日中に必要な着替えは余分に用意していなかったしで。先回りして気遣いを向けてくれた律には、もう頭が上がらないな、と年上として恥ずかしくなってしまった。
お風呂から出たら、出前で注文した近所のお寿司屋さんのお寿司を一緒に食べてから、殆ど全てを律が獲得したトロフィーや賞状で埋め尽くしたご自宅の一室を、律自らが案内してくれる事になっている。これは、事前にした話し合いで決まった話だったのだけど、恥ずかしがり屋というか、基本的に謙虚を絵に描いた様な性格をしている律は、かなりの勢いで躊躇していた。
その一室を作ったのは律のご両親らしく、律自身は部屋の制作に関与していないから、上手く紹介出来るか分からない、と言って、遠回しに僕に諦めて欲しいを伝えてきたので。僕は、もっと自分の功績を他人に自慢しても良いのになぁ、と勿体無い気持ちになった。
けれど、結果は結果として自分自身の中に取り置き、その栄光自体には日頃から目を向ける事なく、今現在の自分自身のクオリティの向上にこそ重きを置く律は、只管にクールで格好が良い。だから、其処に無理を言って案内を頼み込んだ僕は、厚顔無恥というか、ファンとして踏み込んでいい領域を逸脱しまくっていたのだけど。
『分かりました。ただ、案内には時間が掛かるかも知れないから、その日は泊まっていって下さいね』
可愛過ぎる交換条件を提示する律に、敢えなくハートを撃ち抜かれてしまった。それから一週間、どうやって生きてきたのか自分でも分からない。
クライミングをする予定は無かったから、日中の着替えを予備で用意していなかったので、お風呂から上がって扉を開けた目の前に用意されていた律の私服に着替えていく。初めは憧れの人の私服を借りるという状況にドキドキして、畳まれてある服に、手を伸ばしたり引っ込めたり、胸に手を当てて深呼吸して心臓を落ち着かせたりと、着る前にだいぶと躊躇してしまったけれど。あんまり遅くなると律を待たせてしまうからと、頭をぶんぶんと振って、真っ赤になっているだろう両頬を手の平で叩いて気合いを入れ、耳まで熱くなっているのを自覚しながら、震える手で懸命に着替えを終わらせた。お風呂に入っている間にマッサージをしたから、多少腕や手の感覚が戻っている。これなら、食事も問題なく摂れそうだ。
洗面台にあるドライヤーをお借りして髪の毛をサッと乾かしてから居間に戻ると、ソファに浅く腰掛けて、TVを見るでもなくご自宅の庭にぼんやりと視線を移していた律の姿があった。本人にとっては見慣れているだろうその景色を眺めている姿には、少しだけ首を傾げてしまったけれど、練習で疲れているのかな?と思って、一応、気遣いのつもりで、小さく声を掛けた。
「……あの、律。お風呂ありがとう」
ぼんやりと庭に寄せていた視線を、パッと僕に向けると、律は、何某か口にしようとしてからそれを止め、そのまま何も言わずに、口をぽかんと開きながら、全身を確認する様にまじまじと僕を見つめた。何故だか酷く居た堪れない気持ちになる。やっぱり、いくら勧められたからといって、言われた通り本当に用意した私服を着てくるなんて、と常識を疑われたんだろうか。だとしたら、どう印象をリカバリーしたものか。今更着てしまった物を脱いだ所で無意味だし……
「……ごめんなさい、いくら好意で用意してくれても、本当に着てくるなんて、常識が無いよね。やっぱり、明日用に持ってきた服に着替えてくるね」
「……ッ、いや、真澄さん、すみません!そんなつもりで黙っていたんじゃなくて……誤解させて、俺こそ、すみません」
居間にあるソファと、居間の入り口という離れた距離を設けたまま、お互いに謝り合うという構図に、自分でも何が何だか分からない。だけど、どうやら律は、僕に対して不快な気持ちを抱いていた訳じゃ無いんだなと知れて、ホッと胸を撫で下ろした。
「あの、ですね。その服、俺が高校生の時に気に入って買って貰ったやつだったんですけど。それから一気に身長が伸びてしまって、結局一、二回しか着た事が無かったんです。だから、誤解させたお詫びに、良ければ貰ってくれませんか?」
「え?!そんな大切な物、貰えないよ……っ」
「俺が持っていても、箪笥の肥やしにしかならないので。真澄さんが着てくれるなら、寧ろ好都合なんです。あ、でも、気に入らないなら、話は別なんですけど……」
ああ、僕が言葉足らずな所為で、誤解が誤解を呼んでいる。そんなつもりで言ったわけじゃないのに、律は気遣いが過ぎるから、僕の断り文句を社交辞令だと受け止めてくれたんだな……なんて良い子なんだろう。スポーツが出来るだけじゃなく、こんなにも気遣いがあって優しい子に育ててくれた律のご両親に感謝しないとなぁ。
「気に入らないなんて、そんな事ないよ。ただ、ファッションに疎い僕でも知ってるブランドだし、本当に申し訳ないと思って。それに、僕が着ても勿体無いから……」
「何言ってるんですか。凄く似合ってますよ、真澄さん。昔の自分良くやったなぁ、って自分を褒めてたくらいなのに。あ、でも、ちょっとこっち来て?」
何故だか、凄く上機嫌になっている様に見える律に手招かれて、何だろう?と思いながら律の座っているソファのある場所に近付くと、それでもまだ距離が足りないとでも言わんばかりに更に手招きされた。いよいよ、律にどんな意図があるのか分からなくて、『???』と頭の上に疑問符を並べていると、律に向けて上半身を傾けた瞬間に、オープンフロントになっているネックラインに人差し指を、ずぼ、と第二関節まで突っ込まれ、そこから地肌を覗かれた。
「首元が余り過ぎて、肩まで見えてる。俺以外の前じゃ、着たら駄目だよ」
言われた事の意味が分からなくて、きょとん、と目を丸くする。暫くの間、律の意図を把握しようとして、頭の中をフリーズさせてしまった……ああ、肩まで見えてしまっていてだらし無いから、外で着たら恥ずかしいよ、気を付けなよっていう意味かな?律は、僕の反応を伺う様な、鋭い眼差しで僕を見つめている。返事を待たれているんだ、と分かって、僕は慌てて自分なりに用意した返事を口にした。
「う、ん……分かった。この服は、お部屋着にするね。それで、律以外の前では、恥ずかしいから着ないようにする。教えてくれて、ありがとう、律」
自分が高校時代に着ていた服なのに、成人した僕が着て、首元が肩まで見えるくらい余るとは流石に思わなかったんだろう。気が付かずに外で着て、恥ずかしい思いをせずに済んで良かった。身体はもやしみたいに細いし、身長も肩幅も小さくて、日光を避けた生活をしているから肌は全身真っ白で……きっと僕は、スポーツの世界で国を跨いで活躍する律の周りには居ないタイプの人間だった筈だ。言葉にはしなくても、呆れてしまっているんだろうな。けれど、優しくて気遣いのある律は、ジッと僕の顔を見つめたまま、喉仏を微かに動かして唾と言葉を飲み込んで、それ以上、何も言ってこなかった。
「律は、優しいね。僕みたいに抜けてる人間にも、こうして気遣ってくれて……誰かから服を貰ったりした事ないから、お返しに何を返せばいいのか分からないんだけど、何か、僕に出来る事はないかな?」
幼馴染の歩とは、小さな頃から一緒にいたけど、歳が近いからお下がりや着なくなった物を貰ったりあげたりといった事はしてこなかった。それに、歩には弟さんがいるので、基本的に歩の着なくなった服は、体格の似ている弟さんに流れていく。その為、僕はお洒落を楽しむ歩を見ていても、これまで殆どノータッチを貫いていた。だから、お下がりとはいえ、こうして服を貰った限りは、何かお返しをしなくちゃ、と思うのだけど。その経験値が殆ど無い僕は、一体何をお返ししたらいいのか分からず、弱り果ててしまう。だから、情け無いのを分かった上で、服をくれた本人である律に、それを尋ねてしまった。
律は、『そんな事も分からないの?』と言わんばかりに、唖然とした表情を浮かべている。僕は、それにも申し訳が無くなってしまって、頭の中で土下座せんばかりに謝り倒した。
「貴方って、誰に対しても、こんな風なんですか?……距離感とか、態度とか、言葉の選び方とか」
ああ、やっぱり。律、不機嫌になってる。というか、呆れてるの方が近いかな。僕が、あんまり気が利かないから。プレゼントのお返しをあげる相手に聞くのは、普通に考えて、もっと仲良くなってからだよね。それくらい自分で考えてよ、って思われて当然だ。大人として恥ずかしい……もっと反省しなくちゃ。
「……ごめんなさい」
「……もう、いいです。出前は届いてるので、先に食べましょう。賞状とかトロフィーがある部屋は、事前の打ち合わせ通り、その後で案内しますから」
舌打ちされないだけマシ、という、苛立ちを押し殺した声や態度をその場に残して、律はソファから立ち上がり、隣の部屋にあるキッチンに向かって歩いて行った。その背中には、今はまだ話し掛けてくるな、という怒りの感情を纏わせているのが一目で読み取れて。僕は、何も言わずに……言える筈も無く、その背中を見送った。
早く、お手伝いしなくちゃ。確かに僕は、律にとってお客さんかもしれないけれど。だからといって、上げ膳据え膳を甘んじて受け入れる訳にはいかない。だけど、自分の両足を中心として、全身から力がへなへなと抜けてしまって。その場から、ぴくりとも身動きが取れなくなってしまった。
律に、嫌われた……否、嫌われるまでは行かなくても、間違いなく、律の中にある、僕の心象は下がってしまった。これまで、ずっと自分なりに頑張って、好感のある態度を心掛けていたのに、それも全て、水の泡。
一体、何やってるんだろう、僕。
「……っ、……ぅ……」
いっそ、消えてしまいたい。
こんな些細な事で、と言われてしまえば、確かにそうなんだけど。でも、それが僕の、混じり気の無い本心だから。ずっと心の支えにしていた、憧れの存在に見捨てられてしまったら、こうなってしまうのは、ある程度仕方がないのかもしれないな、と思って。その涙を止める手立てが無くなってしまった。
それでも、この涙を、律にだけは、見せてはいけない。彼に迷惑を掛けたり、彼の罪悪感を呼び起こす様な真似だけはしたくない。いや、違う。本当は、僕は、そんなに綺麗な人間なんかじゃない。
『嗚呼、成る程。この人、そういう人なんだ』
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