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11話目 ~憧れとカクテル~ 前篇
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店内に流れるジャズ、時折流れる生のピアノ演奏。
店員だから身形はきちんとしているが、五十をとうに超えた雇われ人の俺は、今夜もカウンターの奥でシェイカーを振り、時折果物をカットしたりナッツとチョコの盛り合わせて、チーズと生ハムの盛り合わせなどつまみを作る仕事をしている。
――どうしてこうなったんだろう……。
胸の内でそう呟き、小さく溜息をつく。
この店は元々、祖父がやっていたものだった。祖父の代としては珍しく、居酒屋ではなく大人の社交場として開いたものだったのだ。
当時としてはとても珍しかったらしく、かなり流行っていたらしい。とはいえ、最初は祖父の友人だけが来るような、日によっては閑古鳥が鳴いていたとも聞いているが、その友人が自分の友人知人を誘ってこの店に連れて来て店内の雰囲気を楽しみ、雰囲気もドリンクもよかったことから、また別の友人知人を呼び……。
まさに好循環となって繁盛した。
そして大人の社交場でもあったためか、独身の男女も集うからなのか、出会いの場としても良好な場所だったようで、何組ものカップルができて結婚した、なんて話も聞いている。
もちろん、祖父もそのうちの一人で、祖母と出会って結婚したのが店内での出会いだというのだから、不思議なものである。
そんな歴史あるこの店は、俺のせいで他人の手に渡ってしまった。店内の状態を見るに、今さらながら祖父や父、兄の話をきちんと聞いておけばよかったと後悔がよぎる。
この店を継いだのは父で、その後は兄か姉が継ぐはずだった。その補佐としてでいいからバーテンダーの資格を取ってくれと言われ、俺には難しいと感じながらも勉強していた。
だが、同じく補佐をするはずだった姉はイタリア人と結婚してイタリアへと渡り、兄は結婚して子供もいたが車での旅行中で事故に遭い、一家全員が亡くなった。その時点で祖父はとうに亡くなっていたし、父もかなり年老いていた。
前年に病気で母を失ったばかりだったのに、後継者たる兄家族も身罷ってしまったからなのか、父は一気に老けてしまったのだ。その時、ぽつりと俺に継いでほしいと言ったが、嫌々ながらやっていたせいか俺はバーテンダーの資格試験に何度も落ちていたうえ、それが嫌になってカクテル作りのなんたるかを知ろうともせず、ただやりたいことをしたいと突っぱねた。
その結果、数ヶ月後に父も病を得て亡くなり、俺が拒否をしたから店舗自体は叔父に渡ったものの借金を抱えていた叔父は俺に話を聞きもせず売り払った。
その結果が今で店内はジャズやピアノが流れ、形式としてはバーではあるものの、大人の社交場といえるような場所ではなくなっていた。若者が騒ぎ、時には喧嘩に発展するような、居酒屋よりも酷い場末の飲み屋に成り下がった。
それを知った俺は、昼間は小さな会社に勤めていたものの物価上昇が止まらない関係で生活はギリギリだったし、副業がOKだった会社に許可を取り、面接を受けた。合格してどうにか店のバイトとして入ったものの、その惨状を見て後悔したが時既に遅く、どうにもならなかった。
祖父が大事にしていた、当時のままの蓄音機は破壊され。
ホールクロックとよばれる高さ二メートル近い、明治時代に作られたという貴重で大きな振り子時計も破壊され、見るも無残な姿になっていた。もし残っていたらかなりの価値になったはずの振り子時計だったのに。
他にも現代では骨董品とも呼べるようなものは破壊されていたり売られたりして、俺が記憶しているようなものはほとんど残っていなかった。唯一綺麗な形で残っていたのは、奏者が弾いているグランドピアノのみ。
そのグランドピアノも真っ白だったはずがところどころ汚れが目立ち、調律していないのか、あるいは調律をしていはいても演奏が下手なのか、俺が知っているピアノの音ではなかった。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、客からのオーダーだと言われ、カクテルを作る。
オーダーされたのは、市販もされている〝レッドアイ〟。グラスに冷えたトマトジュースを入れ、そこにビールを注ぐだけの、家庭でもできる簡単なカクテルのひとつだ。
ちなみに、家庭で作れる簡単なカクテルとして〝シャンディガフ〟というものがあるが、これはビールとジンジャーエールで割っただけのものだ。
そういった簡単なものから本格的なものまで、カクテルにはいろいろな名前や種類のものがあるし、カクテルを作るにもシェイカーで作るもの、ステアするもの、単に注ぐだけで作れるものなどなど、本当にいろいろある。
そんな中でさっきシェイカーで作っていたのは、〝ビトゥイーン・ザ・シーツ〟。「寝床に入って」という意味だが、要は男が女をベッドに誘うための有名なカクテルだったりする。
まあ、その意味すら知らずに飲んでる人間しか、この場にはいないようだが。
カクテルには恋の駆け引きとして使えるものがかなりある。
それが大人の社交場となりえたバーの在り方だったはずなんだがなと、〝レッドアイ〟をウェイターに渡したあと、小さく溜息をついた。
そしてバイトを始めてからわかったことがある。カクテル作りは奥が深いということを。今さらながら、面白い逸話が多いと思い出したのだ。
そういったことを思い出すたび、両親や兄の話をきちんと聞き、真面目にバーテンダーの資格を取ればよかったと後悔が過る。
たとえば、「007」というコードナンバーで知られるスパイ映画の中で、ヒーローが好んでいるカクテルがある。それが〝マティーニ〟というカクテルなのだが、材料が違う、あるいは量が違うだけで〝〇〇マティーニ〟となるのだ。
映画では〝ウォッカ・マティーニ〟を飲んでいるが、〝マティーニ〟と名のつくものは実に268種類ものレシピが存在する。日本だと焼酎を使った〝焼酎マティーニ〟(別名:酎ティーニ)や、日本酒を使った〝サケティーニ〟がある。
それだけの数があるからなのか、数多の著名人がこよなく愛しているが故に、個人で飲む〝マティーニ〟の味も様々だ。
たとえば、ヘミングウェイは〝ドライ・マティーニ〟を好んで飲んだそうだ。
たとえば、女優のマリリン・モンローは、〝マティーニ〟が辛すぎて砂糖を入れて飲んだという逸話もある。
たとえば、ヒーローが「僕はしにません!」と叫んだ昭和時代のドラマで、ヒロインが〝マティーニ〟を飲んでいたこともある。
それほどに、マティーニというカクテルは有名であり、愛されているのだ。
他にも、〝ビトゥイーン・ザ・シーツ〟のように女や男を誘うためのカクテルや、愛の告白に使われたり断ったりするのに使うカクテルもある。
たとえば〝モヒート〟。意味は「心の乾きを癒して」。
たとえば〝カンパリオレンジ〟。意味は「初恋」。
たとえば〝マルガリータ〟。意味は「無言の愛」。
たとえば〝スクリュードライバー〟。意味は「あなたに心を奪われた」。
ちなみに、〝スクリュードライバー〟の名前の由来は、とある油田で働いていたアメリカ人作業員がのどの渇きを癒すために作ったカクテルとされるもので、この作業員がマドラー代わりに工具のスクリュー・ドライバーを使って混ぜたことからこの名前が付いた。
そして、断るためのカクテルとして有名なのが、〝ブルームーン〟。意味は「できない相談」や「叶わぬ恋」。だが、このカクテルに使われているスミレリキュールには「完全な愛」という意味もあり、断るためなのか愛の告白なのかは相手次第という、裏の意味を知らないととんでもないことになるカクテルも存在するのだ。
これらカクテルの勉強をしている時は面倒だとしか思っていなかったが、祖父母と両親、兄が亡くなりバイトとして働き始めた店でカクテルを作るようになってから、なんと奥深いものかと感嘆した。
だが、それに気づくのが遅すぎた。……今さらなことだった。
「そろそろ時間だ。途中でもあがっていいぞー」
「あ、はい。泡を洗い流せば終わりなので、そこまでやります。お疲れ様でした」
「おう。お疲れ!」
店長から声をかけられ、洗っていたグラスから顔をあげる。時計を見ると夜中の零時だ。つまり、バイトが終わる時間だったが、あとはグラスについた泡を洗い流すだけだったのでそれを実行。
店自体は朝の五時までやっているので、交代要員にどこまで作業をしたのか申し送りをしたあと、カウンターをあとにする。
すれ違う従業員たちにそれぞれ挨拶を交わし、同じ時間にあがるバイトと一緒に着替えができる部屋――ロッカールームに行くと着替える。荷物を持ち、壁に貼られている出勤表を確認し、従業員専用扉から外へ出ると停めてあった自転車に乗り自宅へと向かう。
「明日から三日間休みか……」
どうするかと考えるものの、そういえば明後日は父の命日だったことを思い出す。毎年家族の命日だけは休暇を取っていたが、今年は人数が少なく、無理だと思って申請しなかったのだ。
どうやら店長は覚えていたようで、彼のことだから気をきかせてくれたんだろうと思い、ありがたく墓参りに行くことを決めた。そのあとは買い物がてら、久しぶりに町の散策をしてもいいかもしれない。
そんなことを考えているうちに自宅へと着き、シャワーを浴びて寝た。
そして休み二日目。
買い物は墓参りの帰りでいいかと歩き、墓地の手前にある店で花を買い、掃除用具を借りて墓参する。
「あ~、草ぼうぼうじゃないか。叔父のやつ、墓参りすら来てねーのかよ」
他人のことは言えねえよなあと思いつつ、掃除用具から小さな草刈り鎌を出すと、黙々と草むしりを始める。地面が土だからなのか、雑草の根っこが張って引き抜くのが大変だ。
先祖代々の遺骨が納められているのだから、敷地もかなり大きなものだからしょうがない。境界線の代わりに植えているツツジの蕾が見える。
「……そうだよな。もうじき大型連休、なんだよな……」
会社のほうは長期間の休みになるからいいとしても、店のほうはほとんどシフトに入っている。内心溜息をつきつつも、草むしりが終わったので、今度は墓石の掃除だ。
丁寧に拭き、花を入れる場所に水を入れて花を生け、線香に火をつけて祈る。
そこに交じるのは、後悔だけだ。
もしあの時、祖父母と両親、兄たちの話をきちんと聞いていれば。
もしあの時、俺が真面目にカクテルの勉強をしていれば。
そんな後悔しか出てこないが、祖父母も両親も、兄夫婦たちもいない。……過去には戻れないのだ。
戻れるのであれば、今度はきちんと勉強し、祖父が持っていたフレアバーテンダーという資格を得てみたいと思った。
今からでも遅くはないのだろうが、二足の草鞋の状態で勉強するには時間がまったく足りない。
「……今さら、か」
そう、今さらなのだ。もううちの店ではないし、店の経営も怪しく、一年以内に閉店するかもと噂になっているくらいだ。
だからこそ、今さらだと諦めてしまった。
「また、くるな」
小さく溜息をつき、借りたものを持って墓地をあとにする。道具を返却すると商店街へと向かった。
*****
※昭和時代のドラマ:「101回目のプロポーズ」というドラマで、ヒロインの浅野温子さんが飲んでいた。ちなみに、ヒーローは武田鉄矢さんである。
店員だから身形はきちんとしているが、五十をとうに超えた雇われ人の俺は、今夜もカウンターの奥でシェイカーを振り、時折果物をカットしたりナッツとチョコの盛り合わせて、チーズと生ハムの盛り合わせなどつまみを作る仕事をしている。
――どうしてこうなったんだろう……。
胸の内でそう呟き、小さく溜息をつく。
この店は元々、祖父がやっていたものだった。祖父の代としては珍しく、居酒屋ではなく大人の社交場として開いたものだったのだ。
当時としてはとても珍しかったらしく、かなり流行っていたらしい。とはいえ、最初は祖父の友人だけが来るような、日によっては閑古鳥が鳴いていたとも聞いているが、その友人が自分の友人知人を誘ってこの店に連れて来て店内の雰囲気を楽しみ、雰囲気もドリンクもよかったことから、また別の友人知人を呼び……。
まさに好循環となって繁盛した。
そして大人の社交場でもあったためか、独身の男女も集うからなのか、出会いの場としても良好な場所だったようで、何組ものカップルができて結婚した、なんて話も聞いている。
もちろん、祖父もそのうちの一人で、祖母と出会って結婚したのが店内での出会いだというのだから、不思議なものである。
そんな歴史あるこの店は、俺のせいで他人の手に渡ってしまった。店内の状態を見るに、今さらながら祖父や父、兄の話をきちんと聞いておけばよかったと後悔がよぎる。
この店を継いだのは父で、その後は兄か姉が継ぐはずだった。その補佐としてでいいからバーテンダーの資格を取ってくれと言われ、俺には難しいと感じながらも勉強していた。
だが、同じく補佐をするはずだった姉はイタリア人と結婚してイタリアへと渡り、兄は結婚して子供もいたが車での旅行中で事故に遭い、一家全員が亡くなった。その時点で祖父はとうに亡くなっていたし、父もかなり年老いていた。
前年に病気で母を失ったばかりだったのに、後継者たる兄家族も身罷ってしまったからなのか、父は一気に老けてしまったのだ。その時、ぽつりと俺に継いでほしいと言ったが、嫌々ながらやっていたせいか俺はバーテンダーの資格試験に何度も落ちていたうえ、それが嫌になってカクテル作りのなんたるかを知ろうともせず、ただやりたいことをしたいと突っぱねた。
その結果、数ヶ月後に父も病を得て亡くなり、俺が拒否をしたから店舗自体は叔父に渡ったものの借金を抱えていた叔父は俺に話を聞きもせず売り払った。
その結果が今で店内はジャズやピアノが流れ、形式としてはバーではあるものの、大人の社交場といえるような場所ではなくなっていた。若者が騒ぎ、時には喧嘩に発展するような、居酒屋よりも酷い場末の飲み屋に成り下がった。
それを知った俺は、昼間は小さな会社に勤めていたものの物価上昇が止まらない関係で生活はギリギリだったし、副業がOKだった会社に許可を取り、面接を受けた。合格してどうにか店のバイトとして入ったものの、その惨状を見て後悔したが時既に遅く、どうにもならなかった。
祖父が大事にしていた、当時のままの蓄音機は破壊され。
ホールクロックとよばれる高さ二メートル近い、明治時代に作られたという貴重で大きな振り子時計も破壊され、見るも無残な姿になっていた。もし残っていたらかなりの価値になったはずの振り子時計だったのに。
他にも現代では骨董品とも呼べるようなものは破壊されていたり売られたりして、俺が記憶しているようなものはほとんど残っていなかった。唯一綺麗な形で残っていたのは、奏者が弾いているグランドピアノのみ。
そのグランドピアノも真っ白だったはずがところどころ汚れが目立ち、調律していないのか、あるいは調律をしていはいても演奏が下手なのか、俺が知っているピアノの音ではなかった。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、客からのオーダーだと言われ、カクテルを作る。
オーダーされたのは、市販もされている〝レッドアイ〟。グラスに冷えたトマトジュースを入れ、そこにビールを注ぐだけの、家庭でもできる簡単なカクテルのひとつだ。
ちなみに、家庭で作れる簡単なカクテルとして〝シャンディガフ〟というものがあるが、これはビールとジンジャーエールで割っただけのものだ。
そういった簡単なものから本格的なものまで、カクテルにはいろいろな名前や種類のものがあるし、カクテルを作るにもシェイカーで作るもの、ステアするもの、単に注ぐだけで作れるものなどなど、本当にいろいろある。
そんな中でさっきシェイカーで作っていたのは、〝ビトゥイーン・ザ・シーツ〟。「寝床に入って」という意味だが、要は男が女をベッドに誘うための有名なカクテルだったりする。
まあ、その意味すら知らずに飲んでる人間しか、この場にはいないようだが。
カクテルには恋の駆け引きとして使えるものがかなりある。
それが大人の社交場となりえたバーの在り方だったはずなんだがなと、〝レッドアイ〟をウェイターに渡したあと、小さく溜息をついた。
そしてバイトを始めてからわかったことがある。カクテル作りは奥が深いということを。今さらながら、面白い逸話が多いと思い出したのだ。
そういったことを思い出すたび、両親や兄の話をきちんと聞き、真面目にバーテンダーの資格を取ればよかったと後悔が過る。
たとえば、「007」というコードナンバーで知られるスパイ映画の中で、ヒーローが好んでいるカクテルがある。それが〝マティーニ〟というカクテルなのだが、材料が違う、あるいは量が違うだけで〝〇〇マティーニ〟となるのだ。
映画では〝ウォッカ・マティーニ〟を飲んでいるが、〝マティーニ〟と名のつくものは実に268種類ものレシピが存在する。日本だと焼酎を使った〝焼酎マティーニ〟(別名:酎ティーニ)や、日本酒を使った〝サケティーニ〟がある。
それだけの数があるからなのか、数多の著名人がこよなく愛しているが故に、個人で飲む〝マティーニ〟の味も様々だ。
たとえば、ヘミングウェイは〝ドライ・マティーニ〟を好んで飲んだそうだ。
たとえば、女優のマリリン・モンローは、〝マティーニ〟が辛すぎて砂糖を入れて飲んだという逸話もある。
たとえば、ヒーローが「僕はしにません!」と叫んだ昭和時代のドラマで、ヒロインが〝マティーニ〟を飲んでいたこともある。
それほどに、マティーニというカクテルは有名であり、愛されているのだ。
他にも、〝ビトゥイーン・ザ・シーツ〟のように女や男を誘うためのカクテルや、愛の告白に使われたり断ったりするのに使うカクテルもある。
たとえば〝モヒート〟。意味は「心の乾きを癒して」。
たとえば〝カンパリオレンジ〟。意味は「初恋」。
たとえば〝マルガリータ〟。意味は「無言の愛」。
たとえば〝スクリュードライバー〟。意味は「あなたに心を奪われた」。
ちなみに、〝スクリュードライバー〟の名前の由来は、とある油田で働いていたアメリカ人作業員がのどの渇きを癒すために作ったカクテルとされるもので、この作業員がマドラー代わりに工具のスクリュー・ドライバーを使って混ぜたことからこの名前が付いた。
そして、断るためのカクテルとして有名なのが、〝ブルームーン〟。意味は「できない相談」や「叶わぬ恋」。だが、このカクテルに使われているスミレリキュールには「完全な愛」という意味もあり、断るためなのか愛の告白なのかは相手次第という、裏の意味を知らないととんでもないことになるカクテルも存在するのだ。
これらカクテルの勉強をしている時は面倒だとしか思っていなかったが、祖父母と両親、兄が亡くなりバイトとして働き始めた店でカクテルを作るようになってから、なんと奥深いものかと感嘆した。
だが、それに気づくのが遅すぎた。……今さらなことだった。
「そろそろ時間だ。途中でもあがっていいぞー」
「あ、はい。泡を洗い流せば終わりなので、そこまでやります。お疲れ様でした」
「おう。お疲れ!」
店長から声をかけられ、洗っていたグラスから顔をあげる。時計を見ると夜中の零時だ。つまり、バイトが終わる時間だったが、あとはグラスについた泡を洗い流すだけだったのでそれを実行。
店自体は朝の五時までやっているので、交代要員にどこまで作業をしたのか申し送りをしたあと、カウンターをあとにする。
すれ違う従業員たちにそれぞれ挨拶を交わし、同じ時間にあがるバイトと一緒に着替えができる部屋――ロッカールームに行くと着替える。荷物を持ち、壁に貼られている出勤表を確認し、従業員専用扉から外へ出ると停めてあった自転車に乗り自宅へと向かう。
「明日から三日間休みか……」
どうするかと考えるものの、そういえば明後日は父の命日だったことを思い出す。毎年家族の命日だけは休暇を取っていたが、今年は人数が少なく、無理だと思って申請しなかったのだ。
どうやら店長は覚えていたようで、彼のことだから気をきかせてくれたんだろうと思い、ありがたく墓参りに行くことを決めた。そのあとは買い物がてら、久しぶりに町の散策をしてもいいかもしれない。
そんなことを考えているうちに自宅へと着き、シャワーを浴びて寝た。
そして休み二日目。
買い物は墓参りの帰りでいいかと歩き、墓地の手前にある店で花を買い、掃除用具を借りて墓参する。
「あ~、草ぼうぼうじゃないか。叔父のやつ、墓参りすら来てねーのかよ」
他人のことは言えねえよなあと思いつつ、掃除用具から小さな草刈り鎌を出すと、黙々と草むしりを始める。地面が土だからなのか、雑草の根っこが張って引き抜くのが大変だ。
先祖代々の遺骨が納められているのだから、敷地もかなり大きなものだからしょうがない。境界線の代わりに植えているツツジの蕾が見える。
「……そうだよな。もうじき大型連休、なんだよな……」
会社のほうは長期間の休みになるからいいとしても、店のほうはほとんどシフトに入っている。内心溜息をつきつつも、草むしりが終わったので、今度は墓石の掃除だ。
丁寧に拭き、花を入れる場所に水を入れて花を生け、線香に火をつけて祈る。
そこに交じるのは、後悔だけだ。
もしあの時、祖父母と両親、兄たちの話をきちんと聞いていれば。
もしあの時、俺が真面目にカクテルの勉強をしていれば。
そんな後悔しか出てこないが、祖父母も両親も、兄夫婦たちもいない。……過去には戻れないのだ。
戻れるのであれば、今度はきちんと勉強し、祖父が持っていたフレアバーテンダーという資格を得てみたいと思った。
今からでも遅くはないのだろうが、二足の草鞋の状態で勉強するには時間がまったく足りない。
「……今さら、か」
そう、今さらなのだ。もううちの店ではないし、店の経営も怪しく、一年以内に閉店するかもと噂になっているくらいだ。
だからこそ、今さらだと諦めてしまった。
「また、くるな」
小さく溜息をつき、借りたものを持って墓地をあとにする。道具を返却すると商店街へと向かった。
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