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8.マサくん
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「……で、話って?」
食事を終えて、狗飼が差し出したコーヒーを飲みつつ、伊織がそう切り出した。テレビだと、よくマグカップを両手持ちであざとく飲んでいたが、私生活ではそんなことはなく、ごく普通にスマホを片手に飲んでいる。
「この人に見覚えありますか?」
狗飼は手帳の間に挟んでいた一枚の写真を取り出して、伊織に渡した。
彼はそれを黙って受け取り、まじまじと眺めていたが、やがてすぐに「あっ」と声を上げた。
「マサくんだ! 昔時々、俺の握手会に来てくれてた」
「……握手会に来ただけの人、よく覚えてますね」
狗飼は写真に写る青白く痩せた男の顔に目を落とし、思わず感心して言った。男性アイドルの握手会会場において、男性ファンが来るのは珍しいから目立つかもしれないが、伊織の握手会は男性も多かったし、どう見ても、この人は一日で忘れてしまいそうな印象の薄い顔だった。
「ファンの顔は絶対忘れないって決めてるんだ。たまに恥ずかしいのかマスクとかサングラスして来る奴いて、ああいうのは覚えられなかったけど。そういうのはマスク1号、2号って覚えてた」
狗飼は思わずギクッとした。そのマスク何号かは自分だろう。
「で、マサくんが一体どうした?」
「若宮正弘享年29歳。あなたの部屋に出てくる首吊り霊の正体です」
「……は?」
伊織は言葉を失くして、無意識に口に手を当てた。
「な、なんでそんなこと分かるんだ……」
「特殊清掃の業者に、ちょっとツテがあって。あなたの部屋のクリーニングをした人と話させて貰ったんですよ」
「お前、いつの間に……」
特殊清掃の現場で、怪異に悩む業者は少なくない。何度か、調査を頼まれたことがあった。
「生前の写真は今お渡しした履歴書の証明写真だけ。遺品らしい遺品もありませんでしたが、アイドルの写真やポスターを結構買っていて、その中にあなたの写真もあったみたいです。Lamentだったときの」
「そうか……マサくん、そうだったのか」
伊織は、すぐには状況を飲み込めないという表情で若宮の写真に視線を落とし、少し痛々し気に眉を寄せた。
「でも、じゃあなんでマサ君が俺を襲うんだ」
「生前ファンだったのなら、やはり、貴方にだけ何か特別な思いがあるんだと思います。その……アイドルの写真をスクラップブックにしてたんですけど、なぜか一部ライターで炙ってあったらしくて」
「え」
スクラップブックはライターで炙られ、焦げていた。一番最後にあった伊織の写真は、顔が半分焦げて無惨なことになっていたらしい。それが明確に伊織だけを狙って炙ったのか、スクラップブック全体を燃やそうとして、たまたまそこだけ燃えたのか分からない。もし、意図的に炙ったのだとしたら、猟奇的だ。
「彼は特に、迷惑ファンとかではなかったんですか?」
ファン心理というのは時に暴走する。
伊織が成長したことで、誹謗中傷をしている多くが、元ファンだ。元から興味がなければ、テレビやネットで目にしなくなれば自然と存在自体を忘れてしまう。好きだからこそ、憎しみを募らせ、暴力性を増すことはよくあることだ。
狗飼が言わんとしていることに気づくと、伊織は視線を落とした。
「声変わりして、背が伸びた頃は、ファンからも色々言われたけど……マサくんからは特に何も言われたことはなかった。すごく大人しい人だったし。内心、どう思ってたか分からないけど」
「……あなたを襲う理由が、憎しみでないのだとしたら、呼んでいるのかもしれません」
「呼んで?」
「俺にストーカーの霊が憑いてるって言ったでしょう? もう何年も、ずっと呼ばれてますよ。一緒に死のうって毎日言われてます。霊ってみんな孤独なんですよ。だから本能的に、誰かを引きずり込もうとする」
今も背後から、ねっとりと絡みつくような女の視線と、ノイズのような呪詛の声が聞こえてくる。伊織は何か感じ取ったのか、ぶるりと肩を震わせた。
「その……お前大丈夫なのか。そういうの視て。おかしくなったりしないのか」
「もう慣れましたんで」
昔は、危ない時期もあった。呼び声に負けて死のうと思ったことも何度もある。踏みとどまれたのはあなたのおかげだとは、さすがに言えなかった。
「呼ばれてるのだとしたら、危険です。一刻も早く引っ越した方がいい」
「危険って……でも、実際に殺されたりはしないだろ? 霊なんだから……」
「もちろん。彼らには実体がありませんから、実際にあなたを刺したり、首を絞めたりと言ったことは出来ません。ただ、心が……引っ張られることがあります」
霊に魅入られて誘われ、自分からその一線を越えようとするのを何度か止めたことがある。そして、一度だけ止められなかったこともあった。
一見、それは自殺だ。
あんな元気だった人がなぜ自殺なんて。きっと誰にも言えない悩みがあったのだろう。周りは皆、無理やりにでもそう考えて納得するかもしれないが、ああいうのを「取り殺される」というのだろうと思った。
伊織は青ざめた顔で、長いこと黙って俯いていた。その様子は、何か心辺りがあるようで、狗飼は心配になった。
「もしかして、何かありましたか?」
「……ケーキが……」
「ケーキ?」
伊織はそれだけ言って青ざめたまま黙り込んだ後に、笑って言った。
「……いや、コーヒー飲んでたら、ケーキ食いたくなってきたなって」
冗談めかして笑った彼の天使のような笑顔は、凍り付き、青ざめていた。明らかに何か隠している。
「……また何か襲われるようなことがあったなら、本気で企画を中止してもらった方がいい。強要されるようなら告発してください。今の時代SNSとかあるし、途中でリタイアしたらアイドルやめろなんてパワハラですから、世論は味方しますし、それはそれでバズりますよ。俺やりましょうか? 大学の友人に、インフルエンサーみたいな奴がいるんで、拡散してくれま……」
「いい! 余計なことするな! これは大事な仕事なんだ!」
すごい剣幕でそう叫んだあと、彼はハッとして、バツの悪い顔をした。
「マジ、あれ以来、たまにちょっと音がするぐらいでなんにもねーから。マサくん、俺の大事な仕事の相棒だから勝手に取り上げんなよな」
そう言うと伊織は、「帰る。コーヒーご馳走様」と言って、逃げるように立ち去ろうとしたので、反射的にその細い手首を掴んだ。
「な、なんだよ」
「ケーキ買って来ます。夕飯の礼に」
そう言ってあの部屋に帰るのを引き止めると、伊織は今にも泣き出しそうなほど安堵した表情で笑った。
伊織には近所の一番有名なケーキ屋のケーキを買って来いと命令されたが、残念ながら10時近くではどこのケーキ屋も閉店しており、結局コンビニのスイーツコーナーで買ってきた。
伊織は気の進まない様子でそれを口にしたが、一口食べるとパアッと顔を輝かせた。
「えっ、美味い!」
「コンビニのケーキかよって散々文句言ってたじゃないですか」
「…………」
プラスチックスプーンをくわえたまま、ぷいっと首を横に向ける仕草は自分より年上とは思えない。
(小学生並にワガママだなこの人…)
テレビの中では子役の時から聞き分けよく大人顔向けの気遣いを見せていたから、同一人物とは思なかった。正直、同じ名前の別人にすら思える。
伊織はカップケーキを食べ終えると、その空の容器をじっと見つめて、横柄に、だがどこか緊張気味にモゴモゴと切り出した。
「……お前どうせ三食コンビニ弁当とかなんだろ。これからも、……その、たまに飯作ってやるよ」
「え?」
「俺も暇じゃないけど、今度の役作りのために、お前のその生意気な態度を参考にすることにしたから。そのついでに飯ぐらい作ってやる」
「役作り? え、三笠さんドラマに出るんですか?」
伊織は「まだ言えないけど」と言いながら自慢げにフフンと笑った。嬉しくて嬉しくて仕方ないという様子だ。
「言っとくけどモブ役じゃないから。すげーセリフ量だし。これからクソ忙しいけど、役作りの一環だから、たまにはお前の面倒も見てやるよ」
「……どんな役で俺を参考にするのか分かりませんけど、……ありがとうございます」
強がってはいるが、彼はあの部屋に一人でいるのが怖いのだ。
実家や友達の家に身を寄せるのが双方にとってベストだと思うが、「ヤラセ」状態になることを恐れている彼があくまで律儀にあの部屋に住み続けるつもりなら、恐怖を感じたときは気にせずいつでもきて欲しい。
だが、これ以上距離を縮めたくない複雑なファン心理が邪魔をして、少し歯切れの悪い返事になると、それを敏感に感じ取ったらしい伊織が微かに顔を曇らせたので狗飼は慌てて言った。
「三笠さんのご飯、また食べたいです。いつでも来てください」
「しょーがねーな」
そう言って安心したように笑う彼の顔があまりに心細そうで、合鍵を渡して半分ルームシェアのような生活を真剣に提案するべきかと思った。
あの霊の問題を解決するまでの間。無事解決したらその後自分は引っ越しをして、一ファンに戻ろう。
(とりあえず、あのファングッズ、どこかに預かってもらうか……)
狗飼はさしあたっての懸念事項にこめかみを押さえた。
「……で、話って?」
食事を終えて、狗飼が差し出したコーヒーを飲みつつ、伊織がそう切り出した。テレビだと、よくマグカップを両手持ちであざとく飲んでいたが、私生活ではそんなことはなく、ごく普通にスマホを片手に飲んでいる。
「この人に見覚えありますか?」
狗飼は手帳の間に挟んでいた一枚の写真を取り出して、伊織に渡した。
彼はそれを黙って受け取り、まじまじと眺めていたが、やがてすぐに「あっ」と声を上げた。
「マサくんだ! 昔時々、俺の握手会に来てくれてた」
「……握手会に来ただけの人、よく覚えてますね」
狗飼は写真に写る青白く痩せた男の顔に目を落とし、思わず感心して言った。男性アイドルの握手会会場において、男性ファンが来るのは珍しいから目立つかもしれないが、伊織の握手会は男性も多かったし、どう見ても、この人は一日で忘れてしまいそうな印象の薄い顔だった。
「ファンの顔は絶対忘れないって決めてるんだ。たまに恥ずかしいのかマスクとかサングラスして来る奴いて、ああいうのは覚えられなかったけど。そういうのはマスク1号、2号って覚えてた」
狗飼は思わずギクッとした。そのマスク何号かは自分だろう。
「で、マサくんが一体どうした?」
「若宮正弘享年29歳。あなたの部屋に出てくる首吊り霊の正体です」
「……は?」
伊織は言葉を失くして、無意識に口に手を当てた。
「な、なんでそんなこと分かるんだ……」
「特殊清掃の業者に、ちょっとツテがあって。あなたの部屋のクリーニングをした人と話させて貰ったんですよ」
「お前、いつの間に……」
特殊清掃の現場で、怪異に悩む業者は少なくない。何度か、調査を頼まれたことがあった。
「生前の写真は今お渡しした履歴書の証明写真だけ。遺品らしい遺品もありませんでしたが、アイドルの写真やポスターを結構買っていて、その中にあなたの写真もあったみたいです。Lamentだったときの」
「そうか……マサくん、そうだったのか」
伊織は、すぐには状況を飲み込めないという表情で若宮の写真に視線を落とし、少し痛々し気に眉を寄せた。
「でも、じゃあなんでマサ君が俺を襲うんだ」
「生前ファンだったのなら、やはり、貴方にだけ何か特別な思いがあるんだと思います。その……アイドルの写真をスクラップブックにしてたんですけど、なぜか一部ライターで炙ってあったらしくて」
「え」
スクラップブックはライターで炙られ、焦げていた。一番最後にあった伊織の写真は、顔が半分焦げて無惨なことになっていたらしい。それが明確に伊織だけを狙って炙ったのか、スクラップブック全体を燃やそうとして、たまたまそこだけ燃えたのか分からない。もし、意図的に炙ったのだとしたら、猟奇的だ。
「彼は特に、迷惑ファンとかではなかったんですか?」
ファン心理というのは時に暴走する。
伊織が成長したことで、誹謗中傷をしている多くが、元ファンだ。元から興味がなければ、テレビやネットで目にしなくなれば自然と存在自体を忘れてしまう。好きだからこそ、憎しみを募らせ、暴力性を増すことはよくあることだ。
狗飼が言わんとしていることに気づくと、伊織は視線を落とした。
「声変わりして、背が伸びた頃は、ファンからも色々言われたけど……マサくんからは特に何も言われたことはなかった。すごく大人しい人だったし。内心、どう思ってたか分からないけど」
「……あなたを襲う理由が、憎しみでないのだとしたら、呼んでいるのかもしれません」
「呼んで?」
「俺にストーカーの霊が憑いてるって言ったでしょう? もう何年も、ずっと呼ばれてますよ。一緒に死のうって毎日言われてます。霊ってみんな孤独なんですよ。だから本能的に、誰かを引きずり込もうとする」
今も背後から、ねっとりと絡みつくような女の視線と、ノイズのような呪詛の声が聞こえてくる。伊織は何か感じ取ったのか、ぶるりと肩を震わせた。
「その……お前大丈夫なのか。そういうの視て。おかしくなったりしないのか」
「もう慣れましたんで」
昔は、危ない時期もあった。呼び声に負けて死のうと思ったことも何度もある。踏みとどまれたのはあなたのおかげだとは、さすがに言えなかった。
「呼ばれてるのだとしたら、危険です。一刻も早く引っ越した方がいい」
「危険って……でも、実際に殺されたりはしないだろ? 霊なんだから……」
「もちろん。彼らには実体がありませんから、実際にあなたを刺したり、首を絞めたりと言ったことは出来ません。ただ、心が……引っ張られることがあります」
霊に魅入られて誘われ、自分からその一線を越えようとするのを何度か止めたことがある。そして、一度だけ止められなかったこともあった。
一見、それは自殺だ。
あんな元気だった人がなぜ自殺なんて。きっと誰にも言えない悩みがあったのだろう。周りは皆、無理やりにでもそう考えて納得するかもしれないが、ああいうのを「取り殺される」というのだろうと思った。
伊織は青ざめた顔で、長いこと黙って俯いていた。その様子は、何か心辺りがあるようで、狗飼は心配になった。
「もしかして、何かありましたか?」
「……ケーキが……」
「ケーキ?」
伊織はそれだけ言って青ざめたまま黙り込んだ後に、笑って言った。
「……いや、コーヒー飲んでたら、ケーキ食いたくなってきたなって」
冗談めかして笑った彼の天使のような笑顔は、凍り付き、青ざめていた。明らかに何か隠している。
「……また何か襲われるようなことがあったなら、本気で企画を中止してもらった方がいい。強要されるようなら告発してください。今の時代SNSとかあるし、途中でリタイアしたらアイドルやめろなんてパワハラですから、世論は味方しますし、それはそれでバズりますよ。俺やりましょうか? 大学の友人に、インフルエンサーみたいな奴がいるんで、拡散してくれま……」
「いい! 余計なことするな! これは大事な仕事なんだ!」
すごい剣幕でそう叫んだあと、彼はハッとして、バツの悪い顔をした。
「マジ、あれ以来、たまにちょっと音がするぐらいでなんにもねーから。マサくん、俺の大事な仕事の相棒だから勝手に取り上げんなよな」
そう言うと伊織は、「帰る。コーヒーご馳走様」と言って、逃げるように立ち去ろうとしたので、反射的にその細い手首を掴んだ。
「な、なんだよ」
「ケーキ買って来ます。夕飯の礼に」
そう言ってあの部屋に帰るのを引き止めると、伊織は今にも泣き出しそうなほど安堵した表情で笑った。
伊織には近所の一番有名なケーキ屋のケーキを買って来いと命令されたが、残念ながら10時近くではどこのケーキ屋も閉店しており、結局コンビニのスイーツコーナーで買ってきた。
伊織は気の進まない様子でそれを口にしたが、一口食べるとパアッと顔を輝かせた。
「えっ、美味い!」
「コンビニのケーキかよって散々文句言ってたじゃないですか」
「…………」
プラスチックスプーンをくわえたまま、ぷいっと首を横に向ける仕草は自分より年上とは思えない。
(小学生並にワガママだなこの人…)
テレビの中では子役の時から聞き分けよく大人顔向けの気遣いを見せていたから、同一人物とは思なかった。正直、同じ名前の別人にすら思える。
伊織はカップケーキを食べ終えると、その空の容器をじっと見つめて、横柄に、だがどこか緊張気味にモゴモゴと切り出した。
「……お前どうせ三食コンビニ弁当とかなんだろ。これからも、……その、たまに飯作ってやるよ」
「え?」
「俺も暇じゃないけど、今度の役作りのために、お前のその生意気な態度を参考にすることにしたから。そのついでに飯ぐらい作ってやる」
「役作り? え、三笠さんドラマに出るんですか?」
伊織は「まだ言えないけど」と言いながら自慢げにフフンと笑った。嬉しくて嬉しくて仕方ないという様子だ。
「言っとくけどモブ役じゃないから。すげーセリフ量だし。これからクソ忙しいけど、役作りの一環だから、たまにはお前の面倒も見てやるよ」
「……どんな役で俺を参考にするのか分かりませんけど、……ありがとうございます」
強がってはいるが、彼はあの部屋に一人でいるのが怖いのだ。
実家や友達の家に身を寄せるのが双方にとってベストだと思うが、「ヤラセ」状態になることを恐れている彼があくまで律儀にあの部屋に住み続けるつもりなら、恐怖を感じたときは気にせずいつでもきて欲しい。
だが、これ以上距離を縮めたくない複雑なファン心理が邪魔をして、少し歯切れの悪い返事になると、それを敏感に感じ取ったらしい伊織が微かに顔を曇らせたので狗飼は慌てて言った。
「三笠さんのご飯、また食べたいです。いつでも来てください」
「しょーがねーな」
そう言って安心したように笑う彼の顔があまりに心細そうで、合鍵を渡して半分ルームシェアのような生活を真剣に提案するべきかと思った。
あの霊の問題を解決するまでの間。無事解決したらその後自分は引っ越しをして、一ファンに戻ろう。
(とりあえず、あのファングッズ、どこかに預かってもらうか……)
狗飼はさしあたっての懸念事項にこめかみを押さえた。
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