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1巻
1-3
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平然と言い返したものの、毎晩一樹と電話で話していることを思うと、少しだけうしろめたい。
「そうなんだ。ねえ、そんなことより、一日だけでいいから私と担当を代わって。クラブフロアに入るキーを貸して」
この発言にはオフィスにいるほかの従業員たちが、またかという顔でこちらを向いた。ゆりは、うんざりしてきた。
「代わるのは構わない。でも、あなたが直接木下マネージャーに許可を取って」
「こっそり代わればいいじゃん。アンタが遅刻して、代わりに私がスイートに迎えに行くの。正面から許可を取りにいっても、どうせあのオバサン、うんとは言わないよ。アンタと同じで頭が固いから」
綾子は吐き捨てるように言う。オバサンとは静香のことを指しているのだろう。
「悪いけど、わたしはわざと遅刻したり、上司の指示を無視したりとかしないから」
「ほーら、頭が固い……。ていうか優等生気取りなんだ」
「好きに言えば。鉄仮面でも優等生でもなんとでも」
くるりと背を向けると、綾子はゆりの前に回り込んだ。
「ねえ、ほんのちょっとでいいから……。十分、いえ五分でいいから彼に会いたい」
「だから……。マネージャーに頼んで。わたしにそんな権限ないし」
「……もう。融通が利かないんだから。いいわよ、ほかの人に頼むから!」
大声で言い、綾子は怒ってオフィスから出ていった。
「ひゃー、感じわるー。ゆりさん、大丈夫ですか?」
うしろから声がして、新條がドアからひょっこり顔を出した。今日は彼と一緒に早番だ。
「大丈夫よ。それより、フロントは大丈夫?」
「今、主任が来てくれました。資料を取ってこいって、頼まれたんですよ。ゆりさん、あの人には気をつけたほうがいいですよ」
「あの人。ああ……、中園さんね」
「うん……」
新條はゆりのそばまで来て、心配そうな顔でうなずく。
「中園さんはゆりさんに嫉妬してるんですよ。クールなのにモテて周りから頼りにされてる。相当ライバル心を燃やしてますよ。社長の親戚だし、あまり怒らせないほうがいいです」
「ライバル心って言われても……。同じ部署じゃないし」
「それはそうなんですけど、なんかそのうち爆発しそうで怖いなあ……」
新條はゆりを心配してくれているのだ。こういうところは彼のよい一面だと思う。
「大丈夫よ。バックに社長がいるからって、わたしを追い出したりはできないから」
ゆりは毅然と言う。いくら嫌いな同僚だからと言って、さすがにそこまでしないだろう。社長も経営者だから分別はあるはず……。と、そのときは思ったのだが――
金曜日の午後、今後について人事部長と面談した際に、ゆりは衝撃の事実を告げられる。
「君との雇用契約は更新しないことが決定した。十月末で契約が切れる。そのあとは自由だから」
「はい?」
「十一月からは自由だと言ったんだ。残った有給は買い取りもできるが、消化するほうがいいんじゃないか? 仕事もだが、寮を出なくちゃならんので、住まいも探さなきゃならないだろ?」
最後のほうだけ人事部長は憐れむような口調になる。
つまりクビだ。さあっと、全身が緊張した。
「理由を教えてください。わたしになにか落ち度があったのでしょうか」
「これは社長の言葉だが、君は職場の和を乱していると、現場から強い訴えがあったそうだ」
「和を乱す……?」
「そうだ。思い当たる節があるだろう」
人事部長が気まずそうな顔をする。その様子を見てピンときた。社長と直接対話ができてなおかつ、ゆりに不満がある者――綾子だ。
なるほど、そういうことか。新條の心配が現実になったらしい。だとしたら、どうあがいても無駄だろう。
ゆりは目を閉じて心を落ち着け、やがて顔を上げた。
「わかりました。では有給は使わせていただきます」
それだけ言って、会議室を出る。廊下の壁に背中を預け、思わず天井を見上げる。
家を探さなきゃ――
仕事もだが、まずは住まいだ。ゆりは思わずため息をもらしていた。
勤務時間が終わる頃には、ゆりの退職と、その原因が綾子ではないかという噂が社員の間に広まっていた。
なにも聞かされていなかった静香は、人事部長に説明を求めに行ったが、結果は変わらなかった。インカムや携帯には同僚たちからのメッセージが相次ぎ、新條からは今夜フロントのメンバーで集まろうと誘われた。けれど今後のことを考えたいからと断り、定時で上がったゆりは駅前をぶらついてから寮に戻った。
みんなは騒いでいるが、不思議と怒りは感じていなかった。綾子への接し方を間違えた自分が悪いのだ。気遣ってもらえるのは嬉しいのだが、この辺が諦め時なのだろう。
コンビニで缶ビールとつまみを買い込み寮に戻る。ビールを飲みながらパソコンで転職サイトを開き、あてもなく検索を始める。
そのとき、スマートフォンが鳴った。一樹からだ。
「聞いたぞ。クビになったって?」
一樹はいきなりそう切り出した。今日の午前中に都内で仕事があるとかで、彼は昨夜のうちに東京へ戻っている。予定では今夜また別府へ来ると聞いているが。
「今、どちらですか? どうしてそれを……」
「さっきホテルに戻ったとこ。このあと晩飯を兼ねて、スタッフと俳優陣でミーティングがあるんだ。プロデューサーがいい店を押さえてくれたらしくて」
そう前置きしてから、一樹は興味深いことを言う。
「いつもはホテルに着くと木下さんが迎えに来てくれるんだが、今日は中園さんという若い女の子だった。彼女からお前の悪口を延々と聞かされたよ。鉄仮面だの仕事人間だのと……。しかもホテル従業員としてあるまじきことに、俺と一緒に写真を撮りたいと言い出す始末。まあ、断ったけどな」
「中園さんが」
「ああ。ここのスタッフはプロフェッショナルが多かっただけに、躾がなってないんで驚いたよ。彼女、新人だろ? もっと教育してから現場に出さないと、俺じゃなければクレーム出されるところだぞ?」
「申し訳ありません。じゃあ、退職のことも彼女から」
「別にお前を責めてないよ。だが退職のことは彼女から聞いた。十月でサヨウナラだと言ってたな。で、お前、このあとはどうする。別府で職探しするのか?」
――綾子め。
そんな内輪の話を、どうしてゲストの前でするのだろう。
「あと一カ月あるのでゆっくり考えます。大丈夫、いざとなれば、どんな仕事でもしますから」
「いっそ帰ってこいよ、東京に」
「え?」
「お前の力になるよ、家も仕事も全部面倒見てやれる。だから俺を頼れ。昔みたいに」
彼を頼る? 昔の……子どもの頃のように?
思わず、どきりとする。一樹のことは確かに昔から知っているが、十年も会っていなかった相手だ。彼に負担をかけるだけのこの申し出を、受けるのは気が引ける。
「できれば会って相談したいな。明日の午後、時間取れないか? 会わせたい人がいるんだ」
「福山様。個人的にお会いしたりはしないと……」
「いい加減、福山様はやめろ。俺は一樹だ。お前の幼なじみのカズくんだって」
怒ってはいない。むしろ彼は笑っていた。不思議と胸のつかえが取れていくように感じる。
「お客様とは距離を保つ……。そのプロ意識は立派だが、そうして尽くしてきた会社がこの仕打ちだ。これ以上、義理立てする必要もないだろう」
そう言われると心が揺れた。理想を言いたてても仕方ない。家も職も失った状態では生きていけないのだから。明日は久々の休みだ。就活だと思って話を聞いてみようか。
「わかりました。待ち合わせは何時にいたしますか?」
一樹の誘いを受ける形で、土曜日の午後三時、ゆりは別府駅のバスターミナル付近で、高津の運転するSUV車に乗り込んだ。
一樹が「会わせたい」と言っていたその人物は、後部座席に悠然と座っていた。ふくよかな顔を女優のようにメイクし、髪は華やかにアップ。シートベルトがはち切れそうな堂々とした体躯に、ブルーのロングドレスをまとっていた。
――女……? にしてはガタイがいいような……
目が合ってゆりが思わずひるむと、相手は大きなサファイアの指輪をはめたふっくらとした手を口元に添えた。
「言っとくけど男よ。でもゲイじゃないの。女装家ってことにしといて」
「は、はい……」
野太い声だ。そして妙に貫禄がある。
「まあ、おかけなさい。すぐに車を出すから」
男は芸能プロダクション「アデル」の社長で、安住輝彦と名乗った。ゆりは先に乗っていた一樹と並んで、対面するように反転させたシートに座る。一樹は撮影から直行したらしく、涼しげな麻のジャケットを着て髪をスタイリッシュにセットしていた。
テレビで見た人気俳優、福山一樹がそこにいる。
助手席には安住の秘書だというスーツ姿の男性もいて、五人が乗った車は土曜の午後の街を、海とは反対方向に走りだす。すぐに安住が口を開いた。
「正直、こんな美人さんだとは思わなかったワ、一樹。しかもマジメそうだし」
「マジメを通り越して、堅物ですよ。こいつ」
「へえー。そうなの……。こんなとこに呼び出してごめんなさいね、ゆりさん。でも人には聞かせられない話なのよ。手短に説明するからしばらく我慢して」
「はい……」
「あなたのことはすべて一樹から聞いたワ。住む場所と仕事を同時に失くすなんて大変よね。それをふまえての提案なんだけど。アナタ、一樹の彼女にならない?」
――え……?
「彼女? 恋人という意味の彼女……ですか?」
「そう。ただしニセモノの彼女よ。一樹のマンションに一緒に住んで、たまーに街に出て一樹とイチャイチャして、彼女のフリをしてマスコミに写真を撮られてもらいたいの」
「一緒に住んで写真を撮られる……?」
びっくりして、思わず隣の一樹を見た。ゆうべの電話で、力になると彼は言った。これがそうなのか?
「落ち着け。あくまで彼女のフリだ。一緒に住むと言っても部屋は別だから」
一樹は冷静だった。
「引き受けてくれるなら、代わりにタダで部屋を提供するよ。生活費はすべて出すから家事もやってほしいな。ホテルマンだし、お前そういうの得意だろ? まあ、住み込みの家政婦みたいなもんだ」
悪くないだろう……? とほほ笑んでから、一樹はふいに顔を曇らせる。
「実は今年の春頃、俺が二十歳のモデルと熱愛中だという記事が三流週刊誌に出たんだ。もちろん事実無根で釈明会見も開いたが、いまだに疑ってる奴らがいる」
「もしかして、うちのホテルに現れた記者の方々ですか?」
「そう。週刊ゴシップ。ほんとにムカつく奴らだ」
一樹は忌々しそうに髪をかき上げた。安住が補足する。
「記者にも辟易してるけど、お相手の事務所の社長を怒らせたことが大問題なのよ。あちらの社長さんは芸能界のドンと呼ばれる人で、自分の秘蔵っ子の初スキャンダルにカンカン。ほんとになにもなかったのかまだ疑ってて、このままだと一樹の仕事に圧力をかけてきそうで怖いのよ……」
安住の柔らかい仕草と野太い声があまりにもミスマッチで、今ひとつ危機感がないのだが、ゆりにはだんだんと話が見えてきた。
「つまりわたしが福山様の同棲中の彼女のフリをして、モデルの方とはなにもないんだと、あちらの社長や世間に知らしめればいい……、ということでしょうか」
「そう、そうなのよー。もう、ゆりちゃん頭よすぎぃー」
安住はシートから身を乗り出すようにして歓喜した。大柄な体躯が動いたせいで、気のせいか走行中の車が弾んだように感じられた。
「でも、今度はわたしとの熱愛報道でマスコミに追われると思うのですが」
「それはなんとかなる。とりあえず向こうの社長の怒りをしずめることが大事なんだよ」
一樹は言った。なるほどと、ゆりはうなずく。
「だとしたら、ほかに引き受けてくださる女性はいくらでもいそうです。なぜわたしに……」
「それはアナタがプロ意識の高いお嬢さんだからよ。もう、わかってるでしょ?」
安住は少しだけ意地悪そうな顔をした。
「ホテルの仕事は完璧で、一樹を前にしても色目を使わない。ひとり暮らしで、きちんと自炊もしてる。そんなアナタなら一樹のお世話も含めて役目を全うするだろうって高津が言うの。でも一番の理由はアナタがいいって、一樹が言ったことかしら。幼なじみのアナタを信頼してるのね」
「そうおっしゃいましても……」
顔が引きつりそうになる。褒めてもらえたのは嬉しいが、十年も会っていなかった自分を、こんな簡単に信頼してしまうなんて、一樹は警戒心が足りない気がする。それにこの取り引きに応じたら、マスコミに狙われることになるのだから、それなりにリスクがある。
「もちろんお願いするからには、きちんとお礼はするワ。モデルとの噂を完全否定することに成功したら、それなりの金額をお支払いする。その後も、お望みであれば次の仕事もお世話するわよ。こう見えて、うちはいろんな事業を展開してるんだから」
自慢げに言ってから、安住はようやく表情を引き締めた。
「これはビジネスよ。〝彼女〟という仕事をして成功報酬を得る。どう? 悪くないでしょ?」
「〝彼女〟という仕事?」
「まあ、〝プロ彼女〟ってとこだな」
黙って聞いていた一樹が、そうつけ足した。
プロ彼女――。以前どこかで聞いたことがある意味とは違うものの、依頼された内容的にそうとも呼べる。いずれにせよあまりいい意味合いではないが、報酬がもらえるとなると背に腹はかえられない。別に一樹の愛人になれというわけではなさそうだし、考えてみてもいいかもしれない。
「もちろん、お前のプライバシーは守るよ」
考え込むゆりの不安を拭い去るように一樹が言う。
「その点は万全を期す。なにかあっても俺が絶対にお前を守るから」
「福……、いえ、一樹さん」
一樹のストレートな物言いにはいまだに慣れないが、心は少しずつ固まってきた。
「とりあえず今夜ひと晩考えてみない? あたし、今夜は仕事で博多に泊まるの。明日の朝にでも返事をくれたらいいから。ね!」
安住がそう言ってくれたので、ゆりはお言葉に甘えることにした。
車は、午後四時には由布院に着いていた。秘書を伴い、異装のまま博多行きの特急電車に乗り込んだ安住を駅で見送り、高津ともいったん別行動をとることにした。ゆりは一樹とふたり、観光客でにぎわう由布院のメインストリートに向かう。週末の原宿に比べればどうってことない人出だが、それでも人目を気にしないわけにはいかない。
「ビクビクするな。普通に前を向いて歩け」
一樹はただサングラスをかけただけで、平然と歩いていく。ゆりもサングラスとキャスケットを目深にかぶって、背の高い彼のうしろを歩いた。足が長くて見とれてしまう。中学時代たまに一緒に下校したが、並んで歩くことが自慢だったのを思い出す。
ネットの情報では、一樹は大学二年のときにモデルとしてスカウトされたとあった。ちょうどゆりの両親が亡くなった頃だ。葬儀の日に彼はゆりの肩を抱いて、ずっと慰めてくれたのだが、もしかしたらそのときにはすでに、今の事務所と契約していたのかもしれない。
当時のことを思い起こしていると、一樹は立ち止まり手を差し出してきた。ゆりは黙って首を横に振る。
「昔はよく手をつないだのにな」
「もう、子どもじゃありません」
「だからって、仲良くしちゃいけないわけじゃない。お互い独身だし、義理立てする相手はいないし……、あ、いないよな?」
いまさらそれを聞くのかと思ったが、ゆりは素直に申告した。
「いません。仕事ばかりしてる女は嫌われるので」
「なんだそれ」
あっけらかんと笑った一樹の声を聞きつけたのか、前を歩いていた女性グループが振り返った。ゆりは慌てて一樹の腕を引き、横道に入ったところにあるカフェに連れていく。古民家を改装した和モダンなカフェの店内は、夕方だからか、人がまばらだった。
「ふーん。落ち着く店だな。よく来るのか?」
青々とした芝庭を眺められる窓際席に案内されると、彼はそんなふうに聞いてきた。カップルシートのようなボックス席で、庭園に向かって並んで座る。
「休みの日に、たまに。人気店らしいですが、平日はたいてい空いてるんです」
「わかる。俺も平日に休みが入ることが多いんで、ふらりとどこかに行くんだ。お前、こっちの生活になじんでるんだな」
「ええ。二年もいますから……。親もいないし、行ったことのない街に住んでみたかったんです」
綾子とはそりが合わなかったが、職場にも同僚にも恵まれた二年だったと思う。
そこでオーダーした飲み物が届く。店員が去ると、一樹はサングラスを外した。ゆりもそれにならう。
「偉いな、頑張ってきたんだ」
「まあ、自分が頑張るしかなかったので……。わたし、この夏で奨学金の返済が終わったんです。今まで少し無茶して働いたけど、頑張ってよかったと思ってます」
「ゆり」
「わたしの子どもの頃の夢を覚えてますか?」
「ケーキ屋さんだろ?」
自分で質問したものの、覚えていてくれたことに驚いた。一樹は冷えたコーヒーをひと口飲んで至福の笑みを浮かべると、テーブルに頬杖をついて誘惑するような色っぽい目で見つめてきた。
「でも幼稚園のときにはカズくんのおよめさんになりたいって言ってくれたよな。兄貴が悔しがって泣いたのを覚えてる」
「そんなこと、ありましたっけ?」
ゆりもカフェラテをひと口飲み、記憶の糸をたどる。一樹の兄は大樹という名だ。社交的な弟と対照的にクールで寡黙な青年だった。
「なんだ、笑えるじゃん」
「え?」
自分でも気づかぬうちに、ゆりは笑みを浮かべていたらしい。恥ずかしくなってつい、片手で頬を押さえてしまう。
「やっと、俺の知ってるゆりに会えた気がするな。ホテルにいるお前は、いつもすましてる」
「いえ……、これはその……」
ゆりはもうひと口カフェラテを飲み、呼吸を整えた。
「か、一樹さんの夢はサッカー選手になってワールドカップで優勝することでしたよね。だからわたし気づかなかったんです、あなただって」
「嫌なことを思い出させるな。大学に入ったとき、自分の限界を思い知ったんだよ」
「ちっとも恥ずかしいことじゃないです。ワールドカップは無理だとしても、人に夢や希望を与える、素敵な仕事についてる。わたしの子どもの頃の夢――ケーキ屋さんになる夢は、今からでも叶うでしょうか? 東京で再出発して、学校に通い直せばわたしも……」
話しているうちに、ゆりの心の中に様々な思いが渦巻く。とっくの昔に諦めてしまっていた夢。それにもう一度、自分も手を伸ばしてみてもいいような気がしてくる。一樹といると、幸せな未来を描いていた頃の明るく前向きな気持ちが蘇った。
「ゆり」
もう一度呼ばれ、ゆりは隣に座る幼なじみの顔を見つめる。
「ほんとうに、ただでお世話になっていいんですか?」
「もちろん。空いた時間は好きなことをしていいよ」
「アルバイトをしても? お金を貯めて、いずれパティシエになる専門学校に通うのはどう思います?」
「ぜんっぜん悪くない。クールだな」
笑われなかったのでほっとした。
「じゃあ……確認なのですが、彼女のフリって、たとえばどんなことをすればいいのでしょう」
「俺と一緒に人ごみを歩くだけでいいだろう。俺は顔出しするが、お前は変装したらいい」
「それだけ、それだけでいいんですか?」
「ああ。スーパーの袋を提げて、恋人つなぎをして同じマンションに出入りしていたら、普通は同棲してると思うだろうな」
頭の中でイメージする。夜の繁華街を、彼と手をつないだり腕を組んだりして歩くのだ。大丈夫、きっとできる。相手は彼だ、知らない人じゃない。そう考えるとなぜか安心できた。それにこれはビジネス。自分に課せられた仕事だと思えばいい。
「熱愛報道を完全に消し去れたら、そこで終わりにしていいのですよね」
「ああ。うちの社長のことだから、その辺の契約はきちんと書面にまとめるよ」
「わかりました。ビジネスですよね。ではお受け……」
「待て待て待て……!」
一樹が目を丸くして遮った。
「ひと晩考えなくていいのか? 朝になったら気が変わるかもしれないぞ」
「変わってもいいのですか?」
「いや、困る」
「だったら、わたしの気が変わらないうちに安住社長にご報告しましょう」
プロ彼女、お受けしますと。
第二章 仕事のためならなんでもします
十一月、東京。
屋代一樹がゆりと〝プロ彼女〟の契約をして一カ月と少しが過ぎた。十一月に入ってすぐのある日の午後、彼はテレビ局内の楽屋で打ち合わせをしていた。このあと、トーク番組の収録がある。
映画の宣伝で訪れていたドイツから、今朝帰国した。長時間のフライトから仕事に直行したせいか、頭がズキズキする。しかし、夕方まで予定がびっしりだ。
「もう一度確認なんだけど、一樹くんの恋愛についての質問も大丈夫だよね?」
テーブルの上に開いた台本をペンで指しながら、男性ディレクターが念を押してくる。トークの後半ではMCが、一樹の恋愛観や結婚について質問する流れとなっているのだ。
「全然OKですよ。なんでもどうぞ」
一樹は余裕の笑みでうなずく。デビュー以来その手の質問はずっとNGだったが、例のニセの熱愛報道を完全に打ち消すために、事務所が方針転換したのである。
「ずばり、彼女はいるのかどうかも聞いちゃうよ?」
「どうぞどうぞ。今まで話さなかったことも今日は話しますから」
頭痛を我慢してにっこり笑うと、隣で高津がこくこくと首を縦に振った。筋書きはもうできている。人気俳優、福山一樹には遠距離恋愛中の恋人がいる。相手は年下の一般女性だから、交際は極秘裏に続けていた。
しかしモデルとの熱愛報道が出たことで彼女が心を痛め、一樹はそれが誤報だということを世間に証明するためにも、恋人の存在を公表する決意をした――
これが、安住社長の考えたストーリーだ。
――まあ、悪くないな。
一樹はテーブルに頬杖をついたまま、にやりと口角を上げた。
別府のホテルを辞めたゆりは、おととい一樹のマンションに越してきた。あんなホテル、有給を使ってさっさと辞めてしまえと言ったのだが、仕事を探す手間が省けたからと、彼女はぎりぎりまで勤務することを望んだのだ。
「そうなんだ。ねえ、そんなことより、一日だけでいいから私と担当を代わって。クラブフロアに入るキーを貸して」
この発言にはオフィスにいるほかの従業員たちが、またかという顔でこちらを向いた。ゆりは、うんざりしてきた。
「代わるのは構わない。でも、あなたが直接木下マネージャーに許可を取って」
「こっそり代わればいいじゃん。アンタが遅刻して、代わりに私がスイートに迎えに行くの。正面から許可を取りにいっても、どうせあのオバサン、うんとは言わないよ。アンタと同じで頭が固いから」
綾子は吐き捨てるように言う。オバサンとは静香のことを指しているのだろう。
「悪いけど、わたしはわざと遅刻したり、上司の指示を無視したりとかしないから」
「ほーら、頭が固い……。ていうか優等生気取りなんだ」
「好きに言えば。鉄仮面でも優等生でもなんとでも」
くるりと背を向けると、綾子はゆりの前に回り込んだ。
「ねえ、ほんのちょっとでいいから……。十分、いえ五分でいいから彼に会いたい」
「だから……。マネージャーに頼んで。わたしにそんな権限ないし」
「……もう。融通が利かないんだから。いいわよ、ほかの人に頼むから!」
大声で言い、綾子は怒ってオフィスから出ていった。
「ひゃー、感じわるー。ゆりさん、大丈夫ですか?」
うしろから声がして、新條がドアからひょっこり顔を出した。今日は彼と一緒に早番だ。
「大丈夫よ。それより、フロントは大丈夫?」
「今、主任が来てくれました。資料を取ってこいって、頼まれたんですよ。ゆりさん、あの人には気をつけたほうがいいですよ」
「あの人。ああ……、中園さんね」
「うん……」
新條はゆりのそばまで来て、心配そうな顔でうなずく。
「中園さんはゆりさんに嫉妬してるんですよ。クールなのにモテて周りから頼りにされてる。相当ライバル心を燃やしてますよ。社長の親戚だし、あまり怒らせないほうがいいです」
「ライバル心って言われても……。同じ部署じゃないし」
「それはそうなんですけど、なんかそのうち爆発しそうで怖いなあ……」
新條はゆりを心配してくれているのだ。こういうところは彼のよい一面だと思う。
「大丈夫よ。バックに社長がいるからって、わたしを追い出したりはできないから」
ゆりは毅然と言う。いくら嫌いな同僚だからと言って、さすがにそこまでしないだろう。社長も経営者だから分別はあるはず……。と、そのときは思ったのだが――
金曜日の午後、今後について人事部長と面談した際に、ゆりは衝撃の事実を告げられる。
「君との雇用契約は更新しないことが決定した。十月末で契約が切れる。そのあとは自由だから」
「はい?」
「十一月からは自由だと言ったんだ。残った有給は買い取りもできるが、消化するほうがいいんじゃないか? 仕事もだが、寮を出なくちゃならんので、住まいも探さなきゃならないだろ?」
最後のほうだけ人事部長は憐れむような口調になる。
つまりクビだ。さあっと、全身が緊張した。
「理由を教えてください。わたしになにか落ち度があったのでしょうか」
「これは社長の言葉だが、君は職場の和を乱していると、現場から強い訴えがあったそうだ」
「和を乱す……?」
「そうだ。思い当たる節があるだろう」
人事部長が気まずそうな顔をする。その様子を見てピンときた。社長と直接対話ができてなおかつ、ゆりに不満がある者――綾子だ。
なるほど、そういうことか。新條の心配が現実になったらしい。だとしたら、どうあがいても無駄だろう。
ゆりは目を閉じて心を落ち着け、やがて顔を上げた。
「わかりました。では有給は使わせていただきます」
それだけ言って、会議室を出る。廊下の壁に背中を預け、思わず天井を見上げる。
家を探さなきゃ――
仕事もだが、まずは住まいだ。ゆりは思わずため息をもらしていた。
勤務時間が終わる頃には、ゆりの退職と、その原因が綾子ではないかという噂が社員の間に広まっていた。
なにも聞かされていなかった静香は、人事部長に説明を求めに行ったが、結果は変わらなかった。インカムや携帯には同僚たちからのメッセージが相次ぎ、新條からは今夜フロントのメンバーで集まろうと誘われた。けれど今後のことを考えたいからと断り、定時で上がったゆりは駅前をぶらついてから寮に戻った。
みんなは騒いでいるが、不思議と怒りは感じていなかった。綾子への接し方を間違えた自分が悪いのだ。気遣ってもらえるのは嬉しいのだが、この辺が諦め時なのだろう。
コンビニで缶ビールとつまみを買い込み寮に戻る。ビールを飲みながらパソコンで転職サイトを開き、あてもなく検索を始める。
そのとき、スマートフォンが鳴った。一樹からだ。
「聞いたぞ。クビになったって?」
一樹はいきなりそう切り出した。今日の午前中に都内で仕事があるとかで、彼は昨夜のうちに東京へ戻っている。予定では今夜また別府へ来ると聞いているが。
「今、どちらですか? どうしてそれを……」
「さっきホテルに戻ったとこ。このあと晩飯を兼ねて、スタッフと俳優陣でミーティングがあるんだ。プロデューサーがいい店を押さえてくれたらしくて」
そう前置きしてから、一樹は興味深いことを言う。
「いつもはホテルに着くと木下さんが迎えに来てくれるんだが、今日は中園さんという若い女の子だった。彼女からお前の悪口を延々と聞かされたよ。鉄仮面だの仕事人間だのと……。しかもホテル従業員としてあるまじきことに、俺と一緒に写真を撮りたいと言い出す始末。まあ、断ったけどな」
「中園さんが」
「ああ。ここのスタッフはプロフェッショナルが多かっただけに、躾がなってないんで驚いたよ。彼女、新人だろ? もっと教育してから現場に出さないと、俺じゃなければクレーム出されるところだぞ?」
「申し訳ありません。じゃあ、退職のことも彼女から」
「別にお前を責めてないよ。だが退職のことは彼女から聞いた。十月でサヨウナラだと言ってたな。で、お前、このあとはどうする。別府で職探しするのか?」
――綾子め。
そんな内輪の話を、どうしてゲストの前でするのだろう。
「あと一カ月あるのでゆっくり考えます。大丈夫、いざとなれば、どんな仕事でもしますから」
「いっそ帰ってこいよ、東京に」
「え?」
「お前の力になるよ、家も仕事も全部面倒見てやれる。だから俺を頼れ。昔みたいに」
彼を頼る? 昔の……子どもの頃のように?
思わず、どきりとする。一樹のことは確かに昔から知っているが、十年も会っていなかった相手だ。彼に負担をかけるだけのこの申し出を、受けるのは気が引ける。
「できれば会って相談したいな。明日の午後、時間取れないか? 会わせたい人がいるんだ」
「福山様。個人的にお会いしたりはしないと……」
「いい加減、福山様はやめろ。俺は一樹だ。お前の幼なじみのカズくんだって」
怒ってはいない。むしろ彼は笑っていた。不思議と胸のつかえが取れていくように感じる。
「お客様とは距離を保つ……。そのプロ意識は立派だが、そうして尽くしてきた会社がこの仕打ちだ。これ以上、義理立てする必要もないだろう」
そう言われると心が揺れた。理想を言いたてても仕方ない。家も職も失った状態では生きていけないのだから。明日は久々の休みだ。就活だと思って話を聞いてみようか。
「わかりました。待ち合わせは何時にいたしますか?」
一樹の誘いを受ける形で、土曜日の午後三時、ゆりは別府駅のバスターミナル付近で、高津の運転するSUV車に乗り込んだ。
一樹が「会わせたい」と言っていたその人物は、後部座席に悠然と座っていた。ふくよかな顔を女優のようにメイクし、髪は華やかにアップ。シートベルトがはち切れそうな堂々とした体躯に、ブルーのロングドレスをまとっていた。
――女……? にしてはガタイがいいような……
目が合ってゆりが思わずひるむと、相手は大きなサファイアの指輪をはめたふっくらとした手を口元に添えた。
「言っとくけど男よ。でもゲイじゃないの。女装家ってことにしといて」
「は、はい……」
野太い声だ。そして妙に貫禄がある。
「まあ、おかけなさい。すぐに車を出すから」
男は芸能プロダクション「アデル」の社長で、安住輝彦と名乗った。ゆりは先に乗っていた一樹と並んで、対面するように反転させたシートに座る。一樹は撮影から直行したらしく、涼しげな麻のジャケットを着て髪をスタイリッシュにセットしていた。
テレビで見た人気俳優、福山一樹がそこにいる。
助手席には安住の秘書だというスーツ姿の男性もいて、五人が乗った車は土曜の午後の街を、海とは反対方向に走りだす。すぐに安住が口を開いた。
「正直、こんな美人さんだとは思わなかったワ、一樹。しかもマジメそうだし」
「マジメを通り越して、堅物ですよ。こいつ」
「へえー。そうなの……。こんなとこに呼び出してごめんなさいね、ゆりさん。でも人には聞かせられない話なのよ。手短に説明するからしばらく我慢して」
「はい……」
「あなたのことはすべて一樹から聞いたワ。住む場所と仕事を同時に失くすなんて大変よね。それをふまえての提案なんだけど。アナタ、一樹の彼女にならない?」
――え……?
「彼女? 恋人という意味の彼女……ですか?」
「そう。ただしニセモノの彼女よ。一樹のマンションに一緒に住んで、たまーに街に出て一樹とイチャイチャして、彼女のフリをしてマスコミに写真を撮られてもらいたいの」
「一緒に住んで写真を撮られる……?」
びっくりして、思わず隣の一樹を見た。ゆうべの電話で、力になると彼は言った。これがそうなのか?
「落ち着け。あくまで彼女のフリだ。一緒に住むと言っても部屋は別だから」
一樹は冷静だった。
「引き受けてくれるなら、代わりにタダで部屋を提供するよ。生活費はすべて出すから家事もやってほしいな。ホテルマンだし、お前そういうの得意だろ? まあ、住み込みの家政婦みたいなもんだ」
悪くないだろう……? とほほ笑んでから、一樹はふいに顔を曇らせる。
「実は今年の春頃、俺が二十歳のモデルと熱愛中だという記事が三流週刊誌に出たんだ。もちろん事実無根で釈明会見も開いたが、いまだに疑ってる奴らがいる」
「もしかして、うちのホテルに現れた記者の方々ですか?」
「そう。週刊ゴシップ。ほんとにムカつく奴らだ」
一樹は忌々しそうに髪をかき上げた。安住が補足する。
「記者にも辟易してるけど、お相手の事務所の社長を怒らせたことが大問題なのよ。あちらの社長さんは芸能界のドンと呼ばれる人で、自分の秘蔵っ子の初スキャンダルにカンカン。ほんとになにもなかったのかまだ疑ってて、このままだと一樹の仕事に圧力をかけてきそうで怖いのよ……」
安住の柔らかい仕草と野太い声があまりにもミスマッチで、今ひとつ危機感がないのだが、ゆりにはだんだんと話が見えてきた。
「つまりわたしが福山様の同棲中の彼女のフリをして、モデルの方とはなにもないんだと、あちらの社長や世間に知らしめればいい……、ということでしょうか」
「そう、そうなのよー。もう、ゆりちゃん頭よすぎぃー」
安住はシートから身を乗り出すようにして歓喜した。大柄な体躯が動いたせいで、気のせいか走行中の車が弾んだように感じられた。
「でも、今度はわたしとの熱愛報道でマスコミに追われると思うのですが」
「それはなんとかなる。とりあえず向こうの社長の怒りをしずめることが大事なんだよ」
一樹は言った。なるほどと、ゆりはうなずく。
「だとしたら、ほかに引き受けてくださる女性はいくらでもいそうです。なぜわたしに……」
「それはアナタがプロ意識の高いお嬢さんだからよ。もう、わかってるでしょ?」
安住は少しだけ意地悪そうな顔をした。
「ホテルの仕事は完璧で、一樹を前にしても色目を使わない。ひとり暮らしで、きちんと自炊もしてる。そんなアナタなら一樹のお世話も含めて役目を全うするだろうって高津が言うの。でも一番の理由はアナタがいいって、一樹が言ったことかしら。幼なじみのアナタを信頼してるのね」
「そうおっしゃいましても……」
顔が引きつりそうになる。褒めてもらえたのは嬉しいが、十年も会っていなかった自分を、こんな簡単に信頼してしまうなんて、一樹は警戒心が足りない気がする。それにこの取り引きに応じたら、マスコミに狙われることになるのだから、それなりにリスクがある。
「もちろんお願いするからには、きちんとお礼はするワ。モデルとの噂を完全否定することに成功したら、それなりの金額をお支払いする。その後も、お望みであれば次の仕事もお世話するわよ。こう見えて、うちはいろんな事業を展開してるんだから」
自慢げに言ってから、安住はようやく表情を引き締めた。
「これはビジネスよ。〝彼女〟という仕事をして成功報酬を得る。どう? 悪くないでしょ?」
「〝彼女〟という仕事?」
「まあ、〝プロ彼女〟ってとこだな」
黙って聞いていた一樹が、そうつけ足した。
プロ彼女――。以前どこかで聞いたことがある意味とは違うものの、依頼された内容的にそうとも呼べる。いずれにせよあまりいい意味合いではないが、報酬がもらえるとなると背に腹はかえられない。別に一樹の愛人になれというわけではなさそうだし、考えてみてもいいかもしれない。
「もちろん、お前のプライバシーは守るよ」
考え込むゆりの不安を拭い去るように一樹が言う。
「その点は万全を期す。なにかあっても俺が絶対にお前を守るから」
「福……、いえ、一樹さん」
一樹のストレートな物言いにはいまだに慣れないが、心は少しずつ固まってきた。
「とりあえず今夜ひと晩考えてみない? あたし、今夜は仕事で博多に泊まるの。明日の朝にでも返事をくれたらいいから。ね!」
安住がそう言ってくれたので、ゆりはお言葉に甘えることにした。
車は、午後四時には由布院に着いていた。秘書を伴い、異装のまま博多行きの特急電車に乗り込んだ安住を駅で見送り、高津ともいったん別行動をとることにした。ゆりは一樹とふたり、観光客でにぎわう由布院のメインストリートに向かう。週末の原宿に比べればどうってことない人出だが、それでも人目を気にしないわけにはいかない。
「ビクビクするな。普通に前を向いて歩け」
一樹はただサングラスをかけただけで、平然と歩いていく。ゆりもサングラスとキャスケットを目深にかぶって、背の高い彼のうしろを歩いた。足が長くて見とれてしまう。中学時代たまに一緒に下校したが、並んで歩くことが自慢だったのを思い出す。
ネットの情報では、一樹は大学二年のときにモデルとしてスカウトされたとあった。ちょうどゆりの両親が亡くなった頃だ。葬儀の日に彼はゆりの肩を抱いて、ずっと慰めてくれたのだが、もしかしたらそのときにはすでに、今の事務所と契約していたのかもしれない。
当時のことを思い起こしていると、一樹は立ち止まり手を差し出してきた。ゆりは黙って首を横に振る。
「昔はよく手をつないだのにな」
「もう、子どもじゃありません」
「だからって、仲良くしちゃいけないわけじゃない。お互い独身だし、義理立てする相手はいないし……、あ、いないよな?」
いまさらそれを聞くのかと思ったが、ゆりは素直に申告した。
「いません。仕事ばかりしてる女は嫌われるので」
「なんだそれ」
あっけらかんと笑った一樹の声を聞きつけたのか、前を歩いていた女性グループが振り返った。ゆりは慌てて一樹の腕を引き、横道に入ったところにあるカフェに連れていく。古民家を改装した和モダンなカフェの店内は、夕方だからか、人がまばらだった。
「ふーん。落ち着く店だな。よく来るのか?」
青々とした芝庭を眺められる窓際席に案内されると、彼はそんなふうに聞いてきた。カップルシートのようなボックス席で、庭園に向かって並んで座る。
「休みの日に、たまに。人気店らしいですが、平日はたいてい空いてるんです」
「わかる。俺も平日に休みが入ることが多いんで、ふらりとどこかに行くんだ。お前、こっちの生活になじんでるんだな」
「ええ。二年もいますから……。親もいないし、行ったことのない街に住んでみたかったんです」
綾子とはそりが合わなかったが、職場にも同僚にも恵まれた二年だったと思う。
そこでオーダーした飲み物が届く。店員が去ると、一樹はサングラスを外した。ゆりもそれにならう。
「偉いな、頑張ってきたんだ」
「まあ、自分が頑張るしかなかったので……。わたし、この夏で奨学金の返済が終わったんです。今まで少し無茶して働いたけど、頑張ってよかったと思ってます」
「ゆり」
「わたしの子どもの頃の夢を覚えてますか?」
「ケーキ屋さんだろ?」
自分で質問したものの、覚えていてくれたことに驚いた。一樹は冷えたコーヒーをひと口飲んで至福の笑みを浮かべると、テーブルに頬杖をついて誘惑するような色っぽい目で見つめてきた。
「でも幼稚園のときにはカズくんのおよめさんになりたいって言ってくれたよな。兄貴が悔しがって泣いたのを覚えてる」
「そんなこと、ありましたっけ?」
ゆりもカフェラテをひと口飲み、記憶の糸をたどる。一樹の兄は大樹という名だ。社交的な弟と対照的にクールで寡黙な青年だった。
「なんだ、笑えるじゃん」
「え?」
自分でも気づかぬうちに、ゆりは笑みを浮かべていたらしい。恥ずかしくなってつい、片手で頬を押さえてしまう。
「やっと、俺の知ってるゆりに会えた気がするな。ホテルにいるお前は、いつもすましてる」
「いえ……、これはその……」
ゆりはもうひと口カフェラテを飲み、呼吸を整えた。
「か、一樹さんの夢はサッカー選手になってワールドカップで優勝することでしたよね。だからわたし気づかなかったんです、あなただって」
「嫌なことを思い出させるな。大学に入ったとき、自分の限界を思い知ったんだよ」
「ちっとも恥ずかしいことじゃないです。ワールドカップは無理だとしても、人に夢や希望を与える、素敵な仕事についてる。わたしの子どもの頃の夢――ケーキ屋さんになる夢は、今からでも叶うでしょうか? 東京で再出発して、学校に通い直せばわたしも……」
話しているうちに、ゆりの心の中に様々な思いが渦巻く。とっくの昔に諦めてしまっていた夢。それにもう一度、自分も手を伸ばしてみてもいいような気がしてくる。一樹といると、幸せな未来を描いていた頃の明るく前向きな気持ちが蘇った。
「ゆり」
もう一度呼ばれ、ゆりは隣に座る幼なじみの顔を見つめる。
「ほんとうに、ただでお世話になっていいんですか?」
「もちろん。空いた時間は好きなことをしていいよ」
「アルバイトをしても? お金を貯めて、いずれパティシエになる専門学校に通うのはどう思います?」
「ぜんっぜん悪くない。クールだな」
笑われなかったのでほっとした。
「じゃあ……確認なのですが、彼女のフリって、たとえばどんなことをすればいいのでしょう」
「俺と一緒に人ごみを歩くだけでいいだろう。俺は顔出しするが、お前は変装したらいい」
「それだけ、それだけでいいんですか?」
「ああ。スーパーの袋を提げて、恋人つなぎをして同じマンションに出入りしていたら、普通は同棲してると思うだろうな」
頭の中でイメージする。夜の繁華街を、彼と手をつないだり腕を組んだりして歩くのだ。大丈夫、きっとできる。相手は彼だ、知らない人じゃない。そう考えるとなぜか安心できた。それにこれはビジネス。自分に課せられた仕事だと思えばいい。
「熱愛報道を完全に消し去れたら、そこで終わりにしていいのですよね」
「ああ。うちの社長のことだから、その辺の契約はきちんと書面にまとめるよ」
「わかりました。ビジネスですよね。ではお受け……」
「待て待て待て……!」
一樹が目を丸くして遮った。
「ひと晩考えなくていいのか? 朝になったら気が変わるかもしれないぞ」
「変わってもいいのですか?」
「いや、困る」
「だったら、わたしの気が変わらないうちに安住社長にご報告しましょう」
プロ彼女、お受けしますと。
第二章 仕事のためならなんでもします
十一月、東京。
屋代一樹がゆりと〝プロ彼女〟の契約をして一カ月と少しが過ぎた。十一月に入ってすぐのある日の午後、彼はテレビ局内の楽屋で打ち合わせをしていた。このあと、トーク番組の収録がある。
映画の宣伝で訪れていたドイツから、今朝帰国した。長時間のフライトから仕事に直行したせいか、頭がズキズキする。しかし、夕方まで予定がびっしりだ。
「もう一度確認なんだけど、一樹くんの恋愛についての質問も大丈夫だよね?」
テーブルの上に開いた台本をペンで指しながら、男性ディレクターが念を押してくる。トークの後半ではMCが、一樹の恋愛観や結婚について質問する流れとなっているのだ。
「全然OKですよ。なんでもどうぞ」
一樹は余裕の笑みでうなずく。デビュー以来その手の質問はずっとNGだったが、例のニセの熱愛報道を完全に打ち消すために、事務所が方針転換したのである。
「ずばり、彼女はいるのかどうかも聞いちゃうよ?」
「どうぞどうぞ。今まで話さなかったことも今日は話しますから」
頭痛を我慢してにっこり笑うと、隣で高津がこくこくと首を縦に振った。筋書きはもうできている。人気俳優、福山一樹には遠距離恋愛中の恋人がいる。相手は年下の一般女性だから、交際は極秘裏に続けていた。
しかしモデルとの熱愛報道が出たことで彼女が心を痛め、一樹はそれが誤報だということを世間に証明するためにも、恋人の存在を公表する決意をした――
これが、安住社長の考えたストーリーだ。
――まあ、悪くないな。
一樹はテーブルに頬杖をついたまま、にやりと口角を上げた。
別府のホテルを辞めたゆりは、おととい一樹のマンションに越してきた。あんなホテル、有給を使ってさっさと辞めてしまえと言ったのだが、仕事を探す手間が省けたからと、彼女はぎりぎりまで勤務することを望んだのだ。
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