真田源三郎の休日

神光寺かをり

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嘘笑い

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 御身にはご承知のことと存じ上げますが……。
 碓氷峠うすいとうげと申しますは、大層急峻きゅうしゅんな山道の果てにある難所です。一年の半分ほどは雪に閉ざされ、残りの半分はきりの中にあります。
 関東と信濃の境の要所で、古い昔から関所が設けられていた場所でありますが、その時はそんな面倒な代物はありませんでした。
 ほんの半月ほど前まで信州も上州もただ一人の支配者である織田様の下にあったのです。同じ「家」の中で物を動かすのに、わざわざ荷や人をあらためる必要がありましょうか。
 関所跡の番小屋や柵、門の類は、半ば壊れておりました。
 壊れてはおりましたが、幾分形が残っておりましたので、我らはその物影に生きた人の姿が無いことを確かめて回らねばなりませんでした。
 隠れている者が信濃の者であるならば、庇護ひごしなければなりません。
 信濃の者でないならば捕虜ほりょとして……やはり庇護しなければならぬのです。

 我らが調べた時、生きた人の姿はありませんでした。
 代わりに、わずかに認められました。
 落命してから日がって、けものに食い散らかされた所以外が残り、真っ白になった亡骸なきがらを見ると、心苦しくなります。
 そのホトケが、具足ぐそくなどを付けていれば、なおさらです。
 我々は言葉もなく、百姓の装束しょうぞくを脱ぎ、具足を着込んだものです。
 陽が落ちれば辺りには深い霧が巻き、宵闇よいやみとも相まって、山中は己の鼻先さえ見えない程でした。

 我らは道筋から山中へ少し入った木々の影に身を潜ませました。
 に道筋を見張らせ、には地面と山中の音に聞き耳を立てさせ、上州から信州へ入る者の気配を探らせたのです。
 そして私はといえば――。ええ、お察しの通りです。巨樹の根に座り込んでおりました。
 それでも、すぐ側に幸直ゆきなおがいてくれた御蔭で、どうやら大将らしく背筋を伸ばしておることができました。
 この期に及んで背を丸め、ガタガタと震えるなどという失態を見せようものならどうなることか、想像に難くありません。
 幸直から矢沢の大叔父を経由して、恐らく豪勢ごうせい尾鰭おひれが付いた状態で、父に伝えられることになる。それだけは、どうあっても避けたい。
 と、まあ、いかにも子供っぽい、つまらない見栄ではありましたが、そんなものでもピンと張っておれば、無様に倒れずに済むのですよ。
 頼りない見栄の糸にぶら下がって、口を真一文字に引き結び、目は何も見えぬ闇の彼方を睨むように見開いている私の傍らで、幸直は何も言わずにおりました。
 思うに、恐らくは幸直も私と同じように、奥歯を噛みしめた青白い顔で闇を睨め付けるておったのでしょう。

 湿った無音の闇は、人の心も時の流れを包み隠してしまいました。
 突然、闇の中から声がしました。

馬沓うまぐつの音が聞こえます」

 地面に耳を当てていた「耳効みみきき」が、音も立てずに私の足元へ参ったのです。
 夜明けの直前のことでありました。

「いずれから、いずれへ?」

 それまで長く口を閉ざしてものですから、私はのどに声がへばりついて、思うように口先へ出てこないような、奇妙な心持ちになったものです。
 問われた「耳効みみききき」の、

「上州の側から、こちらへ」

 というささやきは、私の予想と違わぬものでした。

「数は?」

「十騎に足りぬかと。あるいは二,三騎。それと歩行かちが十か二十か……」

 これは予想外でした。

「少ないな……」

 私は驚くほど素直に口に出しました。

「数には確証がございませぬ。なにせ、が妙に湿気っておりまして、足音が聞きにくうございますれば」

 そう言って「耳効き」は平伏しましたが、私はこの者の「耳」を完全に信頼することにしました。

 多く見積もって三十程、少ない方に見積もれば十二,三名の者達が、上州から信州へ向かっているのです。
 多い方の三十というのが正しければ、何か――例えば奇襲きしゅうであるとか――事を起こすための「別働隊」とも考えられます。
 何しろ、我らの員数もその程度でありましたから。
 また、十というのが正しいとするなら、

「本隊からはぐれた落ち武者の類でしょうか? あるいは、代掻しろかき馬に荷を乗せて逃げ出した百姓どもかもしれませんが」

 禰津ねづ幸直ゆきなおが乾いた喉をしぼって声を出しました。
 もっともな言です。私も七割方はそうであろうと思っておりました。
 つまりは、三割ほどは違うと感じておった次第です。
 試しに、三割のうちのそのまた三割程度の思いつきを、口へ出してみました。

「逃げ出した百姓のなりをした斥候せっこう、あるいは忍びの類かも知れぬ。我々がここへ来たのと、つまり同様の、だ」

 幸直は一瞬息を詰まらせました。霧がまいているせいかも知れませんが、顔色は真っ白であったと覚えます。
 その白い顔の上に、硬い笑みを浮かべると、幸直めは、

「全く若と来たら、冗談が下手であられるから。それではお愛想あいそ程度にしか笑えませんよ」

 かさついた声で言ったものです。

 実のところ、私としてはこれは全くの本気の言葉で、冗談を言ったつもりなど微塵みじんもありませんでした。
 私が農夫のフリをして山中の獣道けものみちを進むような情けない真似をしたのは、ひとえに他人に不審がられないがためでありました。
 ですから、私でない、人に見咎みとがめられるのをおそれた哀れな小心者の誰かが、私と同じようなことを考えついて、同じようにした所で、何の不思議があるというのでしょう。
 ところが、その場にいた他の者たちはおしなべて幸直の言葉を信じた様子でありました。各々、疲れた白い顔にほんの少し紅をさして忍び笑いをしたものですから、私も「違う」とは言い出せなくなりました。

「そうか、つまらないか。済まぬな」

 それだけ言うと、皆と同じように嘘笑いをしました。

 不思議なことですが、その途端に、頭の奥に引っ掛かっていた、得体の知れない怖ろしさ、あるいは薄暗闇の様なものが、少しばかり晴れました。
 腹の奥からの哄笑こうしょうでも、苦笑いでも、空笑そらわらいでも、泣き笑いでも、何であっても、笑った者が一番強い。
 年を重ねた今となれば、そう思えます。
 ただあの頃の、であった私には、そこまでの理解は……恐らく無かったことでしょう。
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