真田源三郎の休日

神光寺かをり

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証人《ひとじち》

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 そしてもう一人、厩橋城の滝川一益様の元で人質暮らしをすることになった者がいます。
 私の末の妹の「菊」です。
 菊は、私の身代わりでした。

「全く、お前の父親は酷い父親だ」

 宗兵衛殿……いえ、慶次郎殿は、私共がそれぞれに出立するというその早朝に、私を御屋敷に呼び出して、茶をお立てになりながら、そう仰いました。
 私はというと、旅装のまま慶次郎殿の真正面にちんまりと座らされておりました。

ン所の佐吉さきちの所へ嫁に出したんだろう?」

 慶次郎殿がと言ったのは羽柴秀吉はしばひでよし殿のこと、と呼んだのは石田三成いしだみつなり 殿のことです。
 私は身震いしました。
 真田家が、武田に仕えている身で、宿敵とも言える織田の家臣と縁を結ぼうとしていた、その我が家ながら卑怯、狡猾こうかつな振る舞いを、少なくとも滝川様ご一門の慶次郎殿が知っていたと言うことにです。
 秘密の、極内密な縁談でした。出来れば話が完全にまとまるまでは誰にも……特に甲州や上州、して信濃の人々には……知られたくないことでした。
 私は慌てて否定しました。

「石田様の御舎弟ごしゃてい宇多うた頼次よりつぐ様です。それに……」

 ……正式に婚礼をしたのではない、と申し上げようとしたのですが、慶次郎殿は一にらみで私の口をつぐませて、

「同じ様なものだ」

 と不機嫌そうに仰せになりました。そして、大振りな茶碗を放るようにしてどすりと置かれたのです。
 茶碗の中で緑色の泡がぶつぶつと音を立てておりました。

「親の都合で出したり戻したり。挙げ句、証人にまで出すとは、あまりに不憫ではないか。幼子が可哀相だと思わぬのか?
 下の男の子が年端も行かぬ、だと? なんの、幼くても男子を出せばいい。
 全く、つくづく酷い男だ。儂ならば娘だけは出さぬぞ。あんな可愛い生き物は他にない。嫁にだって出すものか」

 初めは虎のようなお顔で怒っておいでだった慶次郎殿ですが、最後の方になるとまるで猫のような顔になっておられました。
 この時私は、慶次郎殿に娘御がおられるらしい、と理解しました。その娘御が余程に可愛いくてならないのたど言うこともまた、判った気がしました。
 というのも、この時の慶次郎殿の素振りというのが、我が父がになったときのそれ……例えば、良縁が決まったというのにいつまで経っても婚家へ送り届けたがらないとか、証人に出すことが決まっているのに自分の居城に連れて帰ろうとしているとか、あういう所が殆ど同じであったからです。

 私は可笑しくなりました。そこで、顔が崩れるのを堪えようと、ものも言わず、かしこ まって茶碗にそっと手を伸ばしました。
 慶次郎殿は、またお顔を虎のようになさいました。

「お前の酷い父親は、可愛い娘を差し出してまで、を砥石へ連れて行きたいと見ゆる」

 虎のお顔の半分閉じたまぶたの下から、じろりと、鋭いまなざし私に向けられました。

「いえ、私は父とは別の所……岩櫃いわびつへ参ります」

 岩櫃城は、上野国と信濃との境にある岩櫃山の、急峻《きゅうしゅん》な斜面に囲まれた岩場の上にある、小さな山城です。

 私は手の内に茶碗を抱いて、じっとそれを見ました。始めは慶次郎殿のお顔を見ぬようにするためではありましたが、暫く眺める内に、この茶碗が何とも美しく思え、目がはなせなくなっておりました。

「ほう……」

 慶次郎殿が不思議そうに息を吐いたのを耳にし、私はちらりと目を上げました。慶次郎殿は腕組みして天井の隅に目を向けておいででした。

「岩櫃というは、信濃か? それとも上野こうずけ……関東か?」

 その問いに素直に、そして正確に答えるとするならば、

「岩櫃は上州であり、すなわち関東に御座候ござそうろう

 と言えば事済みます。
 しかし、そのような当たり前の事を、仮にも関東管領・滝川一益様ご一門である慶次郎殿がご存じないわけがありません。
 私は茶碗を抱えたまま、慶次郎殿が見ているのと反対側の天井の隅を見上げました。

 岩櫃は、万一事あらば、関東の軍勢を信濃に入れぬ為の要害です。そして、機会あれば、信濃から関東へ討ち出るための最前線であります。信濃の玄関口ではありますが、同時に上野の裏口でもある場所です。

「さて、沼田の支城とみれば上野に属するといえましょうが、砥石の支城とみれば信濃に属するといえなくもありません」

「なんだ、はっきりせぬなぁ」

 慶次郎殿は視線を天井から私へ落され、落胆なされたような、それでいて楽しげな口ぶりで仰いました。
 私も視線を天井から外して、

「そう仰せになられても、私はあそこが信濃なのか上野なのかなどと、考えたことはありませんでしたので」

 私は正直に申しました。腹の内が妙にもやもやしておりました。
 慶次郎殿は太い眉毛を片側だけ持ち上げて、

「考えたことがない?」

 本心不思議そうにお訊ねになります。

「はい。……ですからあえて申しますと……そう、、と」

 そう言った途端、私は自分がなんとも大胆なことを言っていると気づき、驚きました。

「真田の城だと?」

 慶次郎殿が、私をギロリと睨み付けになられました。眉間に縦皺が一本、深い谷を作っています。
 私はその皺の一番深い一点を見つめ、申したのです。

「はい、です」

 そう言った途端、腹の中のもやもやがすとんとれました。
 沼田も、岩櫃も、砥石も、小県ちいさがたの土地も、みな我らのもの。我らが手放してはならぬもの。
 私は自分の言葉が自分自身をたぎらせるのを感じました。
 同時に、自分の首根に薄ら寒いものを感じました。
 私の言いようは、聞き方に寄れば、

『真田は誰にも従属しない』

 といった意味にも取れるものです。
 武田にも、上杉にも、北条にも、そして織田にも従わず、自立し、己等の土地を守る。
 そう宣言したととられても仕方のない言い振りでした。

 迂闊うかつ なことです。
 私は二心にしん有りの胡乱者うろんものとして、この場で前田慶次郎殿に討ち取られるかも知れません。そして私の一族は、私の弟妹達は、滝川様に攻められ、捕らえられ、殺されるかも知れません。
 父が苦心して、八方に手を打って、ようやっと織田様の旗下に収まることができ、どうにか所領を安堵出来たというのに、私の一言で総てが水泡に帰すことになりかねない。
 大失言です。
 私の首根が寒くなったのは「失言」そのことそのものよりも、その後に起こりうる「悲劇」のためでした。

 しかし、私は確かに、自らの意思で、本心から、宣言したのです。

 私は肺腑の中に重く溜まっていたモノを総て吐き出し、手の内の茶碗と、鮮やかな緑の液体をじっくりと見つめました。
 これらが、あるいはこの世で最後に見る「美しい物」であるかも知れません。
 抹茶の緑は、萌え出た春の木の芽のように、眩しく輝いておりました。
 寒い冬を乗り越えた、信濃の……小県の、故郷の山が、茶碗の中にある。そんな気がいたしました。
 茶碗の中で、緑色の泡がぷつりと弾けました。私は不意に、総ての泡が消えてなくなる前に、それを飲まねばならないという気持ちになり、まるで酒か毒杯でも煽るような勢いで、一息に、茶を飲み干しました。

「結構な、お手前で」

 私は空になった茶碗を置き、深々頭を下げました。首を投げ出すような格好で平伏したのです。
 このときの私の心持ちと来たら、全く不思議な物でした。どうやらこの首っ玉の上に、慶次郎殿が大脇差を振り下ろしてくれることを期待し、待ち望んでいた、としか思えないのです。
 伏せた頭の上で、衣擦れの音がしました。慶次郎殿がお動きになった気配はあります。
 しかし、私の首は何時までも私の胴体にしがみついたままでした。
 私がそっと頭を上げますと、

「全く、困った高慢ちきめが」

 慶次郎殿は両の手を突き上げて背伸びをしておられました。それから大きな欠伸を一つして、

「朝駆けでもないのに早起きをするもンじゃないと、お主も思わぬか? 寝惚けた友が言わんでも良い『寝言』を言うし、その『寝言』を聞かなかったことにせねばならなくなる」

 そう仰せになると、完爾かんじとしてお笑いになりました。
 その笑顔を見て、私はどうやら私の命も、真田の家の命運も、この場で尽きるということは無いだろう、という確証を得たと信じたのです。
 ですから私はすっかり安堵して、

「全く、その通りのようです」

 と苦笑うて頭をきました。
 すると慶次郎殿は、急にけわしいお顔をなさって、

「だが、忘れぬぞ」

 酷く重い言葉でした。私は脾腹ひばらたれたような心持ちになりました。
 己の顔の色が失せてゆくのが判りました。慶次郎殿は私の紙のように真っ白な顔をじっとご覧になり、仰せになりました。

「聞かなかったのだから他の誰にも言うことはない。だが、儂の胸の内には刻んでおく。お主がどれ程に故郷を愛して居るのか……。儂は忘れぬぞ」

 そう仰ると、前田慶次郎殿はすっくと立ち上がり、また破顔はがんされました。

「源三郎。その茶碗はな、儂が焼いた物だ。餞別せんべつるから、信濃へ持って帰れ」
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