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軍不可従中禦《ぐんはなかよりぎょすべからず》
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「此度の猿殿の言い分は信用できぬな。何か魂胆がある。硝煙臭い魂胆だ」
「硝煙……」
私は空にした盃を、殆ど押しつけるようにして慶次郎殿に手渡しました。
話を聞きたい。酒で口が軽く回ってくれないだろうか。
切実に願いました。
父の命令のため?
いえ、確かに話を聞き出せと命じられてはおりましたが、あの時にはそのことなど忘れておりました。
私よりももっとずっと広くこの世を知っている、この人の話を聞きたい。この先、私が見ることがないかも知れない、広い世の中の話を聞きたい。
その一念でした。
ですから私は、慌てて瓢を傾けたのです。
細い口からは一滴の液体も出ませんでした。
私は思わず――おそらくかなり情けなげな顔をして――慶次郎殿の顔を見上げました。
慶次郎殿は顔を真っ正面に向け、厩の窓の外の空を睨み付けておいででした。
黒い雲の塊が重そうにのたりのたりと流れておりました。
「『何事もなく』猿公が毛利を押さえたとしても、西には西のその先がある。我らが関東を巧い具合に治めたとしても、東には東のその先がある」
西を見れば、四国、九州、あるいは琉球。
東を見たなら、相模、陸奥、あるいは蝦夷。
私は固唾を呑み、空の瓢を持ったまま身を震わせました。
己が子供であることを思い知らされた気がしたのです。
私が、その時までの十六年ほどの生涯で行ったことのある一番遠い場所と申せば、諏訪ということになりましょう。
織田の殿様に目通りが適ったその時に参ったご本陣です。この厩の宴の、たった数ヶ月前のことでした。
信濃や甲州の外側のことは、遠縁の者からもならされる文に読み、都から来た人々の話しに聞いて、夢想はしておりましたが、正直、想像が付きませんでした。
私にとって世間は、涙が出るほど狭い物だったのです。
「日の本の国は、広うございますね」
羨望と無力感と酒精とが混ざった吐息が、私の肺腑の奥から溢れました。
「だがな、源三郎……そうとも言い切れぬぞ」
「はい?」
「安土の城で、大殿から面白い物を見せていただいたことがある」
そう仰った慶次郎殿の目は、星が瞬くようにキラキラと光を放っておりました。
「面白い物、でございますか?」
「globo terrestreという代物だ。南蛮伴天連が大殿に献じたもので、なんと大きな鞠の上に地図が描いてある」
「鞠に、地図?」
私は阿呆のように申しました。それがどのような物なのか想像が付かず、また、何故わざわざ鞠に地図を描かねばならないのか、その道理が判らなかったのです。
「『ぐろぼ』は蘭語で球のこと、『てへすとれ』は地面のことだそうな。して、これを漢語にすると『地球儀』となる。つまり、この地べたの形を球で表している」
慶次郎殿が地面を踏み付けるような所作を二、三度なさると、地面は、トトン、と軽快な拍子の音を立てました。
「この平らな地面を鞠のような球で? 何故そんな面倒なことをするのでしょう。地図ならば平らな紙に書けばよいのに」
「伴天連共にいわせれば『それこそ正しい地面の形だから』だそうな」
「正しい、とは……つまり地面は丸いと?」
私は頓狂な声を上げました。慶次郎殿は小意地の悪いような、玩ぶような、子供じみた笑顔を作って、
「まあ、そんな些細なことはどうでも良いわい。要は、そこに描かれていた地図よ」
やおら右の手を私の前にお出しになりました。
「お前が広いと言ったこの日の本の国はな、その地図ではホンのこれほどの大きさであったよ」
慶次郎殿の親指が、小指の先を指し示しました。
「件の、辛気臭い上杉のおる越後やら、槍の又三たらいうケチ臭いのがおる能登やらの、その向こう側にある海は、あぜ道の水溜まりほどもない。対岸には明がドンと構え、南蛮はどこから何処までが南蛮なのか判らぬほど広い。それを取り巻く外海はさらに広い」
慶次郎殿は両の手を大きく広げて、海の、私の知らぬ世間の、途方もない広さを示されました。
私には慶次郎殿の大きな体躯が広い世の中そのもののように思えてなりませんでした。言葉もなく、憮然呆然として、慶次郎殿のお顔を眺めるより、私に出来ることはありませんでした。
すると慶次郎殿は、突然盃を放り捨てました。
開いた両手は直後に私の両肩にドンと落ちてきました。
「それを思えば、厩橋も沼田も岩櫃も砥石も真田の郷も、川中島、信府、諏訪、木曽、それに安土、あるいは京の都といったところでさえ、目と鼻の先の近さよ」
にんまりと笑っておいででした。
つまり、
「お主が岩櫃から出て、儂等と一緒に働いたとして、薄紙一枚の厚さほども動いたことにはならぬのだよ」
このことを仰りたかっただけなのです。
私はぐらぐらと揺れておりました。
いいえ、心持ちが、ではありません。
私の体がぐらぐらと揺すられておったのです。
慶次郎殿が私の肩を掴み、前後に揺さぶられたからです。
「父が、何と、申しますか」
私は揺れながら答えました。
「お前の妹を帰して、変わりにお前をここに残す。一つ足して一つ引くだけのことよ。何の問題もあるものか」
慶次郎殿は更に私を揺するので、私の胃の腑の中では酒精が渦を巻き、つられて脳漿もグルグルと回り出しておりました。
「左近将さまが、何と、仰せになりますか」
どうにか絞り出した直後、私の体がぴたと止まりました。
「伯父貴が、何を言うと?」
慶次郎殿の太い眉根の間に、浅い皺が刻まれました。
私の上半身は慶次郎殿に押さえつけられた格好で真っ直ぐに立たされていたのですが、胃の中と脳漿と目の玉とは中々止まってくれませんでした。
ゆらゆらと揺れた面持ちで、漸く、
「三九郎様のことです」
と申し上げますと、慶次郎殿の眉間の皺が少し深さを増しました。
「三九郎殿が、どうした?」
滝川一益様の従兄弟である義太夫益重様のお子である慶次郎殿と、一益様のお孫様である三九郎一積様とは、いとこ違いの間柄ということになります。
歳は大分に慶次郎殿の方が上ですが、三九郎様は一益様御嫡男の御嫡男であられましたので、慶次郎殿よりもお立場は上と言うことになるのでしょう。
それにしてもご一門の慶次郎殿が、
「三九郎様が、我が妹の於菊を、嫁にご所望だと」
いうことを、ご承知でないというのは、不可解なことでありました。
しかし慶次郎殿が、
「そんな話があるか。証人に預かった娘を、相手の弱みに付け込んで、無理矢理に娶ろうなどとは」
と、大層なご立腹をなされた――ただし、縁談を自分に内緒で進めたということにではなく、強引なやり方であるということにお怒りになられて――その辺りからして、於菊と三九郎様とのことを本当にご存じなかったのでありましょう。
慶次郎殿が本心お怒りのようでしたので、私は慌てて、
「無理にというのでは御座いません。先日我が大叔父、矢沢頼綱を通して、父のところへお申し出が……」
「つまり、儂が父を経由して、ということか?」
大叔父のいる沼田の城代は慶次郎殿の実のお父上である滝川益重様です。
「そういうことになりましょうや」
「先日というのは、何時だ?」
慶次郎殿はようやく私の肩を解放してくださいました。支えを失った私の体は、胃の腑と脳の揺れのそのままにゆらゆら揺れました。
「つい二、三日前にて」
慶次郎殿ははたと膝を打ち、青鹿毛の名馬を指さして、
「では、儂が馬を追っておる間か……。どおりで沼田からも厩橋からも『戻れ』『帰れ』と催促が来ておった」
苦笑いを頬に浮かべられました。
私が覚えず、
「御身も美馬に目を眩まされ、我が侭をなさっておいでだったのすから」
などと口を滑らせますと、慶次郎殿は、
「流石に片腹痛い源三郎め。痛いところを突きおるな」
ケラケラとお笑いになり、
「六韜に曰く、
『国不可従外治、軍不可従中禦』
だ。
名馬の捕獲は戦そのものであろう? ならば儂は出陣中ということになる。戦のただ中におる儂には、後ろからの声などは聞こえぬ、聞こえぬ」
両の手で両の耳を覆って見せました。
「硝煙……」
私は空にした盃を、殆ど押しつけるようにして慶次郎殿に手渡しました。
話を聞きたい。酒で口が軽く回ってくれないだろうか。
切実に願いました。
父の命令のため?
いえ、確かに話を聞き出せと命じられてはおりましたが、あの時にはそのことなど忘れておりました。
私よりももっとずっと広くこの世を知っている、この人の話を聞きたい。この先、私が見ることがないかも知れない、広い世の中の話を聞きたい。
その一念でした。
ですから私は、慌てて瓢を傾けたのです。
細い口からは一滴の液体も出ませんでした。
私は思わず――おそらくかなり情けなげな顔をして――慶次郎殿の顔を見上げました。
慶次郎殿は顔を真っ正面に向け、厩の窓の外の空を睨み付けておいででした。
黒い雲の塊が重そうにのたりのたりと流れておりました。
「『何事もなく』猿公が毛利を押さえたとしても、西には西のその先がある。我らが関東を巧い具合に治めたとしても、東には東のその先がある」
西を見れば、四国、九州、あるいは琉球。
東を見たなら、相模、陸奥、あるいは蝦夷。
私は固唾を呑み、空の瓢を持ったまま身を震わせました。
己が子供であることを思い知らされた気がしたのです。
私が、その時までの十六年ほどの生涯で行ったことのある一番遠い場所と申せば、諏訪ということになりましょう。
織田の殿様に目通りが適ったその時に参ったご本陣です。この厩の宴の、たった数ヶ月前のことでした。
信濃や甲州の外側のことは、遠縁の者からもならされる文に読み、都から来た人々の話しに聞いて、夢想はしておりましたが、正直、想像が付きませんでした。
私にとって世間は、涙が出るほど狭い物だったのです。
「日の本の国は、広うございますね」
羨望と無力感と酒精とが混ざった吐息が、私の肺腑の奥から溢れました。
「だがな、源三郎……そうとも言い切れぬぞ」
「はい?」
「安土の城で、大殿から面白い物を見せていただいたことがある」
そう仰った慶次郎殿の目は、星が瞬くようにキラキラと光を放っておりました。
「面白い物、でございますか?」
「globo terrestreという代物だ。南蛮伴天連が大殿に献じたもので、なんと大きな鞠の上に地図が描いてある」
「鞠に、地図?」
私は阿呆のように申しました。それがどのような物なのか想像が付かず、また、何故わざわざ鞠に地図を描かねばならないのか、その道理が判らなかったのです。
「『ぐろぼ』は蘭語で球のこと、『てへすとれ』は地面のことだそうな。して、これを漢語にすると『地球儀』となる。つまり、この地べたの形を球で表している」
慶次郎殿が地面を踏み付けるような所作を二、三度なさると、地面は、トトン、と軽快な拍子の音を立てました。
「この平らな地面を鞠のような球で? 何故そんな面倒なことをするのでしょう。地図ならば平らな紙に書けばよいのに」
「伴天連共にいわせれば『それこそ正しい地面の形だから』だそうな」
「正しい、とは……つまり地面は丸いと?」
私は頓狂な声を上げました。慶次郎殿は小意地の悪いような、玩ぶような、子供じみた笑顔を作って、
「まあ、そんな些細なことはどうでも良いわい。要は、そこに描かれていた地図よ」
やおら右の手を私の前にお出しになりました。
「お前が広いと言ったこの日の本の国はな、その地図ではホンのこれほどの大きさであったよ」
慶次郎殿の親指が、小指の先を指し示しました。
「件の、辛気臭い上杉のおる越後やら、槍の又三たらいうケチ臭いのがおる能登やらの、その向こう側にある海は、あぜ道の水溜まりほどもない。対岸には明がドンと構え、南蛮はどこから何処までが南蛮なのか判らぬほど広い。それを取り巻く外海はさらに広い」
慶次郎殿は両の手を大きく広げて、海の、私の知らぬ世間の、途方もない広さを示されました。
私には慶次郎殿の大きな体躯が広い世の中そのもののように思えてなりませんでした。言葉もなく、憮然呆然として、慶次郎殿のお顔を眺めるより、私に出来ることはありませんでした。
すると慶次郎殿は、突然盃を放り捨てました。
開いた両手は直後に私の両肩にドンと落ちてきました。
「それを思えば、厩橋も沼田も岩櫃も砥石も真田の郷も、川中島、信府、諏訪、木曽、それに安土、あるいは京の都といったところでさえ、目と鼻の先の近さよ」
にんまりと笑っておいででした。
つまり、
「お主が岩櫃から出て、儂等と一緒に働いたとして、薄紙一枚の厚さほども動いたことにはならぬのだよ」
このことを仰りたかっただけなのです。
私はぐらぐらと揺れておりました。
いいえ、心持ちが、ではありません。
私の体がぐらぐらと揺すられておったのです。
慶次郎殿が私の肩を掴み、前後に揺さぶられたからです。
「父が、何と、申しますか」
私は揺れながら答えました。
「お前の妹を帰して、変わりにお前をここに残す。一つ足して一つ引くだけのことよ。何の問題もあるものか」
慶次郎殿は更に私を揺するので、私の胃の腑の中では酒精が渦を巻き、つられて脳漿もグルグルと回り出しておりました。
「左近将さまが、何と、仰せになりますか」
どうにか絞り出した直後、私の体がぴたと止まりました。
「伯父貴が、何を言うと?」
慶次郎殿の太い眉根の間に、浅い皺が刻まれました。
私の上半身は慶次郎殿に押さえつけられた格好で真っ直ぐに立たされていたのですが、胃の中と脳漿と目の玉とは中々止まってくれませんでした。
ゆらゆらと揺れた面持ちで、漸く、
「三九郎様のことです」
と申し上げますと、慶次郎殿の眉間の皺が少し深さを増しました。
「三九郎殿が、どうした?」
滝川一益様の従兄弟である義太夫益重様のお子である慶次郎殿と、一益様のお孫様である三九郎一積様とは、いとこ違いの間柄ということになります。
歳は大分に慶次郎殿の方が上ですが、三九郎様は一益様御嫡男の御嫡男であられましたので、慶次郎殿よりもお立場は上と言うことになるのでしょう。
それにしてもご一門の慶次郎殿が、
「三九郎様が、我が妹の於菊を、嫁にご所望だと」
いうことを、ご承知でないというのは、不可解なことでありました。
しかし慶次郎殿が、
「そんな話があるか。証人に預かった娘を、相手の弱みに付け込んで、無理矢理に娶ろうなどとは」
と、大層なご立腹をなされた――ただし、縁談を自分に内緒で進めたということにではなく、強引なやり方であるということにお怒りになられて――その辺りからして、於菊と三九郎様とのことを本当にご存じなかったのでありましょう。
慶次郎殿が本心お怒りのようでしたので、私は慌てて、
「無理にというのでは御座いません。先日我が大叔父、矢沢頼綱を通して、父のところへお申し出が……」
「つまり、儂が父を経由して、ということか?」
大叔父のいる沼田の城代は慶次郎殿の実のお父上である滝川益重様です。
「そういうことになりましょうや」
「先日というのは、何時だ?」
慶次郎殿はようやく私の肩を解放してくださいました。支えを失った私の体は、胃の腑と脳の揺れのそのままにゆらゆら揺れました。
「つい二、三日前にて」
慶次郎殿ははたと膝を打ち、青鹿毛の名馬を指さして、
「では、儂が馬を追っておる間か……。どおりで沼田からも厩橋からも『戻れ』『帰れ』と催促が来ておった」
苦笑いを頬に浮かべられました。
私が覚えず、
「御身も美馬に目を眩まされ、我が侭をなさっておいでだったのすから」
などと口を滑らせますと、慶次郎殿は、
「流石に片腹痛い源三郎め。痛いところを突きおるな」
ケラケラとお笑いになり、
「六韜に曰く、
『国不可従外治、軍不可従中禦』
だ。
名馬の捕獲は戦そのものであろう? ならば儂は出陣中ということになる。戦のただ中におる儂には、後ろからの声などは聞こえぬ、聞こえぬ」
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