カフェ・ブルーミング・デイズ

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失われた建築

カフェへの来訪者

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 爽やかな春の午後、天窓から差し込む光がカフェBlooming Daysの木の床に柔らかな影を落としていた。僕——渋谷蒼しぶやそうは、店名のロゴが胸元に印刷された緑色のエプロンを身につけ、カウンターに置かれたハンドドリップの道具に向き合っていた。
 フィルターをしっかりとセットして、お湯で湿らせてリンスして……
 僕は声に出さずに、手順を頭の中で確認しながら、ドリップの準備をする。
「はい、カフェラテですね」
 横のレジで注文を取っているのは恵比寿香えびすかおりさん。僕より1歳下の25歳なのだが、半年前にこの店でアルバイトを始めた僕からすると、大先輩となる凄腕のバリスタだ。店の開店当時からのスタッフとのことだから、もう二年近くこの店で働く間に、ラテアートの大会の優勝したり、雑誌のインタビューを受けたことあったり、留守がちなオーナーの代わりに店を背負って立っている人だった。
「次の方少々お待ちいただいてもよろしいでしょうか……渋谷さん、終わったらレジ頼んでも良いですか?」
 香さんは、そういうと、エスプレッソマシンの前に行き、真剣な表情でカフェラテの準備を始める。その瞬間、いつもは癒し系の顔がきりりとなって、なんかすごい美しいなといつも思うのだが、そんな事を口に出すような度胸のない僕は、ただ無言では頷きながら、計量して挽いた豆をフィルターに入れ、ドリップを始める。
 しかし、今日は随分と混んでいるね。まだ5時にもなっていない。周りの会社が終わっていない早い時間に、三人連続でお客さんが来るのは珍しいが、二人で切り盛りしてる店だと、どうしても一人に少し待ってもらうことになり……
 申し訳ないなと思いつつ、僕はレジの前で待ってもらっている次の女性のお客さんの顔をちらりと見る。
 あれ、外国人のひと? いや日本人? もしかしてハーフの人かな?
「すみません。少し待ってくださいね」
 怒っているのではないと思うが、なんか難しい顔をしているその女の人に、僕は頭を下げながら言う。
 すると、
「いえ……問題あるナイです」
 ああ、やっぱり日本の人じゃないのかな? ちょっとカタコトの返事に、英語で話しかけたほうが良いのか考えながら、笑顔でもう一度会釈する。
 この頃の日本はインバウンド観光客が多いから、カフェ店員といえば簡単な英会話は必須技能となっているが、やっぱりまだ外国の人相手だとちょっと緊張して、ドリップ失敗するとまずいので。まずは、こっちを終わらせてから……
 僕は眼の前の細口のケトルに集中する。この店で働く事になったときに、オーナーに散々仕込まれた手さばきで慎重に湯を注ぐと、あっという間にコーヒー粉が膨らみ始める。これが「ブルーミング」だ。お湯を含んだ豆からガスが放出され、香りが一気に広がる。僕が、コーヒーをいれる中で一番好きな瞬間だ。
 僕は、コーヒーのかぐわしい匂いを感じながら、蒸らしている間に、カフェの中を眺めた。南向きの大きな窓からは光が溢れ、モダニズムの直線的な構造と日本伝統家屋の温かさが絶妙に融合した内装。どう見ても、ただの建物には見えないオーラを放つこのカフェである。
 実は、このカフェは、日本のモダニズム建築の巨匠として知られる菊村吉三きくむらよしぞうの作品であった。建築科の学生でもある僕が、菊村氏の自宅でもあったこの建物がカフェとなったと聞いて、中の見学ができると喜んでやってきたら、オーナーに妙に気に入られて働くことになった経緯はそのうち語りたいと思うのだけれど、
「ケニアでお待ちの方?」
 僕はドリップが終わったコーヒーを、近くの椅子から立ち上がった男性に渡す。彼はノートパソコンを開いて置いているテーブルに戻ると、座りコーヒーを片手に難しい顔でモニター画面を睨み始めた。
「……おまたせしました。何にいたしますか?」
 英語で言ったほうが良いのかもと思いつつ、レジに入った僕は待っていた女性にまずは日本語で話しかける。
「コレ……ください」
 女性はレジの前に置かれた今日のコーヒー豆のリストの中から、ホンジュラスのシングルオリジンを指さした。おお、これは今日の僕のイチオシだ。飲み方のおすすめは、
「ドリップのホット……です。お願いします」
 そう、それが良いですよ。それなら最高のコーヒーが味わってもらえる。
 僕は、嬉しくなってすぐにでもドリップの準備にかかろうと女性の差し出したクレジットカードを受け取りながら、すでに半身をカウンターに向かわせていたのだが……
「あの……」
 僕がカードをタッチさせて返す瞬間に、女性が言った、
「この建物知ってますか? ですか?」
 はい?
 僕は手渡された写真を見ながら動きをピタリと止めてしまうのであった。
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