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失われた建築
朝の散歩
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朝7時、西日暮里駅の北口改札前。それがマリーヌさんとの待ち合わせ時間、待ち合わせ場所だった。僕は、少し早めに到着して彼女が到着するのを待っていた。
五月の土曜日の早朝、昼には随分と温度が上がるという予報だったが、まだ少し肌寒い空気が頬を撫で、思わず上着の襟を立てた。
駅はまだ閑散としていた。少し早すぎたかな。僕は、そう思いながら、改札から出て北口の狭い出口付近を見渡した。改札の先は、小さな出口を通って直接細い道路に面し、向かいには住宅や小さなビルが並んでいた。大きなロータリーも商業施設もなく、駅前広場といえるようなスペースもない、実に簡素な駅出口だ。
朝の穏やかな日差しが狭い駅前に降り注ぎ、道路の先には谷中の閑静な住宅街が広がっているのが見える。朝早くからランニングを楽しむ人や犬の散歩をする年配の方が時折通り過ぎていく。木々の若葉が朝日に照らされ、柔らかな光を反射していた。
西日暮里駅の北口を待ち合わせ場所に選んだのは、ここから千駄木に向かう途中で谷中の静かな住宅街と緑豊かな道を通れるからだった。マリーヌさんが借りている民泊が品川駅近いとのことだったので山手線の駅でというのもあったが、彼女の父親——石川智の建築を見に行く途中に、東京の古い街並みも一緒に見てもらいたいと思っての提案だった。
今日は雲一つない青空が広がり、絶好の散策日和になりそうだ。マリーネさんが父親の——石川智の建築をほんとうの意味で知る、感じるためには、それが日本のどんな文化の中にあり、どんな意味を持つのかを知る必要があると思った。それには彼の建築単体だけを見るのではなく、そのまわりの街を、東京を、日本を知ってもらわないといけないと僕は思ったのだった。
ここから少し遠回りして千駄木まで歩くつもりだった。天気が良いのと悪いのとでは、だいぶ印象も変わってくる。少なくとも、父親の建築に向かう時の道は、明るく輝いているものであってほしかった。
「そろそろかな……」
僕は小さな声で呟いた。
時計を見ると6時50分。あと10分ほどでマリーヌさんが来るはずだ。
僕は、スマホを取り出し、今日巡る石川智の建築リストを再確認した。千駄木にある「木漏れ日の家」の写真を見ながら、彼の娘をそこに案内するという大任を任されたことに、改めて緊張して思わずため息が漏れた。
その時、
「渋谷さん」
「あれ……」
マリーヌさんを見逃さないようにと改札を睨めていた僕は、後ろからの声に慌てて振り返った。
「ちょっと早くつきすぎたのでこの辺を散歩していました……でした」
なんと、僕が待つはずが、先をこされていたのだった。三十分前には着いていたのだが、
「なんか興奮してしまって……早く起きてしまったです……でした」
「いえ、僕こそ待たせてしまって」
「私、早くつきすぎたのです。約束の時間まで、まだ十分あります……でした。散歩しました。綺麗な墓地でした」
「谷中霊園に行ってたのですか」
「はい、朝の散歩人、多かったです。ジョギングしてる人……追って向かったら墓地でした」
楽しそうな顔のマリーヌさんで、僕はホッとした。
この時間だと開いているのはコンビニくらいしかなかっただろう。日本にまだ不慣れだと思われる彼女が、暇を持てあまして、つまらない気持ちのままずっと待っていることにならなくてよかった。では、せっかく早めに集合となったのでもう出発したいところだが、
「まだ霊園の方を見たいですか?」
と僕は尋ねた。
首を横に振り、マリーヌさんは明るく笑いながら言った。
「いいえ、もう大丈夫です。でも本当に素敵な場所でした。パリの墓地とは全然違います…もっと明るい感じで……」
彼女は肩にかけていたカメラを持ち上げた。それは華奢な感じのマリーヌさんには少し不釣り合いに感じるような大きなデジタル一眼であった。
「朝の光が墓石に当たる様子を撮りました。父も写真を撮るのが好きでした…特に光と影の関係を」
僕は彼女のカメラの液晶に目をやり、そこに映った写真に驚いた。素人とは思えない構図と感性が感じられる一枚だった。
「すごいですね、このアングル。霊園の桜の木と墓石と朝日の位置関係が絶妙ですね」
マリーヌは少し照れたように笑った。
「ありがとうございます、でした。写真は趣味ですが……父から習ったんです。子供の頃に……少しだけですが……でした」
僕も笑いながら頷くと、二人とも自然に足が動き始めていた。
五月の朝の空気は澄んでいて、どこか草木の香りがした。その芳しい匂いに気分が良くなりながら、僕らは坂をのぼった。
朝の谷中の街並みは、静かで穏やかだった。古い木造家屋と新しいアパートが混在する住宅街を抜けながら、僕はマリーネさんに街の案内を始めた。
「この辺りは江戸時代から続く街並みの名残があって、東京でも数少ない昔の街の雰囲気が残っている場所なんです。お父さんの……石川さんも、この辺りの建築に影響を受けたと言われています」
マリーヌは熱心に周囲を観察しながら、時々カメラを構えていた。
「父は日本の家について…よく話していました。光が壁を通る様子が好きだと」
彼女の日本語は不完全だが、一生懸命伝えようとする姿勢に蒼は心を打たれた。
「そうですね。日本の伝統的な家屋は、光を柔らかく取り入れる工夫がたくさんあるんです。障子や格子窓もそうですし…」
言いながら、蒼は路地の奥に見える古い家屋を指さした。朝日が障子を通して、中に柔らかな光を落としている。
「見てください、あの光の入り方。この後に見る『木漏れ日の家』も、こういった伝統的な光の扱い方を現代建築に取り入れているんですよ」
マリーヌは足を止め、しばらくその光景を見つめていた。
そして、
「私、父の建築をもっと早く理解すべきです……でした」彼女は静かに言った。「父が亡くなる前に…父親が何者なのか……彼の存在を……そしたら……」
民家を見て何かに気付いたのか、マリーヌさんは言葉をつまらせて、そのまま少しの間、無言になってしまった。
それは、悲しそうでもあったが、嬉しそうでもある複雑な表情であった。
彼女にどう言葉をかければ良いか迷い、僕も無言になるのだが……
マリーヌさんはすぐに明るい表情に戻る。
「今日は、渋谷さんのおかげで父の建築を一気に見る。とても嬉しいです……でした」
僕も微笑みながら首肯する。
狭い路地を曲がり、古い民家の前を通り過ぎた。そこには小さな庭があり、朝露に濡れた庭木が若葉が朝日に輝いていた。木造の二階建てで、軒が深く、庭には小さな石灯籠が置かれていた。縁側からは障子越しに室内が垣間見え、その柔らかな光の透け方が何とも言えない風情を醸し出している。瓦屋根の軒下には、軒樋がつけられ、雨の日の景観にも配慮がされているようだ。マリーヌさんはその光景をハッとしたような表情で見つめていた。
その瞬間、なんとなく今だと思った。
「石川さんのことを、もう少し教えてもらえますか?」
僕は少し勇気を出して尋ねてみた。
マリーヌは歩みを止め、考えるように空を見上げた跡に口を開いた。
「父は…とても静かな人でした。でも、建築の話になると急に熱くなる…情熱的になる人でした」
彼女は思い出すように微笑んだ。
「私が小さい頃、パリのアパルトマンで、父は夜遅くまでスケッチや模型を作っていました。母はいつも『さとし、寝なさい』と言っていましたが…父は『あとちょっと、この光の角度が…』と言って、何時間も同じポーズで模型を眺めていることがありました……その時に父が考えていたのは何なのか……私、知りたいのでした……そのために」
……日本に来た。
彼女が最も見たかったはずの「光跡」はもうなくなったのだが……
その他の建築を見るだけでも何かわかることがあるはず、そのためには曲がりなりにも建築を学んでいる僕がついて行ったら良い。昨日、カフェで香さんから提案された話だった。
でも、会ったばかりの、見ず知らずの人たちからの突然の話をマリーヌさんが受け入れるわけがないと、僕は思ったのだが、
「父の師である菊村先生に関わる人に、案内してもらうのアリ……でした」
本当の父親を知るには、もう話すことができない父親——石川智の本質に迫るには、彼の師に関連する人が何かヒントとなるかもしれない。そんな思いを、昨日彼女は語っていた。
といっても、菊村吉三の建築にあるカフェでアルバイトしているだけの僕が「関わる人」なのかといえば、かなり薄いつながりではある。
ただ、少なくとも、日本に不慣れなマリーヌさんが一人で父の建築を探すよりも僕が着いて行ったほうが助けになるだろうと言うことで、今日は一緒にあちこちを巡ることにしたのだった。
僕らは、再びあるきだすと谷中の商店街の方に向かった。
道が少し下り坂になり、古い家々の間を抜けていくと、次第に谷中銀座と呼ばれる商店街が見えてきた。
まだ朝7時過ぎではあるが、少しずつ商店街が目覚め始めていた。シャッターを下ろしたままの店が多い中、ところどころで朝の準備を始める店主たちの姿が見えた。
「おはよう!」
八百屋の老夫婦が、店先に新鮮な野菜を並べながら通る人たちに声をかけていた。季節の青菜や根菜がかごに盛られ、朝の陽射しを浴びて色鮮やかに輝いていた。マリーヌはその光景をカメラに収めていた。
「日本の商店街…とても素敵です」
彼女はレンズから顔を上げて言った。
通りは細く、両側には昭和初期からあるような古い店舗が立ち並んでいる。看板建築と呼ばれる独特の様式を残した家屋や、瓦屋根の古い店など、東京の中ではめずらしく戦災を免れた建物が多い。
少し進むと、小さなパン屋から焼きたてパンの香ばしい匂いが漂ってきた。え、もう開いてるんだと、僕はびっくりしたが、そういえば、
「朝ごはんを食べましたか?」
と僕は尋ねた。
マリーヌは首を横に振った。
「まだです……そういえば忘れていました」
「よかったら、このパン屋さんでちょっと休みませんか? 日本のパンも試せますし」
日本のパン屋には、欧米のパンとは一線を画す独特の菓子パンがある。あんぱんやクリームパン、カレーパンなど、日本人の味覚に合わせて進化した柔らかくて甘いパンの数々は、ヨーロッパのハード系のパンとはまた違った魅力を持っている。きっとマリーヌさんも気にいるのではと僕は思って進めてみたのだが、
「ぜひ」
彼女は嬉しそうに頷いた。
パン・ヤマダという看板を掲げた店は、古い日本家屋を改装した造りで、天井の梁がそのまま残されている一方、ガラスケースやカウンターはフランス風の洒落た雰囲気であった。店頭のレジのあるカウンターの上には、和風の花瓶に藤の花が挿された横に、パリの街並みの写真が並んで飾られていた。店の内装は、昭和時代の和洋折衷といった感じの、少しちぐはぐながらもレトロで、不思議な調和が感じられた。居心地の良い喫茶店に入った時のように、その洗練されていない素朴さが、逆に温かみを感じさせる。入口にはOPENの札が下がり、店からは活気のありそうな、明るい女性の声が聞こえていた。
中に入ると、温かい空気と小麦の香りに包まれた。ガラスケースには和と洋が融合したパンが並び、奥には小さなイートインスペースがあった。日本のパン屋特有の、甘い香ばしさと、どこか懐かしい幼い頃の記憶を呼び覚ますような香りがしてきた。フランスのブーランジェリーの小麦の豊かな香りとは少し違い、より甘く、やわらかな空気が店内に満ちていた。マリーヌは目を輝かせて店内を見回した。
「あれは何ですか?」
彼女は小さな丸いパンを指さした。
「あれはあんぱんです」と僕は説明した。「中にアンコという甘い餡が入っています。小豆という豆を砂糖で煮詰めて作るんです。日本の伝統的なパンですね」
「ああ、知っています! が……食べたのはほんの小さい時で……試してみたいです」
「あと、これが良いかもしれないですね……コーヒー牛乳」
「コーヒーと牛乳? ミルク?」
「まあ、飲んでみましょう」
僕らはパンとコーヒーを買い、窓際の小さなテーブルに座った。窓の外には徐々に人通りが増えてきた商店街の様子が見え、朝の光が石畳を温かく照らしていた。
マリーヌはあんぱんを一口かじり、驚いたように目を見開いた。
「美味しい!甘さが独特ですね……でも優しい味です。あ、パリの和菓子屋で売っているお菓子もこれ……アンコ? でした」
「そうですね。和の甘さというか……日本のお菓子何でも小豆使うんですが……ここのパン美味しいな」
カフェの隣のFAAMのパンとは違う「the日本のパン」という感じであるが、別種の美味しさだ。偶然入ったのに大当たりだった。僕は、今度、紗綾さんがこのパン屋を知っているか聞いてみようと思っていると、
「こっちも美味しいです。」
マリーヌはコーヒー牛乳の瓶を指差しながら言った。
「父は日本の食べ物をパリに戻ってくる時に買ってきたのです。特にどら焼きを……あ、アンコですね」
彼女の言葉に、石川智という人物が少しずつ僕の中で形を成してきた。厳格な建築家であるだけでなく、どら焼きを愛する一面もある人間らしい姿が。
店の窓からは、徐々に活気づく谷中銀座が見えた。早朝の準備を終えて開店する店が増え、通りには地元の人や早起きの観光客が現れ始めていた。古い佇まいの和菓子屋では、暖簾を出す老舗の女将の姿。隣の茶屋では、朝のお茶を楽しむ常連らしき年配客たち。小さな雑貨店では、若い女性店主が店先の鉢植えに水をやりながら朝の挨拶を交わしている。
そして時折、商店街を横切る細い路地からは、古いお寺の屋根や石塔が垣間見え、江戸の面影を残す谷中の特徴的な風景を作り出していた。
「谷中は、昔ながらの東京が残っている貴重な場所なんです。江戸時代からの寺社や民家が多く、高層ビルもほとんどない。石川さんも、この辺りの空間や光の使い方に影響を受けたと思います」
マリーヌはゆっくりとコーヒーを飲みながら、窓の外の風景に見入っていた。朝の光が古い木造建築の間から漏れ、通りに斑模様を作っている様子に、彼女は何か特別なものを見つけたように見えた。
「私は父の建築をたくさん見てきましたが…彼がどんな風景を見て、どんな空気を吸って、どんな光の中で思索していたのかは知りませんでした。今、少しだけわかった気がします」
彼女の言葉に、僕も何か大切なことを掴んだような気がした。建築とは単なる構造物ではなく、そこに込められた作り手の思いや、その人が生きた文化や風土の反映でもあるのだと。
「そろそろ行きましょうか」と僕は言った。「『木漏れ日の家』まで、あと少しです」
五月の土曜日の早朝、昼には随分と温度が上がるという予報だったが、まだ少し肌寒い空気が頬を撫で、思わず上着の襟を立てた。
駅はまだ閑散としていた。少し早すぎたかな。僕は、そう思いながら、改札から出て北口の狭い出口付近を見渡した。改札の先は、小さな出口を通って直接細い道路に面し、向かいには住宅や小さなビルが並んでいた。大きなロータリーも商業施設もなく、駅前広場といえるようなスペースもない、実に簡素な駅出口だ。
朝の穏やかな日差しが狭い駅前に降り注ぎ、道路の先には谷中の閑静な住宅街が広がっているのが見える。朝早くからランニングを楽しむ人や犬の散歩をする年配の方が時折通り過ぎていく。木々の若葉が朝日に照らされ、柔らかな光を反射していた。
西日暮里駅の北口を待ち合わせ場所に選んだのは、ここから千駄木に向かう途中で谷中の静かな住宅街と緑豊かな道を通れるからだった。マリーヌさんが借りている民泊が品川駅近いとのことだったので山手線の駅でというのもあったが、彼女の父親——石川智の建築を見に行く途中に、東京の古い街並みも一緒に見てもらいたいと思っての提案だった。
今日は雲一つない青空が広がり、絶好の散策日和になりそうだ。マリーネさんが父親の——石川智の建築をほんとうの意味で知る、感じるためには、それが日本のどんな文化の中にあり、どんな意味を持つのかを知る必要があると思った。それには彼の建築単体だけを見るのではなく、そのまわりの街を、東京を、日本を知ってもらわないといけないと僕は思ったのだった。
ここから少し遠回りして千駄木まで歩くつもりだった。天気が良いのと悪いのとでは、だいぶ印象も変わってくる。少なくとも、父親の建築に向かう時の道は、明るく輝いているものであってほしかった。
「そろそろかな……」
僕は小さな声で呟いた。
時計を見ると6時50分。あと10分ほどでマリーヌさんが来るはずだ。
僕は、スマホを取り出し、今日巡る石川智の建築リストを再確認した。千駄木にある「木漏れ日の家」の写真を見ながら、彼の娘をそこに案内するという大任を任されたことに、改めて緊張して思わずため息が漏れた。
その時、
「渋谷さん」
「あれ……」
マリーヌさんを見逃さないようにと改札を睨めていた僕は、後ろからの声に慌てて振り返った。
「ちょっと早くつきすぎたのでこの辺を散歩していました……でした」
なんと、僕が待つはずが、先をこされていたのだった。三十分前には着いていたのだが、
「なんか興奮してしまって……早く起きてしまったです……でした」
「いえ、僕こそ待たせてしまって」
「私、早くつきすぎたのです。約束の時間まで、まだ十分あります……でした。散歩しました。綺麗な墓地でした」
「谷中霊園に行ってたのですか」
「はい、朝の散歩人、多かったです。ジョギングしてる人……追って向かったら墓地でした」
楽しそうな顔のマリーヌさんで、僕はホッとした。
この時間だと開いているのはコンビニくらいしかなかっただろう。日本にまだ不慣れだと思われる彼女が、暇を持てあまして、つまらない気持ちのままずっと待っていることにならなくてよかった。では、せっかく早めに集合となったのでもう出発したいところだが、
「まだ霊園の方を見たいですか?」
と僕は尋ねた。
首を横に振り、マリーヌさんは明るく笑いながら言った。
「いいえ、もう大丈夫です。でも本当に素敵な場所でした。パリの墓地とは全然違います…もっと明るい感じで……」
彼女は肩にかけていたカメラを持ち上げた。それは華奢な感じのマリーヌさんには少し不釣り合いに感じるような大きなデジタル一眼であった。
「朝の光が墓石に当たる様子を撮りました。父も写真を撮るのが好きでした…特に光と影の関係を」
僕は彼女のカメラの液晶に目をやり、そこに映った写真に驚いた。素人とは思えない構図と感性が感じられる一枚だった。
「すごいですね、このアングル。霊園の桜の木と墓石と朝日の位置関係が絶妙ですね」
マリーヌは少し照れたように笑った。
「ありがとうございます、でした。写真は趣味ですが……父から習ったんです。子供の頃に……少しだけですが……でした」
僕も笑いながら頷くと、二人とも自然に足が動き始めていた。
五月の朝の空気は澄んでいて、どこか草木の香りがした。その芳しい匂いに気分が良くなりながら、僕らは坂をのぼった。
朝の谷中の街並みは、静かで穏やかだった。古い木造家屋と新しいアパートが混在する住宅街を抜けながら、僕はマリーネさんに街の案内を始めた。
「この辺りは江戸時代から続く街並みの名残があって、東京でも数少ない昔の街の雰囲気が残っている場所なんです。お父さんの……石川さんも、この辺りの建築に影響を受けたと言われています」
マリーヌは熱心に周囲を観察しながら、時々カメラを構えていた。
「父は日本の家について…よく話していました。光が壁を通る様子が好きだと」
彼女の日本語は不完全だが、一生懸命伝えようとする姿勢に蒼は心を打たれた。
「そうですね。日本の伝統的な家屋は、光を柔らかく取り入れる工夫がたくさんあるんです。障子や格子窓もそうですし…」
言いながら、蒼は路地の奥に見える古い家屋を指さした。朝日が障子を通して、中に柔らかな光を落としている。
「見てください、あの光の入り方。この後に見る『木漏れ日の家』も、こういった伝統的な光の扱い方を現代建築に取り入れているんですよ」
マリーヌは足を止め、しばらくその光景を見つめていた。
そして、
「私、父の建築をもっと早く理解すべきです……でした」彼女は静かに言った。「父が亡くなる前に…父親が何者なのか……彼の存在を……そしたら……」
民家を見て何かに気付いたのか、マリーヌさんは言葉をつまらせて、そのまま少しの間、無言になってしまった。
それは、悲しそうでもあったが、嬉しそうでもある複雑な表情であった。
彼女にどう言葉をかければ良いか迷い、僕も無言になるのだが……
マリーヌさんはすぐに明るい表情に戻る。
「今日は、渋谷さんのおかげで父の建築を一気に見る。とても嬉しいです……でした」
僕も微笑みながら首肯する。
狭い路地を曲がり、古い民家の前を通り過ぎた。そこには小さな庭があり、朝露に濡れた庭木が若葉が朝日に輝いていた。木造の二階建てで、軒が深く、庭には小さな石灯籠が置かれていた。縁側からは障子越しに室内が垣間見え、その柔らかな光の透け方が何とも言えない風情を醸し出している。瓦屋根の軒下には、軒樋がつけられ、雨の日の景観にも配慮がされているようだ。マリーヌさんはその光景をハッとしたような表情で見つめていた。
その瞬間、なんとなく今だと思った。
「石川さんのことを、もう少し教えてもらえますか?」
僕は少し勇気を出して尋ねてみた。
マリーヌは歩みを止め、考えるように空を見上げた跡に口を開いた。
「父は…とても静かな人でした。でも、建築の話になると急に熱くなる…情熱的になる人でした」
彼女は思い出すように微笑んだ。
「私が小さい頃、パリのアパルトマンで、父は夜遅くまでスケッチや模型を作っていました。母はいつも『さとし、寝なさい』と言っていましたが…父は『あとちょっと、この光の角度が…』と言って、何時間も同じポーズで模型を眺めていることがありました……その時に父が考えていたのは何なのか……私、知りたいのでした……そのために」
……日本に来た。
彼女が最も見たかったはずの「光跡」はもうなくなったのだが……
その他の建築を見るだけでも何かわかることがあるはず、そのためには曲がりなりにも建築を学んでいる僕がついて行ったら良い。昨日、カフェで香さんから提案された話だった。
でも、会ったばかりの、見ず知らずの人たちからの突然の話をマリーヌさんが受け入れるわけがないと、僕は思ったのだが、
「父の師である菊村先生に関わる人に、案内してもらうのアリ……でした」
本当の父親を知るには、もう話すことができない父親——石川智の本質に迫るには、彼の師に関連する人が何かヒントとなるかもしれない。そんな思いを、昨日彼女は語っていた。
といっても、菊村吉三の建築にあるカフェでアルバイトしているだけの僕が「関わる人」なのかといえば、かなり薄いつながりではある。
ただ、少なくとも、日本に不慣れなマリーヌさんが一人で父の建築を探すよりも僕が着いて行ったほうが助けになるだろうと言うことで、今日は一緒にあちこちを巡ることにしたのだった。
僕らは、再びあるきだすと谷中の商店街の方に向かった。
道が少し下り坂になり、古い家々の間を抜けていくと、次第に谷中銀座と呼ばれる商店街が見えてきた。
まだ朝7時過ぎではあるが、少しずつ商店街が目覚め始めていた。シャッターを下ろしたままの店が多い中、ところどころで朝の準備を始める店主たちの姿が見えた。
「おはよう!」
八百屋の老夫婦が、店先に新鮮な野菜を並べながら通る人たちに声をかけていた。季節の青菜や根菜がかごに盛られ、朝の陽射しを浴びて色鮮やかに輝いていた。マリーヌはその光景をカメラに収めていた。
「日本の商店街…とても素敵です」
彼女はレンズから顔を上げて言った。
通りは細く、両側には昭和初期からあるような古い店舗が立ち並んでいる。看板建築と呼ばれる独特の様式を残した家屋や、瓦屋根の古い店など、東京の中ではめずらしく戦災を免れた建物が多い。
少し進むと、小さなパン屋から焼きたてパンの香ばしい匂いが漂ってきた。え、もう開いてるんだと、僕はびっくりしたが、そういえば、
「朝ごはんを食べましたか?」
と僕は尋ねた。
マリーヌは首を横に振った。
「まだです……そういえば忘れていました」
「よかったら、このパン屋さんでちょっと休みませんか? 日本のパンも試せますし」
日本のパン屋には、欧米のパンとは一線を画す独特の菓子パンがある。あんぱんやクリームパン、カレーパンなど、日本人の味覚に合わせて進化した柔らかくて甘いパンの数々は、ヨーロッパのハード系のパンとはまた違った魅力を持っている。きっとマリーヌさんも気にいるのではと僕は思って進めてみたのだが、
「ぜひ」
彼女は嬉しそうに頷いた。
パン・ヤマダという看板を掲げた店は、古い日本家屋を改装した造りで、天井の梁がそのまま残されている一方、ガラスケースやカウンターはフランス風の洒落た雰囲気であった。店頭のレジのあるカウンターの上には、和風の花瓶に藤の花が挿された横に、パリの街並みの写真が並んで飾られていた。店の内装は、昭和時代の和洋折衷といった感じの、少しちぐはぐながらもレトロで、不思議な調和が感じられた。居心地の良い喫茶店に入った時のように、その洗練されていない素朴さが、逆に温かみを感じさせる。入口にはOPENの札が下がり、店からは活気のありそうな、明るい女性の声が聞こえていた。
中に入ると、温かい空気と小麦の香りに包まれた。ガラスケースには和と洋が融合したパンが並び、奥には小さなイートインスペースがあった。日本のパン屋特有の、甘い香ばしさと、どこか懐かしい幼い頃の記憶を呼び覚ますような香りがしてきた。フランスのブーランジェリーの小麦の豊かな香りとは少し違い、より甘く、やわらかな空気が店内に満ちていた。マリーヌは目を輝かせて店内を見回した。
「あれは何ですか?」
彼女は小さな丸いパンを指さした。
「あれはあんぱんです」と僕は説明した。「中にアンコという甘い餡が入っています。小豆という豆を砂糖で煮詰めて作るんです。日本の伝統的なパンですね」
「ああ、知っています! が……食べたのはほんの小さい時で……試してみたいです」
「あと、これが良いかもしれないですね……コーヒー牛乳」
「コーヒーと牛乳? ミルク?」
「まあ、飲んでみましょう」
僕らはパンとコーヒーを買い、窓際の小さなテーブルに座った。窓の外には徐々に人通りが増えてきた商店街の様子が見え、朝の光が石畳を温かく照らしていた。
マリーヌはあんぱんを一口かじり、驚いたように目を見開いた。
「美味しい!甘さが独特ですね……でも優しい味です。あ、パリの和菓子屋で売っているお菓子もこれ……アンコ? でした」
「そうですね。和の甘さというか……日本のお菓子何でも小豆使うんですが……ここのパン美味しいな」
カフェの隣のFAAMのパンとは違う「the日本のパン」という感じであるが、別種の美味しさだ。偶然入ったのに大当たりだった。僕は、今度、紗綾さんがこのパン屋を知っているか聞いてみようと思っていると、
「こっちも美味しいです。」
マリーヌはコーヒー牛乳の瓶を指差しながら言った。
「父は日本の食べ物をパリに戻ってくる時に買ってきたのです。特にどら焼きを……あ、アンコですね」
彼女の言葉に、石川智という人物が少しずつ僕の中で形を成してきた。厳格な建築家であるだけでなく、どら焼きを愛する一面もある人間らしい姿が。
店の窓からは、徐々に活気づく谷中銀座が見えた。早朝の準備を終えて開店する店が増え、通りには地元の人や早起きの観光客が現れ始めていた。古い佇まいの和菓子屋では、暖簾を出す老舗の女将の姿。隣の茶屋では、朝のお茶を楽しむ常連らしき年配客たち。小さな雑貨店では、若い女性店主が店先の鉢植えに水をやりながら朝の挨拶を交わしている。
そして時折、商店街を横切る細い路地からは、古いお寺の屋根や石塔が垣間見え、江戸の面影を残す谷中の特徴的な風景を作り出していた。
「谷中は、昔ながらの東京が残っている貴重な場所なんです。江戸時代からの寺社や民家が多く、高層ビルもほとんどない。石川さんも、この辺りの空間や光の使い方に影響を受けたと思います」
マリーヌはゆっくりとコーヒーを飲みながら、窓の外の風景に見入っていた。朝の光が古い木造建築の間から漏れ、通りに斑模様を作っている様子に、彼女は何か特別なものを見つけたように見えた。
「私は父の建築をたくさん見てきましたが…彼がどんな風景を見て、どんな空気を吸って、どんな光の中で思索していたのかは知りませんでした。今、少しだけわかった気がします」
彼女の言葉に、僕も何か大切なことを掴んだような気がした。建築とは単なる構造物ではなく、そこに込められた作り手の思いや、その人が生きた文化や風土の反映でもあるのだと。
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日本を護ってくれた「先人」に尊敬の念をもって書きましたので、ほとんどおふざけは有りません。
過去、一番真面目に書いた作品となりました。
ラストは結構ややこしいので前半からの「フラグ」を拾いながら読んでいただくと楽しんでもらえると思います。
全39チャプターですので最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
それでは「よろひこー」!
(⋈◍>◡<◍)。✧💖
追伸
まあ、堅苦しく読んで下さいとは言いませんがいつもと違って、ちょっと気持ちを引き締めて読んでもらいたいです。合掌。
(。-人-。)
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