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憧れの師匠1
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「おい、お前、沈師匠が呼んでるぞ。工房へ行け」
「はい。ありがとうございます」
兄弟子の張巾が乱暴に声を掛けてきたので、浩易はさっと礼を言って工房へと回廊を急いだ。職人寮と工房は中庭を囲む形の回廊で繋がっている。
歩く背中に兄弟子の視線が突き刺さっているのを感じながら、ため息を殺した。
年は同じ十八歳だが、工房に弟子入りしたのは張巾が浩易よりも三年早い。だから丁寧に答えているが、兄弟子はいつも気に入らないという顔で浩易を睨みつける。
大柄な体格で地声の大きい張巾は、周囲を威嚇するような横柄な態度を取ることが多い。
本来なら同い年の弟子同士、もっとくだけた返事をしてもいいのだが、浩易は誰に対しても丁寧に対応するように心がけていた。それは相手のためではなく、自分自身のためだ。
この工房で一人前の職人になるまでは……、いや、できる限り長くここにいるために、絶対に問題を起こしてはいけない。
だから兄弟子からのつまらない挑発や嫌がらせには反応しないようにしている。決して名前を呼ばれることなく、つねにおいとかお前と呼ばれても、命令口調で理不尽な用事を言いつけられても黙って応じている。
工房の前まで来て、浩易はすこし自分の姿を確認した。この工房の職人見習いはみな揃いの筒袖の短袍に長褲(ズボン)を履いている。
今年の正月にもらったばかりの新しい着物はまだ色もきれいで汚れはない。師匠は身だしなみにも礼儀にも厳しいのだ。
よし、と息を吸ってから声を掛けた。
「沈師匠、浩易です」
「お入り」
扉を開けて中に進んだ浩易は、ハッと目を瞬いた。[
窓を背にした師匠、沈任寛からまるで後光が差しているように見えたからだ。
沈任寛は細身のすらりとした体格でいつも物腰柔らかだ。涼やかな目元にすっとした鼻筋の整った顔をうつむけて、金の簪を手にしていた。
胸あたりまで伸ばした髪は上部だけ結い上げて、あとは背に流している。師匠となった職人はそれぞれ好きな格好をしているが、沈任寛はたいてい凝った刺繍の入った長袍を着ている。
凛とした立ち姿はとてもひと目を引く。顔の造作が整っているのもあるが、身にまとう雰囲気がなんとも優美なのだ。
「意見を聞きたくて呼んだんだ。これはどう思う、浩易?」
師匠から簪を受け取った。翡翠の飾り玉が下がった金歩揺だ。眺めた浩易はうっとりとため息をついた。
金の簪は細い雲のような優雅な流線を描いており、表面には細かな流水雲紋が彫り込まれていて、窓から差し込む太陽の光を反射してキラキラと輝く。
簪の中ほどと先端からは絹糸を縒った五色の飾り紐が伸びており、その紐の先には金具に取り付けられた翡翠玉が数個連なって下がっていた。
その翡翠珠は丁寧に彫りこまれて、蓮の形になっている。最初の翡翠玉のまだ固く閉じた蕾から徐々にほころんでいき、一番下の翡翠玉は満開の蓮の花に彫り上げられていた。
蕾は深い緑だが徐々に色が薄くなり、開いた花は薄い緑が上品さを醸し出している。
じっくりと簪を眺めた浩易は、もう一度、深くため息をついた。
「とても繊細で綺麗です。これなら趙家のお嬢様もきっとお気に召すでしょう」
「そう思うかい? 趙家は目が肥えていて気が抜けないからね」
「ええ。ですが喬国王都長寧広しといえども、これほどの細工を彫れる職人はそうはいません」
そう言われて悪い気はしないのだろう、ちいさくほほ笑んだ師匠は手にした簪をゆるやかに揺らしてみた。珠飾りの触れ合う音がシャラシャラと耳に響いた。
ここ最近はこういう下がりの飾りをつけた簪がずいぶんと流行している。歩揺と呼ばれる品で、その名の通り歩くと揺れる様がかわいらしく、素材や飾りによって豪華にも上品にもかわいくも仕上げることができた。
この簪に合わせるのは薄絹で作った胡蝶の髪飾りがいい。つややかな薄紅色の絹の光沢と相まって、金と翡翠の緑がとても引き立つはずだ。上品でひと目を引くに違いない。
揃いの耳環があればもっといいのに。
「こちらは耳環の注文はないのですか?」
思わず口にしてしまったら、師匠は満足そうに目を細めた。
「やはり浩易(ハオイ)もそう思うよね? 揃いの耳環があればいいと」
「ええ。とても美しいと思います」
「注文にはないが、さて」
すこし目を伏せて簪を揺らしている師匠の横顔を、浩易は息をひそめて見つめた。
師匠は彼が作る優美な簪のようだと思う。師匠は十歳で細工物の見習いになり、それから二十八歳の今日までずっと職人として腕を磨いてきた。
首飾りや耳環、腕輪に簪などどれも素晴らしい出来だが、特に簪はとても美しく繊細で、浩易はその優美な曲線や珠飾りの彫りの精緻さにいつも魅せられてしまう。
「提案してみよう。きっと買い上げるだろうからね」
「ええ。せっかくですから揃いのほうが見栄えがすると思います」
浩易は十五歳でこの工房に移って来て以来、職人見習いとして四年間、任寛から指導を受けている。
指導を受けていると言っても任寛は見た目に似合ったおっとりした性格で、気性の荒い職人たちが多い中、他の師匠のように怒鳴ったり殴ったりすることはない。
ただし仕事には厳しく、見込みがない者にはあっさり見切りをつけてしまう。
「はい。ありがとうございます」
兄弟子の張巾が乱暴に声を掛けてきたので、浩易はさっと礼を言って工房へと回廊を急いだ。職人寮と工房は中庭を囲む形の回廊で繋がっている。
歩く背中に兄弟子の視線が突き刺さっているのを感じながら、ため息を殺した。
年は同じ十八歳だが、工房に弟子入りしたのは張巾が浩易よりも三年早い。だから丁寧に答えているが、兄弟子はいつも気に入らないという顔で浩易を睨みつける。
大柄な体格で地声の大きい張巾は、周囲を威嚇するような横柄な態度を取ることが多い。
本来なら同い年の弟子同士、もっとくだけた返事をしてもいいのだが、浩易は誰に対しても丁寧に対応するように心がけていた。それは相手のためではなく、自分自身のためだ。
この工房で一人前の職人になるまでは……、いや、できる限り長くここにいるために、絶対に問題を起こしてはいけない。
だから兄弟子からのつまらない挑発や嫌がらせには反応しないようにしている。決して名前を呼ばれることなく、つねにおいとかお前と呼ばれても、命令口調で理不尽な用事を言いつけられても黙って応じている。
工房の前まで来て、浩易はすこし自分の姿を確認した。この工房の職人見習いはみな揃いの筒袖の短袍に長褲(ズボン)を履いている。
今年の正月にもらったばかりの新しい着物はまだ色もきれいで汚れはない。師匠は身だしなみにも礼儀にも厳しいのだ。
よし、と息を吸ってから声を掛けた。
「沈師匠、浩易です」
「お入り」
扉を開けて中に進んだ浩易は、ハッと目を瞬いた。[
窓を背にした師匠、沈任寛からまるで後光が差しているように見えたからだ。
沈任寛は細身のすらりとした体格でいつも物腰柔らかだ。涼やかな目元にすっとした鼻筋の整った顔をうつむけて、金の簪を手にしていた。
胸あたりまで伸ばした髪は上部だけ結い上げて、あとは背に流している。師匠となった職人はそれぞれ好きな格好をしているが、沈任寛はたいてい凝った刺繍の入った長袍を着ている。
凛とした立ち姿はとてもひと目を引く。顔の造作が整っているのもあるが、身にまとう雰囲気がなんとも優美なのだ。
「意見を聞きたくて呼んだんだ。これはどう思う、浩易?」
師匠から簪を受け取った。翡翠の飾り玉が下がった金歩揺だ。眺めた浩易はうっとりとため息をついた。
金の簪は細い雲のような優雅な流線を描いており、表面には細かな流水雲紋が彫り込まれていて、窓から差し込む太陽の光を反射してキラキラと輝く。
簪の中ほどと先端からは絹糸を縒った五色の飾り紐が伸びており、その紐の先には金具に取り付けられた翡翠玉が数個連なって下がっていた。
その翡翠珠は丁寧に彫りこまれて、蓮の形になっている。最初の翡翠玉のまだ固く閉じた蕾から徐々にほころんでいき、一番下の翡翠玉は満開の蓮の花に彫り上げられていた。
蕾は深い緑だが徐々に色が薄くなり、開いた花は薄い緑が上品さを醸し出している。
じっくりと簪を眺めた浩易は、もう一度、深くため息をついた。
「とても繊細で綺麗です。これなら趙家のお嬢様もきっとお気に召すでしょう」
「そう思うかい? 趙家は目が肥えていて気が抜けないからね」
「ええ。ですが喬国王都長寧広しといえども、これほどの細工を彫れる職人はそうはいません」
そう言われて悪い気はしないのだろう、ちいさくほほ笑んだ師匠は手にした簪をゆるやかに揺らしてみた。珠飾りの触れ合う音がシャラシャラと耳に響いた。
ここ最近はこういう下がりの飾りをつけた簪がずいぶんと流行している。歩揺と呼ばれる品で、その名の通り歩くと揺れる様がかわいらしく、素材や飾りによって豪華にも上品にもかわいくも仕上げることができた。
この簪に合わせるのは薄絹で作った胡蝶の髪飾りがいい。つややかな薄紅色の絹の光沢と相まって、金と翡翠の緑がとても引き立つはずだ。上品でひと目を引くに違いない。
揃いの耳環があればもっといいのに。
「こちらは耳環の注文はないのですか?」
思わず口にしてしまったら、師匠は満足そうに目を細めた。
「やはり浩易(ハオイ)もそう思うよね? 揃いの耳環があればいいと」
「ええ。とても美しいと思います」
「注文にはないが、さて」
すこし目を伏せて簪を揺らしている師匠の横顔を、浩易は息をひそめて見つめた。
師匠は彼が作る優美な簪のようだと思う。師匠は十歳で細工物の見習いになり、それから二十八歳の今日までずっと職人として腕を磨いてきた。
首飾りや耳環、腕輪に簪などどれも素晴らしい出来だが、特に簪はとても美しく繊細で、浩易はその優美な曲線や珠飾りの彫りの精緻さにいつも魅せられてしまう。
「提案してみよう。きっと買い上げるだろうからね」
「ええ。せっかくですから揃いのほうが見栄えがすると思います」
浩易は十五歳でこの工房に移って来て以来、職人見習いとして四年間、任寛から指導を受けている。
指導を受けていると言っても任寛は見た目に似合ったおっとりした性格で、気性の荒い職人たちが多い中、他の師匠のように怒鳴ったり殴ったりすることはない。
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