恋人と別れるために田舎に移住体験に行ったら元二股相手と再会しました

ゆまは なお

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苦くてあまい思い出5

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 その日、大友を呼び出したバーで、灯里は本気の別れ話をするつもりだった。
 松岡と抱き合ってから、すでに二か月近くが経っていた。別れ話ができずにいたのは、主に忙しすぎる大友の都合で、この夜ようやくゆっくりできる時間が取れたのだ。

 初めて抱かれた日から、灯里はもう何度も松岡と夜を過ごしていた。
 灯里は大友ときちんと別れる気でいたし、松岡のほうも一度抱いてしまったら歯止めが効かなくなったようで、本当はダメだって思うんですけどと言いながら求めてきた。
 今まで何度も別れ話をしてきたけれど、そのたびになんだかんだとごまかされ流されてきたから、自宅やホテルではダメだと思って、場所は大友行きつけの会員制のバーを選んだ。
 半個室になって話をするのに落ち着けるし、万が一拗れても人目があれば、プライドの高い彼がみっともなく騒ぐことはないだろうという考えもあった。

 でもそれを口に出す前に、アクシデントが起きた。
 大友と灯里が入ろうとした店の入り口に、その男はうつむいて立っていた。
 特になにも思わずに二人が店に入ろうとしたとき、男がナイフを振りかざして、灯里に切りつけてきたのだ。男はなにか喚いていたが、誰もそれを聞きとれなかった。
 幸い、大友と騒ぎを聞きつけて出てきた店のスタッフが男を取り押さえた。大友は軽傷で済んだが、灯里は顔と背中を切りつけられ、バーの階段から転げ落ちて足を骨折した。
 大友の怒りはすさまじく、相手を蹴り飛ばして殴ったあと、やって来た警察に引き渡した。灯里は救急車で病院に運ばれ、そのまま入院することになった。

 病院に駆け付けた松岡に、灯里は至って気楽な感じでどういう状況だったか話をしたが松岡の顔色は暗いままだった。
「すみません、灯里さん。本当にすみません」
 両手を握りしめて立ったまま頭を下げる松岡に、灯里は困ったように笑う。
「べつに一颯のせいじゃないだろ?」
「でも…、俺がもっとべつの対応をしてたら、こんな目に遭わなかったかも知れないのに」
「一颯、それは違う。ああいう奴は誰が何を言っても自分の都合のいいようにしか受け取らない。一颯がやさしくしてたらつけ上がってもっと面倒なことになったと思う」
「でも、だったら俺にナイフを向ければいいじゃないですか。なんで灯里さんを襲ったりしたんだ。こんな大怪我させて……っ」
 泣きそうな顔をする松岡を見て、ああ、まだこいつ学生だったよなと不意に実感した。

 体格も良くて松岡がしっかりしていたから灯里は甘やかされてきたけれど、年下の男に甘えている場合じゃないのだと、はっとして気を引き締めた。
 灯里を襲った男は、松岡に言い寄って断られた男だった。
 男は松岡がつき合っているのが灯里だと知って、灯里のことを調べたらしい。そして灯里が大友とつき合っていて、松岡と二股をかけていると知って逆上したのか、灯里を脅すつもりだったのか、ナイフを持って待ち伏せしていたのだ。
 意図的にそうしようと思っていたわけではなかったが、別れ話ができないまま結果的に二股状態になっていたことは事実だ。
 そのことに灯里は責任を感じていたが、こういう事態になったことで松岡を責める気にはなれなかった。自業自得だと思った。
 きちんと大友と別れられずにずるずると松岡の情熱に引きずられた自分が悪いのだ。

「あの、家族の方とか、は?」
 お詫びをと言い出した松岡に灯里は「家族は来ないよ」とあっさり言った。
「父親はもう亡くなったし、高校のときにカミングアウトして、母親はそれ以来、好きにしたらいいっておれのことは放任してる。去年、再婚相手の転勤で沖縄に引越したし、姉は結婚してフィンランドに住んでるから今回のことも言ってないんだ。わざわざ知らせる必要もないから」
 三LDKの広いマンションに一人暮らしの理由を知って、松岡は口を閉ざした。いつ遊びに行っても家族と顔を合わせたことがない理由を今まで知らなかったのだ。

「でも、こんな大怪我したのに、誰にも連絡しないんですか?」
「骨折だろ、大げさだよ。連絡したところで何もしてもらうことはないし、待ってりゃ治る」
「俺、なるべく毎日来ますから」
「来なくていいから、お前はお前のやることやれ。就活もあるし大学だってあるだろ」
「…でも…俺…、本当にすみません」
「だから、一颯のせいじゃない。ホントに気にするなよ?」
 うなだれる松岡に何度もそう言ってやったが、松岡は沈んだ顔のまま帰って行った。灯里が顔に傷をつけられたのが大きかったのだろう。
 左のこめかみに切り付けられたのだ。
 あと数センチずれていたら、失明していたかもしれない傷だった。
 背中のほうは服のおかげで傷は浅かったから命に別状はなかったが、後は残るだろうということだった。肩甲骨の近くを十五針ほど縫った。
 あとは左足の骨折だが、これは安静にするしかない。幸い仕事はなんとか融通をきかせることができたので入院期間中、パソコンを持ち込んでできる作業はしておいた。

 仕事のことよりも灯里が心配したのは松岡のことだった。
 加害者の男はゲイバーで松岡と知り合った二十八歳の会社員で、すでに傷害の現行犯で警察に身柄を確保されている。
 今のところ男と松岡の間にあったことは警察と襲われた当事者である灯里と大友しか知らないが、もしマスコミや大学にこんなことが知れたら松岡の将来に傷がつく。
 就職活動も佳境に入っているこの時期に、ゲイの痴話げんかに巻き込まれたなんて噂がつこうものならどんな事態になるか考えたくもなかった。
 大友は加害者を告訴して罪を償わせるべきだと言ったが、灯里は頑なにそれを拒否して示談に持ちこんだ。大友にも会社にも迷惑をかけるし、大事にしたくないと主張した。

 松岡のことについて灯里は何も言わなかった。大友は二人が会っていることは知っていたし、寝ていることもおそらく承知していただろうが、自分の過去を鑑みてか表立って二人を責めることはなかった。
 灯里の言い分を聞いた大友は苦い顔をしていたものの世間体を考えて最終的には折れて、灯里の希望を聞いてくれた。
 そして知り合いの弁護士を呼んで男の身元をすべて洗い出したあと誓約書を書かせて、大友にも灯里にも松岡にも一切近づけないように手配した。
 それらのことがすべて終わって、灯里は松岡に別れを告げた。
「もう終わりって、どうしてですか?」
 病室でさよならを告げた灯里に信じられないと、松岡は詰め寄った。

「俺とつき合ってくれるんじゃなかったんですか? 大友さんと別れてちゃんとつき合おうって言ってくれたじゃないですか」
「うん。でも気が変わったんだ。ごめんな」
「どうしてですか?」
「やっぱ年下って頼りないよな。こんなことがあって、大友さんは大人だし世間を知ってるし頼りになるって実感したんだ」
 入院の手続きやその後の警察の対応、弁護士の手配など、すべて大友がしてくれた。もちろん大友自身も軽傷だったが怪我を負い、その場に居た当事者だからと言うのが大きな理由だが、松岡にしてみれば大友が灯里の恋人で頼り切っているようにも見えただろう。
 まだ学生の松岡にはどうしようもない事態で、それも彼の責任ではないことは承知のうえで灯里は言い放った。
「一颯は見た目すごくカッコいいし連れて歩くと自慢になったし、一緒に遊ぶのは楽しかったけどそれだけって感じでさ。おれやっぱり、頼りがいのある年上の人に可愛がられたいのかな、一颯じゃ物足りないって気がついたんだ」
 松岡は泣きそうな顔でそれを聞いていた。

 泣くかな…、泣くよな、もしおれがこんなことを一颯から言われたら。
 それでも必死に意地を張って、灯里は芝居を打った。
 自分のせいで松岡の将来に絶対に疵をつけたくなかった。
「だからもう終わりにしよ? これからお前も忙しくなる時期だろ? おれと恋人ごっこしてる時間なんかないだろ」
 できるだけ軽薄そうに言って、ふわりと笑って見せた。
「やっぱりそうなんですか?」
 松岡は今まで聞いたことのない、暗く沈んだ声で訊いた。
「やっぱりって、なにが?」
「ちょっとつまみ食いしたかったことなんですか? 俺が灯里さんに夢中になるのを楽しんでたってことですか? 本気じゃなかったってことですか?」
「……そう思いたいならそれでいいよ。おれが何を言っても、一颯がそう思うならそうなんだろ」
 しばらく二人のかすかな息遣いだけが病室を満たした。

「…本気でそう言ってますか?」
「ああ。一颯と遊ぶのは楽しかったけど、もう潮時かな。終わりにしようぜ」
「俺は…。…俺、本当に本気で灯里さんが好きでした。灯里さんはそうじゃなかったんですか?」
 絞り出すように最後にそう言って、松岡は踵を返した。
 返事はできなかった。
 足音が遠ざかり、しばらくして大友が病室にやってきた。
「大友さん、おれ、オランジーナ飲みたい。買って来てよ」
 灯里のわがままにいいよと気軽にうなずいて、大友が病室を出ていく。それはこの階の自動販売機にはなくて、一階の売店にしか売っていないと灯里は知っている。
 その足音が消えてしまってから、灯里はぽつんとつぶやいた。
「大好きだっての、ばーか」
 目を閉じてベッドに横たわりながら、灯里は静かに涙をこぼした。
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