恋人と別れるために田舎に移住体験に行ったら元二股相手と再会しました

ゆまは なお

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目まぐるしい日々3

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 松岡から「今から家を出ます」と連絡が来たのは九時半を過ぎる頃だった。
 夕食もとらずに集中していたので、その電話ではっと現実に引き戻された感じだった。五時間くらいは没頭していたことになる。
 車の音がしたので玄関を出ると、松岡が玲雄を抱えて階段を上がってくるところだった。車でほんの十分ほどの距離だが眠ってしまったらしい。
 あわてて受け取って、和室に寝かせた。Tシャツとハーフパンツは借りたのだろう。続いて流美を運んできたので、そのまま流美も布団に寝かせた。
 ぐっすり眠っていて、布団に転がしても二人ともぴくりともしなかった。
「遅くなってすいません。お風呂も歯磨きも済んでますから」
「いや、こっちこそ遅くまで見てもらって助かったよ」
 リビングで突っ立ったままというのも間が持たなくて、コーヒーを淹れる口実でキッチンに逃げ込んだ。なんとなく顔が合わせづらい。

 電話では素直にありがとうが言えたのに、目の前にいると言いにくい。いやでも、こんなに世話になっておいて、ここはやっぱり大人として礼の一つも言うべきだろう。
 松岡が玄関に向かったので、あわてて声をかける。
「帰るのか?」
「あ、いいえ。車に二人の荷物があるんで、取って来ようと思って」
 焦った声を出した自分が恥ずかしくなって、灯里は頬に血が上るのを自覚する。松岡が赤くなった自分を目を丸くして見ている。
 動揺で目を泳がせた灯里にかまうことなく、にこっと笑いかけて玄関を出て行った。
 なんなの、おれ、なんでこんな焦ってんの。

 すぐに階段をのぼる足音が聞こえてきて、灯里は急いでやかんに水を入れIHに置く。飲み物にこだわらない上に、時間優先の灯里の家にはインスタントしか置いていない。
「インスタントだけど」
「ああ、ありがとうございます」
 二つのリュックをリビングに置いた松岡へキッチンカウンターにマグカップを置いたが、松岡はキッチンのほうに入って来た。
 なんでこっちに入ってくるんだよ、向こうに出しただろうが。ゆうべのことを思い出して焦る灯里に、松岡は平然とした顔で紙袋を差しだした。
「晩めし、食べました?」
「あ……。いや、ちょっと集中してて食いはぐれてた。ゼリー飲料飲んだし」
「そんなんじゃ体壊しますよ。夜食にどうぞ、握り飯とおかず入ってます」
「……ありがとう。これだけじゃなくて、きょうのことも」
 差入れきっかけでようやく礼が言えるなんて情けない気もするが、松岡はべつに何も思わないようで「どういたしまして」と穏やかに返した。

「家族の人にまで気を使ってもらってごめん」
「いえ、本当にうちのちび達が流美ちゃんと玲雄くんに会いたいって言いだしたんですよ。あの時は遊べなかったからって。でも灯里さんの役に立てたならよかったです」
 穏やかにそう言われると、灯里にはそれ以上言うことは見つからなくて、口を閉じるしかなかった。手に持った紙袋をどうしていいかもわからない。
 松岡との距離感がうまくつかめなくて困る。
 子供たちが来る前は、移住促進課の担当者としてフォローに来ると言う名目で訪ねてきていたから、何も困っていないと返事をすればそれで会話は終わった。
 灯里はそれ以上踏み込ませなかったし、松岡も無理やりプライベートに立ち入ってはこなかった。

 けれども子供たちが来てからと言うもの、プライベートな領域に入りこまれっぱなしで、しかもそれが灯里にとっては非常に助かるというか頼りにしている状態が続いて、単なる移住促進課の職員と言う扱いをしづらくなっている。
 封印したはずの昔のこともちらちら松岡は会話に出してくるし、それを聞く限り、過去のことはあまり気にしていないようではあるが、人の本心などわからない。
 手をつながれたり、思わせぶりに抱きしめられたり笑顔を見せられても灯里は困惑するだけだ。松岡といまさら友達つき合いなどする気はないし、灯里にとってはできるだけ距離を取りたい相手なのに、状況がそれを許してくれず、どんどん関係が深まっている気がする。
 風香が迎えに来るまでの期間限定のこととはいえ、これ以上距離を詰められるのはまずい。

「徹夜になりそうって言ってましたけど、大丈夫そうですか?」
「あ、ああ。まあ、夜のうちに集中してやればなんとか」
 松岡はずいぶんと灯里の仕事を気にかけてくれている。やはり移住促進課としては仕事の有無が移住を定着できるかどうかの分かれ道になるからだろう。
「そうですか。じゃあ、邪魔しちゃいけないんで俺は帰ります。すみませんが、あすの朝は寄れないかもしれません」
「いや、そんなの気にしなくていいよ」
 あまり会話も弾まないまま、コーヒー一杯飲んで、松岡は玄関に向かう。
 鍵をかけようと向かい合った灯里に手を伸ばし、頭から頬をさらりと撫でる。びくっと身を引こうとした灯里の腕を左手でつかんで引き留め、右手でそっと髪を払ってこめかみに触れた。

 その指先にドキッとする。松岡が触れたのは、あの時切りつけられたところだった。処置が早く担当医がじょうずだったおかげで、じっと目を凝らさなければもうほとんど痕も見えない。
 身を固くする灯里に松岡は何度かそこを撫でて、そっと手を下した。傷の残り具合を確かめたんだろうか。
 あまりに動揺して言葉も出ない灯里に「おやすみなさい」と穏やかな笑顔を残して去っていく。それはあの頃には見たことのない感じの大人っぽい笑顔で、包容力を感じさせるものだった。
 ……なんだ、今のは。
 あの指先が、何度も灯里の肌をやさしくたどったことを思い出す。
 鍵をかけて頭をからっぽにして何も考えるまいと暗示をかけた。まずは仕事だ。とにかく仕事だ。納期が迫っている。余計なことを考えている暇はない。

 とりあえず熱いシャワーを浴びた。
 シャワー後に冷蔵庫からビールを出して飲みながらメールチェックをする。仕事用のアドレスを確認して、灯里は眉をしかめた。
 大友からメールが来ていた。
 どうしても会って話がしたい。どこにいるのか教えてほしい。
 その二点のみの簡潔な内容に、ため気がこぼれた。
 もう会うつもりはないことだけを書いて、送信した。
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