かつてこの国を統べていたのは一冊の書物だった

どん底人生‼️

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紫鋒⑤

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今度は足音を忍ばせて漣熙りぇんしーの部屋へ向かう。地面に散らばる折れた枝や枯葉を踏まないように、音を立てないように慎重に歩いた。途中、残っている二人の執務室の前に通りかかる時には心臓の鼓動すら止めていた気がする。
裁定所と四つの離れを通り過ぎた先。漣熙りぇんしーが足を止めた。
「ここ?」
「ああ」
漣熙りぇんしーの頷きを見て、沙煌しゃーほわんは足元に落ちていた石を拾った。外套を脱いで石を包み、木の格子に嵌っている窓硝子の一箇所をコンコンと叩く。思い切りぶつけて割ることも出来るが、それだと大きな音が響いてしまう。ヒビだけを入れるように慎重に叩いていると、暫くしてピシッと細かい亀裂が走った。
亀裂の中心に石を押し込むようにすると小さな穴が空いた。手に外套を巻き付けて硝子を落としていく。小さな穴がどんどん広がっていき、格子の一箇所の硝子が全て割れ落ちた。
しかし、この状態では格子は小さく、人が通ることは不可能。沙煌しゃーほわんは一つ上の格子と右隣、それから右斜め上に嵌った硝子を同じように割った。合計四箇所の硝子を割った。
「これで、格子を壊せば入れるな」
硝子の無くなった木枠に手を置いて、グッと力を込める。ミシミシと、木材の繊維が裂ける音が聞こえて、しなっている。最後の一押しと思い切り力を込めると、バキッと音を立てて格子が壊れた。残りも同じように壊していくと、成人男性がギリギリ通れるくらいの大きさの穴ができた。
「手際がいいな」
感心したように言う漣熙りぇんしーに、沙煌しゃーほわんは鼻を高くして「まあな」と言った。
硝子の破片を落とすために外套を払っていると、不意に手のひらがピリッと痛んだ。
「っ」
「どうした?」
声を殺したはずなのに、漣熙りぇんしーは耳ざとく聞き取ってしまったらしい。
沙煌しゃーほわんがそれとなく手のひらを隠すが、漣熙りぇんしーの方が一瞬早かった。血が流れる手のひらを、彼はじっと睨みつけるように見つめる。
「えっと、外套に硝子が刺さってたみたいで……」
誤魔化すようにへらりと笑うが、漣熙りぇんしーは険しい表情のまま。
「痛くないし」
平気だから、と言おうとしたのに。
漣熙りぇんしーが手のひらをべろりと舐め上げてきたせいで言葉が止まってしまった。
「へっ」
呆気に取られているのに、漣熙りぇんしーの赤い舌から目が離せない。柔らかくて熱い舌が傷口に触れるたび、傷口とは別の場所がじくじく痛む。
「あのっ、大丈夫だから、もう離して!」
振りほどこうにも上手く力が入らない。
そうして血が止まるまで延々と舐められ、手のひらがふやけてきた頃。ようやく解放された。
呆然と、涎だらけの手のひらを見つめる沙煌しゃーほわんを傍目に、漣熙りぇんしーは壊した窓から自室に入ってゴソゴソと何かを探している。
「お前も早く入れ」
棚の中を引っ掻き回している漣熙りぇんしーにそう言われ、ハッとして部屋に入った。
部屋の中は、寝台と机の周りが雑然としているだけで物は少なく面白味がない。
ぐるりと部屋を見渡していると、寝台に腰掛けた漣熙りぇんしーが「こっちに来い」と手招きをした。
「なに?」
ギシッと音を立てて隣に座る。
「手、出せ」
素直に両手を差し出すと、「こっちだけでいい」と切り傷が残る方の手を取られた。また舐められるのかと身構えると、以外にもそこに触れたのは濡れた布だった。
傷口に水分が触れて沁みる。反射的に肩を跳ねさせると、漣熙りぇんしーは手首を掴む手を強くする。
「手当してんだから動くな」
「手当て……」
漣熙りぇんしーの足元には包帯と軟膏と酒精が置いてあった。
「ああ。放っておいたら化膿するかもしれない」
「あ、ありがとう」
テキパキと処置を進める漣熙りぇんしーの手を見ながら、あれ、と思う。
「手当てしてくれるなら、さっき舐めなくてもよかったんじゃない?」
消毒代わりに舐められたと思ってたのに、と漣熙りぇんしーを見るが、彼は真剣そうな顔で包帯を巻くだけ。返事はしない。
「都合が悪くなるといっつもこれだ」
唇を尖らせてみるが、無反応。
沙煌しゃーほわんは諦めて手当てが終わるのをじっと待った。長く節ばった指が、皮膚に触れるたびにチリッと熱くなる感覚を無視して。
「ここから黙録房まではすぐだが、もしも鍵が開いていなければまたここに来ることになる。侵入したことを気取られないように」
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