蛟堂/呪症骨董屋 番外

鈴木麻純

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我が愛しの猟犬

1.

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 遠くで犬の鳴く声を聞いた気がして、九雀蔵之介は目を覚ました。
 犬――犬は好きな方だ。警察犬しかり、軍用犬しかり、介助犬しかり。躾けさえ誤らなければ主人に忠実で、多少の困難はものともしない頼もしい相棒となりうる。
(それに、なんたって愛情表現が分かりやすい)
 口の中で呟きつつ。寝ぼけた頭に思い描いたのは人間の友たる四つ足の獣ではなく、それに喩えられることの多い後輩の顔だったが――
(いや、違う。俺まであいつを犬扱いして、どうする)
 軽くこめかみのあたりを叩いて、しょうもない発想を頭から追い出す。それから思い出したのは、昨晩の合コンのことだった。

「やれやれ、連敗記録更新か。また石川のやつに笑われちまうな……」

 以前のように合コンに情熱を傾けられなくなったのは、年齢のせいもあるだろう。三十代に足を踏み入れ、酷く冷めてしまった。そんな自分を、九雀は自覚していた。
 スリルや駆け引きを楽しめなくなった。いつでも、どこか白けた心地で相手を値踏みする自分がいる。そろそろ人生のパートナーをと考えると、つまみ食いをするにも慎重になる。後腐れなく遊べる相手は思いのほか少なく、見つける労力に反してリターンが少ない。
(って、こういう考え方が不誠実だってんだろうな)
 誠実さの欠片もない、くそ男。
 ――と、悪友に自嘲したことがあったが、我ながら嫌になるほど的を射た自己評価である。

「はー……若いうちから遊び始めると、枯れるのも早いってやつかね。オフの楽しみがないってのは勘弁なんだが」

 ぼやきつつ、体を起こす。八畳ほどの寝室に、ダブルサイズのベッドが一つ。すぐにパートナーができるだろうと当て込んで買ってから、二年が経った。快適さを考えれば悪い買い物ではなかったが、たまに独り寝が寂しくなる広さではある。
 一つ身震いして、九雀はちらっと時計を眺めた。

「十時か。無駄に早く起きちまったなー……」

 非番だが、予定はない。後輩ならトレーニングでもして過ごすのだろうなと思いつつ、それをするだけの情熱もない。溜息を零しながら丸めた掛け布団を抱きしめ、二度寝を決め込もうとしたとき――サイドテーブルに置いた携帯電話が、静かに振動した。

「誰だよ、ったく」

 どうせ悪友の石川鷹人か、お節介な鷺沼征士郎だろう。九雀は着信を無視してベッドにもぐり込もうとしたが、ふと思い直して携帯へ手を伸ばした。連絡をしてくる人物に、もう一人だけ心当たりがあったのだ。確認すると案の定、そこには彼女の名前があった。
 真田律華。

「後輩ちゃんからの着信なら、話は別だな」

 九雀は、あの後輩が好きである。なんといっても、彼女は誠実だ。疑う余地のないほどに誠実で、真っ直ぐで、健気で、他の誰とも違う。
 何度か頭を振って眠気を飛ばした。
 律華は休日の過ごし方に口を出すほど野暮ではないが、寝起きだと知られるのは先輩として体裁が悪い。咳払いを一つして通話を取ると、聞き慣れた生真面目な声が聞こえてきた。

「先輩、真田です。お休み中のところ、すみません」
「いや、構わんぞ」

 律華が恐縮してしまわないように、軽く否定する。

「それより、どうした?」

 なにかあったのだろうな、と九雀は思った。プライベートでまで煩わせることはないと遠慮しているのか、休日の連絡を極力控えているような彼女である。
 案の定、後輩は少し困ったように答えてきた。

「実は、問題が起きまして……」
「呪症事件か?」
「犬探しです」

 一瞬、九雀は返事に窮してしまった。
 この後輩に限って自虐ギャグということもないだろうが――

「犬?」
「はい。異能ペットと呼ばれる犬だそうです。訓練中に逃げ出したらしく、捕獲を手伝うよう要請を受けています。異能者が関わってくるイレギュラーな案件ですので、先輩の耳にも入れておくべきかと思い連絡させていただきました」
「ああ、そういうことか。それならうちの案件だな」
「はい」

 頷いたきり、律華の声が途切れる。こちらの返事を待っているのだろう。

「賢明な判断だ」

 ひとまず、九雀はそう言った。

「前のお前だったら、俺が休みだってことを気にして、とりあえず相談なしで捜索にあたっていたところだ。チームを意識できるようになったのは、大した進歩だよ」

 悪友から贈られた本にも書かれていた――嫌みとも取れる犬の躾け本だが、後輩指導に少しは役に立つ――信頼関係の構築に重要なのは、褒めて伸ばすことだ。

「勿体ないお言葉、ありがとうございます。九雀先輩のご指導の賜です」

 謙遜しつつ、律華は満更でもないようだった。弾む声で、続けてくる。

「それに……自分にチームを意識させてくださったのは、先輩と石川です。白鳥署長にも、二人からいい影響を受けていると指摘されました。つくづく自分は恵まれていると――」

 これが始まると、長い。自分がいかに果報者か、から始まって、延々と先輩賛美が続く。

「ああ、待て。待て、真田」

 悪いとは思いつつ、九雀は後輩の話を遮った。

「そういう話は、今はいい」
「すみません、先輩。つい。後ほど手紙にしたためておきます」

 なにかといえば手紙を書いて渡してくれるため、デスクの引き出しはもういっぱいだ。そのうち開かなくなりそうだよなと思いながらも、必要ないとは言えない九雀である。

「あ、ああ。まあ、楽しみにしておく」

 ひとつ咳払いして、話題を変えた。

「そういえば石川のやつに連絡はしたか? 異能者といえば、あいつの方が詳しいだろ」
「はい、いいえ。石川は、本日一色を連れて慰安旅行です」

 律華は肯定を挟み、否定した。軍隊式を意識しているのか、単純に飼い主に服従する犬のような心理なのか――よく分からないが、彼女の癖だ。

「そういや、そんなことも言っていたな」

 すっかり忘れていた。
 足無村で悲惨な事件が起こったのは、つい一週間前のことだ。
 一慧は事件に関わっていないが、鷹人のところで報告書を読むか、聞くか、したのだろう。大学生たちが引き起こした事件にマチルダ事件を重ねて、PTSDを発症したようだ。鷺沼によれば、特定古物所有者として更正施設に収容された親友の佐倉井千秋から面会を断られ続けていることも、精神的ストレスになっていたらしい。
(……ま、当然か。幼馴染と親友をいっぺんに失ったようなものだもんな)
 それでもどこか他人事のように、九雀は密かに独りごちた。へらへらとした鷺沼が、一慧を気に掛けて相談に乗ってやっていたことにも驚きだが――

「温泉だったか。あの石川が、一色さんを気晴らしに……ねえ」
「はい。いい雇用主をやっているようですね、石川は」

 律華もしみじみ呟いている。

「しかし、先輩が二人の誘いを断られたことは意外でした」
「まあな」

 これもやぶ蛇だったなと思いながら、九雀は曖昧に頷いた。

「俺が一緒に行ったら、一色さんに気を遣わせかねない。本末転倒だろ?」

 まさか気乗りがしなかっただけと言うわけにもいかず、適当に誤魔化す。
 九雀は、一色一慧が苦手である。鷺沼からは嫉妬だろうと指摘された――否定はできない。誰からも気に掛けられて、愛されるようなところが好きになれないのだ。



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