蛟堂/呪症骨董屋 番外

鈴木麻純

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我が愛しの猟犬

13.

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 そんなことを言われたら――

「撃てなくなるだろうが、馬鹿」

 いや。迷ってしまったせいで、いずれにせよ発砲は間に合わないか。
 九雀はかぶりを振り、すぐさま思考を切り替えた。やるべきことは自然と思い付いた。覚束ない足取りで当たり前のように前へ出ようとした無謀な後輩の肩を掴み、その体を抱え込む。衝撃は、想定したよりも早かった。側面から体当たりを食らって、律華と二人で倉庫の外に転げ出る。石畳を滑って、シャツの袖が破けた。

「九雀先輩!」
「まったく、お前みたいに恰好良くはいかないな」

 苦く呟きながら、律華を見下ろす。そこには狼狽しきった夜色の瞳があった。
 今にも泣き出しそうな顔を、どこか愛らしく思う。はにかむような笑顔も、尊敬と信頼をたたえ輝く瞳も、もちろん悪くはない。だが、九雀は後輩の泣き顔が一番好きだった。

「泣くのか、後輩ちゃん」

 青ざめた顔で怯える彼女の背中を、軽く叩いてあやす。

「せ、先輩……」

 律華の声は震えていた。
 こういうとき、日頃はいくらか無理をして「真田律華」を演じているのだろうなと痛感させられる。頼りなげな後輩の顔を眺めながら、九雀は幼い日の自分を思い出した。出来のいい兄にコンプレックスを抱え、だからこそ敢えてお調子者を装っていた――
(真田も同じ、か)
 きょうだいとは百八十度違う自分を作ることでしか、プライドを守れない。

「泣いてもいいから、顔は伏せとけ。傷物になったら、ちと困る……かな。どうだろうな。俺が責任を取るにしたって、できれば痛い思いはさせたくねえからなあ」

 律華を抱える腕に力を込め、九雀は冗談めかして笑った。次に感じる痛みのことはなるべく考えないようにした。手酷く噛まれる前か、せめて痛みに意識を失ってしまう前に助けが入ればいいと、どこか他人事のように思う。

 そのまま一秒、二秒――

 次に聞こえてきたのは、地響きにも似た鈍い音だった。驚いて、九雀は顔を上げた。恐る恐る振り返り、ぎょっとする。入り口のあたりに高く積まれていた木箱が、倒壊している。
 さっきまで、九雀と律華が立っていた場所だった。木箱の中に入っていたのは金属片だ。研究棟で出た廃棄物だろう。もしあのまま立っていたら、木箱の下敷きになって大怪我をしていたかもしれない。

「もしかして……自分と多聞丸が転がったときの衝撃で……」

 体の下で、律華が愕然と言った。
 引きずられるまま、ともに倉庫の外へ出た丹塗矢夫妻も、ぽかんと口を開けている。なにもかも分かったような顔で得意げにしているのは、多聞丸だけだ。かの犬は丑雄の足下に行儀良く座って、汚名返上したといわんばかりに胸を張っている。
 ようやく事態を飲み込んだらしい丑雄が、犬の額に手を置き、ふーっと息を吐き出した。

「真田さんたちを助けようとしたのか、お前は」

 伊緒里も緊張の糸が切れたように、多聞丸の体にひしっと抱きついた。

「まったく、あなたという子は――」

 叱りつけようとして口を噤んだのは、多聞丸の目に気付いてしまったからだろう。まるで、甘えたい盛りの子供のような。短い尻尾を忙しなく振り、鼻面を伊緒里に押しつける。

「ああ……そんなに誇らしげにして」

 彼女が嘆息した。

「成長したところを見せたくて、張り切ってしまったの?」

 くうんと一声。
 その顔つきからは想像もできないような甘え鳴きをした多聞丸は、もう逃げだそうとはしなかった。伊緒里に抱きすくめられて、幸せそうに顔を舐めている。

「そうか。異能犬としての勤めがはじまれば、ますます気楽に会えなくなるからな」

 丑雄がしみじみと呟いた。

「こんなふうに健気にされたら、どう叱っていいか……」
「別れがたくもなってしまう。困ったな」

 湿っぽい夫婦の会話を聞きながら――

「つくづく、身につまされる光景だよな」

 九雀は体の下にいる後輩を見下ろした。
 吐息がかかるほどの距離だ。

「身につまされる、ですか?」

 多分、分かっていないのだろう。なにより犬扱いされることを気にする彼女のことだから、もしかしたら分かっていないふりをしているだけなのかもしれないが。

「……健気にされると叱れない。別れがたくなっちまう」
「あの、先輩?」
「宣言した三年か、署長がもう少し気を利かせてくれても五年か。一つの警察署にそれ以上長くいるって、あまり聞かねえよな。異動のことを忘れるくらい、お前の先輩でいることが当たり前だった。あいつらを見て、現実を思い出しちまったよ」

 戸惑いがちに見上げてくる後輩を見つめ、思わず声に出して呟いた。

「どうやって割り切りゃいいんだろうな、まったく」
「…………」

 律華は答えなかった。分からなかったのだろう。
 彼女は答えを求めるように視線をさまよわせ、丹塗矢夫妻と多聞丸を見つめていた。

 ****

「このたびはわたくしどもの我侭を聞いてくださって、ありがとうございました」

 緒田原邸へ多聞丸を引き渡し、皇明館大学での聴取を終えた帰りである。丹塗矢夫妻は関東に住む別の異能一族の許へ挨拶に行く予定があるからと、駅で別れることになった。
 丁寧に頭を下げる伊緒里の目元は、涙の痕こそないが少しだけ赤い。

「我侭もなにも、人に危害を加えないという話を疑って大袈裟にしたのはこっちです。多聞丸には助けてもらいましたし、頭を下げないでください」

 九雀はかぶりを振りつつ答えた。
 自分の疑い深さを恥じるわけではないが――勘違いから発砲しそうになったなどと知られれば、悪友にはまた過保護だのなんだのと言われてしまいそうだ。
(自分では常識の範囲内のつもりだったんだが、もしかして相当に過保護なのか?)
 今更ながらに自覚して、彼らにどう思われていただろうかと苦笑いする。

「九雀先輩のおっしゃるとおりです。自分の不注意のせいでお二人にも気を揉ませてしまって、申し訳ありませんでした」

 隣で、律華が頭を下げた。
 つられたように丑雄も頭を下げる。

「いえ、襲撃訓練を受けた犬と聞けば警戒するのは当然です。多聞丸に限らず、今後の再発がないよう緒田原家ともあらためて相談し――」

 堅苦しい別れになりそうだなと苦笑していると、伊緒里も同じように感じたらしい。けれど賢婦らしくあからさまに口を挟むことはせず、控えめに夫の袖を引いた。

「丑雄さん」
「ああ――そうだな」

 名を呼ぶだけで通じるあたりが、夫婦というものなのだろう。丑雄はなにかに気付いたようにひとつ頷くと、再びこちらに向き直り、手を差し出してきた。

「もし京都まで足を運ぶようなことがあったら連絡してください。案内します」

 彼の手を握り返しながら、九雀は頷いた。

「そうですね。もしその機会があれば、捜査じゃなくて旅行がいい」
「ええ。お二人で、是非」

 と言ったのは、伊緒里だ。
 ――二人だって?
 どう答えたらいいか分からず、しばし言葉を失う。悪友と一慧を知らない丹塗矢夫妻が彼らのことを話題に出すはずもないが、それにしても不意を突かれた心地だった。


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