蛟堂/呪症骨董屋 番外

鈴木麻純

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我が愛しの猟犬

14.

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「いいですね」

 律華の方は落ち着いたものである。

「……ま、申請が通ればな」

 答えてから素っ気なさすぎたかと思ったが、後輩は気にしなかったようだ。

「はい」

 短く頷き、電車に乗り込む丹塗矢夫妻を敬礼で見送る。
 電車が行ってしまうのを待ってから、九雀は後輩をちらりと横目で見た。

「さっきの」

 どう切り出したものかなと思いつつ――

「はい?」

 きょとんとしている彼女に結局、単刀直入に訊ねた。

「旅行。二人でって、本気か?」

 潔癖な後輩の方が動揺するだろうと思っていただけに、九雀は狼狽えていた。
 律華が、やや不安そうに訊き返してくる。

「先輩は気詰まりでしょうか?」

 自分と二人では――と、悲しげにされてしまうと、こちらも困ってしまう。そうではないのだが、

「そういう問題でもねえっていうか……」

 未婚の男女が云々――と言いかけて口を噤んだのは、らしくないと思い直したからだった。
 それこそ後輩の言いそうな台詞なだけに、わけが分からない。

「石川や一色さんのことも誘わないのは、お前らしくねえなって」

 どうにか建前をひねり出す。
 それを聞くと、彼女は目を瞬かせた。
 きょとん――
 という擬音が聞こえてきそうなほど、無邪気に。

「課内旅行ではないんですか?」
「課内、旅行?」
「石川たちも天鷹館名義で慰安旅行へ行っていますし、自分はてっきり、そういうことなのかと」
「あー……そういう……」

 九雀は熱の上がった顔を押さえた。

「そーだよな。お前がプライベート旅行だなんて言い出すはずがなかったよな。俺が悪かった」
「はあ」
「あの石川が、慰安旅行に行くくらいだもんな。俺とお前が京都行ったって、おかしかねえよな。駄目元で休暇申請してみるか」

 ありえない勘違いしてしまったことが恥ずかしくて、早口でまくし立てる。
 頷く律華は、やはり呑気なものだ。

「自分、京都には行ったことがないんですよ」
「じゃあ、俺が修学旅行で行ったのと同じルートで案内してやろうか?」
「はい……!」

 後輩と一緒なら、学生時代よりも遥かに楽しい旅行になるだろうと九雀は思った。
 彼女の反応はいつだって素直で、嫌みがない。子供よりも子供らしく目を輝かせて逐一感動を伝えてくれるのだろうと、容易に想像できてしまう。

「ま、そのためにも、まずは目の前の仕事を片付けなけりゃな。まず、あの犬が壊して回った特定古物をリスト化するだろ。それから、呪症管理協会と上への報告書を作って……うんざりする量の後始末が残ってる」
「一日付き合わせてしまってなんですが、あとは自分がやりますので先輩は先にお帰りください。怪我もされていますし、書類の作成だけならどうにかなりますので……」

 申し訳なさそうな顔をする律華に、九雀は嘆息した。

「お前な。とりあえず気を遣っとけってことなんだろうが、逆に失礼だぞ。そんな無責任ができるなら、最初から非番の日に出てきたりしねえよ」
「すみません。しかし――」
「しかしは、なし。二人で残業コースだ。それに一人飯は寂しいっつったろ、お前」

 言いながら、律華の頭に手を置いた。風で乱れた髪を、手で整えてやる。

「署へ戻る前に飯を買ってくか。奢ってやるから、好きなもん食えよ」
「あ、ありがとうございます、九雀先輩」

 彼女は遠慮がちに、はにかんだ。

「自分は、コーヒーが飲みたいです」
「ああ。甘いやつな」

 もうお決まりになってしまった、加糖のミルクコーヒー。初めて差し入れしてやったときこそ不思議そうな顔をしていた律華だが、すっかり気に入ったようだ。そうやって嗜好品の好みをすり込んでいくのも、後輩教育における楽しみの一つである。

「はい、先輩!」

 いつものように勢いよく返事をする後輩を連れ、引き返していく。駅を出たところで、九雀はもう一度だけ構内を振り返った。
(丹塗矢夫妻と多聞丸、か……)
 琴線に触れたのは、彼らが羨ましくなるほど家族的に見えたからだろう。
 夫婦。生まれた家から離れた、新しい家族――十代の半ば頃から、ずっと憧れていた。
 大学で教鞭を執る父。そんな父に似て優秀で、できた女を娶って実家を継いだ兄。彼らを愛した母。自分だけがぱっとしなかった。そのことを面と向かって責められたことはないが、ある時期を境にして匙を投げられたなとは感じていた。
(俺もいつか、見つけられるかね……?)
 自分だけの家族を切に求めて随分になるが、先は見えない。女を好きになることは、簡単だ。だが、裏切ることも同じくらい簡単なのだ。凪弓弦と付き合っていた頃に、自分の冷淡さを自覚した。きっかけは、彼女の何気ない一言だったように思う。「蔵之介くんのお兄さん、恰好いいね」だとか、そんな類の。その瞬間に酷く冷めてしまった。
 どうせ彼女も兄や父のような男が好きなのだろう。そう思ったら、誠実でいることが馬鹿らしく思えてしまった。他の女たちにしても、似たり寄ったりの裏切りで終わらせてきた。あるいは、賢い女には見透かされた。それでも合コン通いはやめられなかった。夢を諦められずに女たちとの駆け引きを繰り返し、ひとつ分かったことがあった。
 恋愛は不誠実だ。そうと割り切って楽しむものだ。

「九雀先輩、どうされたんですか?」
 声で我に返る。
 横を向くと、律華がぴたりと足を止めていた。
 いつもの距離感。いつもの後輩。変わったところは、一つもない。きらきらと輝く、見上げてくる瞳も含めて、まったくいつもどおりだ。
 けれど、どうしてか――胸がいっぱいになった。
 倉庫でのやり取りが、頭の中でぐるぐると渦を巻いている。あのとき咄嗟に腕の中へ押し込めた、損得勘定や駆け引きなしに触れた後輩の体温こそ、ずっと探していたものなのかもしれない。
 そんな錯覚に陥る。
(……いやいやいや、妻帯者が羨ましいからって自棄になるんじゃない)
 九雀は密かにかぶりを振った。
(俺と真田の関係ってのはさ、もっと違う次元のもんだ)
 もっとも誠実で、かけがえがないものだ。打算と偽りで固められた人間関係において唯一、手放しで信じられるものだ。一時の気の迷いで、不誠実な恋愛にしてはいけないものだ。
 言葉を続けられずにいると、律華がふと気付いたように九雀の目を見つめた。

「先輩。割り切らなくていいのではないでしょうか」

 なんのことを言われているのか分からず、九雀は少し訝った。
 ややあって、倉庫での問いかけに答えてくれているのだと気付く。

「真田、俺は……」

 別のことを考えていたのだとは言えず口ごもる九雀に、律華が言った。

「先輩に世話を焼いていただいている時間は、尊いものです。いつか異動で離れたとしても、きっとずっと先輩離れなんてできないのだろうなとも思います。自分も」

 揺れる彼女の瞳を見返しながら、九雀は頷いた。

「……そうだな」
「はい」

 安堵に頬をゆるませる後輩の頭を、いつものように撫で回す。

「そうやってお前がめちゃくちゃに甘やかすから、俺がますます駄目になる」
「自分の方が、甘やかされています」
「いや、俺の方が……って。これが石川の言う『バ飼い主漫才』か」

 まさに、馬鹿な飼い主と無邪気な犬そのものだ。漫才ついでに、もう一つ。

「お前のこと、たまに俺の夢か妄想の産物なんじゃないかと疑いたくなる。都合良くほしい言葉をくれるし、呆れもせずに俺のいいところを探してくれるから」

 嘘偽りのない本音を、呟く。

「自分は、たまにではありません。一年前から常に夢かもしれないことを恐れています」

 わしわしと撫でる掌の下から、律華が即答してきた。

「先輩に触れていただくたび、途方もなく幸せな現実なのだと実感します」
「途方もなく幸せ、か。確かに。こんなふうに胸がいっぱいになるなんて、ないよな」

 まるで男女の睦言だ、と九雀は密かに苦笑する。露骨すぎるほど、露骨な言葉のやり取りだ。けれど律華は、そこにひそんだ危うさに気付くふうではない。
 九雀は後輩の頭を離すと、彼女の耳元で囁いた。

「……止めてくれる石川もいないことだ。いちゃつくのはこれくらいにしておくか」
「い、いちゃ――?」
「言葉のあやだよ、後輩ちゃん」

 それ以上の意味はないと呟き――

「さ、行くか」

 路上に止めた車へ向かって歩き出す。

「あっ、先輩。待ってください」

 律華は少しぽかんとしていたが、すぐ我に返って追いついてきた。隣に並ぶ。慣れた距離感と重なる足音を心地よく思いながら、九雀はそっと溜息を零したのだった。



END.
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