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8.6光年先の輝き
27 ぶつける
しおりを挟む「あ……もしかして知らなかった? 名刺渡したのに連絡来なかったから、てっきり君も一緒に行くものだと思ってた」
晶は呆然としながら首を振った。小坂が口に手を当てて、気まずい空気が流れる。
「本当にごめん。わざとじゃないんだ」
「い、いえ。気にしてないので、謝らないでください」
小坂は眉を八の字に下げ、顔の前で手を合わせた。
「悪いんだけどルカには言ったこと内緒にしてくれないか。伝えてないのも、なにか理由があるのかもしれないし……」
口を開けたが、答えられず首だけ動かす。小坂はソファから立ち上がり、もう一度ごめんねと謝ってそそくさとその場を後にした。
周囲に人の気配が消え、晶は手元の本に目を戻す。文字が滑って全然読めない。さっきから同じところを繰り返し追っている。
ドイツに移住するなんて、知らなかった。
この生活はまだ続くんじゃなかったのか。依頼だって終わっていないし、耐えられないと泣き言も漏らしていない。ルカとの仲も良好だと思っている。なのにどうして。ショックを受けてもう本どころじゃなくなった。両手で顔を覆う。しおりを挟まないまま、膝の上で本がぱたんと閉じた。
どれくらい時間が経っただろう。しばらく放心してから、そっと手をどかして目を開けると、視界の端でゆらゆらと揺れる靴に気づいた。
見覚えのある革靴にひゅっと息が漏れる。隣のソファで、ルカが足を組んで座っていた。
全く気配を感じなかった。いつからここにいたんだろう。声をかけてこなかったのも、不機嫌そうな横顔も怖い。
「お、終わったなら帰りませんか」
勇気を振り絞って話しかけたが、ルカはなにも言わない。
「あの……」
「お前さ」
ルカは目をすがめて、なにかを耐えるように低い声を出した。
「また、小坂に会っただろ」
貧血でもないのに、さあっと血の気が引いていった。
ルカに詰められて頭の中が真っ白になったあと、晶は気づいたらルカの家の玄関にいた。どうやって家まで帰ってきたのか覚えていない。ルカはすでに靴を脱ぎ、腕を組んで自分の前に立っている。とりあえず靴を脱ごうとしたら、
「待て、ここから入ってくるな」
目の前に手のひらを突き出された。
晶は愕然として動きを止める。もしかして、ついに同居を解消されるのか。言いつけは確かに守らなかったけれど、ルカの依頼がバレるようなことは一つも話していない。ただ小坂と喋っただけなのに。
「なんで小坂に会ったんだ」
一定の距離を保ったまま、ルカが聞いてくる。
「偶然です、たまたま通りがかったみたいで」
「偶然?」
ルカは鼻で笑ったあと、はあっと大きな溜め息をついた。
「俺は誰も通らない場所を選んでお前を置いた。奥に会議室はあったが、事務所内でも使う人は滅多にいない。なのに小坂は来た。小坂はお前を探してたんだ。どんなことを話したのかは知らないが、あいつが同業者でもないダンピールのお前に話しかけるなんて、絶対なにか裏があるに決まってる」
俺だって完全に信用しているわけじゃない。だけど小坂に言われたことが心のどこかで引っかかっていて、ずっと不安が拭えずにいた。もらった名刺はいつか使うときがくるかもしれないと捨てられずに財布の目立たないところに入れている。
「他のヴァンパイアに近づくなって言ったのは忘れてないよな。話しかけられたとしても無視しろ。それをしてない時点でお前は俺との約束を守る気なんかなかったんだ」
「明らか目上の人を無視できませんよ……」
うつむきがちに主張すると、ルカは忌々しそうに眉を吊り上げた。
「俺がどうしてこんなに言ってるのかわからないのか?」
ルカは一歩も動いていないのに、声と目つきに圧されて思わずあとずさる。
「俺がお前をどれだけ――……!」
ルカが声を荒げた。しかし途中ではっと口を閉じる。
「……悪い。なんでもない」
目をそらされ、家の中がしんとする。
ルカはなにを言おうとしたのだろうか。続く言葉を知りたくはなかったけれど、考えてみればすぐ答えに辿りついてしまった。
自分は邪魔で、役立たずの存在だと思われている。
依頼の進捗は進まないのに本人は言いつけを破って遊び呆けている――もちろん遊んでいないが、ルカからはそう見えたのかもしれない――と知ったら、確かに怒りたくもなるだろう。
ドイツに移住する話をしなかったのは、もう一緒に生活するつもりがないからだ。ルカがどれだけ待ちぼうけに慣れてるとしても依頼は早めに終わったほうがいいし、今のルカは孤立気味だった頃と違い事務所内での交流がある。他のダンピールに頼んだほうが何倍も楽だと気づいたのかもしれない。
顔も知らない相手に胸がざわついた。その人はドイツに着いていくのだろうか。ルカを殺せるまで一生そばにいるのだろうか。羨ましくて、悔しくて、完全に終わったのに諦めきれない自分に自己嫌悪を覚える。
「……お前、どうして泣いてるんだ」
「泣いてないです」
答えた声が歪んでしまう。
「ルカさんのように人目を気にせず生きるなんてこと、俺にはできないんです」
ルカが眉間に皺をよせた。
「顔色をうかがって、機嫌を悪くしないよう気をつけて……そうやって生きてきたんです。じゃないと踏み潰されるから。言いつけを守らなかったのは謝ります。でも、無茶なことは言わないでください」
「お前の言いたいことはわかった。けど小坂はだめだって――」
「俺のことなんてどうでもいいんだろ!」
見捨てるくせにまだ言うのか。カッと頭に血が上り、思ったことをそのまま口にした。瞬間、やってしまったと青ざめる。
「ご、ごめんなさい」
とにかく謝らないと、と勢いよく顔を上げて、驚いた。ルカは眉をひそめ、顔をこわばらせていた。こんな表情を晶は初めて見た。
今すぐルカの前から消えたくなった。残り少ない時間で最低な自分を更新し続けている。これ以上話したらまた余計なことを言うかもしれない。
「ちょっと、今日は疲れたので報告会はなしでいいですか。部屋で休みたいです」
「ああ、わかった……」
横を通り過ぎてもなにも言われなかった。リビングには行かず急いで自室のドアを閉める。やっとひとりになって、抑えていた涙がぼろぼろと零れ落ちる。晶は久しぶりに死にたいと本気で思った。
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