5 / 15
第一部 贖祭
第五話
しおりを挟む
重いのは身体ではない、心だ。
ノインは与えられた自室のベッドの上、ごろりと横になりながら窓から差し込む陽光を浴びている。この真っ直ぐな光が、この身を焼いて灰にしてくれたらいいのに。あれから何度も願ったけれど、どうやら神は生きたまま煉獄を歩き続けろと言いたいらしい。
地下回廊でアスレイドを暴いた後、ノインはその顔を直視できなくなっていた。ずるりと濡れた陰茎を抜いた時、追いすがるように中から零れた白濁を見て、とんでもないことをしでかしたと思った。己が起こした行動の意味が分からないまま、パンツの前を整える。ベルトを締めたところで、漸くアスレイドは乱衣のままで上半身を起こした。
そこで、恨みの言葉一つでも吐いてくれたのなら、ここまで苦しくならなかったのに。乱れた金色の髪から見える瞳は、やはりこちらを赦していたのだ。口元にたたえた微笑みはまるで子を抱く母のもので。ノインはいたたまれなくなって、先に出るとアスレイドの顔を見ずに伝えると先に地下回廊を後にしたのだった。
それから、アスレイドと顔を合わせることは避けている。自室にこもり、教堂の扉が鳴った時だけ部屋から出ることができる。できるだけ、会いたくない。アスレイドの真意が見えなくて、どこまでも怖くて仕方ないのだ。
扉の向こうのノックの音も、もう聞き飽きた音だった。ノインが許可を出す前に、アスレイドは少しだけ扉を押し開いて、白いコートを纏った姿で現れた。顔を見てしまう前にノインはすでに目を逸らす。
「……何か、用かよ」
その声が、自分でも思ったより低かった。起き上がることもせず、ぶっきらぼうに答えてもアスレイドはたじろぐ素振り一つ見せない。
「少し出てくるよ。ご飯、残っているからね」
ああ、また。その声は、どこまでも慈しみに満ちている。そして、ノインがどう受け取ったかも確認せず、アスレイドは静かに扉を閉めるのだ。
残されたノインは、一人目を閉じる。赦された、とは思っていない。それでもアスレイドの挙動は出会った時から何一つ変わっていない。ただ、俺が、あの地下で。アスレイドの身を汚した事実だけがまだここにいる。あの時突き動かした幾重の声が、声にならない異形の叫びが、目の前の男を壊せと言ったのだ。
なんのために?
それが分かればこんなに苦しむこともない。裁かれずに生き長らえてしまったから、世界に赦されたいと思ってしまったのか。ただ、俺は。認めてほしかっただけなのだ。罪人として存在を消された自分が、ここに在ってもいいと言ってくれる何かが。そしてアスレイドは、少なくとも俺を赦しているのだと思う。だから今の俺にとっては、アスレイドが世界となってしまった。
きっと、俺は。まどろみの中であっても在りたかっただけなのだ。それなのに、世界に、アスレイドに赦されたことが。こんなにも苦しいなんて。赦されたはずなのに、俺はまだ、あの時のままだ。
目を閉じればまたあの声がする。瓶の中で蠢いていた黒い影の、形にならない絶叫。耳で聞こえるのではなく、心の内側に響いてくる。言葉にならない叫びが自分の名を呼んでいる気がして、ノインは何度も記憶の中で立ち尽くしていた。
……ノノ。
額に滲んだ汗を拭いながら、ノインは荒い呼吸を整える。
「……見るんじゃなかった」
呟いてみても、焼き付いた記憶は消えてくれない。少しでも気を紛らわせたくて、ノインはベッドから降りると椅子にかけておいた苔色のケープを手に取った。
静まり返った聖堂を抜けて教堂の扉を開ければ、眩しい日差しがノインを照らした。強すぎる光に瞳を細めると、先日子どもたちと一緒に植えた花壇に、鮮やかな色合いの花がまぶしく揺れていた。やはり、日当たりのいいところに植えてよかったと思う。意識して水をやっていたわけではないから、もしかしたら誰かがかいがいしく世話をしているのだろう。
腰を曲げて大きく咲いた花弁を指先で撫でていると、やはりあの時と同じように背中から声をかけられた。
「ノノ! 久しぶり!」
ミーシャはおさげを尻尾のように揺らしながら、ノインの姿を見て嬉しそうに駆け寄ってくる。その後ろを、籠を持ったトッドがおぼつかない足取りで追ってきた。
「……おー。花、咲いてよかったな」
「うん!」
満面の笑顔は、花のようだった。その明るさに照らされるように、ノインの口元も自然に緩む。
肩で息をしながら追いついたトッドが持つ籠の中には、どっさりと石鹸や布の切れ端、それ以外にも食器やカップといった、日常で使うような品物が乗せられていた。
「トッド、どうすんだ、それ」
子どもには重いだろう荷物を、それでも両手で大事に抱えながらトッドがノインを見上げる。
「これ、アス様、わ、渡す……、いつも、渡してる」
「アス様はねー、使わなくなったものをまた使ってくれるんだよ! ここで終われるようにって!」
たどたどしい語りにミーシャがにかぶせるように口を開くと、背を伸ばして教堂を指さした。灰色の教堂が、光に包まれて揺れて見えた。
もう一度、使ってくれる。
まるで自分のことを喩えられるようだと、ノインはどこか自嘲的に笑う。きっとその微笑みは、アスレイドの思慮深さに心打たれた人間のように映ることだろう。
教堂を見上げていたミーシャの動きがぴたり止まる。ノインは少しだけ眉をひそめた。
「あ、ううん。前にね、大人が話してたの。時々、アス様の教堂から泣き声みたいなのが聞こえるって」
「泣き声?」
うん、と頷くミーシャの隣で、同調するようにトッドが何度も頷く。
「それもね、たくさん! 幽霊でもいるのかなって。そんなわけないのにね!」
俺からしてみれば、アスレイドが幽霊のようだと思った。何を考えているのかわからない、何をしたいのかもわからない。ただ、そこにあるだけの形。
「でも、仕方ないのかも。アス様、今までたくさんの人のお話を聞いてきたから。皆喜んでるんだよ、アス様の教堂がここにできて。お話聞いてくれるって」
今まで身を寄せてきた民衆の悲しみがここにある。ミーシャはこう言いたいのだろう。神殿に背を向けて、磨かれることもなく神の祝福もないこの場は、行き場のない人々の心の住処であったのだろうと。そして彼ら彼女らが持っていた悲しみは、教堂に置いていったからこそ神の御許に運ばれたのだと。
「……そっか。アスレイド、ずっとここで話を聞いてたのか」
「ううん、違うよ」
ノインの同調を打ち消すように、おさげが左右に揺れる。先を促すように見つめると、トッドが代わりに答えてみせた。
「あ、アス様……北から、来た。北では、してなかったって」
北。秩序の神に祝福された地域。連なる山々は、天を目指すように真っすぐで神の許へ向かう資格があるかと問うような岩肌に覆われている。東の地に居た時も、空の向こうでもはっきりと分かる三角がいくつも見えた。その姿は、限りなく貪欲に、神を求めているようであった。
北とアスレイド。その距離が、言葉では測れないほど遠い気がする。
足元で無邪気に遊ぶ小さな子の様子に目を細めながら、ノインは青い空の中に浮かぶ灰色の教堂に視線を投げる。
ノインは、自分が今触れているものの正体を、もう一度問い直さねばならないと思った。
軋む階段の音が、暗い廊下いっぱいに響く。
火が絶やされることのない蝋燭が、風もないのにゆらゆら揺れる。ノインは、最後の段を踏み終えると改めて辺りを見回した。
階段を基点にして円を描く地下の道は、どこを見ても棚に置かれた異形の首が瓶の中に並んでいる。異形は自らのあり様が分からないのだろう、誰かが訪れたとて視線を投げることはない。ただ、不安定な頭部をガラスの中で収縮させるのを繰り返していた。
一際大きい窪みは口だろうか。頭半分まで広がったと思えば、指先程の小ささになる。意図の分からない動きを繰り返している姿に、ノインは目を背けることができないでいた。
ふと、瓶の隙間に、千切られた羊皮紙が挟まれているのを見つけた。蠢く影に見つめられながら、ノインはそっとその端を指先で摘む。掌ほどの大きさの紙片を蝋燭の昏い灯に照らしてみると、書き手の性格が表れているような筆跡が滲んでいた。
―光は名を持たなかった。
―思いはなおもまた遠く。祈りいまだ届かず。
―だから我らは名を伏せ、ただ触れようとした。
―触れた時には、それはすでに遠ざかっていた。
―それでも、はじめて手が届くとき。
―我らは、セレストの灯になる。
詩のような言葉は、何を意味しているのか分からない。ただ、なぜか一文だけが、胸の奥で離れない。
セレスト。その名を、どこかで聞いたことがあるような。裏面に仕掛けでもあるのかと裏返してみたところ、背中から聞き慣れた声が投げられた。
「それ、意味なかったんだ。捨てていい」
現れたアスレイドはそう言って、何かを試すように微笑む。白いコートを羽織らずに、真っ黒な全身を闇に溶けさせながら。
「……意味がなくても、燃やすくらいにはなるかもしれねえだろ」
そう呟いた声には、自嘲と、それでも残った温もりのようなものが混じっていた。遠い日の、アスレイドはいったいどんな思いを馳せながら写したのだろう。何を願っていたのか。千切られたのだろう端が整わない紙は、何も語らない。
「……僕も、一度は信じかけたんだけどね。書いた本人も、もう忘れてしまっているよ」
ノインもまた、何も言わなかった。ただ、そのまま、紙を懐にしまった。
靴音を響かせながら、痩躯がゆっくりと近付いて隣に並ぶ。それを避ける気持ちは既に薄まっていた。二人並んで、異形の叫びを眺める。
「きっと、何かを訴えているんだろうけどね」
その声は、祓うために背負っている役目を果たせないことに対する、諦めとも悲しみともつかない色をしていた。
異形の叫びを前に、ノインが一歩近づき、祈りのように手を伸ばす。それに応えるように、影が一瞬、形を定めかけたけれど、ガラスを割るように激しく暴れだしたから手を慌てて引いた。なんの施しも受けない、絶対の拒絶のように感じられてノインは思わずアスレイドの顔に視線を投げる。
「君は、祓う者ではないからね」
声が、聞こえる。誰かの、呼ぶ声だ。
肉声ではない。頭の内側で、ずっと反響していた声。
その声は、いつもこうだった。あの時も、そして、今も。
ノインは、その声に導かれるように思い出す。異形と化しかけていた幼馴染を。幼馴染を断ったのは誰だったか。聖痕の持たない武器を手に、その形を終わらせたのは。
「でも、俺──」
世界の理から外れた男から飛び出した声は、自分でも驚くほどに悲痛なものだった。その様子を見ても、アスレイドの表情は眉一つ動かない。
「ああ、前に言ったね。君の存在が、不思議でしょうがないって」
「壊せなくても、何か……できると思ったんだ」
絞り出すような声だった。壊すためじゃない。ただ、声が呼んでいた。あのときと同じように。
助けたかったのか、それとも、応えたかっただけなのか。わからない。けれど確かに、あのとき。呼ばれて、名を呼ばれて手を伸ばしたのだ。そして、灰はノインの指の合間から零れて風に乗っていった。あれは、自分の祈りだった。そう思いたかった。
「何かを、したかったんだね」
アスレイドの声は、どこまでも穏やかだった。それなのに、その音は、ナイフのようにノインの胸に突き立てられる。
「でも、君は。される側だったんだよ」
一拍遅れて、ノインはその言葉の意味を飲み込んだ。
壊すことも、救うこともできない。呼ばれたとしても、君は届かせる者ではない。祈りは、君のために在るものではないのだと。
それはただの、見届ける者だ。
選ばれず、与えられず、壊す資格もないままに、誰かの祈りを見て、ただ傍にいるだけの存在なのだと。
違う。
あれは、自分の祈りだった。そう思いたかった。
どこまでも心の奥を見透かされているようで、ノインは何も言えなくなってしまう。喉を鳴らすこともできない男を見て、アスレイドは背を向けて一言、帰ろうと言ったのだった。言葉が、地下回廊の冷たい空気に溶けていった。
地上の空気は、ひどく軽かった。
いや、軽くなったのは自分の方かもしれない。何もなくなったこの身は、あれだけ駆けまわった、風になった時よりも軽かった。
部屋に戻ったノインは、ケープすら脱がぬままベッドに身を沈めて天井を見上げる。
目を閉じても、さっきのアスレイドの声が胸を刺すように響いてくる。
君は、される側だったんだよ。
何がいけなかったのか。あれほどまでに呼ばれていた気がした。祈りは、自分の中から溢れたと思ったのに。
何もできなかった。ただ、祈る資格すらなかったのか。
「される側、って……何だよ」
思わず唇から漏れた声は、何の意味も持たない。
誰も返すことのない一人の部屋、夜の闇で満たされている。
アスレイドは、何を見ているのだろう。
異形は、何を見ているのだろう。
俺は。俺は、何を見ていたんだろう。
堂々巡りの思考は、どこにも出口が見つからない。それなのに、胸を焦がすこの感覚はなんなんだろう。あの声が、耳にこびりついて離れない。
自分には、その資格がなかったとしても。それでも、このままでしておいていいわけではないだろう。だって、あの声は。自分を呼んでいたのだ。
確証があるだなんて分からない。それでも。
「……それでも、行くしかねえだろ」
そう呟くと、ノインはまた立ち上がっていた。
地下への階段を、もう一度ゆっくり踏み下る。昼間に来た時よりも足取りは重いけれど、それでも心は軽やかだ。
蝋燭の揺れるその場所に、再び辿り着く。一面に並ぶ頭を前にすると、なびくように声が重なった。まるで、あの影が、あの声が。待っていたと言うようにノインの全身を包む。
「……もう一度、来たよ」
誰に向けることなく自然に口をついた言葉。呼応するように、大きく揺らいでいた異形の頭がぴたりと動きを止めた。
まるで、聞こえたかのように。届いたかのように。視線が、合った気がした。名も形もないその黒い塊が、一瞬だけこちらを見ていると錯覚するようであった。
先程拒まれた異形の前へと、一歩進む。静かに動きを止めていた影は、ノインが近付くと瓶の中で忙しなく収縮しはじめた。影を前に、ノインは青い瞳をまっすぐに向ける。しばし、そのまま。風のない橙色が、揺れる。
ノインは静かに身を乗り出して、瓶へと手を伸ばす。輪郭を撫ぜるように、指の腹を滑らせた。
恐れではない。祈りでもない。ただ、何かが、自分の中で震えている。
「……頼む」
誰に向けたのかも分からない呟きが、自然にこぼれていた。
もう、拒まれなかった。
内部の影がぶるりと震える。それはまるで、何かを呑み込む直前の躊躇のようで。一拍遅れて、影はひときわ大きく戦慄くと、中心に向かって吸い込まれるように収縮を始めた。そして、その形を溶かすようにさらさらとその黒色を細かく砕いていく。摘めないほどの小さな粒子となった時、風もないのに瓶の中で灰が舞った。
「……やっぱり、俺だったんだな」
影がうねり、砕け、舞い上がったとき、ノインの背筋にざわりと風が通り抜けた。風のない地下に、ありもしない気配が走った気がした。
ようやく、届いたのかもしれない。
中身のなくなった空き瓶を撫でると、靴音が聞こえる。そこには、静かに微笑むアスレイドが立っていた。何かを見届けたような、確信を持ったそんな顔。わずかに揺れる影を湛えた翠色の瞳を細めながら。
アスレイドは、ただ黙ってノインを見ていた。
その眼差しに、責めも祝福もなかった。けれどノインは、どうしてだか、赦されたような気がした。
「君が、壊したんだね」
それは、確かめるように。聖痕を持たないただの男が、己が成しえなかった行為を成し遂げたことに。穏やかな声には、是も否もない。だからこそノインは、赦されたような気がしたのだ。
「……見てたんだろ?」
静かに瓶から手を離すと、ケープの内に下ろす。アスレイドはもう一度瞳を細めてみせると、どこか嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「うん、見ていたよ。君のこと。……上手くできたのだから、ご褒美が必要だね」
どくん、と心臓が脈打った。放たれた言葉はひどく淫靡で、見えない何かで衣類を剥がされるような感覚だ。
もう声は聞こえない代わりに、自分の鼓動がはっきりと響く。それでも、意味の分からないふりをして立ち尽くしているとアスレイドは静かに手を差し伸べたのだ。
「おいで。僕の部屋に」
その手を取ったのかどうかは、今ではもう思い出せない。
ノインは馬乗りになったベッドの上、組み敷いた男の祈祷服のボタンを今度こそ、一つずつ丁寧に外していく。誰に見せるでもなく、赦しをなぞるように露わになった肌に口づけた。
アスレイドの腕が、ノインの背に回る。薄いシャツをかき抱くように、もっとほしいと求めてくる。
浮き出た鎖骨を舌でなぞり、顎の先へ。するりと肌と衣の隙間に滑らせた両掌で、それぞれの胸の頂にある色濃い部分を指先で弾く。ベッドの上で泳いでいる腰が、むずがゆさをごまかすように衣擦れの音を立てながら捻じれた。
「は、ぁ、はぁ、――ッ、はっ」
シーツの海が、二つの身体に合わせて深く皺を刻む。唇で薄い肉を何度も吸い上げると、ぴくぴくと小刻みにアスレイドの躯体が震える。
留め具が一番下までいったところで、アスレイドはのけぞりながら一際強くノインを抱き寄せる。その仕草に導かれるように、べろりと舌の腹できめ細かな肌を舐め上げた。
「ぁ、あ、のい、ん、くん……」
感じ入っている甘い声で、ずくんと下腹部が重くなる。名を呼ばれるだけで、こんなにも身体は熱くなるものなのか。ノインは上半身を起こすとシャツの裾を乱暴に引き上げ、床へと投げ捨てる。月明かりに照らされる男の身体は、未完成ながらもしなやかな獣のようだった。
アスレイドの瞳が、嬉しそうに細められる。離れてしまった身体の隙間を埋めたいと言いたげに、筋立った筋肉をまとった両の腕に五指を絡めた。
金色の髪を鼻先で掻き分け耳朶を食めば、鼻から甘たるい吐息が漏れて天井へと昇る。
微かな筋肉の盛り上がりの感触を楽しんでいたアスレイドの指が、もたついた衣類を引き連れながらノインの胸元、腹直筋へと下降していく。ベルトのバックルが金属音を立てて緩められると、ズボンがずるりと引き下げられた。途端、赤黒く息づくそこが、腹に付く勢いで飛び出してきた。
「っぅ、」
柔らかな掌の丘で、先端で円を描くように撫でられるとノインは眉間に皺を寄せる。大きく怒張した暴力性を赦すような柔らかな動きに、ノインは腰を引きそうになるのをぐっと耐えた。淫らに微笑む宣託者は、そんな青年の様子を眺めながら手の動きを加速する。
くちゅくちゅと、水音が響く頃にはいよいよノインも堪らなくなってアスレイドのスラックスの縁に手をかける。自然に浮かされた腰に合わせてずり下げると、同じように天を向いた幹が闇の中浮かび上がった。
髪の色と同じ陰毛を掻き分け、アスレイドの膨らんだ亀頭を掌で転がすと男の喉ぼとけがひくんと戦慄く。
「ぁ、ノイン、くん、そこ、引き出しの中……」
甘く息を切らせながら、アスレイドは視線をベッドチェストへと向けた。言われるがままに一番上の棚を引き出すと、掌に収まる小瓶がころりと転がった。前の、聖油が詰まっていたものとは別の形であることに安堵しつつ、コルクの栓を抜くと軽やかな香りが立った。
掌でオイルを受け取ると、ノインの膝がベッドにつく。アスレイドは布団を自分の腰の下に挟むと、自ら奥が見やすいように腰を浮かせ膝を立てた。ノインは片手でその膝を割ると、湿った方の指をアスレイドの奥の窄まりに押し付ける。ぬめりを纏った指が、難なく飲み込まれていく。
「……ん、っ……ふ、くぅ……」
声の一つ一つが、下腹部に集まっていくようだ。ずきずきと痛みさえ感じるそこは、一刻も早く肉の筒に包まれたいと訴えている。ノインの指が奥へ奥へと進むたびに、アスレイドは短く息を吐いて力を逃した。潤滑液のおかげで滑り込みやすくなった縁に、もう一本指を差し込んでこねるように円を描く。湿った音とアスレイドの耐えるような嬌声と。ああ、今日は頭の中が騒がしい。
振り払うように指を忙しなくしていると、アスレイドの中、腹側の内側にあるしこりを掠めたらしい。ひと際高い嘶きを上げながら、切なそうに眉間を寄せた。
「っ、う……んっ、そこ、……っ!」
「なんだよ、いいのか、これ」
アスレイドの脚が震える。背筋が波打ち、掠れた声とともに熱が込み上げる。気をよくしたノインは、二指で順番にこりこりと弄んだり、緩急をつけて指の腹を押し込んでみせる。
指が押し込まれるたびに、アスレイドの身体が跳ねた。
奥の奥、粘膜の内に隠された一点を、祈りを叩きつけるようにノインの指が迷わず押してくる。
「あ、っ、ノ、イン君……っ、や、そ、こ、ばっか……っ!」
声が裏返る。アスレイドの熱芯は、先走りの汁がしとどに流れて、根本、双球を伝ってノインの手首までも濡らしていく。ああ、今度こそ。
ノインはずるりと指を抜いた。その感覚さえも快感に換えたのか、アスレイドの喉が鳴った。小刻みに震える脚を持ち上げると、ぬめついた指で張り詰めている自分自身の幹に沿えて、先端の照準をひくつくアスレイドの最も深いところにあてがう。
今度こそ、壊せる。そう思ったその瞬間、アスレイドは嬉しそうに微笑んだ。
ぬるり、と、肉を押し分けて深く、熱が沈んでいく。
「っ……ぁあ、きた……あ……っ」
「ぁ、はぁ――ぁ、す、げ……」
ノインの茎の、いちばん太いところがずぶずぶと飲み込まれれば、血脈立つ幹も続いて中に潜っていく。迎え入れた肉の壁は、慈しむようにノイン自身を抱き締めると、もっと奥においでと誘うように轟く。
「これでやっと……」
零れた独白が、どちらのものだったのかはわからなかった。口が動いたのはノインだった気がするし、その瞳がかすかに揺れたのはアスレイドだった気もした。声の主を確かめる前に引かれた腰が、奥を目指してぐうと押し込まれた。
「……あ、っ、ノイ……あ゛、ぁ……」
あとは、前後に揺すられるだけだ。ノインの両手がアスレイドの腰を掴めば、手首にアスレイドの指が巻き付く。身を削る若い四肢を、更に奥に飲み込もうと足が大きく開く。甘く裏返った声がノインの下腹部に火をつけて、頭が真っ白になるような快感の波が、腰を叩き、身体を叩く。
まるで何かに赦しを乞うような動きに、身体の内側をかき回されるたびに心臓が早鐘を打つ。
彼は、壊すことで在ることを選んだという事実に、アスレイドは快感だけではない歓びで全身を打ち震わせていた。
耳に残るノインの懸命な息遣い。焦燥に駆られた浮ついた顔つき。ああ、どれも。どれもだ。
快感の波でたゆたいながら、アスレイドは目を細める。
ああ、なんて心地よい。暴かれるのが。壊されるのが。
奥に届くたびに、小さな呻きがアスレイドの喉から漏れる。
そのたびに、ノインは正しさを深めていった。
自分は許された。これが、祈りだ。快楽は、受容の証だ。そう思い込んで。
そして自分は。その快楽に壊される歓びに、身体の内側から打ち震えている。
「……あっ、くぅ、っ……ぅ……ッ」
呼吸の合間に悦をこぼしながら、ノインは荒く腰を打ちつける。淫靡な衝動のまま、ノインは宣託者を抱きしめた。
アスレイドの髪が散らばり、体が震え、奥でうねる。
それでも彼の瞳だけは静かだった。それでも、内側から壊れる気配を感じて、喉は自然に甘く泣いた。
「っ……あ、ぁ……出るっ……っ!」
「っ、ぁあっ、ん、なか、でっ、ノイ、ン、くん……っ」
ぶつかるたびに甘く啼くアスレイドの声が、ノインの内側を震わせる。そのたび、確かに赦されたと錯覚する。吐息を合わせた瞬間、快楽は祈りに姿を変え、頂点へと押し上げられた。
震える腰が奥へと突き上げられ、射精の波が一気にせり上がる。びくん、と下腹が跳ねる。刹那、精が奔流となってアスレイドの内奥を満たしていく。痙攣する根元に、あたたかな受容の感触が絡みついた。
射精の衝撃で、アスレイドの全身が一瞬硬直する。その快感すら、ノインにとっては受け入れてもらえた証に見えた。
ノインは、息を吐きながら身体を落とした。その背中は、労わるようにアスレイドの手によって撫ぜられる。
汗と精と涙とが入り混じったその空気のなかで、どこまでも静かに、男が囁いた。
「よく、できました。ノイン君」
微笑んだまま、アスレイドはゆっくりと目を伏せた。
これで、壊す者の手を取った。これで、この人は僕を存在させてくれる。
祈りは、正しく誤られた。
ならば、この夜は、確かに贖祭だったのだ。
静けさが満ちていた。
鳥の囀りも、風の音もない。ただ、寝具の上で、二つの身体だけがゆるやかに寄り添っていた。
ノインは目を開けた。重たいまぶたの奥、視界が霞んでいる。自分の部屋ではない天井は、あてがわれたものと同じなのに、なぜかひどく違って見えた。
まだ、舌先に感触が残っている。何もないはずなのに、喉の奥の粘膜に、何かがひっかかる。
体だけじゃない。心の奥底に、誰にも見せられない熱がこびりついていた。
喉が疼く。誰かを呼びたくなるように、何かを求めて鳴らしたくなるように。あのとき、飲み干したものの重さが、まだここに在る。
それが、赦しだったのだろうか。暴き、壊し、奥を赦され、終わることが。それでいいと与えられた役割でも、ここに在ってもいいのかもしれないと思う。そう思わないと、この部屋にいていい意味が見出せなかった。
横に目をやると、アスレイドが静かに眠っている。
乱れた金糸が額に張り付き、柔らかな寝息が小さく昇っては降りる。長い睫毛の影の下、閉じた瞳の奥では、まだ夢が揺れているのだろうか。誰よりも穏やかに、まるで最初からこうなることが決まっていたかのように。ノインの存在を何も問わず赦した教堂の主は、しなやかな体軀を白いシーツに包み、手足を折りたたんで、静かな海に沈むように眠っていた。
ノインは、そっと身を縮こませた。
関節のひとつひとつが軋む。腰も、太腿の内側も、奥の奥までもが、埋まらない重さを宿している。
それでも、思い出すたびに熱が走る。アスレイドが喉を鳴らし、快楽に喘いでいた顔。
ノイン君と、濡れた声で呼ばれたあの瞬間が、喉の奥、腹の底、睾丸の裏側にまで染みついて離れなかった。
あのとき、自分はなにを赦されたと思っていたのだろう。
赦されたのではない。ただ、そこに在ることを許された気がしてしまっただけだった。
まるで、「いていい」と、誰かに言われたような気がして。
それだけで、泣きたくなるほどに救われた気がしてしまったのだ。
「……ほんと、バカじゃねえのか」
自嘲交じりの独白を吐き、ノインはゆっくりと身体を起こす。
ベッドの縁に腰をかけると、窓の外から差し込んだ朝の光が、彼の背をやわらかく照らした。
乾ききらない吐息のような、透明な静けさがあたりを満たしていた。触れるでもなく、責めるでもなく、ただ髪を梳くように。それでも、ここに在ってしまったという罪を、静かに告げてくる。
「ん……」
薄く囁くような寝言に、ノインはまた腹の奥を撫で上げられたような錯覚に囚われる。
きっと、まだ壊し足りない。この美しい神性を。この在り方を。
分け入り、壊し、終えることでしか赦しにならないのなら、何度でも──何度でも、潜ってやろう。
昏い欲が、喉の奥から這い上がってくるのを感じながら、ノインは額に張りついた金の髪をそっと撫でた。
まだ目覚めぬその顔で、アスレイドの口角が静かに、ゆっくりと上がっていく。
ノインに、次も同じように壊されることを、疑いもせずに信じ受け入れている顔。
それが、たまらなく、怖いほど美しかった。
赦されたと思いたかった夜は、何ひとつ終わらせてはくれなかった。
それでもノインは、またあの名を、濡れた声で呼ばれるのを待っている。
この夜は、贖いではなかった。ただ、次の渇きを静かに孕んだだけだったのだ。そしてノインは、まだその渇きが赦しだと信じている。
ノインは与えられた自室のベッドの上、ごろりと横になりながら窓から差し込む陽光を浴びている。この真っ直ぐな光が、この身を焼いて灰にしてくれたらいいのに。あれから何度も願ったけれど、どうやら神は生きたまま煉獄を歩き続けろと言いたいらしい。
地下回廊でアスレイドを暴いた後、ノインはその顔を直視できなくなっていた。ずるりと濡れた陰茎を抜いた時、追いすがるように中から零れた白濁を見て、とんでもないことをしでかしたと思った。己が起こした行動の意味が分からないまま、パンツの前を整える。ベルトを締めたところで、漸くアスレイドは乱衣のままで上半身を起こした。
そこで、恨みの言葉一つでも吐いてくれたのなら、ここまで苦しくならなかったのに。乱れた金色の髪から見える瞳は、やはりこちらを赦していたのだ。口元にたたえた微笑みはまるで子を抱く母のもので。ノインはいたたまれなくなって、先に出るとアスレイドの顔を見ずに伝えると先に地下回廊を後にしたのだった。
それから、アスレイドと顔を合わせることは避けている。自室にこもり、教堂の扉が鳴った時だけ部屋から出ることができる。できるだけ、会いたくない。アスレイドの真意が見えなくて、どこまでも怖くて仕方ないのだ。
扉の向こうのノックの音も、もう聞き飽きた音だった。ノインが許可を出す前に、アスレイドは少しだけ扉を押し開いて、白いコートを纏った姿で現れた。顔を見てしまう前にノインはすでに目を逸らす。
「……何か、用かよ」
その声が、自分でも思ったより低かった。起き上がることもせず、ぶっきらぼうに答えてもアスレイドはたじろぐ素振り一つ見せない。
「少し出てくるよ。ご飯、残っているからね」
ああ、また。その声は、どこまでも慈しみに満ちている。そして、ノインがどう受け取ったかも確認せず、アスレイドは静かに扉を閉めるのだ。
残されたノインは、一人目を閉じる。赦された、とは思っていない。それでもアスレイドの挙動は出会った時から何一つ変わっていない。ただ、俺が、あの地下で。アスレイドの身を汚した事実だけがまだここにいる。あの時突き動かした幾重の声が、声にならない異形の叫びが、目の前の男を壊せと言ったのだ。
なんのために?
それが分かればこんなに苦しむこともない。裁かれずに生き長らえてしまったから、世界に赦されたいと思ってしまったのか。ただ、俺は。認めてほしかっただけなのだ。罪人として存在を消された自分が、ここに在ってもいいと言ってくれる何かが。そしてアスレイドは、少なくとも俺を赦しているのだと思う。だから今の俺にとっては、アスレイドが世界となってしまった。
きっと、俺は。まどろみの中であっても在りたかっただけなのだ。それなのに、世界に、アスレイドに赦されたことが。こんなにも苦しいなんて。赦されたはずなのに、俺はまだ、あの時のままだ。
目を閉じればまたあの声がする。瓶の中で蠢いていた黒い影の、形にならない絶叫。耳で聞こえるのではなく、心の内側に響いてくる。言葉にならない叫びが自分の名を呼んでいる気がして、ノインは何度も記憶の中で立ち尽くしていた。
……ノノ。
額に滲んだ汗を拭いながら、ノインは荒い呼吸を整える。
「……見るんじゃなかった」
呟いてみても、焼き付いた記憶は消えてくれない。少しでも気を紛らわせたくて、ノインはベッドから降りると椅子にかけておいた苔色のケープを手に取った。
静まり返った聖堂を抜けて教堂の扉を開ければ、眩しい日差しがノインを照らした。強すぎる光に瞳を細めると、先日子どもたちと一緒に植えた花壇に、鮮やかな色合いの花がまぶしく揺れていた。やはり、日当たりのいいところに植えてよかったと思う。意識して水をやっていたわけではないから、もしかしたら誰かがかいがいしく世話をしているのだろう。
腰を曲げて大きく咲いた花弁を指先で撫でていると、やはりあの時と同じように背中から声をかけられた。
「ノノ! 久しぶり!」
ミーシャはおさげを尻尾のように揺らしながら、ノインの姿を見て嬉しそうに駆け寄ってくる。その後ろを、籠を持ったトッドがおぼつかない足取りで追ってきた。
「……おー。花、咲いてよかったな」
「うん!」
満面の笑顔は、花のようだった。その明るさに照らされるように、ノインの口元も自然に緩む。
肩で息をしながら追いついたトッドが持つ籠の中には、どっさりと石鹸や布の切れ端、それ以外にも食器やカップといった、日常で使うような品物が乗せられていた。
「トッド、どうすんだ、それ」
子どもには重いだろう荷物を、それでも両手で大事に抱えながらトッドがノインを見上げる。
「これ、アス様、わ、渡す……、いつも、渡してる」
「アス様はねー、使わなくなったものをまた使ってくれるんだよ! ここで終われるようにって!」
たどたどしい語りにミーシャがにかぶせるように口を開くと、背を伸ばして教堂を指さした。灰色の教堂が、光に包まれて揺れて見えた。
もう一度、使ってくれる。
まるで自分のことを喩えられるようだと、ノインはどこか自嘲的に笑う。きっとその微笑みは、アスレイドの思慮深さに心打たれた人間のように映ることだろう。
教堂を見上げていたミーシャの動きがぴたり止まる。ノインは少しだけ眉をひそめた。
「あ、ううん。前にね、大人が話してたの。時々、アス様の教堂から泣き声みたいなのが聞こえるって」
「泣き声?」
うん、と頷くミーシャの隣で、同調するようにトッドが何度も頷く。
「それもね、たくさん! 幽霊でもいるのかなって。そんなわけないのにね!」
俺からしてみれば、アスレイドが幽霊のようだと思った。何を考えているのかわからない、何をしたいのかもわからない。ただ、そこにあるだけの形。
「でも、仕方ないのかも。アス様、今までたくさんの人のお話を聞いてきたから。皆喜んでるんだよ、アス様の教堂がここにできて。お話聞いてくれるって」
今まで身を寄せてきた民衆の悲しみがここにある。ミーシャはこう言いたいのだろう。神殿に背を向けて、磨かれることもなく神の祝福もないこの場は、行き場のない人々の心の住処であったのだろうと。そして彼ら彼女らが持っていた悲しみは、教堂に置いていったからこそ神の御許に運ばれたのだと。
「……そっか。アスレイド、ずっとここで話を聞いてたのか」
「ううん、違うよ」
ノインの同調を打ち消すように、おさげが左右に揺れる。先を促すように見つめると、トッドが代わりに答えてみせた。
「あ、アス様……北から、来た。北では、してなかったって」
北。秩序の神に祝福された地域。連なる山々は、天を目指すように真っすぐで神の許へ向かう資格があるかと問うような岩肌に覆われている。東の地に居た時も、空の向こうでもはっきりと分かる三角がいくつも見えた。その姿は、限りなく貪欲に、神を求めているようであった。
北とアスレイド。その距離が、言葉では測れないほど遠い気がする。
足元で無邪気に遊ぶ小さな子の様子に目を細めながら、ノインは青い空の中に浮かぶ灰色の教堂に視線を投げる。
ノインは、自分が今触れているものの正体を、もう一度問い直さねばならないと思った。
軋む階段の音が、暗い廊下いっぱいに響く。
火が絶やされることのない蝋燭が、風もないのにゆらゆら揺れる。ノインは、最後の段を踏み終えると改めて辺りを見回した。
階段を基点にして円を描く地下の道は、どこを見ても棚に置かれた異形の首が瓶の中に並んでいる。異形は自らのあり様が分からないのだろう、誰かが訪れたとて視線を投げることはない。ただ、不安定な頭部をガラスの中で収縮させるのを繰り返していた。
一際大きい窪みは口だろうか。頭半分まで広がったと思えば、指先程の小ささになる。意図の分からない動きを繰り返している姿に、ノインは目を背けることができないでいた。
ふと、瓶の隙間に、千切られた羊皮紙が挟まれているのを見つけた。蠢く影に見つめられながら、ノインはそっとその端を指先で摘む。掌ほどの大きさの紙片を蝋燭の昏い灯に照らしてみると、書き手の性格が表れているような筆跡が滲んでいた。
―光は名を持たなかった。
―思いはなおもまた遠く。祈りいまだ届かず。
―だから我らは名を伏せ、ただ触れようとした。
―触れた時には、それはすでに遠ざかっていた。
―それでも、はじめて手が届くとき。
―我らは、セレストの灯になる。
詩のような言葉は、何を意味しているのか分からない。ただ、なぜか一文だけが、胸の奥で離れない。
セレスト。その名を、どこかで聞いたことがあるような。裏面に仕掛けでもあるのかと裏返してみたところ、背中から聞き慣れた声が投げられた。
「それ、意味なかったんだ。捨てていい」
現れたアスレイドはそう言って、何かを試すように微笑む。白いコートを羽織らずに、真っ黒な全身を闇に溶けさせながら。
「……意味がなくても、燃やすくらいにはなるかもしれねえだろ」
そう呟いた声には、自嘲と、それでも残った温もりのようなものが混じっていた。遠い日の、アスレイドはいったいどんな思いを馳せながら写したのだろう。何を願っていたのか。千切られたのだろう端が整わない紙は、何も語らない。
「……僕も、一度は信じかけたんだけどね。書いた本人も、もう忘れてしまっているよ」
ノインもまた、何も言わなかった。ただ、そのまま、紙を懐にしまった。
靴音を響かせながら、痩躯がゆっくりと近付いて隣に並ぶ。それを避ける気持ちは既に薄まっていた。二人並んで、異形の叫びを眺める。
「きっと、何かを訴えているんだろうけどね」
その声は、祓うために背負っている役目を果たせないことに対する、諦めとも悲しみともつかない色をしていた。
異形の叫びを前に、ノインが一歩近づき、祈りのように手を伸ばす。それに応えるように、影が一瞬、形を定めかけたけれど、ガラスを割るように激しく暴れだしたから手を慌てて引いた。なんの施しも受けない、絶対の拒絶のように感じられてノインは思わずアスレイドの顔に視線を投げる。
「君は、祓う者ではないからね」
声が、聞こえる。誰かの、呼ぶ声だ。
肉声ではない。頭の内側で、ずっと反響していた声。
その声は、いつもこうだった。あの時も、そして、今も。
ノインは、その声に導かれるように思い出す。異形と化しかけていた幼馴染を。幼馴染を断ったのは誰だったか。聖痕の持たない武器を手に、その形を終わらせたのは。
「でも、俺──」
世界の理から外れた男から飛び出した声は、自分でも驚くほどに悲痛なものだった。その様子を見ても、アスレイドの表情は眉一つ動かない。
「ああ、前に言ったね。君の存在が、不思議でしょうがないって」
「壊せなくても、何か……できると思ったんだ」
絞り出すような声だった。壊すためじゃない。ただ、声が呼んでいた。あのときと同じように。
助けたかったのか、それとも、応えたかっただけなのか。わからない。けれど確かに、あのとき。呼ばれて、名を呼ばれて手を伸ばしたのだ。そして、灰はノインの指の合間から零れて風に乗っていった。あれは、自分の祈りだった。そう思いたかった。
「何かを、したかったんだね」
アスレイドの声は、どこまでも穏やかだった。それなのに、その音は、ナイフのようにノインの胸に突き立てられる。
「でも、君は。される側だったんだよ」
一拍遅れて、ノインはその言葉の意味を飲み込んだ。
壊すことも、救うこともできない。呼ばれたとしても、君は届かせる者ではない。祈りは、君のために在るものではないのだと。
それはただの、見届ける者だ。
選ばれず、与えられず、壊す資格もないままに、誰かの祈りを見て、ただ傍にいるだけの存在なのだと。
違う。
あれは、自分の祈りだった。そう思いたかった。
どこまでも心の奥を見透かされているようで、ノインは何も言えなくなってしまう。喉を鳴らすこともできない男を見て、アスレイドは背を向けて一言、帰ろうと言ったのだった。言葉が、地下回廊の冷たい空気に溶けていった。
地上の空気は、ひどく軽かった。
いや、軽くなったのは自分の方かもしれない。何もなくなったこの身は、あれだけ駆けまわった、風になった時よりも軽かった。
部屋に戻ったノインは、ケープすら脱がぬままベッドに身を沈めて天井を見上げる。
目を閉じても、さっきのアスレイドの声が胸を刺すように響いてくる。
君は、される側だったんだよ。
何がいけなかったのか。あれほどまでに呼ばれていた気がした。祈りは、自分の中から溢れたと思ったのに。
何もできなかった。ただ、祈る資格すらなかったのか。
「される側、って……何だよ」
思わず唇から漏れた声は、何の意味も持たない。
誰も返すことのない一人の部屋、夜の闇で満たされている。
アスレイドは、何を見ているのだろう。
異形は、何を見ているのだろう。
俺は。俺は、何を見ていたんだろう。
堂々巡りの思考は、どこにも出口が見つからない。それなのに、胸を焦がすこの感覚はなんなんだろう。あの声が、耳にこびりついて離れない。
自分には、その資格がなかったとしても。それでも、このままでしておいていいわけではないだろう。だって、あの声は。自分を呼んでいたのだ。
確証があるだなんて分からない。それでも。
「……それでも、行くしかねえだろ」
そう呟くと、ノインはまた立ち上がっていた。
地下への階段を、もう一度ゆっくり踏み下る。昼間に来た時よりも足取りは重いけれど、それでも心は軽やかだ。
蝋燭の揺れるその場所に、再び辿り着く。一面に並ぶ頭を前にすると、なびくように声が重なった。まるで、あの影が、あの声が。待っていたと言うようにノインの全身を包む。
「……もう一度、来たよ」
誰に向けることなく自然に口をついた言葉。呼応するように、大きく揺らいでいた異形の頭がぴたりと動きを止めた。
まるで、聞こえたかのように。届いたかのように。視線が、合った気がした。名も形もないその黒い塊が、一瞬だけこちらを見ていると錯覚するようであった。
先程拒まれた異形の前へと、一歩進む。静かに動きを止めていた影は、ノインが近付くと瓶の中で忙しなく収縮しはじめた。影を前に、ノインは青い瞳をまっすぐに向ける。しばし、そのまま。風のない橙色が、揺れる。
ノインは静かに身を乗り出して、瓶へと手を伸ばす。輪郭を撫ぜるように、指の腹を滑らせた。
恐れではない。祈りでもない。ただ、何かが、自分の中で震えている。
「……頼む」
誰に向けたのかも分からない呟きが、自然にこぼれていた。
もう、拒まれなかった。
内部の影がぶるりと震える。それはまるで、何かを呑み込む直前の躊躇のようで。一拍遅れて、影はひときわ大きく戦慄くと、中心に向かって吸い込まれるように収縮を始めた。そして、その形を溶かすようにさらさらとその黒色を細かく砕いていく。摘めないほどの小さな粒子となった時、風もないのに瓶の中で灰が舞った。
「……やっぱり、俺だったんだな」
影がうねり、砕け、舞い上がったとき、ノインの背筋にざわりと風が通り抜けた。風のない地下に、ありもしない気配が走った気がした。
ようやく、届いたのかもしれない。
中身のなくなった空き瓶を撫でると、靴音が聞こえる。そこには、静かに微笑むアスレイドが立っていた。何かを見届けたような、確信を持ったそんな顔。わずかに揺れる影を湛えた翠色の瞳を細めながら。
アスレイドは、ただ黙ってノインを見ていた。
その眼差しに、責めも祝福もなかった。けれどノインは、どうしてだか、赦されたような気がした。
「君が、壊したんだね」
それは、確かめるように。聖痕を持たないただの男が、己が成しえなかった行為を成し遂げたことに。穏やかな声には、是も否もない。だからこそノインは、赦されたような気がしたのだ。
「……見てたんだろ?」
静かに瓶から手を離すと、ケープの内に下ろす。アスレイドはもう一度瞳を細めてみせると、どこか嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「うん、見ていたよ。君のこと。……上手くできたのだから、ご褒美が必要だね」
どくん、と心臓が脈打った。放たれた言葉はひどく淫靡で、見えない何かで衣類を剥がされるような感覚だ。
もう声は聞こえない代わりに、自分の鼓動がはっきりと響く。それでも、意味の分からないふりをして立ち尽くしているとアスレイドは静かに手を差し伸べたのだ。
「おいで。僕の部屋に」
その手を取ったのかどうかは、今ではもう思い出せない。
ノインは馬乗りになったベッドの上、組み敷いた男の祈祷服のボタンを今度こそ、一つずつ丁寧に外していく。誰に見せるでもなく、赦しをなぞるように露わになった肌に口づけた。
アスレイドの腕が、ノインの背に回る。薄いシャツをかき抱くように、もっとほしいと求めてくる。
浮き出た鎖骨を舌でなぞり、顎の先へ。するりと肌と衣の隙間に滑らせた両掌で、それぞれの胸の頂にある色濃い部分を指先で弾く。ベッドの上で泳いでいる腰が、むずがゆさをごまかすように衣擦れの音を立てながら捻じれた。
「は、ぁ、はぁ、――ッ、はっ」
シーツの海が、二つの身体に合わせて深く皺を刻む。唇で薄い肉を何度も吸い上げると、ぴくぴくと小刻みにアスレイドの躯体が震える。
留め具が一番下までいったところで、アスレイドはのけぞりながら一際強くノインを抱き寄せる。その仕草に導かれるように、べろりと舌の腹できめ細かな肌を舐め上げた。
「ぁ、あ、のい、ん、くん……」
感じ入っている甘い声で、ずくんと下腹部が重くなる。名を呼ばれるだけで、こんなにも身体は熱くなるものなのか。ノインは上半身を起こすとシャツの裾を乱暴に引き上げ、床へと投げ捨てる。月明かりに照らされる男の身体は、未完成ながらもしなやかな獣のようだった。
アスレイドの瞳が、嬉しそうに細められる。離れてしまった身体の隙間を埋めたいと言いたげに、筋立った筋肉をまとった両の腕に五指を絡めた。
金色の髪を鼻先で掻き分け耳朶を食めば、鼻から甘たるい吐息が漏れて天井へと昇る。
微かな筋肉の盛り上がりの感触を楽しんでいたアスレイドの指が、もたついた衣類を引き連れながらノインの胸元、腹直筋へと下降していく。ベルトのバックルが金属音を立てて緩められると、ズボンがずるりと引き下げられた。途端、赤黒く息づくそこが、腹に付く勢いで飛び出してきた。
「っぅ、」
柔らかな掌の丘で、先端で円を描くように撫でられるとノインは眉間に皺を寄せる。大きく怒張した暴力性を赦すような柔らかな動きに、ノインは腰を引きそうになるのをぐっと耐えた。淫らに微笑む宣託者は、そんな青年の様子を眺めながら手の動きを加速する。
くちゅくちゅと、水音が響く頃にはいよいよノインも堪らなくなってアスレイドのスラックスの縁に手をかける。自然に浮かされた腰に合わせてずり下げると、同じように天を向いた幹が闇の中浮かび上がった。
髪の色と同じ陰毛を掻き分け、アスレイドの膨らんだ亀頭を掌で転がすと男の喉ぼとけがひくんと戦慄く。
「ぁ、ノイン、くん、そこ、引き出しの中……」
甘く息を切らせながら、アスレイドは視線をベッドチェストへと向けた。言われるがままに一番上の棚を引き出すと、掌に収まる小瓶がころりと転がった。前の、聖油が詰まっていたものとは別の形であることに安堵しつつ、コルクの栓を抜くと軽やかな香りが立った。
掌でオイルを受け取ると、ノインの膝がベッドにつく。アスレイドは布団を自分の腰の下に挟むと、自ら奥が見やすいように腰を浮かせ膝を立てた。ノインは片手でその膝を割ると、湿った方の指をアスレイドの奥の窄まりに押し付ける。ぬめりを纏った指が、難なく飲み込まれていく。
「……ん、っ……ふ、くぅ……」
声の一つ一つが、下腹部に集まっていくようだ。ずきずきと痛みさえ感じるそこは、一刻も早く肉の筒に包まれたいと訴えている。ノインの指が奥へ奥へと進むたびに、アスレイドは短く息を吐いて力を逃した。潤滑液のおかげで滑り込みやすくなった縁に、もう一本指を差し込んでこねるように円を描く。湿った音とアスレイドの耐えるような嬌声と。ああ、今日は頭の中が騒がしい。
振り払うように指を忙しなくしていると、アスレイドの中、腹側の内側にあるしこりを掠めたらしい。ひと際高い嘶きを上げながら、切なそうに眉間を寄せた。
「っ、う……んっ、そこ、……っ!」
「なんだよ、いいのか、これ」
アスレイドの脚が震える。背筋が波打ち、掠れた声とともに熱が込み上げる。気をよくしたノインは、二指で順番にこりこりと弄んだり、緩急をつけて指の腹を押し込んでみせる。
指が押し込まれるたびに、アスレイドの身体が跳ねた。
奥の奥、粘膜の内に隠された一点を、祈りを叩きつけるようにノインの指が迷わず押してくる。
「あ、っ、ノ、イン君……っ、や、そ、こ、ばっか……っ!」
声が裏返る。アスレイドの熱芯は、先走りの汁がしとどに流れて、根本、双球を伝ってノインの手首までも濡らしていく。ああ、今度こそ。
ノインはずるりと指を抜いた。その感覚さえも快感に換えたのか、アスレイドの喉が鳴った。小刻みに震える脚を持ち上げると、ぬめついた指で張り詰めている自分自身の幹に沿えて、先端の照準をひくつくアスレイドの最も深いところにあてがう。
今度こそ、壊せる。そう思ったその瞬間、アスレイドは嬉しそうに微笑んだ。
ぬるり、と、肉を押し分けて深く、熱が沈んでいく。
「っ……ぁあ、きた……あ……っ」
「ぁ、はぁ――ぁ、す、げ……」
ノインの茎の、いちばん太いところがずぶずぶと飲み込まれれば、血脈立つ幹も続いて中に潜っていく。迎え入れた肉の壁は、慈しむようにノイン自身を抱き締めると、もっと奥においでと誘うように轟く。
「これでやっと……」
零れた独白が、どちらのものだったのかはわからなかった。口が動いたのはノインだった気がするし、その瞳がかすかに揺れたのはアスレイドだった気もした。声の主を確かめる前に引かれた腰が、奥を目指してぐうと押し込まれた。
「……あ、っ、ノイ……あ゛、ぁ……」
あとは、前後に揺すられるだけだ。ノインの両手がアスレイドの腰を掴めば、手首にアスレイドの指が巻き付く。身を削る若い四肢を、更に奥に飲み込もうと足が大きく開く。甘く裏返った声がノインの下腹部に火をつけて、頭が真っ白になるような快感の波が、腰を叩き、身体を叩く。
まるで何かに赦しを乞うような動きに、身体の内側をかき回されるたびに心臓が早鐘を打つ。
彼は、壊すことで在ることを選んだという事実に、アスレイドは快感だけではない歓びで全身を打ち震わせていた。
耳に残るノインの懸命な息遣い。焦燥に駆られた浮ついた顔つき。ああ、どれも。どれもだ。
快感の波でたゆたいながら、アスレイドは目を細める。
ああ、なんて心地よい。暴かれるのが。壊されるのが。
奥に届くたびに、小さな呻きがアスレイドの喉から漏れる。
そのたびに、ノインは正しさを深めていった。
自分は許された。これが、祈りだ。快楽は、受容の証だ。そう思い込んで。
そして自分は。その快楽に壊される歓びに、身体の内側から打ち震えている。
「……あっ、くぅ、っ……ぅ……ッ」
呼吸の合間に悦をこぼしながら、ノインは荒く腰を打ちつける。淫靡な衝動のまま、ノインは宣託者を抱きしめた。
アスレイドの髪が散らばり、体が震え、奥でうねる。
それでも彼の瞳だけは静かだった。それでも、内側から壊れる気配を感じて、喉は自然に甘く泣いた。
「っ……あ、ぁ……出るっ……っ!」
「っ、ぁあっ、ん、なか、でっ、ノイ、ン、くん……っ」
ぶつかるたびに甘く啼くアスレイドの声が、ノインの内側を震わせる。そのたび、確かに赦されたと錯覚する。吐息を合わせた瞬間、快楽は祈りに姿を変え、頂点へと押し上げられた。
震える腰が奥へと突き上げられ、射精の波が一気にせり上がる。びくん、と下腹が跳ねる。刹那、精が奔流となってアスレイドの内奥を満たしていく。痙攣する根元に、あたたかな受容の感触が絡みついた。
射精の衝撃で、アスレイドの全身が一瞬硬直する。その快感すら、ノインにとっては受け入れてもらえた証に見えた。
ノインは、息を吐きながら身体を落とした。その背中は、労わるようにアスレイドの手によって撫ぜられる。
汗と精と涙とが入り混じったその空気のなかで、どこまでも静かに、男が囁いた。
「よく、できました。ノイン君」
微笑んだまま、アスレイドはゆっくりと目を伏せた。
これで、壊す者の手を取った。これで、この人は僕を存在させてくれる。
祈りは、正しく誤られた。
ならば、この夜は、確かに贖祭だったのだ。
静けさが満ちていた。
鳥の囀りも、風の音もない。ただ、寝具の上で、二つの身体だけがゆるやかに寄り添っていた。
ノインは目を開けた。重たいまぶたの奥、視界が霞んでいる。自分の部屋ではない天井は、あてがわれたものと同じなのに、なぜかひどく違って見えた。
まだ、舌先に感触が残っている。何もないはずなのに、喉の奥の粘膜に、何かがひっかかる。
体だけじゃない。心の奥底に、誰にも見せられない熱がこびりついていた。
喉が疼く。誰かを呼びたくなるように、何かを求めて鳴らしたくなるように。あのとき、飲み干したものの重さが、まだここに在る。
それが、赦しだったのだろうか。暴き、壊し、奥を赦され、終わることが。それでいいと与えられた役割でも、ここに在ってもいいのかもしれないと思う。そう思わないと、この部屋にいていい意味が見出せなかった。
横に目をやると、アスレイドが静かに眠っている。
乱れた金糸が額に張り付き、柔らかな寝息が小さく昇っては降りる。長い睫毛の影の下、閉じた瞳の奥では、まだ夢が揺れているのだろうか。誰よりも穏やかに、まるで最初からこうなることが決まっていたかのように。ノインの存在を何も問わず赦した教堂の主は、しなやかな体軀を白いシーツに包み、手足を折りたたんで、静かな海に沈むように眠っていた。
ノインは、そっと身を縮こませた。
関節のひとつひとつが軋む。腰も、太腿の内側も、奥の奥までもが、埋まらない重さを宿している。
それでも、思い出すたびに熱が走る。アスレイドが喉を鳴らし、快楽に喘いでいた顔。
ノイン君と、濡れた声で呼ばれたあの瞬間が、喉の奥、腹の底、睾丸の裏側にまで染みついて離れなかった。
あのとき、自分はなにを赦されたと思っていたのだろう。
赦されたのではない。ただ、そこに在ることを許された気がしてしまっただけだった。
まるで、「いていい」と、誰かに言われたような気がして。
それだけで、泣きたくなるほどに救われた気がしてしまったのだ。
「……ほんと、バカじゃねえのか」
自嘲交じりの独白を吐き、ノインはゆっくりと身体を起こす。
ベッドの縁に腰をかけると、窓の外から差し込んだ朝の光が、彼の背をやわらかく照らした。
乾ききらない吐息のような、透明な静けさがあたりを満たしていた。触れるでもなく、責めるでもなく、ただ髪を梳くように。それでも、ここに在ってしまったという罪を、静かに告げてくる。
「ん……」
薄く囁くような寝言に、ノインはまた腹の奥を撫で上げられたような錯覚に囚われる。
きっと、まだ壊し足りない。この美しい神性を。この在り方を。
分け入り、壊し、終えることでしか赦しにならないのなら、何度でも──何度でも、潜ってやろう。
昏い欲が、喉の奥から這い上がってくるのを感じながら、ノインは額に張りついた金の髪をそっと撫でた。
まだ目覚めぬその顔で、アスレイドの口角が静かに、ゆっくりと上がっていく。
ノインに、次も同じように壊されることを、疑いもせずに信じ受け入れている顔。
それが、たまらなく、怖いほど美しかった。
赦されたと思いたかった夜は、何ひとつ終わらせてはくれなかった。
それでもノインは、またあの名を、濡れた声で呼ばれるのを待っている。
この夜は、贖いではなかった。ただ、次の渇きを静かに孕んだだけだったのだ。そしてノインは、まだその渇きが赦しだと信じている。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる