泣く男

いち こ

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泣き屋誕生⑩

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「安井は医者だからね。仕方ないか」
「そうね。腹も立つけど、医師の論文は、大体が症例検討だからね。私たちの指導教官が精神科医で、心理出身でなかったのが、不運といえば不運だったわね」

 春香の述べるように、医師の論文は症例検討が多い。心理学でいう事例検討である。症例検討は、一つや二つの症例の中から普遍的な法則を見つけていこうとする。医師によっては数字をまったく使わない者もいる事実を聞く。

「そうだな。運命を運命として逃れないで取り組んでいくしかないね。やるしかない」
 俊の声に春香は頷いて静かに語る。

「今は従うしかないわ。何とか乗り切るしかない。助手になれば、こっちのものよ」
 同時に春香は、ニヤリと笑う。春香がニヤリと笑うときは、何か狡(ずる)い計画を考えるときであった。
 また、春香が何かを企てていると俊は一瞬、思う。だが、言葉は平静を装った。

「そうだ。助手になれば、安井など、ポイだ。ポイ」
 ポイとは「お別れ」という意味である。安井とは、助手になるまでの付き合いである。それまでだ。頑張るしかない。やりきるしかない。俊は改めて弱腰になりそうな気持ちを奮い立たせた。

 俊は階段の途中で、春香を引き寄せてキスをする。この時間、階段の上り下りする人間は滅多にいない。
「でも、安井教授は、精神科医としては、素晴らしい人であることは確かだわ」

 俊の腕の中で、春香が呟くように語る。
 よく考えると、確かにそうであった。客観性の問われる博論の中に、現実の人々の生の事例を入れる。この態度は、単に学問が机上の空論に終わらせない意図を表している。

 安井は論文よりも、生の臨床態度を大切にしたいのだ。医師として生身の人間を扱うことを第一としていた。象牙の塔で空論を吐くよりも、よりも現実に役に立たないといけない。それが、安井のスタンスである。

 しかし、理想と現実は違う。おまけに我々は、一ヵ月後に博論の審査を控えていた。
「さて。どうする。どこから事例を集めてくるか。時間もないし」

 困った顔で俊が述べると、春香は不気味に、ニヤリと笑った。
「私に良い考えがあるわ。新琴似五条の《やすらぎ斎場》で十七時半に待ち合わせね」

 何を語っているのか全然わからない。突然、斎場、つまり葬式場で待ち合わせると語る。理由を聞くと、再びニヤリとした。魔女の笑いに見える。

「葬式会場で泣きの事例を集めるの。多くの人が泣きに来ているわ。事例収集に、もってこいのところだわ」
 葬式会場で泣きの事例を集める? 奇抜な考えだが、果たして、うまくいくか?

「春香が意図するような、大泣きをする参列者は、いるかな?」

 春香は真顔になり、俊を見つめる。
「私たちの泣き声を聞かせるの。遠吠えよ。あれを葬式会場でやられたら堪らないわ」

 俊は、なるほどと思った。しかし、そんなに、うまくいくか? 泣いて外す大失態があったら、どうする?
 しかし、春香は思いつめたような顔をして、俊を見ていた。

「分かった。お互いの研究には、無条件で協力し合う約束だった」
 十七時半に斎場で待ち合わせを約束した。
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