悪役令嬢の金魚のフンが返り討ちにされ美味しく食べられた話

犬っころ

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第二章 アナスタシアの怒り

5 エマ=ド=モンフォール男爵令嬢

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エマ=ド=モンフォール男爵令嬢。
 その名がグランディール魔法学園に響いたのは、ほんの数日前のことにすぎない。

 彼女はもともと平民に生まれた。
 だが、稀代の光魔法の才能を見出され、王宮の強い意向によって男爵家に養子として迎えられることとなった。爵位を得たばかりの彼女は、礼儀作法や貴族社会の複雑な序列にはまるで疎い。
 それでも彼女の存在は否応なく目立った。――否、目立たずにはいられなかった。

 黒曜石のように艶やかな黒髪を高く束ね、すらりと伸びた背筋。華美な飾りはなくとも、その凛とした立ち姿は人目を引いた。さらに、彼女の傍らには常に二つの影があった。

 一人は、第二王子ヴィルフリード=ド=ノワール殿下。
 もう一人は、護衛騎士テオバルト=ラインハルト。

 この二人と共に転校初日から歩む姿はあまりに鮮烈で、学園の淑女たちの心をざわめかせた。憧憬と嫉妬と猜疑。すべてを一身に集め、エマは登場と同時に「敵」として刻印されたのである。筆頭に立つのは、ルクレール公爵令嬢アナスタシア――言わずと知れた悪役令嬢であった。

 殿下については、かつて「どこぞの令嬢にえげつないプレイをして泣かせた」などという尾ひれのついた噂もあった。しかしその真偽は定かでなく、やがて煙のように消えた。むしろ作り話であったと今では考えられている。
 実際の殿下は、誰にでも分け隔てなく柔らかな笑みを向け、知性を感じさせる語り口で人を包み込む。聡明で穏やか――まさに王子の鑑。十八の年を迎えようとしているのに婚約者がいないことすら「慎重ゆえ」と受け止められていた。だが学園の令嬢たちにとって、それは焦燥の火種でもあった。婚約の座は空席のまま。にもかかわらず、近づく機会を与えられる者などほとんどいないのだから。

そんな状況で現れたのが、エマ=ド=モンフォールだった。
 光魔法の使い手という唯一無二の存在感を背に、王子の隣を歩む彼女の姿は、令嬢たちにとっては挑発以外の何ものでもなかった。

 だが、エマ自身は無知だった。
 貴族社会における常識を知らないがゆえに、何気ない振る舞いが火種を撒く。

 ――その日もそうだった。

 廊下でアナスタシア=ルクレールとすれ違ったにもかかわらず、一礼もなく通り過ぎたのだ。
 面識があるなら「ご機嫌よう」と挨拶するのが礼儀。
 取り入ろうと望むなら自己紹介を添えるのが常識。
 それを一切せず、ただ素通り。

 その瞬間、周囲にいた令嬢たちの間にざわめきが走った。
 「今の見た?」「あれは失礼にも程があるわ」――抑えた囁きが波紋のように広がる。だが、誰も口には出せない。相手は第二王子の隣を歩く少女だから。

 ただ一人を除いて。

「なに、あの女」

 ぱちん、と扇が閉じられる鋭い音。
 アナスタシア=ルクレールの声は低く、しかし廊下にいた全員の耳に届くほどよく通った。

 氷のように冷たい瞳。
 唇には怒気を帯びた笑み。

「いくら殿下がついていたとしても、私の方が爵位は上なのよ」

 その言葉に、取り巻きの令嬢たちは一斉に震え上がる。誰も逆らわない。
 ――学園に新たな嵐が訪れるのは、もはや避けられぬ運命のようだった。
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