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西のアクアデル編
性悪王子、政に初参戦
しおりを挟む怒りに任せ、まだふらつく脚に無理やり力を込める。
喉の奥で鉄の味が広がるのも構わず、俺は王都への道を踏みしめた。
浸水で道は泥と瓦礫に埋まり、馬車が進めなくなった場所からは、靴底が重く沈む音を響かせながら徒歩で帰還する。
途中、商館の看板が流されて倒れているのを越え、川から溢れた濁水がまだ通りの隅に残っているのを蹴って進むたび、胸の奥の苛立ちが濃く、重くなっていく。
宮廷儀式を行う大広間――そこは本来、荘厳さと静寂を象徴するはずの場所だ。
だが今は、金色の柱と絹の垂れ幕の下で、醜悪な声が飛び交っていた。
玉座の上には父王が座っているが、その威厳は怒号と混乱に掻き消され、まるで老いた人形のように見える。
文官も武官も、貴族も役人も、皆が声を張り上げ、互いに責任を押し付け合っていた。
「なぜ下流から水が逆流してきた」「賠償は王都の予算で行うべきだ」――そんな言葉が、腐った吐息と共に空気を濁らせる。
机を叩く音、椅子を引きずる音、紙束が床に落ちる音。
まるで市場の安売り合戦のような騒ぎの中、俺が扉を開けて入ってきたことに、誰一人として気づかない。
……その時点で、この国の中枢がどれほど腐っているかがよく分かった。
俺は深く息を吸い込み、扉を背後で重く閉めた。
石壁に反響する低い音が、大広間のざわめきに小さなひびを入れる。
だがそれでも、連中はまだ俺の存在に気づかない。
――ならば、気づかせてやる。
玉座までの赤絨毯を、一歩、また一歩と踏みしめる。
靴底が吸い付くような音と、泥の粒が落ちる乾いた音がやけに大きく響く。
俺の視線が通る先々で、数人がわずかに口を閉ざし、息を呑んだ。
やがて、その波は連鎖し、最後の一人の口が止まるまで、時間はかからなかった。
大広間に、静寂が訪れる。
空気が一気に冷え込み、壁際の兵士が背筋を伸ばす。
「……黙れ」
声は低く、氷の刃のように鋭く、だが決して大声ではない。
しかし、その一言だけで、残っていたざわめきすら跡形もなく消えた。
視線という視線が、全て俺に吸い寄せられる。
父王でさえ、玉座の上からわずかに身を引いた。
俺は視線をぐるりと巡らせ、ひとりひとりの顔をゆっくりと舐めるように見渡す。
貴族の一人が喉を鳴らし、別の者は汗を拭った。
この場にいる全員が、ようやく理解したのだ――
第二王子を敵に回すとは、どういうことなのかを。
俺は赤絨毯の終点、玉座の前まで進むと、父王の前で片膝をつき、形式的な礼を取った。
そのまま顔を上げ、静かに告げる。
「ご機嫌麗しゅう、父上」
わずかに頷いた父王の表情は、疲労と困惑とで曇っている。
俺はその視線を正面から受け止め、まるでこの場を支配するのが当然かのように、玉座の脇に置かれた椅子へ腰を下ろした。
深くも浅くもない姿勢で座り、組んだ足をゆったりと揺らす。
その動作ひとつひとつが、挑発にも、宣言にも等しい。
俺の背後――半歩下がった位置には、ラヴェリオンが直立不動で控える。
その存在感は、剣よりも鋭く、盾よりも重い。
この場にいる全員が、本能で理解していた。
もし俺が命じれば、彼は一瞬でこの広間を血の海に変えるだろう、と。
絹の垂れ幕の下、父と俺が並び立つ光景は、奇妙な錯覚を生む。
――どちらが王か、見分けがつかない。
父王の威厳は確かにそこにある。
だが今、この場を支配しているのは、冷ややかに視線を巡らせる俺のほうだった。
貴族たちの背筋に、薄い寒気が走る。
目を逸らせば、何かを見透かされる――そう悟った者たちは、逆に俺から目を離せない。
凛とした静けさと、剣呑な緊張感。
その二つが絡み合い、大広間全体を、息を呑むほど重い空気で満たしていった。
俺は父王の隣に腰を下ろし、深く足を組んだ。
玉座に座る父王の横で、俺は一切の遠慮なく背筋を伸ばし、顎をわずかに上げる。
背後にはラヴェリオンが静かに控えているが、その存在感は雷雲のように重く広間を覆っていた。
――この瞬間、どちらが「王」なのか、傍目には判別できないだろう。
静寂が訪れたわけではない。
むしろ、広間は先ほどまでの混沌の残滓で満ちていた。
机を叩く音、椅子を引きずる耳障りな金属音、誰かの喉が乾いたように鳴る音。
それらすべてを踏み潰すように、俺は口を開いた。
「――あの逆流は、私が起こした」
低く、だがはっきりと。
その言葉は石造りの壁に反響し、何倍にもなって広間に染み渡る。
時間が一瞬止まったかのように、全員の動きが凍り付いた。
目だけが忙しなく揺れ、互いの表情を探る。
俺はその間も淡々と視線を巡らせ、唇の端をほんの僅かに吊り上げる。
「どうだ――楽しかっただろう?」
ぞわりと空気が震え、何人かが背もたれに無意識に押し付けられる。
笑っているはずの俺の声には、笑みの温度が一欠片もない。
まるで氷を擦り合わせる音のような冷たさだった。
「なっ……逆流だと!? そんなことを――!」
「市場が全滅したのだぞ! 我らの損失をどう償うつもりだ!」
「王都にどれほどの被害が出たと思っている!」
椅子が乱暴に蹴られ、数人の貴族が立ち上がる。
声を荒げるその姿は、国民を案じるというより、自らの財布の中身を心配する成金のそれだった。
俺はゆっくりとその顔を一人ずつ見つめ、わざと間を空けてから吐き捨てる。
「――告知も無しに、上流の水を放ったな」
静寂。
次に発せられる言葉を待つ間、広間の空気は薄くなったように感じられる。
「下流の人間の命は……その辺を這う蟻の命と同じだとでも思っていたのか?」
数名の貴族が視線を逸らす。
机の上の手が小刻みに震え、紙の端をくしゃりと潰す音がやけに大きく響く。
「王都のため? はっ……笑わせる」
俺は足を組み直し、背もたれに深く体を預けた。
「お前たちは城壁の内側しか見ていない。石畳の乾き具合ばかり気にして、川下の泥と涙には背を向けた。
何度も家を流され、家族を失った村があったのを知っていて、何もしなかった。
その怠慢のツケを……ほんの少し返してやっただけだ」
広間の隅で誰かが息を呑む。
別の誰かが口を開きかけたが、俺の視線が刺さった瞬間、その顎はぴたりと固まった。
「……たったあれだけの水で冠水するとはな。王都の上流を納める貴族は、そろいもそろって無能だ」
沈黙が、重りのように場を押し潰す。
俺は片手を膝の上からゆるりと上げ、指先で扉口を示した。
「――前に出てこい」
命令の響きは冷たくも鋭く、背骨を氷で締め上げられるような感覚を全員に植え付けた。
互いに視線を押し付け合い、足元を見て震える者、歯を噛みしめて一歩を踏み出す者。
石床を踏むその音は、処刑場へ向かう囚人の靴音そのものだった。
石床を踏みしめる靴音が、広間の奥へと吸い込まれていく。
俺の「前に出ろ」という命令に従い、数名の貴族が渋々進み出る。
歩みは遅く、足取りは重い。裾を握る指先には血が通っていないかのように白く、衣擦れの音さえ耳障りに響く。
背後で控える残りの貴族たちは一様に顔を引きつらせ、誰もが「自分でなくてよかった」と目を逸らした。
俺はその光景を、椅子に浅く腰かけたまま、片肘をついて観察していた。
表情はゆるやかに、しかし瞳の奥には一切の温度がない。
父王でさえ口を挟まず、玉座の上で硬く沈黙している。
広間を支配しているのは今や玉座の王ではなく――俺だ。
前に並んだ貴族たちを眺め回し、ふっと口元だけを緩める。
その笑みは氷を削いだ刃のように冷たく、光を弾かない。
「……安心しろ。死刑の方法は――選ばせてやる」
瞬間、数名の喉が同時に鳴った。
空気がぴしりと張り詰め、全員の視線が床に吸い寄せられる。
誰一人として俺の目を正面から見返そうとしない。
膝が小刻みに揺れ、口元から白い息が漏れる音さえ、やけに鮮明に響く。
「……もちろん、冗談だ」
やわらかな声色に変えたはずなのに、その言葉を冗談だと受け取れる者は一人もいなかっただろう。
息を吐く間もなく、俺はゆっくりと立ち上がる。
長い裾が石床を擦る音だけが、広間の中心に響く。
一歩、また一歩。
目の前の貴族と視線を合わせ、わざと一秒だけ沈黙を置く。
その沈黙が相手の神経をじわじわと削っていくのが分かる。
「お前は――何も知らなかった、と言うのか?」
「……っ、は、はい……」
「ならば、無能だ。知っていて黙っていたなら……卑劣だ」
貴族の顔色がさらに蒼白になる。
俺は淡々と次の者へ移る。
「お前は? 上流の水を放てと命じた張本人か?」
「そ、そのようなことは――」
「否定するなら証拠を出せ。今ここでだ。……でなければ、お前の首が証明になる」
背後から誰かが短く息を呑む音がした。
武官の一人がわずかに後ずさり、剣の柄を握る指が震えている。
俺はそんな怯えを、まるで上質な酒でも味わうかのように、ゆっくりと愉しむ。
広間全体が、俺の吐く言葉ひとつで緊張と恐怖に飲み込まれていく。
父王は玉座から俺を見据えたまま、何も言わない。
その沈黙は黙認とも、評価とも取れた。
この瞬間、この場で最も「王」と呼ばれるべき存在は――紛れもなく俺だった。
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