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西のアクアデル編
性悪王子、兄上がご帰宅してしまった
しおりを挟むその日の夕方――。
生憎の空模様と浸水被害のせいで、兄上率いる第一騎士団は本来予定されていた華やかな凱旋の儀もなく、泥と疲労を纏ったまま城門をくぐった。
……おそらく最初に向かうのは、俺の部屋だ。
その予感が背中を冷やした時には、もう遅かった。
視線を向ければ、ラヴェリオンが俺のベッドのど真ん中で、厚かましくも昼寝を決め込んでいた。
「おい起きろ!」
肩を揺さぶると、のろのろと瞼を開けた彼に、俺は低く命じる。
「髪と瞳の色、すぐ変えろ。兄上にお前を“奴隷化してます”なんて知られたら、説教じゃ済まないぞ」
そのやり取りの最中――。
部屋の外から、控えめに扉が叩かれる音がした。
直後、耳に届いたのは、やけに柔らかい兄上の声。
「ヴィ、兄様が帰ってきたよ。……今日はどんな事をやらかしたの? 兄様に教えて?」
声音は春の陽だまりのように優しい。
だが、扉越しにも分かる――その目元と気配は、氷柱よりも鋭く冷たい。
背筋をひやりと撫でる感覚に、俺は思わず口から情けない声を漏らした。
「ひ、ひぇっ……!」
慌てて言葉を繋ぐ。
「わ、私は悪くない! 上流の水を何の通達もなく一気に流す方がどうかしてます! 兄上だって分かってるでしょう、それを……なぜ私が悪いみたいな言い方を――」
「……はぁ。そういう事じゃないって、何度も言ってきたよね」
扉が開く。
そこに立つ兄上は、鎧の金具がわずかに鳴るほどの動きで部屋に入ってきた。
その歩みは、処刑場へ向かう死刑執行人のように静かで、確実。
そして始まった――兄上による、地獄のようなお小言パーティ。
最初こそ理路整然とした指摘だったが、徐々に俺の行動の揚げ足取りや過去の失態回想にまで及び、説教という名の尋問へと変貌していく。
俺は適当に相槌を打ちながら、心の中で「早く終われ」と百回は唱えた。
だが、その祈りが届く気配は、最後まで一切なかった。
兄上は荒事を好まない。
剣の腕は王国内でも屈指だが、それを振るうより、事を穏やかに収める方を選ぶ人だ。
そして――上流の貴族どもが横領をしていることなど、彼に言われるまでもなく俺にも分かっている。
ならば、そこから突くのが最も効果的だろう。
だが、そんな悠長な手順を踏んでいる間に、再び雨が降れば……同じ惨劇が繰り返される。
俺の頭には、それしか浮かばなかった。
だが兄上は、真っ向からそれを否定した。
その口調は冷たく鋭いが――怒りの矛先は俺を貶めるためではない。
むしろ、心底俺の身を案じてのことだと、わかってしまう。
だからこそ、余計に苛立つ。
「ヴィのやり方じゃ、憎しみの連鎖が続くだけだ!」
「そんな悠長なことをしていられるか! 次はもっと酷くなるかもしれないのですよ!」
互いに一歩も引かず、声を荒げる。
兄上の青い瞳が怒りと焦りで燃え、俺の視界も熱で滲む。
まるで戦場の剣戟のように、言葉と感情がぶつかり合った。
やがて、喉の奥が焼けつくほど言い合った末――俺はぷいと顔を背け、そのままベッドへと潜り込んだ。
枕に半分顔を埋め、完全にシカトを決め込む。
部屋の隅でこの一部始終を見ていたラヴェリオンが、肩を揺らしながら笑っている。
その笑みには、俺の苛立ちも兄上の怒りも、すべて面白がる悪意と好奇心が滲んでいた。
親友と、その弟が言い合いで火花を散らしている光景――
ラヴェリオンにとっては、これ以上ない見世物らしい。
俺が兄上を睨めば、その瞬間、視界の端で奴が肩を震わせる。
兄上が俺を諭すように眉をひそめれば、また別のタイミングで吹き出しそうになる。
目が合うたび、ラヴェリオンは唇の端をわずかに吊り上げ、笑いを堪えるように俯く。
だがその赤い瞳は、愉快で仕方ないと言わんばかりにきらついている。
――このやろう。
喧嘩をしているこっちは真剣だというのに、傍観者は実に楽しげだ。
兄上は、俺と散々やり合った末に、諦めたように大きく息を吐き、椅子へ深く腰を下ろした。
だがその目線は俺から外れ、今度はラヴェリオンへと向かう。
その視線には、戦場帰りの騎士とは思えぬほどの哀れみが滲んでいた。
「……女じゃ飽き足らず、今度は男にも手を出したのか?」
「違います!! ただの奴隷です!」
即座に否定したが、兄上は完全に聞く耳を持たない顔だ。
確かにこれまでの素行の悪さは、否定できない。だが今回は冤罪だ。……たぶん。
「……お前も大変だろう。何かあったらすぐに騎士団に来い。困っていることはないか? 私が協力しよう」
そう言って兄上は、まるで傷ついた小鳥にでも触れるような優しさでラヴェリオンの手を取った。
その時点で、この人は目の前の男が何者か、まるで気づいていないのだと悟る。
兄上の中では、ラヴェリオンは“俺の我儘に振り回される、可哀想な従者”ということになっているらしい。
案の定、ラヴェリオンは下を向き、口元を押さえて笑いを堪えた。
だが兄上はそれを「泣いている」と勘違いしたらしく、さらに声を柔らかくした。
「ならば……王太子殿下、わたくしに剣術の指南をお願い致します。
セレヴィス殿下を、ずっと守り続けたいのです」
その台詞は、芝居がかった声音と、わずかに潤んだように見える瞳で放たれた。
あまりの完璧な演技に、兄上は完全に信じきり、感動すら覚えたようだ。
次の瞬間、がっしりとラヴェリオンの体を抱き寄せる。
「……いい心がけだ。今日の夜に来るといい。私が直々に剣術を指南しよう」
そう言い残し、兄上はどこか誇らしげで、機嫌よく部屋を後にした。
扉が閉まるや否や、ラヴェリオンはこらえきれず、声を殺して笑い出した。
俺は枕を掴み、全力で投げつけた。
扉が音を立てて閉まる。
その直後、部屋の空気は一変した。
ラヴェリオンは腹を抱え、笑いを噛み殺すどころか、もう耐えられないといった様子で肩を揺らしている。
喉の奥からくぐもった笑いが漏れ、耳障りなほど愉快そうだ。
「……お前、わざとだろ」
枕を掴み、全力でぶん投げる。
だが、あっさりと片手で受け止められ、ラヴェリオンはさらに笑みを深めた。
「いやぁ、殿下の兄上は実に人のいい方だ。あの誤解は……解かなくてもいいのでは?」
「よくない!!」
声を荒げたが、反論の声は笑いに飲まれた。
胸の奥で、苛立ちと焦りがごちゃ混ぜになり、ぐつぐつと煮立っていく。
(……絶対に誤解したままだ)
兄上の中で、俺は「男にまで手を出す破滅的な第二王子」、ラヴェリオンは「可哀想な従者」という、実に腹立たしい構図で固定されてしまった。
このままでは、城中の人間がその話を“美談”として広めかねない。
それを想像した瞬間、全身に鳥肌が立つ。
(誤解だ、それはラヴェリオンだ……!)
言いたい。今すぐにでも叫びたい。
だが、兄上の前でそれを口にできる状況じゃなかった。
ラヴェリオンの正体を知られれば、今度は俺が詰問される立場になる。
……詰んでいる。
どうしようもない苛立ちが喉まで込み上げ、気づけばベッドの上の枕をまた掴んでいた。
「この……っ!」
第一射。
ラヴェリオンの胸元へ真っ直ぐ飛んだ枕は、軽く首を傾けられただけで回避され、無様に床を転がった。
第二射、第三射――。
近くにあったクッションや抱き枕まで手当たり次第に掴んで投げつける。
だが、ラヴェリオンは笑みを浮かべたまま、全部片手で受け止めたり、腰をひねって避けたり、まるで遊び半分で俺の怒りをいなしていた。
「おや、殿下。これは新しい訓練ですか?」
「黙れ!!」
枕が尽きた時、肩で息をしながら睨みつける俺と、片手にクッションを抱えたまま笑いを堪えているラヴェリオンが向かい合った。
この男――本気で楽しんでやがる。
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