75 / 205
西のアクアデル編
性悪王子、駄竜を空に放つ
しおりを挟む伯爵家の庭は、よく手入れされた芝が陽光を反射し、朝露のきらめきがまだところどころに残っていた。
花壇には見事なまでに咲き誇った花々が並び、噴水の水は透明な弧を描いて空気を震わせ、しぶきが微細な虹をつくっている。
……普段なら、この景色を眺めて一息つくのも悪くない。だが、今日の俺にとってはただの背景にすぎなかった。
エルネストは庭の中央、芝生の上で立ち止まり、顎でラヴェリオンに合図を送った。
「下ろせ」
低く響く声は、芝を揺らす風の音すら止めてしまいそうな重みを持っていた。
ラヴェリオンは無言のまま腕の中の駄竜――グランデを降ろす。
地面に下りた瞬間、グランデの爪が芝を軽く押しつぶし、葉の匂いがふわりと立ち上る。
その黄金の瞳が左右に動き、噴水や花壇、頭上をかすめる鳥影を追うが……次第に、視線は目の前の男へと釘付けになった。
「まずは翼だ」
エルネストの靴音が、湿った芝を押し分ける音とともに近づく。
そして駄竜の背後に回ると、厚い掌を翼の付け根に添え、慎重かつ容赦のない力で外側へ開いた。
「……ッ!」
短い鳴き声が駄竜の喉から漏れる。
それは明確な戸惑いであり、不意に触れられたことへの警戒でもあった。
「筋が固いな。羽ばたく以前の問題だ」
エルネストは低く呟き、骨のラインを指先でなぞる。
その動きは粗野に見えて、実際には関節の位置を的確に探り、腱の硬直をほぐすための圧を加えていた。
ぐっと押されるたび、グランデの肩甲骨のあたりがわずかに盛り上がり、筋肉が緊張と緩和を繰り返す。
俺は腕を組んだまま見ていたが、グランデの体がびくりと揺れるたび、指先に力が入った。
「おい、あまり無茶をするな――」
「無茶はしない。だが甘やかさない」
視線を一切こちらに向けず、淡々と返すその声音には、確固たる自信が宿っていた。
しばらく揉み解す作業を続けたのち、エルネストは手を離し、庭の端に築かれた低い土塁を指差す。
「あそこまで跳ばせる」
「……歩かせるんじゃないのか」
俺が眉を上げると、エルネストは首を横に振った。
「跳ばせるんだ。地面を蹴り、両足が同時に浮く感覚を叩き込む。それが飛翔の第一歩だ」
グランデは土塁を見つめたが、瞳の奥で一瞬、影が揺れた。
……そうか、こいつは本能で空を恐れている。契約を通して伝わる、その微かな怯えを俺は見逃さなかった。
「行け」
エルネストが軽く手を叩く。
だが、駄竜は動かない。耳を後ろに伏せ、尻尾を芝に垂らしたまま、前足すら動かさなかった。
「……駄竜、」
俺が一歩踏み出しかけたその時、ラヴェリオンの大きな手が俺の肩に置かれた。
「ヴィス、見てろ」
低く落ち着いた声に、俺は足を止める。
ラヴェリオンは微動だにせず、ただじっとその場面を見守っている。
エルネストはグランデの正面に回り込み、片膝をついて目線を合わせた。
「怖いか?」
問いかけは静かだったが、その眼光は真っ直ぐに駄竜の心を射抜くようだった。
「それでいい。ただ、一歩でいい、前に出ろ」
その声には、不思議な魔力も呪文もなかった。
それでも、拒否を許さぬ圧があった。
数秒間の沈黙。
そして、グランデは小さく前足を一歩、芝の上に踏み出した。
「そうだ」
エルネストの手が再び翼の付け根に触れる。
その瞬間、背中の筋肉が引き延ばされ、半ば強制的に翼が開かれる。
軽く腰を押される。
反射的に、駄竜は両足で地面を蹴った。
土がわずかに跳ね、芝の葉が舞う。
前足も後ろ足も同時に空へ浮く――ほんの一瞬、だが確かに宙にいた。
着地した瞬間、駄竜は驚いたように自分の足元を見下ろし、それから真っ直ぐ俺を振り返る。
契約を通して伝わってくるのは、戸惑いと興奮が入り混じった、生の感情の渦。
俺は口の端を上げた。
「……いいぞ。トカゲ卒業まで、あと少しだ」
279
あなたにおすすめの小説
【土壌改良】スキルで追放された俺、辺境で奇跡の野菜を作ってたら、聖剣の呪いに苦しむ伝説の英雄がやってきて胃袋と心を掴んでしまった
水凪しおん
BL
戦闘にも魔法にも役立たない【土壌改良】スキルを授かった伯爵家三男のフィンは、実家から追放され、痩せ果てた辺境の地へと送られる。しかし、彼は全くめげていなかった。「美味しい野菜が育てばそれでいいや」と、のんびり畑を耕し始める。
そんな彼の作る野菜は、文献にしか存在しない幻の品種だったり、食べた者の体調を回復させたりと、とんでもない奇跡の作物だった。
ある嵐の夜、フィンは一人の男と出会う。彼の名はアッシュ。魔王を倒した伝説の英雄だが、聖剣の呪いに蝕まれ、死を待つ身だった。
フィンの作る野菜スープを口にし、初めて呪いの痛みから解放されたアッシュは、フィンに宣言する。「君の作る野菜が毎日食べたい。……夫もできる」と。
ハズレスキルだと思っていた力は、実は世界を浄化する『創生の力』だった!?
無自覚な追放貴族と、彼に胃袋と心を掴まれた最強の元英雄。二人の甘くて美味しい辺境開拓スローライフが、今、始まる。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
「自由に生きていい」と言われたので冒険者になりましたが、なぜか旦那様が激怒して連れ戻しに来ました。
キノア9g
BL
「君に義務は求めない」=ニート生活推奨!? ポジティブ転生者と、言葉足らずで愛が重い氷の伯爵様の、全力すれ違い新婚ラブコメディ!
あらすじ
「君に求める義務はない。屋敷で自由に過ごしていい」
貧乏男爵家の次男・ルシアン(前世は男子高校生)は、政略結婚した若き天才当主・オルドリンからそう告げられた。
冷徹で無表情な旦那様の言葉を、「俺に興味がないんだな! ラッキー、衣食住保証付きのニート生活だ!」とポジティブに解釈したルシアン。
彼はこっそり屋敷を抜け出し、偽名を使って憧れの冒険者ライフを満喫し始める。
「旦那様は俺に無関心」
そう信じて、半年間ものんきに遊び回っていたルシアンだったが、ある日クエスト中に怪我をしてしまう。
バレたら怒られるかな……とビクビクしていた彼の元に現れたのは、顔面蒼白で息を切らした旦那様で――!?
「君が怪我をしたと聞いて、気が狂いそうだった……!」
怒鳴られるかと思いきや、折れるほど強く抱きしめられて困惑。
えっ、放置してたんじゃなかったの? なんでそんなに必死なの?
実は旦那様は冷徹なのではなく、ルシアンが好きすぎて「嫌われないように」と身を引いていただけの、超・奥手な心配性スパダリだった!
「君を守れるなら、森ごと消し飛ばすが?」
「過保護すぎて冒険になりません!!」
Fランク冒険者ののんきな妻(夫)×国宝級魔法使いの激重旦那様。
すれ違っていた二人が、甘々な「週末冒険者夫婦」になるまでの、勘違いと溺愛のハッピーエンドBL。
【第一部・完結】毒を飲んだマリス~冷徹なふりして溺愛したい皇帝陛下と毒親育ちの転生人質王子が恋をした~
蛮野晩
BL
マリスは前世で毒親育ちなうえに不遇の最期を迎えた。
転生したらヘデルマリア王国の第一王子だったが、祖国は帝国に侵略されてしまう。
戦火のなかで帝国の皇帝陛下ヴェルハルトに出会う。
マリスは人質として帝国に赴いたが、そこで皇帝の弟(エヴァン・八歳)の世話役をすることになった。
皇帝ヴェルハルトは噂どおりの冷徹な男でマリスは人質として不遇な扱いを受けたが、――――じつは皇帝ヴェルハルトは戦火で出会ったマリスにすでにひと目惚れしていた!
しかもマリスが帝国に来てくれて内心大喜びだった!
ほんとうは溺愛したいが、溺愛しすぎはかっこよくない……。苦悩する皇帝ヴェルハルト。
皇帝陛下のラブコメと人質王子のシリアスがぶつかりあう。ラブコメvsシリアスのハッピーエンドです。
悪役令息を改めたら皆の様子がおかしいです?
* ゆるゆ
BL
王太子から伴侶(予定)契約を破棄された瞬間、前世の記憶がよみがえって、悪役令息だと気づいたよ! しかし気づいたのが終了した後な件について。
悪役令息で断罪なんて絶対だめだ! 泣いちゃう!
せっかく前世を思い出したんだから、これからは心を入れ替えて、真面目にがんばっていこう! と思ったんだけど……あれ? 皆やさしい? 主人公はあっちだよー?
ご感想欄 、うれしくてすぐ承認を押してしまい(笑)ネタバレ 配慮できないので、ご覧になる時は、お気をつけください!
ユィリと皆の動画つくりました! お話にあわせて、ちょこちょこあがる予定です。
インスタ @yuruyu0 絵もあがります
Youtube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます
プロフのWebサイトから、両方に飛べるので、もしよかったら!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
魔王の息子を育てることになった俺の話
お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。
「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」
現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません?
魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL
BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。
BL大賞エントリー中です。
この俺が正ヒロインとして殿方に求愛されるわけがない!
ゆずまめ鯉
BL
五歳の頃の授業中、頭に衝撃を受けたことから、自分が、前世の妹が遊んでいた乙女ゲームの世界にいることに気づいてしまったニエル・ガルフィオン。
ニエルの外見はどこからどう見ても金髪碧眼の美少年。しかもヒロインとはくっつかないモブキャラだったので、伯爵家次男として悠々自適に暮らそうとしていた。
これなら異性にもモテると信じて疑わなかった。
ところが、正ヒロインであるイリーナと結ばれるはずのチート級メインキャラであるユージン・アイアンズが熱心に構うのは、モブで攻略対象外のニエルで……!?
ユージン・アイアンズ(19)×ニエル・ガルフィオン(19)
公爵家嫡男と伯爵家次男の同い年BLです。
森で助けた記憶喪失の青年は、実は敵国の王子様だった!? 身分に引き裂かれた運命の番が、王宮の陰謀を乗り越え再会するまで
水凪しおん
BL
記憶を失った王子×森の奥で暮らす薬師。
身分違いの二人が織りなす、切なくも温かい再会と愛の物語。
人里離れた深い森の奥、ひっそりと暮らす薬師のフィンは、ある嵐の夜、傷つき倒れていた赤髪の青年を助ける。
記憶を失っていた彼に「アッシュ」と名付け、共に暮らすうちに、二人は互いになくてはならない存在となり、心を通わせていく。
しかし、幸せな日々は突如として終わりを告げた。
彼は隣国ヴァレンティスの第一王子、アシュレイだったのだ。
記憶を取り戻し、王宮へと連れ戻されるアッシュ。残されたフィン。
身分という巨大な壁と、王宮に渦巻く陰謀が二人を引き裂く。
それでも、運命の番(つがい)の魂は、呼び合うことをやめなかった――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる