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西のアクアデル編
性悪王子、駄竜のメンテ係になってしまった
しおりを挟む日はすっかり落ち、伯爵家の外では虫の音が涼しげに響いている。
庭での訓練を終えた俺は、全身を包む湿った疲労と、どこか甘い達成感を引きずったまま王宮へと帰りそのまま湯殿へ向かった。
昼間は――駄竜が一メートルほど飛んでは落ち、それをエルネストが片腕で受け止める、という作業を延々繰り返していた。
芝に刻まれた無数の爪跡と、跳躍のたびに弾け飛んだ土と葉。
その執拗な反復の結果、こいつの背中は今、石のように固く張っている。
湯殿に足を踏み入れると、鼻腔をくすぐる香草の甘い香りと、熱い蒸気が一気に押し寄せた。
高く切り取られた窓からは、夜の冷気が細く流れ込み、湯気の白をわずかに揺らしている。
浴槽は石造りで、縁には磨き込まれた光沢があり、湯面には浮かべられた葉がゆらゆらと漂っていた。
その葉がこすれ合う小さな音すら、湯殿の静けさの中では妙に耳に残る。
俺は浴槽の縁に腰掛け、両腕でずっしりとした温もりを抱え込む。
駄竜――グランデだ。
湯に足先を浸けた瞬間、小さな吐息のような鳴き声を洩らし、金色の瞳がとろんと細くなる。
契約を通して流れ込んでくる感覚は、警戒でも緊張でもなく、まるで「このまま眠ってしまいたい」という甘ったるい弛緩。
……訓練でのあの怯えた様子は、湯気と温もりの中で跡形もなく溶けていた。
俺はゆっくりと湯へ滑り込み、グランデの体を胸の前に抱き直す。
湯が波を立て、香草の香りがさらに濃くなる。
片手を背に回し、指先で肩甲骨の付け根を探る。
そこは昼間酷使した場所――触れた瞬間、筋が張りつめたまま固くなっているのが分かった。
「……なるほど、これじゃ翼も上がらん」
小さく息を吐き、親指の腹でゆっくりと押しほぐしていく。
押すたびに、湯の中で尾がぱしゃりと揺れ、湯しぶきが頬にかかる。
熱い雫が肌を伝い、湯気に溶けて消える。
グランデはピルピルと喉を鳴らし、頭を俺の肩にこすりつけてきた。
契約越しに伝わるその感触は、単なる甘えではなく「そこ、もっと」という催促だ。
親指で円を描くように筋肉を解し、時にはぐっと押し込む。
すると浅い呼吸が一瞬だけ止まり、次の瞬間、ゆるく長い吐息とともに背中の緊張がわずかに溶けた。
筋の奥に滞っていた熱がじわりと流れ出し、俺の手のひらまで暖かくなる。
……これは効いている。
背筋に沿って指を滑らせると、皮膚の下で細かい筋肉の動きが伝わる。
翼の付け根から腰にかけては、まるで縄を編み込んだように密度が高い。
そこを丁寧にほぐしてやればやるほど、湯の中で尾の動きが穏やかになり、瞼はさらに重く落ちていく。
「お前、こうしてりゃただの犬だな」
冗談めかして言ってみても、返ってくるのはピルピルという柔らかい音だけだ。
その音は胸骨にまで響き、俺の心拍と妙に重なって心地いい。
二週間に一度の竜舎での特別風呂では、デールが時間をかけて磨き上げるが――
日常的に俺が、毎日でも軽くマッサージしてやる。
湯で温め、筋を解し、翼を動かすための柔らかさを保つ。
その積み重ねが、空を飛ぶための下地になるのなら、惜しむ理由はない。
「……明日も飛ぶぞ、駄竜」
そう呟くと、グランデはゆるく瞬きをし、尾を一度だけ小さく揺らした。
それは「分かった」とでも言うように、契約を通して静かに伝わってくる。
俺は再び、親指に力を込め、湯気の中でその背中を解し続けた。
湯殿の空気は重く甘く、夜はまだ長い。
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