2 / 9
01.漆黒の教師、揺らぐ純潔
日常の侵食と不穏な影
しおりを挟む
眩しい日差しが、晴稀の顔に差し込んだ。瞼の裏でチカチカと光が踊る。アスファルトの匂いと、微かに土の匂いが混じる、田舎町の教室。
「……あー、だりぃ……」
寝起きのけだるさに伸びをすると、隣の席で友人の健太が、もう教科書を広げているのが見えた。
「おいハル、今日もギリギリかよ。マジで退学なんじゃねぇの、お前」
「うっせ、別にいいだろ。俺はケンカと女に命かけてんだよ」
「女って…どうせ舞先輩だろ?ゾッコンだもんな、お前」
そう、藤沢晴稀は県内でも有数の荒れた高校に通うヤンキーだ。赤茶色に染めた髪に、耳にはピアス。制服も着崩しているが、妙なところで律儀な性分だ。普段は喧嘩っ早いが、根は純粋で、アホが付くほど単純なところがある。
今は、学園のアイドル――いや、この街のアイドルと言っても過言ではない、舞先輩に夢中だった。一学年上の先輩だが、透き通るような白い肌に、さらさらの黒髪、そして誰にでも優しい笑顔。まるで、絵本から抜け出てきたお姫様のような存在だ。
「あー、マジ舞先輩と付き合いてぇ~。早く童貞卒業して、舞先輩と恋してぇ~」
そう独り言すると、健太がニヤニヤと肘で突いてきた。
「おうおう、卒業計画は順調か? そろそろお前も大人にならねぇと、な?」
「うるせぇ! わかってるっての! 今日こそ舞先輩に声かけて、放課後デートに誘ってみせるぜ」
舞い上がる晴稀の脳内には、早くも舞先輩との甘い未来が広がっていた。手をつないで街を歩き、二人で映画を見て、カフェで笑い合う……そんな、普通の青春。早く大人になりたい。普通の恋をして、普通の青春を送りたい。それが、晴稀のささやかな夢だった。
しかし、そのささやかな日常に、最近、奇妙な異物感が漂い始めていた。まるで、誰かに見られているような、不意に背筋が凍るような、そんな不穏な気配。だが晴稀は気の所為だと深く考えてはいなかった。この街には、古くからある奇妙な言い伝えがある。神への生贄、純潔の血筋、100年に一度、純潔の血筋のものが神へ捧げられる儀式があるーーそんな言葉を耳にしたことがあったが、まさか自分の日常に関わるとは思ってもいなかったし、ただの田舎の迷信だと、晴稀は信じていた。
***
新学期が始まり、全校生徒が体育館に集められた。どうやら新任教師の紹介が行われるようで、クラスメイトがざわざわとうるさい。対して晴稀は先生などそれほど興味がなく、校長の話など上の空で、退屈そうに貧乏ゆすりをしていた。体育館特有の埃っぽい空気が、いっそう睡魔を誘う。
「次に、本校に着任いたしました、新任教師、白河善先生の紹介です」
校長の声の直後、学校中の主に女子生徒が一斉にかん高く声を上げた。その声に反応することもなく、壇上に一人の男が上がった。ざわめく声に晴稀は顔を上げる。その瞬間、晴稀はひゅっと息を止め、全身の血液が冷たくなったかのような感覚に陥いった。
「はぁ!? なんでこいつがここにいんだよ!?」
思わず声が出かけたのを、健太が慌てて口を塞いだ。
壇上に立つ男は、上質なネイビーのスーツを完璧に着こなしている。ツヤやかな黒の髪は、体育館に差し込む小さな光さえ捕らえ、キラキラと反射している。白い肌に、どこか冷たい光を宿した切れ長の瞳。顔には感情が浮かんでいないのに、見ているだけで底知れない威圧感を放っている。まるで、この世の者ではないかのような、非現実的な美しさ。それは、人間が持つべきではない種類の完璧さだった。
まさか、白河善。
幼い頃から、何かと晴稀につきまとい、過保護なまでに干渉してきた男だ。幼い頃は美しくスラリとした同性が自分に構ってくれるものだから、自分が特別な存在になったかのように錯覚して、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と懐いていたが、思春期に入るにつれ、気味が悪いと避けていた男だった。彼は大金持ちのお坊ちゃまで、実家を当然のように継ぐ存在だと聞いていた。庶民じみた荒れた高校の教師になる必要などないはずだ。それが、なぜここに? 晴稀の脳裏に、幼い頃、善が自分を抱きしめた時の、ひんやりとした体温が蘇る。
善は教壇に立つと、生徒たちをざっと見回した。その視線が、一瞬、晴稀にだけ向けられる。その冷たい瞳の奥に、わずかに薄い笑みが浮かんだような気がした。まるで、見つけた獲物を品定めするような、そんな笑み。晴稀は背筋に冷たいものが走るのを感じた。心臓が嫌な音を立てる。
「なんでだよ……なんで俺につきまとうんだよ……!」
苛立ちと、得体のしれない戸惑いが、晴稀の心に渦巻いた。善が晴稀のクラスの副担任になることが告げられた時、晴稀は絶望に顔を歪めた。
その後晴稀は善の薄気味悪い端正な顔が脳裏を離れず、一日中イライラを隠せなかったが、善のことを忘れるためにも良いきっかけだと割り切って、舞先輩の部活を見学しに音楽室へ行った。今日は先輩が一人でいると聞いていたから、絶好のチャンスだ。音楽室の扉の向こうから、舞先輩の歌声が聞こえてくる。
「舞先輩、ちょっといいすか!?」
音楽室の扉を開け、意を決して声をかけた。舞先輩は優しく振り向いてくれた。優しい夕日の光がきらきらと照らしたその笑顔は、まさに天使のようだった。
「あら、藤沢くん?どうしたの?」
最高の笑顔だ。今日の不快感もサラリと洗い流された気がする。
「やー、あの、声綺麗だなーって。もう毎日、ココ、通りかかるたび思ってたんすよ」
上ずりそうな声に何とか耐える晴稀を見てふふふと笑う舞先輩。......過去最高の好感触じゃね…?チマチマ話しかけた成果じゃん、このままデートに誘って……?いける!
「まっ舞先輩が良かったらっすけど、今週の土曜日…」
ガラッ
勢い任せに誘う晴稀の声に冷たい音が割って入った。
「……なっ」
晴稀は一瞬びくんと小さく震えたが、良いところを邪魔され、すぐに怒りが湧いてきた。ただじゃおかねぇ、と拳をぎゅっと握る。
「藤沢くん、こんなところで油を売ってなにしたいる?」
冷たい、それでいて妙に甘い声が、瞬時に背後から発せられる。ぞくり、と悪寒が走る。まるで、空気が凍り付いたかのようだ。
またアイツ……ッ
振り返ると、そこにいたのはやはり白河善だった。いつの間に来たんだ、この男は。廊下には誰もいなかったはずなのに。まるで、晴稀の行動を全て見透かしているかのように、そこに立っていた。背中に汗が滲む。
「は? なんすか先生、急に」
「今日の放課後は、私と補習の約束だったはずだが? まさか忘れたわけではないだろう?」
善は眉一つ動かさず、冷たい眼差しを向けてくる。そんな約束、していない。だが、善の放つ威圧感に、晴稀は反論の言葉を飲み込んだ。舞先輩は困ったように、善と晴稀を見比べている。その目に、怯えの色が浮かんでいるのがわかった。
「あ、すみません先生。私、教室に楽譜を忘れたみたいです。……失礼します!」
舞先輩はそそくさと部室を出て行ってしまった。まるで、嵐から逃げるように。晴稀の口からは、不満の声しか出なかった。
「うぜぇ! なんなんだよテメエ!?」
舞先輩の背中が見えなくなると、晴稀は怒鳴りつけた。善は涼しい顔で、晴稀の顔に近づく。その距離が異常に近く、善の洗練された香水の匂いが鼻腔をくすぐった。それは甘く、どこか退廃的な、嗅いだことのない匂いだった。
「なんのことはない。私は教師として、君の成績を案じているだけだ」
その言葉とは裏腹に、善の指先が、晴稀の顎をそっと掴んだ。ひんやりとした指が肌に触れるだけで、身体に微かな痺れが走る。善の目が、まるで獲物を狙うかのように、晴稀を値踏みしている。その視線は、まるで晴稀の服の下を全て見透かし、肉体の隅々まで掌握しようとしているかのような、粘りつく視線だった。
その日以来、善の監視と邪魔は日増しに露骨になった。舞先輩に近づくたび、善が絶妙なタイミングで現れ、まるで邪魔をするかのように晴稀を連れ去る。それは職員室での「指導」だったり、荷物運びの手伝いだったり、とにかく舞先輩から遠ざける口実ばかりだった。
「先生、今日の当番、俺じゃないっすけど」
「構わない。私が必要としているのだから」
放課後、善に呼び出され、人気のない空き教室で二人きりになった時だった。善は晴稀に、椅子を並べ替えるよう指示を出した。晴稀が重い椅子を運んでいると、善が背後から近づき、身体を密着させ、覆いかぶさるような形で晴稀の抱える椅子を奪う。善の体温が背中に張り付く。嫌な予感がした。鼓動が、不自然なほど速くなる。
「おい、邪魔だよ、先生」
「……そうか?君の身体は熱を帯びてるようだ。風邪でも引いたか」
善の吐息が耳にかかる。ゾワリと、背筋に悪寒が走った。善の指が、晴稀の首筋をそっと撫でた。そのまま、白い首筋を辿るように鎖骨まで下りていく。その指先が触れる場所全てから、ゾクゾクするような電流が走る。
「っ……んだよ、気持ち悪ぃな」
晴稀は慌てて距離を取ろうとしたが、善の指はそのまま晴稀の髪に絡まり、整えるふりをして、耳元で囁いた。善の唇が、晴稀の耳朶に触れるか触れないかの距離まで近づく。
「君は、私以外に心を乱すべきではない。特に、あの程度の女に」
その言葉と共に、善の指が晴稀の耳朶を軽く摘んだ。熱い。不思議な痺れが全身を駆け巡る。心臓が、ドクンと大きく鳴った。その震えが、善の指先にも、そして彼自身の心臓にも伝わっているかのような気がした。
「っ……!」
なんだよ、この気持ち悪いドキドキは。野郎に触れられただけなのに。絶対に気のせいだ。晴稀は自分の感情を否定しようと、ギュッと拳を握りしめた。だが、身体は妙な熱を帯び、善の指が離れると、どこか物足りなささえ感じた。
善はそんな晴稀の反応を冷静に見極め、静かに、しかし満足そうに笑みを浮かべた。その笑みは、まるで全てを見通しているかのような、絶対的な自信に満ちていた。
***
夜、善の屋敷の一室。古めかしい調度品が並ぶ重厚な空間で、善は一人の老いた執事と向き合っていた。窓の外は、深い闇に包まれている。蝋燭の炎が静かに揺れ、善の横顔を照らしていた。
「坊ちゃま、本当にあの若者で良いのですか? 他にも、贄の血筋に適応する純粋な若者はおりますが……」
執事の言葉に、善は冷たい瞳を向けた。その瞳は、暗闇の中で微かに光を放っているかのようだった。ガラス玉のように感情が読み取れないが、そこには何か強固な意志が宿っている。それは、執着ともいえるものだ。
「いいえ。彼でなければなりません。彼は……神に捧げられるべき、唯一の贄なのだ」
善の声には、確固たる意志と、狂気にも似た執着が宿っていた。執事は何も言わず、ただ静かに頭を下げた。彼もまた、善の持つ圧倒的な力と、彼の血筋に連なる者としての宿命に逆らうことはできない。この一族に逆らうことは、この世の理に逆らうことだと、彼らは知っている。彼らの役割は、ただ善の意に従い、儀式の準備を滞りなく進めることのみなのだ。
「……あー、だりぃ……」
寝起きのけだるさに伸びをすると、隣の席で友人の健太が、もう教科書を広げているのが見えた。
「おいハル、今日もギリギリかよ。マジで退学なんじゃねぇの、お前」
「うっせ、別にいいだろ。俺はケンカと女に命かけてんだよ」
「女って…どうせ舞先輩だろ?ゾッコンだもんな、お前」
そう、藤沢晴稀は県内でも有数の荒れた高校に通うヤンキーだ。赤茶色に染めた髪に、耳にはピアス。制服も着崩しているが、妙なところで律儀な性分だ。普段は喧嘩っ早いが、根は純粋で、アホが付くほど単純なところがある。
今は、学園のアイドル――いや、この街のアイドルと言っても過言ではない、舞先輩に夢中だった。一学年上の先輩だが、透き通るような白い肌に、さらさらの黒髪、そして誰にでも優しい笑顔。まるで、絵本から抜け出てきたお姫様のような存在だ。
「あー、マジ舞先輩と付き合いてぇ~。早く童貞卒業して、舞先輩と恋してぇ~」
そう独り言すると、健太がニヤニヤと肘で突いてきた。
「おうおう、卒業計画は順調か? そろそろお前も大人にならねぇと、な?」
「うるせぇ! わかってるっての! 今日こそ舞先輩に声かけて、放課後デートに誘ってみせるぜ」
舞い上がる晴稀の脳内には、早くも舞先輩との甘い未来が広がっていた。手をつないで街を歩き、二人で映画を見て、カフェで笑い合う……そんな、普通の青春。早く大人になりたい。普通の恋をして、普通の青春を送りたい。それが、晴稀のささやかな夢だった。
しかし、そのささやかな日常に、最近、奇妙な異物感が漂い始めていた。まるで、誰かに見られているような、不意に背筋が凍るような、そんな不穏な気配。だが晴稀は気の所為だと深く考えてはいなかった。この街には、古くからある奇妙な言い伝えがある。神への生贄、純潔の血筋、100年に一度、純潔の血筋のものが神へ捧げられる儀式があるーーそんな言葉を耳にしたことがあったが、まさか自分の日常に関わるとは思ってもいなかったし、ただの田舎の迷信だと、晴稀は信じていた。
***
新学期が始まり、全校生徒が体育館に集められた。どうやら新任教師の紹介が行われるようで、クラスメイトがざわざわとうるさい。対して晴稀は先生などそれほど興味がなく、校長の話など上の空で、退屈そうに貧乏ゆすりをしていた。体育館特有の埃っぽい空気が、いっそう睡魔を誘う。
「次に、本校に着任いたしました、新任教師、白河善先生の紹介です」
校長の声の直後、学校中の主に女子生徒が一斉にかん高く声を上げた。その声に反応することもなく、壇上に一人の男が上がった。ざわめく声に晴稀は顔を上げる。その瞬間、晴稀はひゅっと息を止め、全身の血液が冷たくなったかのような感覚に陥いった。
「はぁ!? なんでこいつがここにいんだよ!?」
思わず声が出かけたのを、健太が慌てて口を塞いだ。
壇上に立つ男は、上質なネイビーのスーツを完璧に着こなしている。ツヤやかな黒の髪は、体育館に差し込む小さな光さえ捕らえ、キラキラと反射している。白い肌に、どこか冷たい光を宿した切れ長の瞳。顔には感情が浮かんでいないのに、見ているだけで底知れない威圧感を放っている。まるで、この世の者ではないかのような、非現実的な美しさ。それは、人間が持つべきではない種類の完璧さだった。
まさか、白河善。
幼い頃から、何かと晴稀につきまとい、過保護なまでに干渉してきた男だ。幼い頃は美しくスラリとした同性が自分に構ってくれるものだから、自分が特別な存在になったかのように錯覚して、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と懐いていたが、思春期に入るにつれ、気味が悪いと避けていた男だった。彼は大金持ちのお坊ちゃまで、実家を当然のように継ぐ存在だと聞いていた。庶民じみた荒れた高校の教師になる必要などないはずだ。それが、なぜここに? 晴稀の脳裏に、幼い頃、善が自分を抱きしめた時の、ひんやりとした体温が蘇る。
善は教壇に立つと、生徒たちをざっと見回した。その視線が、一瞬、晴稀にだけ向けられる。その冷たい瞳の奥に、わずかに薄い笑みが浮かんだような気がした。まるで、見つけた獲物を品定めするような、そんな笑み。晴稀は背筋に冷たいものが走るのを感じた。心臓が嫌な音を立てる。
「なんでだよ……なんで俺につきまとうんだよ……!」
苛立ちと、得体のしれない戸惑いが、晴稀の心に渦巻いた。善が晴稀のクラスの副担任になることが告げられた時、晴稀は絶望に顔を歪めた。
その後晴稀は善の薄気味悪い端正な顔が脳裏を離れず、一日中イライラを隠せなかったが、善のことを忘れるためにも良いきっかけだと割り切って、舞先輩の部活を見学しに音楽室へ行った。今日は先輩が一人でいると聞いていたから、絶好のチャンスだ。音楽室の扉の向こうから、舞先輩の歌声が聞こえてくる。
「舞先輩、ちょっといいすか!?」
音楽室の扉を開け、意を決して声をかけた。舞先輩は優しく振り向いてくれた。優しい夕日の光がきらきらと照らしたその笑顔は、まさに天使のようだった。
「あら、藤沢くん?どうしたの?」
最高の笑顔だ。今日の不快感もサラリと洗い流された気がする。
「やー、あの、声綺麗だなーって。もう毎日、ココ、通りかかるたび思ってたんすよ」
上ずりそうな声に何とか耐える晴稀を見てふふふと笑う舞先輩。......過去最高の好感触じゃね…?チマチマ話しかけた成果じゃん、このままデートに誘って……?いける!
「まっ舞先輩が良かったらっすけど、今週の土曜日…」
ガラッ
勢い任せに誘う晴稀の声に冷たい音が割って入った。
「……なっ」
晴稀は一瞬びくんと小さく震えたが、良いところを邪魔され、すぐに怒りが湧いてきた。ただじゃおかねぇ、と拳をぎゅっと握る。
「藤沢くん、こんなところで油を売ってなにしたいる?」
冷たい、それでいて妙に甘い声が、瞬時に背後から発せられる。ぞくり、と悪寒が走る。まるで、空気が凍り付いたかのようだ。
またアイツ……ッ
振り返ると、そこにいたのはやはり白河善だった。いつの間に来たんだ、この男は。廊下には誰もいなかったはずなのに。まるで、晴稀の行動を全て見透かしているかのように、そこに立っていた。背中に汗が滲む。
「は? なんすか先生、急に」
「今日の放課後は、私と補習の約束だったはずだが? まさか忘れたわけではないだろう?」
善は眉一つ動かさず、冷たい眼差しを向けてくる。そんな約束、していない。だが、善の放つ威圧感に、晴稀は反論の言葉を飲み込んだ。舞先輩は困ったように、善と晴稀を見比べている。その目に、怯えの色が浮かんでいるのがわかった。
「あ、すみません先生。私、教室に楽譜を忘れたみたいです。……失礼します!」
舞先輩はそそくさと部室を出て行ってしまった。まるで、嵐から逃げるように。晴稀の口からは、不満の声しか出なかった。
「うぜぇ! なんなんだよテメエ!?」
舞先輩の背中が見えなくなると、晴稀は怒鳴りつけた。善は涼しい顔で、晴稀の顔に近づく。その距離が異常に近く、善の洗練された香水の匂いが鼻腔をくすぐった。それは甘く、どこか退廃的な、嗅いだことのない匂いだった。
「なんのことはない。私は教師として、君の成績を案じているだけだ」
その言葉とは裏腹に、善の指先が、晴稀の顎をそっと掴んだ。ひんやりとした指が肌に触れるだけで、身体に微かな痺れが走る。善の目が、まるで獲物を狙うかのように、晴稀を値踏みしている。その視線は、まるで晴稀の服の下を全て見透かし、肉体の隅々まで掌握しようとしているかのような、粘りつく視線だった。
その日以来、善の監視と邪魔は日増しに露骨になった。舞先輩に近づくたび、善が絶妙なタイミングで現れ、まるで邪魔をするかのように晴稀を連れ去る。それは職員室での「指導」だったり、荷物運びの手伝いだったり、とにかく舞先輩から遠ざける口実ばかりだった。
「先生、今日の当番、俺じゃないっすけど」
「構わない。私が必要としているのだから」
放課後、善に呼び出され、人気のない空き教室で二人きりになった時だった。善は晴稀に、椅子を並べ替えるよう指示を出した。晴稀が重い椅子を運んでいると、善が背後から近づき、身体を密着させ、覆いかぶさるような形で晴稀の抱える椅子を奪う。善の体温が背中に張り付く。嫌な予感がした。鼓動が、不自然なほど速くなる。
「おい、邪魔だよ、先生」
「……そうか?君の身体は熱を帯びてるようだ。風邪でも引いたか」
善の吐息が耳にかかる。ゾワリと、背筋に悪寒が走った。善の指が、晴稀の首筋をそっと撫でた。そのまま、白い首筋を辿るように鎖骨まで下りていく。その指先が触れる場所全てから、ゾクゾクするような電流が走る。
「っ……んだよ、気持ち悪ぃな」
晴稀は慌てて距離を取ろうとしたが、善の指はそのまま晴稀の髪に絡まり、整えるふりをして、耳元で囁いた。善の唇が、晴稀の耳朶に触れるか触れないかの距離まで近づく。
「君は、私以外に心を乱すべきではない。特に、あの程度の女に」
その言葉と共に、善の指が晴稀の耳朶を軽く摘んだ。熱い。不思議な痺れが全身を駆け巡る。心臓が、ドクンと大きく鳴った。その震えが、善の指先にも、そして彼自身の心臓にも伝わっているかのような気がした。
「っ……!」
なんだよ、この気持ち悪いドキドキは。野郎に触れられただけなのに。絶対に気のせいだ。晴稀は自分の感情を否定しようと、ギュッと拳を握りしめた。だが、身体は妙な熱を帯び、善の指が離れると、どこか物足りなささえ感じた。
善はそんな晴稀の反応を冷静に見極め、静かに、しかし満足そうに笑みを浮かべた。その笑みは、まるで全てを見通しているかのような、絶対的な自信に満ちていた。
***
夜、善の屋敷の一室。古めかしい調度品が並ぶ重厚な空間で、善は一人の老いた執事と向き合っていた。窓の外は、深い闇に包まれている。蝋燭の炎が静かに揺れ、善の横顔を照らしていた。
「坊ちゃま、本当にあの若者で良いのですか? 他にも、贄の血筋に適応する純粋な若者はおりますが……」
執事の言葉に、善は冷たい瞳を向けた。その瞳は、暗闇の中で微かに光を放っているかのようだった。ガラス玉のように感情が読み取れないが、そこには何か強固な意志が宿っている。それは、執着ともいえるものだ。
「いいえ。彼でなければなりません。彼は……神に捧げられるべき、唯一の贄なのだ」
善の声には、確固たる意志と、狂気にも似た執着が宿っていた。執事は何も言わず、ただ静かに頭を下げた。彼もまた、善の持つ圧倒的な力と、彼の血筋に連なる者としての宿命に逆らうことはできない。この一族に逆らうことは、この世の理に逆らうことだと、彼らは知っている。彼らの役割は、ただ善の意に従い、儀式の準備を滞りなく進めることのみなのだ。
2
あなたにおすすめの小説
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
【BL】捨てられたSubが甘やかされる話
橘スミレ
BL
渚は最低最悪なパートナーに追い出され行く宛もなく彷徨っていた。
もうダメだと倒れ込んだ時、オーナーと呼ばれる男に拾われた。
オーナーさんは理玖さんという名前で、優しくて暖かいDomだ。
ただ執着心がすごく強い。渚の全てを知って管理したがる。
特に食へのこだわりが強く、渚が食べるもの全てを知ろうとする。
でもその執着が捨てられた渚にとっては心地よく、気味が悪いほどの執着が欲しくなってしまう。
理玖さんの執着は日に日に重みを増していくが、渚はどこまでも幸福として受け入れてゆく。
そんな風な激重DomによってドロドロにされちゃうSubのお話です!
アルファポリス限定で連載中
二日に一度を目安に更新しております
強制悪役劣等生、レベル99の超人達の激重愛に逃げられない
砂糖犬
BL
悪名高い乙女ゲームの悪役令息に生まれ変わった主人公。
自分の未来は自分で変えると強制力に抗う事に。
ただ平穏に暮らしたい、それだけだった。
とあるきっかけフラグのせいで、友情ルートは崩れ去っていく。
恋愛ルートを認めない弱々キャラにわからせ愛を仕掛ける攻略キャラクター達。
ヒロインは?悪役令嬢は?それどころではない。
落第が掛かっている大事な時に、主人公は及第点を取れるのか!?
最強の力を内に憑依する時、その力は目覚める。
12人の攻略キャラクター×強制力に苦しむ悪役劣等生
お兄ちゃんができた!!
くものらくえん
BL
ある日お兄ちゃんができた悠は、そのかっこよさに胸を撃ち抜かれた。
お兄ちゃんは律といい、悠を過剰にかわいがる。
「悠くんはえらい子だね。」
「よしよ〜し。悠くん、いい子いい子♡」
「ふふ、かわいいね。」
律のお兄ちゃんな甘さに逃げたり、逃げられなかったりするあまあま義兄弟ラブコメ♡
「お兄ちゃん以外、見ないでね…♡」
ヤンデレ一途兄 律×人見知り純粋弟 悠の純愛ヤンデレラブ。
優しい檻に囚われて ―俺のことを好きすぎる彼らから逃げられません―
無玄々
BL
「俺たちから、逃げられると思う?」
卑屈な少年・織理は、三人の男から同時に告白されてしまう。
一人は必死で熱く重い男、一人は常に包んでくれる優しい先輩、一人は「嫌い」と言いながら離れない奇妙な奴。
選べない織理に押し付けられる彼らの恋情――それは優しくも逃げられない檻のようで。
本作は織理と三人の関係性を描いた短編集です。
愛か、束縛か――その境界線の上で揺れる、執着ハーレムBL。
※この作品は『記憶を失うほどに【https://www.alphapolis.co.jp/novel/364672311/155993505】』のハーレムパロディです。本編未読でも雰囲気は伝わりますが、キャラクターの背景は本編を読むとさらに楽しめます。
※本作は織理受けのハーレム形式です。
※一部描写にてそれ以外のカプとも取れるような関係性・心理描写がありますが、明確なカップリング意図はありません。が、ご注意ください
魔王の息子を育てることになった俺の話
お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。
「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」
現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません?
魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL
BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。
BL大賞エントリー中です。
ヤリチン伯爵令息は年下わんこに囚われ首輪をつけられる
桃瀬さら
BL
「僕のモノになってください」
首輪を持った少年はレオンに首輪をつけた。
レオンは人に誇れるような人生を送ってはこなかった。だからといって、誰かに狙われるようないわれもない。
ストーカーに悩まされていたレある日、ローブを着た不審な人物に出会う。
逃げるローブの人物を追いかけていると、レオンは気絶させられ誘拐されてしまう。
マルセルと名乗った少年はレオンを閉じ込め、痛めつけるでもなくただ日々を過ごすだけ。
そんな毎日にいつしかレオンは安らぎを覚え、純粋なマルセルに毒されていく。
近づいては離れる猫のようなマルセル×囚われるレオン
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる