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Ⅲ.倉知編
会いたい
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一人になりたかった。でも、民宿での馬鹿騒ぎはいつまでも終わりそうにない。食事が終わって部屋に戻っても、持ち込んだビールやウイスキーをハイペースで開ける先輩たち。
男女で部屋は分かれていたが、今は全員が一部屋に集合している。
アルコールの入った若者特有の、よくわからないノリについていけない。と、自分自身も若者なのに、老成した感想を持った。
まだ酒を勧められないだけでもマシだと思わなければ。来年二十歳になったとき、自分もこんなふうに馬鹿を演じなければいけないのかと思うと気が重くなる。
あれから大崎さんとは口を聞いていない。目も合わせていない。彼女は俺を見ないようにしているようだったし、俺もそれに倣った。
ため息が出た。
早く、一人になりたい。
帰りたい。
加賀さんに会いたい。
ポケットで、スマホが振動した。慌てて画面を見る。
加賀さんからのメールだ。この場で開くのがもったいない、と思った。一人でゆっくり、読みたい。
トイレに行く、と言って部屋を出た。トイレには向かわず、民宿を出てしばらく歩く。街灯が少なく、辺りは薄暗い。外の空気は澄んでいて、美味しかった。
俺たちの部屋の窓が全開のせいか、狂騒がここまで聞こえてくる。
部屋に戻りたくない。
もういっそ、海に行こう、と決めた。
海までは一本道だし、迷子になることもない。
空を見上げ、星が綺麗なことに気づく。荒んだ心が洗われるようだった。
上を見ながら歩いていると、背後の足音に気づいた。振り返る。大崎さんだった。五メートルほど離れたところで、ぴた、と足を止める。街灯の下で、躊躇する大崎さんの顔は、曇っていた。
動く気配がないので、俺のほうから歩み寄ることにした。来た道を戻り、大崎さんとの距離を詰める。目が合うと、顔を伏せて「ごめんね」と言った。何に対しての謝罪だろうか。
「どこ行くのかな、と思って」
「トイレです」
「……怒ってるよね?」
「そうですね。腹が立ちました」
否定せずに認めてみせた。大崎さんは背中を丸めて段々小さくなっていく。
「あの、これ、返そうと思って」
そう言ってうつむいたまま俺に差し出したのは、佐藤のコンドームだった。素直に受け取ってポケットに突っ込むと、ため息をつく。
「これ、佐藤に無理矢理押しつけられたんです。俺のじゃない」
「え……」
大崎さんが勢いよく顔を上げる。目が、潤んでいるように見えた。
「そう、だよね。そっか、うん、やっぱり、七世君はそんな人じゃないもんね」
精一杯の笑顔が、くしゃ、と歪んでいく。
「勘違いして、恥ずかしい」
「勘違い?」
泣き顔の大崎さんが、顔を覆って「最低」と呟いた。
「彼女がいるのにゴム持って海に来てるって、そういうことかって、……期待しちゃった」
弱々しい声で言うと、「ごめんね」ともう一度謝った。かすかに肩が震えていることに気づいて、怒りが萎えて、消えていく。佐藤のコンドームがなければ、この人はあんな行動はしなかったのだ。
「もういいです」
顔を覆っていた手を、ゆっくりとどけて、恐る恐る俺を見上げる。
「俺のほうこそすいませんでした。誤解されるようなことした俺も悪かったんです」
「七世君は全然悪くないよっ」
小さく叫んで、へなへなと脱力し、その場にうずくまる。
「そうだよ、七世君はそんな人じゃないのに……」
ひたすら自己嫌悪に陥る大崎さんを見ていると、可哀想になってきた。もう、俺は怒っていないし、いつまでも引きずるほどの大事件だとも思っていない。
「私、サークル辞めるね」
「え?」
地面にうずくまり、膝を抱えた大崎さんが深刻な声で言った。
「もう私の顔、見たくもないだろうし」
「そんなことは」
「あと二日間だけ、我慢してね」
これは、駄目だ。と思った。俺もネガティブな性格で、物事を悪い方向にとらえがちだ。一度落ちると、どんどん深みにはまって、なかなか抜け出せない。
今の彼女は、最悪なときの俺と同じ。
うずくまる大崎さんの前に立つと、同じようにかがみこんだ。
「俺、本当は、サークルに入るつもりなかったんです」
大崎さんが顔を上げて俺を見る。
「無駄に思えたんです。そんなことに使う時間があったら、あの人と一緒にいたかったから」
大崎さんは目を細めて、泣きそうな顔で俺を見ている。
「でも、人付き合いも大事だからって、なんでもいいから入れって言われて。今回の合宿も、経験は無駄にならないって背中を押されました」
頭を掻いて、続ける。
「正直、今日のことは自分にとってプラスになるのかよくわかりません」
恥じ入るように目を伏せた大崎さんが唇を噛む。
「でも、勉強にはなりました。世の中にはいろんな人がいるんだなって。前向きに考えたいんです。あの人が、俺のことを思って勧めてくれたから。サークルに入ったことも、合宿に参加したことも、後悔したくありません」
大崎さんの肩を叩いてから、腰を上げる。
「辞めないでください。大崎さんは、後悔しませんか? 気まずいまま二度と会わなくなっても平気ですか?」
「私が」
眉間にしわを寄せて、俺を見上げ、震える声で言った。
「私がいても嫌じゃないの?」
「嫌じゃないです」
「あんなふうに迫ったのに、許してくれるの?」
「許します。ちょっとした行き違いですから」
「七世君」
「はい」
「優しいね」
涙を拭う仕草をしてから、大崎さんが立ち上がった。
「本気で好きになっちゃうよ」
思わず苦笑が漏れた。今までは本気じゃなかった、ということだ。そんな相手と関係を持とうとする女性、であることに違いはない。
でも俺は、橋場のようにビッチの一言で簡単に切り捨てることはしたくない。
俺が拒んだことに腹を立てて逆ギレするようなら、二度と関わるのはごめんだが、反省して自分の行為を恥じている。そんな人を、目の前から消えろとばかりにサークルから追い出すのは間違っている。
「私、元彼にろくなのいなくて」
鼻をすすりながら大崎さんが言った。
「やりたいだけの男ばっかり。だから、七世君みたいに誠実でまっすぐな人に出会ってすごくびっくりした」
「別に、そんなに珍しくもないと思います」
ポケットに手を突っ込んで答えた。指に、スマホが触れる。加賀さんからのメールが気がかりだった。息を吸い込んで、早口で言う。
「運が悪かっただけです。たくさん人間がいるって大崎さんも言いましたよね。いるんです、きっと。あなたを大事にしてくれる人は、必ずいます」
大崎さんが少し寂しそうに「うん」と自分の両腕を撫でさすった。
「七世君だったらよかったな」
「すいません。俺にはもう、大事な人がいます」
「うん」
自分自身を抱きしめるような格好で身をすくめると、「いいなあ」とか細い声で言った。
「七世君に愛されるなんて、すごく、素敵な人なんだろうね」
「はい、それはもう。俺にはもったいない、素敵な人です」
「七世君にふさわしい、素敵な人だよ」
そんなふうに言い直してくれる大崎さんは、やはり悪い人ではない。安心した。肩の力を抜いて、右手を差し出す。
「何?」
大崎さんが俺の手のひらを不思議そうに見下ろした。
「仲直りの握手です」
数回まばたきをしたあとで、屈託なく声を上げて笑うと、手を握ってきた。
「ごめんね」
「いえ、こちらこそ」
握り合わせた手を上下させる。もう、この人に嫌悪は感じない。
「それで、どこに行こうとしてたの? トイレじゃないよね」
手を離すと、大崎さんがはにかみながら訊いた。
「海まで行こうかなって」
「私も一緒に行っていい?」
ポケットの中でスマホを握りしめて、謝った。
「すいません、一人になりたいんです」
「……そっか」
あっさり身を引いて、「気をつけてね」と手を振る。
「失礼します」
頭を下げて踵を返すと、早足で海への道を急ぐ。
早足が駆け足になり、たどり着く頃には軽く息が上がっていた。
サンダルで砂浜に足を踏み入れる。やわらかい砂を踏みしめて、波打ち際まで近づいて、腰を下ろす。
人の姿がないことを確認して、スマホを取り出した。
急いで受信ボックスを開き、加賀さんからの新着メールを開封した。
『楽しんでる?』
加賀さんのメールはいつも簡潔だ。このあっさり具合に安心させられる。
『それなりです。電話してもいいですか?』
送信してから、そういえば今何時だろう、と時間を確認した。もうすぐ十時半。仕事が終わってマンションでくつろいでいる頃だろうか。晩御飯はちゃんと食べただろうか。平日は俺が作る当番だから、なんだか申し訳なかった。
加賀さんからの過去のメールをぼんやり眺めていると、電話がかかってきた。
「お疲れ様です」
電話に出ると同時に言った。
『電話しても大丈夫だった?』
「大丈夫です、一人ですから」
『初日でもうぼっち?』
「そういうんじゃ……、いえ、そうですね、俺、あんまりお酒の席って得意じゃなくて」
右手で砂をかき集めながら、海を見る。穏やかな波が次から次へと押し寄せてくる。
『なんかあった?』
「え」
『声に元気がない』
いつも通りだと思うが、自分では気づかないくらいの変化に加賀さんが気づいた。それが妙に嬉しかった。
「ただ、加賀さんに会いたいだけです」
『おいおい、まだ一日目だろ』
「そうですね」
気が重くなる。まだ明日も明後日も、合宿という名の馬鹿騒ぎが続く。
「ご飯、食べました?」
『うん、牛丼』
「外食ですか?」
『今さら一人分だけ作って、一人で食べるのって虚しくて』
それは、加賀さんも寂しい、ということで合っているのだろうか。
『明日も牛丼』
「えっ、せめて違うメニューにしてください」
『大丈夫、豚汁つけるから』
「サラダもつけてください」
『はは、了解』
加賀さんの、優しい声を聞いていると、胸が締めつけられる。今朝別れたばかりなのに、一週間以上顔を見ていない気がする。
会いたい。
「会いたい」
声に出ていた。電話の向こうで、加賀さんが黙った。波の音だけが、響く。
「加賀さん、会いたい。寂しい」
加賀さんは何も言わない。
「一生離さないなんて、無理なんでしょうか。俺はずっと、一緒にいたい」
大げさだと思われる。でも急に怖くなってきた。このままもう、二度と、会えなかったら。
大崎さんの「終わるときはあっけない」という一言がよみがえり、俺の思考を暗く、ネガティブに染めていく。
『倉知君』
加賀さんの落ち着いた声が名前を呼ぶ。
『俺も寂しいよ』
ゆっくりと、子どもに言い聞かせるような口調だった。
「加賀さん、好きです」
『うん、俺も』
「抱きしめたい」
『俺も』
「キスしたい」
『俺も』
「加賀さん、好きです」
『一巡したな』
おかしそうに笑い声を漏らす。
『なあ倉知君』
「はい」
『俺が今どんな格好してるか当ててみて』
「なんですか、急に」
泣きそうになっていたのに、怪しげな質問をされて涙が引っ込んだ。
「普通に、いつも通りの部屋着でしょ?」
『ブー、ちょっと違う』
加賀さんの声色が、やけに明るい。もしかしたら酔っているのだろうか。
「全裸ですか?」
『あ、遠くなった』
「パンツ一丁ですか?」
『近づいた』
「なんですか、なんのクイズですかこれ」
『降参?』
「降参です」
『正解は、倉知君の服』
「……え?」
『お前が今朝まで着てた服』
「え、なんで、なんですかそれ」
困惑するのと同時に、なんとなく恥ずかしくなった。
「臭くないですか?」
『んー、すっげえいい匂い』
くんくんと、匂っている気配がする。笑いがこみ上げてくる。
「ちょっと変態臭いです」
『うん、俺もそう思う。風呂上りにお前が脱いでいった服見たら、我慢できなくてやってしまいました。反省してます』
ふざけた口調で面白おかしく報告されて、笑いが止まらなくなった。
『倉知君』
「はい」
笑いすぎて涙が出てきた。何かあったと悟って、俺を元気づけようとしてくれているのだ。この人には敵わない。
『明後日の夜、会えるよ。楽しみだな』
明後日まで会えない、というウジウジした俺の考えの逆をいく発想だ。さすが、としか言えない。加賀さんは、本当にすごい人だ。
暗い気持ちが、見事に晴れた。不思議と、あと何日でも耐えられる気がする。
加賀さんに会える。
寂しいけど、楽しみだ。
男女で部屋は分かれていたが、今は全員が一部屋に集合している。
アルコールの入った若者特有の、よくわからないノリについていけない。と、自分自身も若者なのに、老成した感想を持った。
まだ酒を勧められないだけでもマシだと思わなければ。来年二十歳になったとき、自分もこんなふうに馬鹿を演じなければいけないのかと思うと気が重くなる。
あれから大崎さんとは口を聞いていない。目も合わせていない。彼女は俺を見ないようにしているようだったし、俺もそれに倣った。
ため息が出た。
早く、一人になりたい。
帰りたい。
加賀さんに会いたい。
ポケットで、スマホが振動した。慌てて画面を見る。
加賀さんからのメールだ。この場で開くのがもったいない、と思った。一人でゆっくり、読みたい。
トイレに行く、と言って部屋を出た。トイレには向かわず、民宿を出てしばらく歩く。街灯が少なく、辺りは薄暗い。外の空気は澄んでいて、美味しかった。
俺たちの部屋の窓が全開のせいか、狂騒がここまで聞こえてくる。
部屋に戻りたくない。
もういっそ、海に行こう、と決めた。
海までは一本道だし、迷子になることもない。
空を見上げ、星が綺麗なことに気づく。荒んだ心が洗われるようだった。
上を見ながら歩いていると、背後の足音に気づいた。振り返る。大崎さんだった。五メートルほど離れたところで、ぴた、と足を止める。街灯の下で、躊躇する大崎さんの顔は、曇っていた。
動く気配がないので、俺のほうから歩み寄ることにした。来た道を戻り、大崎さんとの距離を詰める。目が合うと、顔を伏せて「ごめんね」と言った。何に対しての謝罪だろうか。
「どこ行くのかな、と思って」
「トイレです」
「……怒ってるよね?」
「そうですね。腹が立ちました」
否定せずに認めてみせた。大崎さんは背中を丸めて段々小さくなっていく。
「あの、これ、返そうと思って」
そう言ってうつむいたまま俺に差し出したのは、佐藤のコンドームだった。素直に受け取ってポケットに突っ込むと、ため息をつく。
「これ、佐藤に無理矢理押しつけられたんです。俺のじゃない」
「え……」
大崎さんが勢いよく顔を上げる。目が、潤んでいるように見えた。
「そう、だよね。そっか、うん、やっぱり、七世君はそんな人じゃないもんね」
精一杯の笑顔が、くしゃ、と歪んでいく。
「勘違いして、恥ずかしい」
「勘違い?」
泣き顔の大崎さんが、顔を覆って「最低」と呟いた。
「彼女がいるのにゴム持って海に来てるって、そういうことかって、……期待しちゃった」
弱々しい声で言うと、「ごめんね」ともう一度謝った。かすかに肩が震えていることに気づいて、怒りが萎えて、消えていく。佐藤のコンドームがなければ、この人はあんな行動はしなかったのだ。
「もういいです」
顔を覆っていた手を、ゆっくりとどけて、恐る恐る俺を見上げる。
「俺のほうこそすいませんでした。誤解されるようなことした俺も悪かったんです」
「七世君は全然悪くないよっ」
小さく叫んで、へなへなと脱力し、その場にうずくまる。
「そうだよ、七世君はそんな人じゃないのに……」
ひたすら自己嫌悪に陥る大崎さんを見ていると、可哀想になってきた。もう、俺は怒っていないし、いつまでも引きずるほどの大事件だとも思っていない。
「私、サークル辞めるね」
「え?」
地面にうずくまり、膝を抱えた大崎さんが深刻な声で言った。
「もう私の顔、見たくもないだろうし」
「そんなことは」
「あと二日間だけ、我慢してね」
これは、駄目だ。と思った。俺もネガティブな性格で、物事を悪い方向にとらえがちだ。一度落ちると、どんどん深みにはまって、なかなか抜け出せない。
今の彼女は、最悪なときの俺と同じ。
うずくまる大崎さんの前に立つと、同じようにかがみこんだ。
「俺、本当は、サークルに入るつもりなかったんです」
大崎さんが顔を上げて俺を見る。
「無駄に思えたんです。そんなことに使う時間があったら、あの人と一緒にいたかったから」
大崎さんは目を細めて、泣きそうな顔で俺を見ている。
「でも、人付き合いも大事だからって、なんでもいいから入れって言われて。今回の合宿も、経験は無駄にならないって背中を押されました」
頭を掻いて、続ける。
「正直、今日のことは自分にとってプラスになるのかよくわかりません」
恥じ入るように目を伏せた大崎さんが唇を噛む。
「でも、勉強にはなりました。世の中にはいろんな人がいるんだなって。前向きに考えたいんです。あの人が、俺のことを思って勧めてくれたから。サークルに入ったことも、合宿に参加したことも、後悔したくありません」
大崎さんの肩を叩いてから、腰を上げる。
「辞めないでください。大崎さんは、後悔しませんか? 気まずいまま二度と会わなくなっても平気ですか?」
「私が」
眉間にしわを寄せて、俺を見上げ、震える声で言った。
「私がいても嫌じゃないの?」
「嫌じゃないです」
「あんなふうに迫ったのに、許してくれるの?」
「許します。ちょっとした行き違いですから」
「七世君」
「はい」
「優しいね」
涙を拭う仕草をしてから、大崎さんが立ち上がった。
「本気で好きになっちゃうよ」
思わず苦笑が漏れた。今までは本気じゃなかった、ということだ。そんな相手と関係を持とうとする女性、であることに違いはない。
でも俺は、橋場のようにビッチの一言で簡単に切り捨てることはしたくない。
俺が拒んだことに腹を立てて逆ギレするようなら、二度と関わるのはごめんだが、反省して自分の行為を恥じている。そんな人を、目の前から消えろとばかりにサークルから追い出すのは間違っている。
「私、元彼にろくなのいなくて」
鼻をすすりながら大崎さんが言った。
「やりたいだけの男ばっかり。だから、七世君みたいに誠実でまっすぐな人に出会ってすごくびっくりした」
「別に、そんなに珍しくもないと思います」
ポケットに手を突っ込んで答えた。指に、スマホが触れる。加賀さんからのメールが気がかりだった。息を吸い込んで、早口で言う。
「運が悪かっただけです。たくさん人間がいるって大崎さんも言いましたよね。いるんです、きっと。あなたを大事にしてくれる人は、必ずいます」
大崎さんが少し寂しそうに「うん」と自分の両腕を撫でさすった。
「七世君だったらよかったな」
「すいません。俺にはもう、大事な人がいます」
「うん」
自分自身を抱きしめるような格好で身をすくめると、「いいなあ」とか細い声で言った。
「七世君に愛されるなんて、すごく、素敵な人なんだろうね」
「はい、それはもう。俺にはもったいない、素敵な人です」
「七世君にふさわしい、素敵な人だよ」
そんなふうに言い直してくれる大崎さんは、やはり悪い人ではない。安心した。肩の力を抜いて、右手を差し出す。
「何?」
大崎さんが俺の手のひらを不思議そうに見下ろした。
「仲直りの握手です」
数回まばたきをしたあとで、屈託なく声を上げて笑うと、手を握ってきた。
「ごめんね」
「いえ、こちらこそ」
握り合わせた手を上下させる。もう、この人に嫌悪は感じない。
「それで、どこに行こうとしてたの? トイレじゃないよね」
手を離すと、大崎さんがはにかみながら訊いた。
「海まで行こうかなって」
「私も一緒に行っていい?」
ポケットの中でスマホを握りしめて、謝った。
「すいません、一人になりたいんです」
「……そっか」
あっさり身を引いて、「気をつけてね」と手を振る。
「失礼します」
頭を下げて踵を返すと、早足で海への道を急ぐ。
早足が駆け足になり、たどり着く頃には軽く息が上がっていた。
サンダルで砂浜に足を踏み入れる。やわらかい砂を踏みしめて、波打ち際まで近づいて、腰を下ろす。
人の姿がないことを確認して、スマホを取り出した。
急いで受信ボックスを開き、加賀さんからの新着メールを開封した。
『楽しんでる?』
加賀さんのメールはいつも簡潔だ。このあっさり具合に安心させられる。
『それなりです。電話してもいいですか?』
送信してから、そういえば今何時だろう、と時間を確認した。もうすぐ十時半。仕事が終わってマンションでくつろいでいる頃だろうか。晩御飯はちゃんと食べただろうか。平日は俺が作る当番だから、なんだか申し訳なかった。
加賀さんからの過去のメールをぼんやり眺めていると、電話がかかってきた。
「お疲れ様です」
電話に出ると同時に言った。
『電話しても大丈夫だった?』
「大丈夫です、一人ですから」
『初日でもうぼっち?』
「そういうんじゃ……、いえ、そうですね、俺、あんまりお酒の席って得意じゃなくて」
右手で砂をかき集めながら、海を見る。穏やかな波が次から次へと押し寄せてくる。
『なんかあった?』
「え」
『声に元気がない』
いつも通りだと思うが、自分では気づかないくらいの変化に加賀さんが気づいた。それが妙に嬉しかった。
「ただ、加賀さんに会いたいだけです」
『おいおい、まだ一日目だろ』
「そうですね」
気が重くなる。まだ明日も明後日も、合宿という名の馬鹿騒ぎが続く。
「ご飯、食べました?」
『うん、牛丼』
「外食ですか?」
『今さら一人分だけ作って、一人で食べるのって虚しくて』
それは、加賀さんも寂しい、ということで合っているのだろうか。
『明日も牛丼』
「えっ、せめて違うメニューにしてください」
『大丈夫、豚汁つけるから』
「サラダもつけてください」
『はは、了解』
加賀さんの、優しい声を聞いていると、胸が締めつけられる。今朝別れたばかりなのに、一週間以上顔を見ていない気がする。
会いたい。
「会いたい」
声に出ていた。電話の向こうで、加賀さんが黙った。波の音だけが、響く。
「加賀さん、会いたい。寂しい」
加賀さんは何も言わない。
「一生離さないなんて、無理なんでしょうか。俺はずっと、一緒にいたい」
大げさだと思われる。でも急に怖くなってきた。このままもう、二度と、会えなかったら。
大崎さんの「終わるときはあっけない」という一言がよみがえり、俺の思考を暗く、ネガティブに染めていく。
『倉知君』
加賀さんの落ち着いた声が名前を呼ぶ。
『俺も寂しいよ』
ゆっくりと、子どもに言い聞かせるような口調だった。
「加賀さん、好きです」
『うん、俺も』
「抱きしめたい」
『俺も』
「キスしたい」
『俺も』
「加賀さん、好きです」
『一巡したな』
おかしそうに笑い声を漏らす。
『なあ倉知君』
「はい」
『俺が今どんな格好してるか当ててみて』
「なんですか、急に」
泣きそうになっていたのに、怪しげな質問をされて涙が引っ込んだ。
「普通に、いつも通りの部屋着でしょ?」
『ブー、ちょっと違う』
加賀さんの声色が、やけに明るい。もしかしたら酔っているのだろうか。
「全裸ですか?」
『あ、遠くなった』
「パンツ一丁ですか?」
『近づいた』
「なんですか、なんのクイズですかこれ」
『降参?』
「降参です」
『正解は、倉知君の服』
「……え?」
『お前が今朝まで着てた服』
「え、なんで、なんですかそれ」
困惑するのと同時に、なんとなく恥ずかしくなった。
「臭くないですか?」
『んー、すっげえいい匂い』
くんくんと、匂っている気配がする。笑いがこみ上げてくる。
「ちょっと変態臭いです」
『うん、俺もそう思う。風呂上りにお前が脱いでいった服見たら、我慢できなくてやってしまいました。反省してます』
ふざけた口調で面白おかしく報告されて、笑いが止まらなくなった。
『倉知君』
「はい」
笑いすぎて涙が出てきた。何かあったと悟って、俺を元気づけようとしてくれているのだ。この人には敵わない。
『明後日の夜、会えるよ。楽しみだな』
明後日まで会えない、というウジウジした俺の考えの逆をいく発想だ。さすが、としか言えない。加賀さんは、本当にすごい人だ。
暗い気持ちが、見事に晴れた。不思議と、あと何日でも耐えられる気がする。
加賀さんに会える。
寂しいけど、楽しみだ。
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「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
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