電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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加賀君と倉知先生

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※注意※
この話はパラレル設定です。『電車の男』本編とは無関係ですので、ご了承ください。
倉知君27歳、加賀さん17歳の逆転設定です。



〈倉知編〉
 目を、奪われた。チカチカと小さな星が舞っているように見えた。
 目が、離せない。なんて綺麗なんだろう。息をするのも忘れて、見つめてしまった。
 満員電車の中で、彼がいるそこだけ、空気が浄化している。
 真黒な髪は、艶やかで、みずみずしい肌は陶器のよう。長い睫毛がしばたくたびに、鼓動が高鳴っていった。
 ずっと見ていたい。
 朝の通勤電車の中で、たまたま目の前に立った人が美しすぎて、そんなことを考えてしまった。
 しっかりしなければ。今日から新しい生活が始まる。
 降りる駅が近づき、アナウンスが流れ、電車が止まる。車両から吐き出される人々。目の前の麗人も、人波に流されて駅の構内に出た。驚いた。同じ駅で降りるなんて。じゃあこれから毎朝、彼を見られるかもしれない。
 と浮かれたのもつかの間。向かう方向が同じだ。それもそのはず、彼は、今日から俺が赴任することになった学校の制服を着ていた。そんなことに今気づくなんて、よほど俺は浮かれていたらしい。
 彼は同じ制服を着た友人らしき男二人と並んで歩いている。後姿を見ているだけでもなぜだか妙に、ドキドキする。俺は変かもしれない。相手は高校生で、男だ。
 駄目だ。
 両手で自分の顔をバチンと挟み込み、気を取り直して走り出す。彼を追い抜いて、校舎に向かった。
 生徒は大勢いる。学校で関わりを持つことがなければいいのに。そうじゃないと俺はまともじゃいられない。
 と思ったのに。
 担任になったクラスに、彼がいた。窓際の一番後ろの席だ。電車で見たときと同じで、輝いていたからすぐにわかった。
 駄目だ、やっぱりどうしても視線がいく。
 教壇に立ってうなだれる俺に、生徒たちが「どうしたんですかー」と声をかける。
「先生、緊張してる?」
 一番前にいた生徒が冗談めかして訊いた。
「いや、ごめん、なんでもない」
 意識しないことにした。朝のことは、俺の見間違い。気の迷い。そう思わないと身が入らない。咳払いをしてから黒板に名前を書いて挨拶をすると、あちこちから質問が飛んだ。
「先生、いくつ?」
「結婚してる?」
「なんかスポーツしてるの?」
「背、高いですねー、何センチ?」
 一つ一つ丁寧に、二十七歳、未婚、バスケをしている、百八十七センチ、と答えると、生徒たちは無邪気な笑顔のままで、質問をやめない。
「彼女いますか?」
 目を輝かせて手を上げる、女子生徒。
「いないよ」
 笑って答えると、やったー、キャーと声が上がる。
「好きなタイプは?」
 別の女生徒が訊いた。つい、目が、彼を見る。面白そうに、笑ってこっちを見ていた。慌てて視線を逸らす。
「えっと……、優しい人かな」
「なんか先生、可愛いー」
 冷やかしの声が飛ぶ。前の学校でもよく生徒に可愛いとからかわれていた。何か、いじりやすいものを持っているのかもしれない。
「前の彼女はどんな人?」
 生徒たちの興味は薄れる様子がない。
「何人と付き合った?」
「なんで別れたの?」
 男子も女子も、どうしてか俺の恋愛事情に興味津々だ。俺としては、そういうことを訊かれても答えようがないから困る。
 なぜなら。
「誰とも付き合ったことないから」
 ためらわずに答えると、教室がざわつき始める。
「先生、彼女いたことないの?」
「うん、そう。よし、じゃあ質問タイム終わり」
 自己紹介をやらせたり学級委員を決めたり、やることがたくさんあるのに、生徒たちがにわかに盛り上がっていく。
「先生って、童貞?」
 誰かが訊いた途端、キャー、わーと声が飛ぶ。みんな、楽しそうだ。窓際の最後列を素早く確認する。頬杖をついて、あんぐりと口を開け、呆然としている。なんだか恥ずかしくなってきた。
「俺のことはどうでもいいから」
「よくないです!」
「カッコイイのになんで?」
「二十七で? マジで?」
「魔法使い予備軍!」
 好機の目を向ける生徒たちを放置して、「出席を取ります」と先に進めた。
「簡単に自己紹介してって。相原雅史」
 相原が「はい!」と元気よく声を上げて席を立つ。
「相原雅史です。えっと、血液型はB型、趣味はサッカーです。あと、俺も童貞です」
 あはは、やだー、と拍手が起きる。俺をだしにして笑いを取るとは。
「次、内田勇人」
「はーい。俺も童貞です。彼女募集中!」
 どっと教室が湧く。
「こら、童貞とかそういうの言わなくていいから」
 このままじゃ女子が可哀想だ。出席番号三番の女子が、顔を赤くしてうつむいている。
「次、宇野由香里。入ってる部活とか、趣味とかでいいから」
 ホッとした顔ではにかむと、立ち上がって自己紹介をする。妙な流れを断ち切れてよかった。このままじゃ、全員が童貞か処女かを公表しなければならない空気になるところだった。
 出席番号六番の加賀定光。彼がそうかどうかなんて、知りたくない。
 四番、五番と名前を呼んで、ついに彼の番が来た。出席簿を持つ手が震えた。
「次、加賀定光、さん」
「え、なんで俺だけさん付け」
 またしても教室に笑いが起きる。
「ご、ごめん、なんでだろ」
 呼び捨てにするのが失礼な気がして、つい、やってしまった。
「いいですよ。じいさんみたいな名前だし、さん付けしたくなる気持ちわかります」
 優しいフォローをしてから、爽やかに笑って腰を上げる。キャー、加賀君! と女子の黄色い声がいろんな場所から聞こえてくる。やっぱり人気があるらしい。当たり前だ。だって、普通じゃない。
「加賀定光です」
 名乗っただけで、キャーキャー歓声が鳴りやまない。
「えー、陸上部でハイジャンやってます」
「知ってる!」
「付き合って!」
 女子がメロメロになっているのを、男子は特に嫉妬している様子もなく、半笑いで見ている。これだけモテたら妬まれてもおかしくないのに、そういう雰囲気はない。
「加賀、加賀」
 隣の席の男子生徒が、加賀に何か耳打ちをした。笑いながら相手の頭を軽く叩いてから、「童貞じゃありません」と言った。
 ぐら、と足元が揺れた。渦巻く女子の悲痛な叫び声。男子は口笛を吹いたり拍手をしたり、楽しそうだ。盛り上がったことを喜んでか、隣の生徒とグータッチしている。
 何が楽しいのかわからない。そんなこと、知りたくなかった。気分がみるみる落ち込んでいく。
 綺麗だし、見ていたい。ただそれだけだと思っていた。
 彼は十歳年下で、自分の受け持つ生徒。それ以前に、男だ。不毛すぎる。彼女がいることも、すぐに耳に入ってきた。当然だ、と思った。
 俺は苦労して、自分の気持ちに蓋をした。電車の時間をずらし、意識して、彼を見ないようにした。そんな俺の事情を知る由もなく、加賀は単純に、担任である俺になついてくれた。
 昼休みにバスケをしたり、こっそり漫画を貸してくれたり、教師と生徒というより、友人同士のような関係だった。
 月日が経過し、よく知れば知るほど、特別な存在になっていった。
 成績もよく、スポーツもできた。真面目というほど硬くもなく、やるべきことはこなし、高校生らしく同級生とふざけあい、クラスの誰からも好かれていて、教師の受けもいい。
 容姿のせいもあるが、目立つ存在だ。意識しないわけにはいかなかった。どんなに頑張っても、目を逸らすことができなかった。
 あるとき、彼女らしき女子生徒と手を繋いで歩いているのを見た。ほほえましい、で終わるはずの光景だった。でもそれを見て、息ができないくらい苦しくて、絶望した。
 日を重ねるごとに確信は深くなる。
 俺は、彼に恋をしている。

〈加賀編へつづく〉

++++++++++++++++++++++++++++++

〈加賀編〉
「お願いだから、他の女の子と喋らないで」
 そんなことを泣きながら懇願されて、わかったと言えるはずもなく、夏休み中に彼女と別れた。一体どこから情報が洩れるのか、新学期になって登校すると靴箱に女子からの呼び出しの手紙が数通入っていた。
 何か言いたげに廊下でたむろする女子をしり目に教室に入ると、クラスメイトがどっと押し寄せる。
「次、私と付き合って!」
 私が私がとアピールしてくる女子たちをすり抜けて、席に座る。
「加賀君、あたし重いこと言わないから」
「私も束縛しないよ」
 別れた原因を知っているような口ぶりが怖い。誰かに会話を聞かれていたか、本人がばらしたか、どっちかだろうが正直気味が悪い。
「こいつもこれで傷心なんだからそっとしといてやれよ」
 前の席の安原が言うと、女子がチッと舌打ちをする。
「安原黙れ」
「邪魔すんな」
「女子怖い!」
 凄まれた安原が震えあがる。傷心、というのはちょっと違うが、恋愛に疲れたのは事実だ。
「ごめん、無理。僕はもう疲れたよ」
 机の上で両手をついて頭を下げて謝ると、「やだ!」「お願い!」「もっとちゃんと考えて!」と迫ってくる。安原に助けを求める視線を向けたが、苦笑いで首を振るだけだ。周りの男子も気の毒そうに見るだけで助けてくれそうにない。
 そのとき教室のドアが開いて、担任の倉知先生が入ってきた。夏休み中にどこか海でも行ったのか、健康的に焼けている。久しぶりに顔を見て、なんだか妙にホッとした。
「みんな座って」
 先生が言うと、はーいと返事をしながら全員席に着く。俺の席に群がっていた女子たちも、すごすごと退散する。
「先生、大ニュース!」
 一人の女子がビシッとこっちを指さした。
「加賀君が彼女と別れた!」
「え」
 突然そんなことを報告されても困るだろう。驚いた顔で俺を見て、なんて言おうか考えているような間が空いた。
「えっと、残念だったね?」
 眉を下げて、悲しそうだ。
「あー、はい、うん」
 別れられて安堵している、なんて言えない。
 一年の終わり頃から付き合っていたが、思い返せば最初から最後まで窮屈な恋愛だった。すいません、晴れやかです、と本音を言ったら酷薄な奴だと思われるかもしれない。
「元気出して」
 にこ、と笑ってから、うつむいた。すぐに前を見て新学期のあいさつを始めたが、一瞬、すごくつらそうな顔をしたように見えた。
 先生はクソ真面目で、生徒一人ひとりの声に耳を傾け、いつも全力で真剣だ。だから俺が落ち込んでいると思って感情移入したのだろう。先生のそういうところが好きだ。
「先生、訊きたいことがありまーす!」
 内田が挙手して言うと、先生が「何?」と聞き返す。
「夏休み中に彼女できた? この前女の人と歩いてたでしょ」
 ドキ、とした。女子が一斉に不満げな声をあげた。先生はポカンとして首をかしげている。
「すげえ綺麗な人だったけど、もうやっちゃった?」
「うそ、童貞じゃなくなったの?」
「やめてよ馬鹿、先生を汚さないでよ!」
「そうだよ、先生は魔法使いになるんだから」
「童貞卒業、おめでとう!」
「お祝いしようぜ、先生のおごりで」
 みんな好き勝手に喋っている。先生がハッとして顔の前で手を横に振った。
「違う違う、彼女なんていない」
 慌てて否定しても、ほとんど誰も聞いていない。
 もし仮に彼女ができたとしても、先生なら軽々しく体の関係は結ばないだろうな、と思った。相手を尊重して、結婚まで何もしない。そんな堅苦しくて古臭い倫理観を持っていそうだ。 
 先生に大事にされて愛される女は幸せだろう。
 胸にちく、と痛みが走る。
 よくわからない痛み。
 彼女なんていない、と聞いてなぜか安心していた。誰とも付き合ってほしくない、純潔を守ってほしい、という女子サイドの気持ちに共感してしまう。
 傲慢だ。先生はいい大人だ。俺たちが口を出す問題じゃない。
 性格に難があるわけじゃなく、むしろすごくできた人間なのに今まで誰とも付き合わなかったなんて奇跡に近い。もう二十七歳だ。誰かのものになってもいい頃だ。
 でも何か、引っ掛かる。
 誰にも取られたくない。
 って、なんだそれは。先生は俺たち生徒のものじゃない。
 いつかは誰かと付き合って、童貞を捨てる。俺はそのとき、ちゃんと祝福できるのだろうか。先生が選んだ女なら、好きになった相手なら、納得できるだろうか。
 何か、もやもやとしたものを抱えながら放課後になり、手紙で呼び出された屋上へ向かう。そこで待っていた一年女子に丁重にお断りをし、次は体育館裏に向かった。
 二人の女子が居合わせていて、お互い気まずそうに距離を置いていたが、俺に気づいて同時に駆けてくる。
「遅れてごめん」
 謝ると、二人ともしおらしく首を振る。
「大丈夫、来てくれてありがと」
「あの、加賀君、彼女と別れたんだよね?」
 頭を掻いて、「うん」と認めた。
「じゃあ」
「付き合ってください!」
「ちょっと、邪魔しないでよ」
「邪魔はそっちでしょ」
 競うように前に出て、掴み合いを始めた。髪を引っ張ったり、引っかいたり、エスカレートしていく。
 怖い。
「ブスのくせに加賀君と付き合おうとかうける!」
「はあ? あんたこそデブじゃん、このデブス!」
「デブじゃありません、ぽっちゃりです!」
「お取込み中すみませんが」
 後ずさりながら口を挟む。掴み合ったまま、二人がこっちを見る。
「どっちとも付き合えない。ごめんなさい」
「そんな……」
「私たちがデブスだから?」
 被害妄想だ。いやいや、と弁解しようとするが、どっと疲れて面倒になった。
「あの、ごめんね」
 謝るとがっかりと肩を落とし、お互いに励ましながら去っていった。
 疲れた。
 しゃがみこんでため息を吐き出すと、背後から声がかかった。
「大丈夫?」
 振り返ると、体育館のドアが開いていて、バスケットボールを抱えた倉知先生が立っていた。
「うわ、もしかして今の見てた?」
 ばつが悪い。立ち上がって訊くと、先生は申し訳なさそうに「盗み聞きする気はなかったんだけど」と言って汗をぬぐった。今日はどの部も活動していない。体育館が空いていたから一人でバスケをしていたらしい。
「加賀は、本当にもてるね」
「はは、なんでだろね」
 先生の顔を見て、気になっていたことを思い出した。
「先生、今朝言ってた女の人って、結局誰?」
「え?」
 なんのことかわからなかったらしい。きょとんとしている。
「内田が言ってた綺麗な人」
「ああ、姉だよ」
「お姉さん」
「うん」
「なんだ、よかった」
「よかった?」
「彼女じゃなくてよかった」
 先生は少し困った顔をして、ボールを床に弾ませた。
「加賀も純潔保存会の会員だっけ」
 うちのクラスで結成した、先生に童貞を貫いてもらおうというおせっかいな純潔保存会なるものがある。先生に幻想を抱いている女子と、勝手に仲間意識を抱いている童貞の男子で構成されている。別に何か活動するわけじゃなく、ただのファンクラブのようなものだ。
 先生は生徒に人気がある。
「俺は違うよ」
 ポケットに両手を突っ込んで、足元の小石を蹴飛ばした。
「でも先生に彼女ができるのは嫌だと思った」
 先生が俺を見て固まっている。嫌だと言われても、わけがわからないだろう。俺にもわからない。
「先生は、どうして今まで誰とも付き合ってこなかったの? 告白されたことくらいあるよね」
 もてないはずがない。バスケが上手くて背が高くて、真面目で、可愛い顔をしている。受け身でいても、女は寄ってきていたはずだ。
「あるけど、好きでもない人と付き合うのは失礼だと思うから」
「わー、耳が痛い」
「俺がそう思うってだけだから」
 付き合っているうちに好きになる、という発想はないようだ。でもその信念のようなものは、先生らしくていい。
「じゃあ先生に好きな人ができるまで、ずっとフリーだ」
 地味に追い詰めるようなことを言ってしまったが、先生は早く彼女が欲しいとか、誰でもいいからやりたい、という浮ついたタイプじゃない。周りが何を言おうと動じない。焦り始める年齢だろうに、ゆったりと、落ち着いているように見えた。
 先生は俺に背を向けて、唐突にドリブルを始め、リングにシュートを放った。ボールがネットに吸い込まれていく。体育館の床に、重い、ボールの音が響いている。先生は、立ち尽くしたまま、ボールを目で追ってぽつりと言った。
「好きになった人が自分を好きになってくれるなんて、そうそうないよ。だから、苦しいんだ」
 先生の背中は寂しそうに見えた。誰かに思いを寄せている。今の科白はそういうニュアンスだった。
「好きな人、いるの?」
 ちり、と胸に刺さる小さな痛み。先生が驚いた顔で振り向いて「なんで」と訊いた。
「すげえ実感こもってたし。え、そうなんだ。どんな人?」
 先生が口を開いて何か言いかけたが、やめた。床に転がるボールを、身を屈めてバウンドさせ、ゴールに向かって走り出し、勢いよく跳躍した。リングにボールを叩きつける。思わず拍手する俺を、先生が振り返った。
「加賀」
「はい?」
「もう帰りなさい」
 そっけない口調で言って、ボールを拾い上げ、再びドリブルを始めた。
「先生、教えてよ」
「何を?」
「先生の好きな人って誰?」
 フリースローラインから放たれたシュートが外れ、リングに当たってこっちに飛んできた。とっさに受け止めると、先生が俺に向き直って大きく深呼吸をした。大股で歩み寄り、俺の手の中のボールをわしづかみにする。
「答えたら返す」
 意地悪くボールを抱え込む俺の顔をじっと見下ろして、目元を険しくする。
「言ったら、嫌われる」
「え」
 どういう意味だ、と聞き返そうとして、言葉に詰まる。先生は、泣き出しそうな顔で笑っていた。俺の目線に合わせ、長身を折り曲げて口を開く。
「好きだ」
 目を覗き込んで、吐息のような囁き声で、言った。ぞく、と背筋に快感が走る。脱力する俺の手からボールを奪うと、何事もなかったかのように背を向けて歩き出す。
「先生」
 呼んでも止まる気配がない。
「先生、待って」
 土足で体育館に上がり、慌てて追いかけた。手首を掴むと、ようやく足を止めた。
「今の何? ギャグ?」
 そんなことをする人じゃないのは知っている。先生は振り向かずに「ごめん」と謝った。
「ごめん、俺、言うつもりじゃ……」
 耳が赤い。鼻をすする音が聞こえた。
「忘れて、ごめんな」
「忘れないよ」
 先生が振り向いた。涙で潤んだ目で、俺を見る。
 どうして。こんなにも熱を帯びた目に、どうして今まで気づかなかった。
「付き合おうか」
 先生が瞬きをした。目から涙が零れ落ちる。
「なんで……」
 困惑して、ものすごくうろたえている。
「え、なんでって。駄目?」
「駄目だよ」
「教師と生徒だから?」
 先生は手の甲で涙をぬぐって、俺の手をそっとどかした。
「加賀はもてるんだし、俺じゃなくても」
「先生がいいよ」
 たじろいで、盛大に赤面する先生が俺から視線を逸らした。
「俺、男だよ」
「言われなくてもわかるから」
 はは、と笑って先生のワイシャツの胸倉をつかみ、背伸びをして、距離を詰める。唇を重ねたとき、ばっちりと目が合った。先生の手からバスケットボールが零れ落ち、床の上を転々と転がっていく。
「ちょ、目ぇ閉じてよ」
「えっ、あっ、う、ごめん」
 そうか、この人はキスも初めてなのか。なんだよそれ、可愛いな。
 俺より十歳上で、身長百八十センチ越えの男が、妙に可愛い。抱きしめる代わりに抱きついた。
「先生の好きな人が俺で、すげえ嬉しい」
 先生はぎくしゃくとした動きで、俺の肩を抱いた。
「あの、これは夢?」
 震える声で訊いた。
「現実ですが」
「現実ですか」
「先生」
「はい」
「先生の童貞、俺がもらっていい?」
 答えが返ってこない。体を離して、至近距離にある先生の顔を確認する。
 とんでもなく、赤い。
「だ、駄目」
「え、駄目なの? なんで?」
「教師と生徒だから」
 さすがにお堅い。
「じゃあ俺が卒業したら。それならいい? 二年間、待てる?」
 先生は躊躇せず、笑顔でうなずいた。
 この人、こんなに可愛かったか?
 顔を両手で包み込んで、もう一度キスをした。今度はちゃんと、目を閉じてくれた。ふ、と笑みが漏れる。
「先生」
 唇を離して、頭を掻く。
「我慢できなかったらごめんね」
 多分、無理だ。先に謝っておこう。
 赤い顔のままその場にへたり込む先生を、笑って見下ろした。
 好きだという気持ちは、これからもっと強く、大きくなっていく。そのとき自制できるのか。自信はない。
 いつまで優等生でいられるか、わからない。

〈おわり〉
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