堕天使と私

ぱいん

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堕天使と私

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 ぼくには毎日の楽しみがある。
 それは、缶ジュースを一本だけ買い過ぎてしまうこと。
 彼と最初に知り合ってから友人と呼べるくらいになるまで、さほど時間はかからなかった。
 そこはとある病院の庭。草木が生い茂り、花壇には年中四季折々の花が咲いていて、入院患者の心を和ませていた。
 彼はその庭で毎日いつも決まったベンチに腰掛けていた。そして、青色の入院着の上にガウンを羽織って、静かにノートを開いてなにかを懸命に書き込んでいた。
 そして、ぼくは偶然を装うかのように、いつもと同じ時間に彼の前に現れる。その両手に毎度買いすぎた缶ジュースを二本持って。

「やあ、もうそんな時間だったかい」

 彼はぼくを見るなり、やつれた相貌に出来る限りの笑みを浮かべ云った。それは弱弱しかったが、喜んでいるように見えた。
 ぼくはそんな彼の笑顔を見るのが大好きだった。だから、名前も知らない彼のもとに足繁く通っているのだろう。

「今日は春の陽気が心地良くってね。つい夢中になってしまってペンを走らせてしまったよ。おかげで明日の分も終わらせることが出来た。この調子でいけば完成までに間に合うかもしれないな」

 そう云う彼の面影には、喜びとは真逆な悲壮感が漂っていた。
 彼がなにを書いているのかは知らない。ただ一言、大事な作品とだけ云っていた。聞けば快く教えてもらえると思うのだが、ペンを持った時の彼の虚ろげな表情がそれを躊躇わせた。
 それを彼に尋ねた瞬間、すべてが終わってしまうのではないか、と思ったのだ。

 この穏やかで奇妙な関係を終わらせたくないというぼくの強い願望がそう思わせていたのだろうか。聞けば、なにかが音を立てて崩れ落ちるような気がしたのだ。

「良かったらどうぞ。また買いすぎちゃって」

 ぼくはいつものように買い過ぎた缶ジュースを一本彼に手渡した。粒入りの百%オレンジジュースだ。

「いつもすまないね。ありがたく頂戴するとしようか」

 彼は弱々しい相貌に屈託のない笑みを浮かべて云った。
 缶のプルトップを開ける音が二つ響き渡る。
 ぼくはまず一気に半分までジュースを喉に流し込む。それからはゆっくりとちびちびと舐めるように味わう。ジュースが飲み終わるとき、それが彼との別れの時間だからだ。この缶ジュースはいわば彼と共有できる時間を計る砂時計のようなものだった。

「君のくれたジュースはいつも格別な味がする。それは何故だと思う?」

 ぼくは彼の言葉に首を横に振る。彼はそんなにオレンジジュースが好きなのかと思う。

「それは君と一緒に飲むからさ。だからこんなにも美味いと思えるんだよ」

 なんてね、と、彼はおどけて見せた。
 ぼくは声には出さず、肩を震わせて笑って見せた。
 その後、ぼくは彼と他愛のない談笑を交えながら、ひとしきり笑い合った。まるで十年来の親友であるかの様に。
 すると、彼は笑いを止めると空を仰いだ。

「それで、あとどの位なのかな? 私に残された時間は……?」

 刹那、ぼくは言葉を失った。手に持ったアルミ缶がメキメキと音を立てた。
 ぼくは彼に視線を合わせることが出来ず、ただ下を向いた。視線の先には蟻の行列が見えた。
 重苦しい沈黙が流れた。ぼくは未だに蟻の行列を凝視したままだった。

「本来ならば、私はあの日、旅立つ予定だったんだろう? 君が初めてわたしの前に現れた日だ。なんとなくだけれども、ああ、きっと君は私を迎えに来たんだろうな、と思ったんだ」

 刹那、彼の言葉にぼくの鼓動が大きく弾けた。彼の質問には答えられず、ただ蟻の行列を凝視するしかなかった。とてもではないが、彼の顔を見る勇気が湧かなかったのだ。
 不意に、彼の嘆息した音が耳に入ってきた。

「優しいね、君は。出会ってからわずかな時間しか経過していないが、私は君のことを親友だと思っているよ。だからこそ教えて欲しいんだ」

 それは十秒にも満たない時間。だが、永遠とも思える時が流れたように錯覚した。
 残酷な現実を告げたぼくに対し、きっと彼は怨嗟の言葉を吐きかけてくるだろう。
 仕方がない。これがぼくの仕事なのだ。偽りを告げても現実はすぐに彼に襲い掛かる。
一瞬の沈黙の後、ぼくは彼に向き直った。
 彼はやつれた相貌に懸命の笑みを浮かべながら、ぼくの瞳を凝視した。
 もはやこれまでか。これ以上、真実を隠し続けることは出来ない。誤魔化すことも可能だったが、彼に偽りを告げれば間違いなく、この関係は終わるだろう。
 それならば、観念して彼に事実を告げる方がせめてもの友情に報いることになるだろうと思った。
 そして、ぼくは静かに彼に告げた。

「このジュースが飲み終わる頃……君の時間は終わるんだ」

 云ってしまった。必死に隠し続けていた事実を彼に告げてしまった。
 それは、彼との幸せな一時の終焉を告げる言葉だった。
 ぼくの持つアルミ缶がメキメキと音を立てて、原型をとどめないほど潰れて行くのが分かった。中から溢れたオレンジジュースが手を伝い下に滴り落ちた。

 すると、彼は予想外の反応を示してきた。

「良かった。まだそんなにも時間が残されていたのか」

 彼はやつれた相貌に喜色を加えると、一言「間に合った」と呟いた。
 そうすると、彼はノートを開きペンを走らせた。

「あと一言、たった一言書き加えるだけで、この物語は完成する。良かったら、私の最期の作品を君にもらって欲しいんだが、良いだろうか? 他愛のない自伝小説だがね」

 ぼくは声には出さず、ただ何度も頷いてそれに答えた。もし、一言でも声を発したら心の裡で暴れている悲しみの奔流が、一気に溢れ出してしまいそうになっていたからだ。
 すると、突然、彼は小さな悲鳴を洩らした。

「あれ? 目が、目の前が真っ暗だ。なにも見えない、なにも見えないぞ?」

 ぼくは吐き出しかけた嗚咽を必死に飲み込んだ。

「疲れが出ただけだよ。少し休んでから完成させればいいさ」

 ぼくの瞳から零れ落ちる涙を、彼は知る由もないだろう。もし、泣きじゃくるぼくの顔を彼に見られていたら、きっとどんな偽りの言葉も慰めの言葉も届かなかったに違いない。

「そうか……それじゃ、ほんの少しだけ……眠らせてもらうとしようか……」

 口元に安らいだ微笑を浮かべながら、彼は静かに目を閉じた。
 彼の頭がぼくの肩に寄り掛かった。

「君の作品が完成するまで、ぼくはいつまでも待つよ。天使は人間と違って少々長生きだからね。その程度の時間の停留はなんでもないことさ」

 そう云って、ぼくは今まで背中に隠してきた天使の翼を広げると、静かに眠る彼の全身を覆ってやった。
 ぼくの仕事は死する人間の魂を天界に送り届けること。
 あの日、彼と初めて出会った瞬間、ぼくの鼓動は大きく弾けた。たちまち心は彼の姿で満たされ、いつの間にか天使としての使命を忘れてしまっていた。
 気付けば、ぼくは毎日、彼に会いに来ていた。買い過ぎたジュースを口実にして。
 そしてずるずるとこの日まで、彼に真実を打ち明けることが出来なかった。
 ぼくは天使失格だ。天界に帰れば、きっと何らかの罰を受けるだろう。恐らく、天使の資格をはく奪されるのは明白だった。
 何故なら、本来、天界に送り届けるべき一つの魂を独占してしまっているからだ。
 これは神に対する背信行為。天使として許されない大罪。天使が己の欲望に負けた瞬間、その魂は魔に堕ちてしまうのだ。それを『堕天』と呼ぶ。
 例え堕天使になろうとも構わない。ぼくにとって、いま、この瞬間が天使の使命よりも、ましてや自分の命などよりも重要なことのだ。

「ぼくはいつまでも待つよ。君の物語が完成するのをね……」

 そしてボクは彼を天使の翼と共に両手で抱き留めたのだった。



 という妄想を脳内で描きながら、私は彼の前を横切って行った。
 私の名前は城崎アザミ。ただのアラサーOL。趣味は恋愛。二十四時間眠っている時も休まず恋をし続けていることが唯一の自慢だ(?)。
 ただし、そのほとんどが妄想内の二次元彼氏に対して、ではあるが。
 私の両手には缶ジュースが握られていた。無論、片方の缶ジュースは彼に飲んでもらおうと思って購入したもの。
 まただ。話すきっかけにと、あえて買い過ぎた缶ジュースがまた無駄になってしまった。
 何度も脳内でシュミレートしたというのに、何故、現実世界の自分はこんなにも奥手なんだろうかと歯ぎしりした。
 三日前、会社の同僚が盲腸で入院し、そのお見舞いにこの病院を訪れた時に、初めて彼と出会った。
 一目惚れだった。アラサーの私の心に芽生えたのは中学生が抱くような憧れに似た恋心だった。
 幾度となく彼に話しかけようとするも、後一歩だけ勇気が足りない。
 それで思いついたのが『買い過ぎたジュース作戦』である。
 しかし、それも再び失敗に終わった。これで何度目だろうか。彼の前を往復するのは。
 これでは缶ジュースを両手に持って病院内の庭をただ徘徊するだけの不審人物だ。
 脳内(妄想)では簡単に出来ることが、何故現実世界ではこうも難しいのだろうか。
 不思議だ。脳内でシュミレートしている時の自分が何故か天使設定付きの美少年になっている位には不思議だった。
 まあ、いい。明日があるさ。
 明日こそは彼に話しかけてみよう。そして、出来るなら親密な関係になれればいいな、と妄想を膨らませた。
 そうして、私は明日も買い過ぎた缶ジュースを持って、ただ彼の前を右往左往するだけなのであった。
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