ぼくのベティちゃん

むらうた

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四月

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 俺が入社した馬場印刷は社長の馬場ばばさんに社員四人という小さな会社だ。

 営業担当の五十川いそかわさん。印刷技能士の根津ねづさん。経理などは馬場さんの妻である奈美枝なみえさんが担当している。
 
 一緒に外回りに行った日、信じられないことに、五十川さんは取引先との話し合いの場にもクマのぬいぐるみを持って行った。

 俺はもう、名刺を渡すのも名前も名乗るのもどぎまぎしてしまって仕事に集中できなかった。

 さらに驚いたのは、誰一人としてクマについて話題にしないことだった。

 もしかして、俺にしか見えてないのか?

 「まさかな」と「いやでも」を胸の内で何度も繰り返す。

「おい」

 急に肩に手を置かれ、びっくりしすぎて「ひゃい」と声が裏返った。

「なんだその返事、相変わらずアホ丸出しだな」

「馬場さーん、驚かさないでくださいよ!」

「社長と呼べ、社長と」

「あ、すみませんっ」

 馬場さんは大学剣道のOBで、就職というか将来について考えてなかった俺に、「就職先まだ決まってないならウチにこい」と言ってくれた恩人である。

 馬場さん、もとい社長は俺のポテンシャルを買ってくれた信頼できる人なのだ。

 このままクマの存在について一人で抱え込んでも仕方ないし相談してみようかな。

 そうだ、もしかしたら会社のマスコットかもしれない! または無愛想な五十川さんを緩和させるためのアイテムかもしれない!

 現実的なクマの存在理由を思いついて俺は安心した。

 へんな勘ぐりをせず、もっと早くに確認しておけばよかったのだ。

「あのっクマのぬいぐるみのことなんですけ、ど」

「クマ?」

 目の前には社長じゃなくて五十川さんがいた。

 テレポーテーション?!

「しゃ、社長は?」

「帰ったぞ」

 そう言う手にはしっかりクマがいる。

 聞け! 聞くんだ!

「五十川さん! その…クマ、は…なんですか」

「気付いてたのか」

 あああ、やっぱり気付いてたらだめな感じ?! 俺にしか見えてないってやつ?!

「こいつはベティ」

「名前あるんですね」

「ああ」

 終わり? もっと説明してくれ!

 次の一手を考えていると、事務所にベテラン印刷技能士の根津さんが戻ってきた。

「五十川くん、社長は?」

「帰りました」

「ったく、電話電話っとぉ」

「俺たちも上がろうと思ってるんですけど」

「いいよいいよ、お疲れ。新人くんもベティもお疲れ」

 根津さんはそれだけ言うと電話に出たらしい社長と会話をはじめた。

 ベティが認識されてる! 俺だけが気付いてるんじゃないんだな。

「ベティって、なんですか」

 分かりやすい説明が欲しかった。

「クマのぬいぐるみだ」

 違う! そうじゃない! もっと明確な答えが欲しいのだ。

「ぬいぐるみなのはわかってます!」

「はあ?」

「ベティの…存在理由が、知りたいんですっ」

 五十川さんは中指で眼鏡のブリッジを上げ、ベティを見つめてから口を開いた。

「じゃあ聞くが、お前の存在理由はなんだ?」

「え?」

 俺の、存在理由? どうして、ここにいるのか?

「答えられんだろう」

 思考がブラックホールに吸い込まれていく。話の方向性が違ってきている。

「ベティはベティだ」

「いや、あの…ベティは五十川さんの私物なんですか?」

「そうだけど?」

 私物だったのか。

「取引先の方もご存知なんですね」

「いつも連れて行くからな」

 真顔で、言っちゃうんですね。


   ***


 自慢じゃないが友だち作りは得意だ。中学から大学まで剣道をしていたが、先輩後輩との関係だって良好だった。人間関係で苦労なんてしたことがない。

 だからきっと、クマのぬいぐるみに名前を付けて職場に持ってくるような先輩とだって仲良くなれるはずだ。

 新入社員の俺を含めてたった五人の職場なのだ。仲良くなれなかったら、地獄じゃないか。

「俺は営業をするんですか?」

 歓迎会ということで五人で居酒屋に来ていた。

 他の三人の視線も社長の馬場さんに集まる。

「弥田はさ、いろいろ」

「いろいろ?」

「そのうち印刷技能士の試験も受けて欲しいし」

「はあ」

「事務所の電話番をお願いすることもあると思うわ」

「荷物もな、運んでくれっと助かる。腰やってっからさ」

「というわけで、いろいろだ。とりあえずは五十川について外回りを覚えてくれ」

「…はい」

 斜向かいに座る五十川さんが焼き鳥の串を俺に向けて、「居眠り運転はするなよ」と心底面倒くさそうに言う。

 別にやりたいことがあったわけじゃないし、どんな仕事でも構わない。仕事の内容どうこうよりも教育係の五十川さんともっと馴染めたら働きやすいのになぁとは思う。

 ビールを呑んでいたのが焼酎に変わり、根津さんが「俺の若い頃はさぁ」と管を巻きはじめ、馬場夫妻が家庭内の喧嘩腰の会話になっても五十川さんの顔色に変化はなかった。

「五十川さんってお酒強いんですね」

「普通だろ」

「…入社して何年になるんですか?」

「四年だ」

 会話が一往復しか続かない!

 これからも一緒に働かなきゃいけないのにつかみ所が無さすぎる。

 普段は無理でもアルコールの入った席ならどうにか五十川さんと打ち解けられるのではないかと話題を探す。今日の努力次第で、明日からの仕事がもっと楽しくなるかもしれない。

「車持ってるんですか?」

「持ってない」

「休みの日とか何してるんですか?」

「べつに、大したことはしてないな」

 多少、ムキになっていた。

「ベティかわいいですね」

 口にしてすぐ、禁断の質問かもしれないと焦った。怖くて五十川さんの膝のうえにいるクマから視線が外せない。

「無理に話しかけてくんな」

 ぎゃあ! もうだめだ、完全に拒否された。

「すみません…」

「新人くん、気にすんな。五十川くんに愛想が無いのは今にはじまったことじゃねえよ」

 根津さん、違うんです。俺が余計なこと聞いたから。

「泣くのか? 弥田は泣き上戸だからなぁ」

「馬場さん! 泣きませんって!」

 という側からじんわりと涙腺が熱くなる。

 違う違う、もうほんと、馬鹿みたいだ。

「あらやだ、もう! 五十川くんのせいよ!」

「おいおい、号泣じゃねえか」

「弥田ぁ! 相変わらずうぜえな!」

「でかい図体して、男の泣き上戸はみっともないぞ」

 それぞれに言いたいことはあるが、とりあえず、ぬいぐるみを持っている人に男がどうとか言われたくない。

「つか、弥田に焼酎呑ませたの誰だ」

「知らん。勝手に呑んでたんだ」

「まあこれも呑み方の勉強だな!」

「弥田くーん、こんなロクでもない人間しかいない会社でごめんね!」

 ぐずぐずと鼻をすすりながら、他人事みたいに四人の会話を聞く。耳に入ってくる声は不自然に大きくなったり小さくなったりして、そのうち意識は途絶えた。


   ***


「おいっ、起きろ!」

 乱暴な声が頭蓋骨に響いた。と同時に胃が締めつけられ吐き気が込み上がる。

「いつまでも寝てんな」

 記憶を寄せ集めようとするがうまくいかなかった。目蓋を押し上げ、眩しさに瞬きながら状況を確認する。

 どうやら居酒屋ではない。夜も明けているようだ。

 俺はソファで寝ていて、五十川さんに見下ろされていた。

「あ、の…」

 完全に二日酔いで、まともな言葉が出てこない。

「起きたらさっさと出ていけ」

 五十川さんは吐き捨てるように言って、ソファの側を離れた。

 昨日の記憶が途中から無いけど、ここは五十川さんの家かな。

 どうにか上半身を起こし、ずり落ちた毛布に身震いする。四月といっても朝はまだ冷える。

 寒いし、気持ち悪いし、五十川さんに迷惑かけてるし。

 腕をさすり、ふと素肌であることに違和感を覚えた。

 ん? あれ? なんも着てねえな。え? どういう状況だコレ。

「いっ五十川さんっ!」

 思わず叫んでしまう。しかし返答はない。

 疑う余地なく下着一枚だったが、素っ裸でないだけマシだろうか。

 ふらつきながら立ち上がり、五十川さんを探してリビングダイニングから廊下へ出る。

「すみませんっ! 俺、なんで、服…」

 姿の見えない相手に言い訳をしようとしても身に覚えのないことは説明もできない。

 呑んだこともないのに焼酎に手を出した報いだ。

 酔うと泣き上戸になるのは知っているが、もしかして露出狂だったりもするのだろうか。

 その可能性にゾッとしてると、水音とともにドアが開いた。

「なんだよ騒がしいな」

「五十川さん! 俺! なんで裸なんすか! 自分から脱いだとかじゃないですよね!」

「覚えてないのか?」

「はい…すみません…」

 チッと舌打ちをして、「自分で脱いでくれたら楽だったのに」と睨まれる。

 もといたリビングダイニングに戻り、「お前の服はそこ」とベランダを指差された。

 わけがわからないまま窓を開け、半透明なビニール袋に入れられた自分の服を見つけた。固く結ばれているのを解こうかと思ったが、結ばれている理由を察して手を止める。

 昨日着ていた服は、どうやら吐瀉物で汚れているようだ。

 俺は恐る恐る後ろを振り返った。

「ご迷惑をおかけしたようで…申し訳ございません」

 朝日を浴びた仁王立ちの人物は明らかに怒っている。怒ってはいるがいつもより威圧感はない。

 なんか印象が違うような…あ、前髪!

 動揺していて気付かなかったが、いつもはきっちりとワックスかなにかで上げられている前髪が今は額を隠していた。

 しかもちょっと寝癖がある!

「嫌がらせだろ。脱がせるだけでも大変だったんだぞ、無駄にいいガタイしやがって」

 嫌味を言われても、スーツ姿で言われるのと部屋着のスウェットで言われるのとでは全然違う。

 プライベートな一面が新鮮すぎる。

「オイコラ聞いてんのか」

「はい! ほんと、すみません…お詫びに、俺、なんでもしますから」

 訝しんだ顔が、「いいや」とキッパリ言い放った。

「お前はなんもするな」

「…はい?」

「俺に仕事以外のことを話しかけるな、関心を持つな」

「そんな…」

「なんでもするんだろ」

「確かに言いましたけどでも」

 五十川さんは容赦なく、「でもじゃねえ」と言葉を遮る。

「起きたなら帰れ、俺の休日の邪魔をするな」

 見た目がプライべート仕様でも人格まで変わるわけではない。付け入る隙もないので俺は食い下がるのを諦めた。

「…わかりました。帰るので服を貸してもらえますか」

「それ着りゃいいだろ」

「ど、どう考えても無理でしょ、洗濯してくれてるならまだしも」

「はあ? なんでウチの洗濯機で洗わなきゃならんのだ。着たくないならそのまま帰れよ」

「裸で出歩いたら捕まります!」

「お前なんか捕まっちまえ」

 なんで、なんでこんなに意地悪なんだ!

「服を貸してくれないなら帰りません!」

 俺はフローリングに胡座をかき腕を組んだ。こんな幼稚なことをしてどうにかなる見込みはなかったが、そもそもが幼稚な言いがかりであるから仕方ない。

 腹の奥底からため息をつかれ、「なんなんだよお前」と言う。それはこっちの台詞だと言いたいのをぐっとこらえる。

 五十川さんはしぶしぶ、といった足取りでリビングダイニングを出て行き、不本意さを滲ませながらもジャージとパーカーを持ってきてくれた。

「これなら着れるだろ」

「…ありがとうございます」

 俺がもそもそと服を着る間、五十川さんはキッチンでコーヒーを淹れていた。二日酔いの身に沁みる香りだったが、俺のために淹れてくれているわけではないだろう。

「サイズがちょっときついです」

「贅沢言うな」

「じゃあ…帰ります。迷惑かけてしまってすみませんでした」

「自分の服は持って帰れよ」

「…はい」

 五十川さんと仲良くなるどころか溝が深まってしまった。

 汚れた服入りのビニール袋と無事だった鞄を手に持ち、一礼して部屋を出る。

 「待てよ」とか、「コーヒーくらい飲んでいけ」とかそんな言葉はなく、素足で履く革靴に虚しさを感じながら五十川さんの部屋を後にした。

 マンションの外へ出て確認したスマホは充電切れで。俺は爽やかな朝の中で立ち尽くす。

 どこだ、ここ。

 自宅への帰り道が分からず、途方に暮れるしかなかった。
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