花氷のリン

不来方しい

文字の大きさ
4 / 11

04 真夏の前戯

しおりを挟む
 蝉が鳴き始めた時期、凜太は冷えたほうじ茶を飲みながら宿題に明け暮れていた。高校生ともなると一年前の倍近くある。特進クラスは、夏休みはあってないようなものだった。凜太は夏期講習を一日たりとも休まずに参加している。辛いのは勉強ではなく、学校へ通う距離だ。中学のときと変わらないが、なんせこの暑さのせいで食が細いのにさらに低下していた。氷を削り、蜂蜜をかけ、なんとか栄養を摂っていた。
──明日、夏期講習か?
 ぶっきらぼうな書き方は普段と同じ口調であり、凜太はこの人の醸し出す空気が好きだ。端末をタップし、すぐに返す。
──午前中で終わりです。
──学校で、大学生相手に練習試合があるんだ。
──頑張って下さい。
 返事は来ない。もう一度見返し、凜太は話の意図が掴めなかったことを悔やんだ。
──応援しに行ってもいいですか?
──勉強で忙しくないか?
──いつも勉強をしているわけじゃありません。
──暇だったら来てくれ。少しでもいい。
──行きます。必ず。
 淳之と連絡を取り合うようになり、端末を見る癖がついた。平然と数日間は放っておいてしまうので、しっかり見ろと言われたことがある。ふいに一馬の顔が浮かび、凜太は外に払った。
 キッチンで洗い物をしている春日を見かけ、凜太は声をかけた。
「春日さん。明日なんですが、昼食はお弁当をふたつ作って頂けませんか?」
「おや、どうしたんです?」
「明日は学校で夏期講習があります。その後、少し残って勉強がしたいので」
「いいですよ」
「あの、できれば、おにぎりのような食べやすいものを」
 春日はにっこり笑い、承諾した。凜太は詳しい事情を聞かずにいてくれた彼女に感謝した。

 授業が始まる前、凜太はこそこそと中庭に行くと、すでに待ち人は待っていた。校舎からは見えない木陰に座り、スマホをじっと見つめている。待ち人は凜太を見つけると、片手を上げて横を指差した。
「夏期講習は何時からだ?」
「まだ、三十分以上あります」
「なら少しゆっくりできるな」
 淳之はすでに着替えを済ませている。
「淳之さんが、キャプテンだとは知りませんでした」
「押し付けられたようなもんだ」
「器がないと、できないと思います」
「……どうも」
 淳之は照れると目を剃らし、頭を掻く。今もその癖が表れていた。
「今日は少し涼しいな」
「昨日は蝉の鳴き声が良く聞こえ、風情がありました」
「庭に大きな桜の木があったよな。窓開けてると蝉入って来ないのか?」
「たまに。でも放っておいてます。夏にしか味わえないですから。こう涼しいと、スポーツもしやすいのでは?」
「暑いよりはやりやすいが、それは相手も同じだ」
 渡すタイミングを逃してしまうと、どうにもならない。精霊蝗虫が目の前を飛び、凜太は驚き後退った。淳之は捕まえると、奥の草むらへそっと置いた。
「虫は平気か?」
「平気です。子供の頃は、池で泳ぐ水馬を数時間見ていたことがあります。家元に勉強しろと怒られました」
「大人が当たり前に分かることでも、子供にとっては不思議で理解できないことは沢山ある。水馬の生態とか」
「そうですね」
「その紙袋の中身とか」
 せっかくのチャンスを見逃さず、凜太は二段重ねの弁当を差し出した。露草色をした一尺三寸ほどの風呂敷で包まれ、葉の模様柄は今の季節に合っている。
「な、え、まじでか」
「まじです」
「作った?」
「私ではなく、お手伝いさんの春日が作りました」
「春日さんにお礼を伝えてくれ」
「私より、春日さんの料理の方が美味しいですよ」
「そういう問題じゃねえの」
「風呂敷は私が包みました」
「じゃあ楽しみながら開ける」
 淳之は両手で包みを抱え、固まっている。
「いつもひとりで飯食うから、こういうの初めてなんだ。誰かに作ってもらった弁当渡されたりするの」
「昼食は、いつもどうしてたんですか?」
「コンビニか、適当に握り飯作って持っていく。具は余ったからあげとか、漬け物」
「大きなおにぎりになりそうです」
 生まれ持ったものなのかゴールキーパーという職業柄なのか、淳之の手は大きい。凜太は手のひらを向けると、淳之は重ねた。ふたりとも熱が籠もっていた。
「やはり、大きいですね」
 淳之は堪らなくなり、重ね合わせた手を握った。凜太も同様に握り返す。手を腰に回すと、細い身体は簡単に引き寄せられた。唇が重なり、もう一度角度を変えて唇を合わせる。
「凜太が握ったおにぎりが食いたい」
 素っ気なく言う淳之は、目を背け頭をがしがしと掻いた。

 相変わらず日差しが強く、アスファルトに反射した陽光は体内を侵食していく。着物姿に日傘を差すと、すれ違う人々が一度は振り返る。着物も珍しいが、男子で日傘を使用する人はそうはいない。紫陽花柄の紫を基調とした日傘は、凜太を妖艶に見せた。
 スーパーに寄ると、凜太はメモを取り出し乾物のコーナーに立ち寄った。おはぎを作るための小豆と、麻幹を頼まれたのだ。お盆の時期のせいか、棚は小豆一色になっている。
 花屋には菊の花が店頭を占めていた。他には季節に見合った花が並べられている。凜太は、向日葵に目が留まった。
「何かお探しですか?」
 愛想良く聞いてきた店員に頭を振った。他の花におしいられたのか、種のコーナーは少ない。凜太は向日葵の種を取り、レジに向かった。
 家へ戻った凜太は、さっそく向日葵の種を庭に埋めた。条件さえ揃えば、種は今の時期に植えても発芽する。分かりやすいように、池を囲んで種を蒔いた。

 車で霊園まで向かい、お参りを済ませると、凜太は輪の中を抜けた。一通りの挨拶巡りも終え、少々の息苦しさを覚えてしまったからだ。どれだけ葉純家が力を持っているか、思い知らされた。
 菊の香りが充満した墓を蝉が合唱する中、包まれながら凜太は歩いた。後ろから名を呼ばれ、見知らぬ女性が立っていた。
「葉純さんのところのお孫さんね」
「葉純凜太と申します」
「ええ、存じ上げておりますよ。随分と大きくなられた。着物がとてもお似合いです」
 老婆の横で佇む女性は、凜太を見て会釈する。清らかで薄く化粧を施しているが、年はそれほど離れていないように見えた。
「こちらは孫の明美です。そちらにお邪魔することになっているのだけれど、聞いてないかしら?」
 話の意図が掴めず、凜太は首を横に振った。
「一度八月中に参ります。凜太さんのお茶を点てるところを生で拝見したいですわ」
 凜太はようやく、お茶教室の生徒だと知る。何も聞いていないが、家元が生徒を決めるのはいつものことだ。
「いつでもお越し下さい。お待ちしています」
 形式的な挨拶を交わし、逃げるように立ち去った。やがて墓地から離れると、蝉の声も幾分か落ち着き払った。整えられた霊園に、桔梗の花が咲いている。紫色をした小さな花は、蜂を惑わし蜜を与える。その様子をじっと見ていると、側に寄る人に気づかなかった。
「あの」
 すらりと背の高い女性は、おどおどしながら目を泳がせている。凜太が立ち上がっても、女性は頭一つ分背が高い。
「墓地はどの辺りになりますか?」
「あちらです」
 帽子を深く被り、表情は見えなかった。暑さ対策というより、顔を見られるのを拒んでいるかのようだ。場所を指しても、女性は動かない。
「よろしければ、ご案内致しましょうか?」
「墓の場所が、分からないんです」
 これには凜太も困惑するしかない。墓地が分からないのではなく、お参りをしたい墓が分からないと言っている。
「お寺にお尋ねするべきかと思います」
「八重澤という家庭をご存じありませんか?」
 凜太は固まった。良く知る名字は珍しく、この辺りではひとつしかない。佐藤や田中ではなく、ピンポイントで「八重澤」を「凜太」に尋ねた。思考を深め、凜太は無意識のうちに袂落としに手を添えた。中にはお金と電子機器が入っている。
 連絡するべきか迷い、凜太は止めた。相手の素性が分からない以上、揉め事に発展する可能性もある。
「すみません。存じ上げません」
「そうですか」
 女性は頭を下げ、墓地までとぼとぼと歩いていった。帽子のせいで顔はよく分からない。だが凜太はある仮定がひとつ脳に浮かんだ。
 霊園の管理人に八重澤の墓の位置を聞き出し、凜太は向かった。女性の姿はないが、先ほど彼女が手に持っていた菊が飾られている。凜太は線香を添え、手を合わせた。
 屋敷に戻ると、春日は忙しなく動き回っていた。凜太が手伝うと余計に仕事を増やしかねないので、親戚が集まるまで部屋でおとなしく教科書を開く。宿題はすべて終えていて、九月からの授業の予習に明け暮れていた。
 お盆の日、大広間では宴会が行われる。親戚が集まるわけだから当然一馬も含まれるのだが、家元に彼は仕事で来られないと伝えられた。
「一年ぶりか?背も随分伸びたなあ」
「左様ですか。ありがとうございます」
 一馬の義理の父親に当たる男は、艶福を気取る男で、祖母の三回忌に凜太に手を出した。凜太を独占し、上機嫌で酒を煽る。娘は謝罪の顔で何度も凜太に頭を下げるが、特に助けようともしない。頭が上がらないのは、彼女も同じだった。
 ある程度義理を果たした後、凜太は早々に抜け自室に戻った。勉強する気も起きず、外の空気を吸おうと庭に出た。凜太に気づき、鯉たちは騒がしく動き回っている。餌を貰えると思ったのだろう。
 外に人の気配を感じた。凜太は裏口から表に出ると、外壁に凭れ掛かりスマホを見つめる人がいた。
「一馬兄さん……」
 一馬は凜太に気づくと、酷く驚いた様子で硬直した。それも一瞬で、いつものへらへらした笑みに戻る。
「やあ、偶然」
「何が偶然ですか。此処にいれば会う確率も上がるでしょう。中に入って下さい」
「いや、いいよ此処で」
「ご馳走はまだありますよ?」
「うん。食べてきたから。身長また伸びた?」
「そういえば入学式以来でしたね。本日だけで十数回同じことを言われました」
「はは、親戚一同集まるしねえ」
「……もしかして怪我しました?」
「……鼻良すぎじゃないの?」
「手当てします」
「いやいや、待ってよ。してないって。病院で働いてるから臭い移っただけだよ」
「薬品の香りが、とても強い」
 一馬は病院で働いている。それ以外に、凜太は情報を知らなかった。病院即ち医者だと思っている。
「奥様をお呼びしましょうか?お迎えでしょう?」
 一馬は何も答えない。薄い笑みを零したまま凜太を見下ろしている。家の明かりに集まり、蛾が辺りを飛び回り薄気味悪い。
「これあげる」
 鞄から紙袋を取り出し、凜太に押し付けた。
「なんですか?」
「開けてごらん」
 中身は凜太の好物の水饅頭だった。凜太の良く通う和菓子屋で、作る素材にもこだわった水饅頭は、お盆の期間から八月下旬限定で発売されているもので、いつも売り切れだった。
「これ、去年食べられなかったんです」
「喘息で倒れたりしてたらしいもんね」
「わざわざ買いに行ったんですか?」
「まさか。ついでに寄ったらあっただけ。そこまで俺も暇じゃないよ」
「ですよね。ありがとうございます。おひとつ食べます?」
「いいよ。俺は食べたし」
「ならふたつとも、私が全部頂きます」
 凜太は大事に小袋を抱え、もう一度お礼を言った。
「せっかくだから彼氏と食べたら?」
「………………」
「え、図星?おめでとう」
「彼氏ではありません」
「淳之君さあ、サッカーでいろいろ注目されてるらしいじゃん」
「そうなのですか?」
「何も聞いてないの?」
「インターハイは一回戦で負けてしまったらしくて、本人は悔しがっていました。場所も遠く、日曜日はお茶の教室があるので応援に行けませんでしたが」
「あの一八〇センチ超えの恵まれた体格だしね。怪我さえなければ、試合にフルで出られたろうに。それじゃあ俺帰るよ」
 背中が見えなくなるまで見送ったところで、一馬の目的が分からず、途方に暮れた。

──今年も一緒に花火観ないか?
 そう連絡が来てから、凜太は新調した浴衣を着飾った。月下美人が大きく咲いた浴衣は、あまり男性が選ばない柄だが凜太の儚げな顔には良く合っていた。
「高校生になってご友人もでき、春日は嬉しゅうございますよ」
「いつまで友達でいて下さるか分かりませんが」
「お友達は大事になさって下さい。浴衣もこれからどんどん新調しなければなりませんね」
「身長が伸びたと感じております」
「家元は泊まりで温泉旅行です。凜太さんも羽を伸ばして下さいませ」
 去年と同じく、外は家族連れや友人同士の集まりで賑わっている。公園などでは屋台も並び、賑わいを見せていた。凜太は駅前の和菓子屋に行くと、子供の頃から知る女将は嬉しそうに目元を緩ませた。
「この前一馬君も来てくれたんですよ」
「聞きました。寄ったみたいですね」
 水饅頭のコーナーは、限定品はすでに売り切れてしまっている。ふと、凜太は小さな札に気づいた。
「今年から、二個限定になったんですか?」
「ええ、あまりに人気でねえ。お一人様二個ではなく、グループで二個に変えたんですよ。それでも午前中には売り切れちゃって」
 一馬の言葉と食い違う。一馬は、もう食べたと言っていた。
「えと……そちらの水饅頭の六個入りと、琥珀糖を一箱お願いします」
 考えたくない事実まで思考にはまりそうになり、凜太はなるべく考えないようにした。菓子箱を受け取り、友人以上の存在である彼の家まで歩いた。外壁には蝉の抜け殻が引っ付いていて、子どもたちが群がっている。凜太も子供の頃は、庭の桜の木についた抜け殻でよく遊んでいた。
 淳之の家の外壁にも、蝉の抜け殻を発見した。よく見ると形がそれぞれ違い、手が太いものが蜩、ひと回り大きいものが熊蝉だ。
「何してんだ?」
 外壁を見ていた凜太に、家主が上から覗き込んだ。
「蝉の抜け殻を発見しました」
「水馬を見続けるくらいだから、ほっといたら抜け殻でも数時間見てそうだな。倒れるから中入ってくれ」
「お邪魔します」
 二の腕部分の布地を上げ、逞しい二の腕が剥き出しになっている。抱かれたいと、凜太はやましい気持ちを隠した。ドアが閉まると同時に淳之は振り返り、逞しい腕で凜太を抱き締めた。凜太も背中に手を回す。汗の匂いが堪らなくなり、下半身を押し付けた。
「凜太」
「こうなるから、時と場所は選んで下さい」
「選んだつもりだ」
「あなたは何も分かっていない。それとこれお土産です。水饅頭は日持ちしないので、冷やして召し上がって下さい」
 熱い息を吐く淳之は肩を竦め、菓子箱を受け取った。
「なんだかまたトロフィー増えましたね」
「俺ひとりで取ったわけじゃない」
「けれど素晴らしいです。サッカーであなたが注目されていると、一馬兄さんから聞きました」
 淳之は冷たく冷えたサイダーと、メロンをテーブルの上に置いた。ガラス皿が夏の風物詩を思わせる。凜太はお礼を述べた。
「多分雑誌か何かで読んだんだと思う」
「もしやインタビューですか?」
「けっこう前に受けたんだ。けど主将として代表で受けただけだから、俺個人ってわけじゃない」
「なぜもっと早くに言わなかったのですか」
 淳之は頭をぽりぽりと掻き、サイダーを飲んだ。
「興味ないかと思って」
「あるに決まってるでしょう」
「部屋に雑誌あるけど、後で読むか?」
「読みます」
「意味分かってる?」
 フォークを持つ手が止まり、メロンが皿に落ちてしまった。
「居間だから親父も使う空間だし、なんとか耐えてるけど。部屋入ったら多分、抑えが効かない」
「私、男ですよ?」
「知ってるよ。さっきも充分確認できたし」
「抱けるのですか?それとも抱かれたい?」
「……抱きたい」
「経験はありますか?」
「……ねえよ。頼むからはっきり言わないでくれ。どうしていいか分からない」
「こういうのは、はっきり話し合った方がいいですよ」
 冷えたメロンを嚥下すると、身体が反応し唾液が溢れ出る。凜太は残る果肉を口に含んだまま、淳之と口を合わせた。舌で淳之の唇をこじ開けるとすんなり開く。果肉を舌で押しやると、淳之はじゅ、と音を立てて吸い取った。
「気持ちいいです、とても」
「俺も」
 唇を離すと、淳之は外を見て息を呑んだ。凜太も彼の視線の先を見ると、サッカー部マネージャーの岡田奈々子が外壁より向こう側から覗いていた。奈々子は凜太と目が合うと睨み付け、走って何処かへ行ってしまった。
「すみません、どうしよう」
「カーテン閉めなかった俺が悪い」
「でも」
「奈々子は知ってる」
 呼び捨てに、二人の関係性が良く滲み出ていた。
「知ってるって?え?」
「あのさ、驚かないで聞いてほしいんだけど」
「はい」
「奈々子に告られたんだよ」
「はい」
「……怒らないのか?」
「岡田さんの様子を見ていれば、察しはついていました」
「インターハイ終わって、話があるって言われて、帰り道で告られた。けど俺全然知らなくて、口うるさい兄弟みたいに思ってたから驚いた」
「なんと返したのですか?」
「好きな奴いるからって。当たり障りのない言い方だけど、それがいいと思って」
 グラスの氷が小気味良い音を立て、崩れた。
「今日の花火大会も誘われてたんだ。でも断られるかもしれないけど、好きな奴誘いたいからって言った」
「岡田さん、浴衣着ていましたけど……」
 玄関から物音が聞こえ、ふたりは息を殺した。立ち上がろうとした凜太を制し、淳之はひとりで物音のする方へ向かう。戻ってきた淳之の手には、紙袋が握られていた。
「残暑見舞いですか」
「残中とは違うのか?」
「残中見舞いは梅雨明けから七月中、残暑見舞いは八月から九月上旬くらいを指します」
「さすがだな」
「岡田さんからのようですね」
 熨斗には岡田信友と名前がある。岡田奈々子の父親の名だ。
「ご連絡した方がよろしいかと思います」
「ちょっと待っててくれるか?」
「その間、夕飯の準備でもしていますか?」
「夕飯は寿司取ってある」
 カーテンを閉め、淳之は家を出ると残り香だけが残り、凜太は空虚感を感じた。
 その後、凜太は十分、二十分と待っていたが、一向に淳之は帰ってこない。スマホもテーブルに置いたままだ。せっかくだからトロフィーを見せてもらおうと立ち上がったとき、スマホが明るくなった。電話を知らせる画面に、フルネームで父親の名前が映し出された。全員フルネームで登録しているのかもしれない。出るのは失礼だと凜太は放置していたが、再度画面が光った。緊急の用件かもしれないと、凜太はスマホに手を伸ばした。
『淳之か?帰りは明日になるって言ってたけど、今日帰れそうなんだ』
「あの……」
『……誰だ?』
 息子ではないと分かり、敦史の声は低くなった。
「申し遅れました。お久しぶりです。少し前に写真を撮って頂きました、葉純凜太です」
『ああ、葉純さんとこの。久しぶりだな。淳之はどうしたんだい?』
「すみません。二度も光ったので緊急時だと思い、電話に出てしまったのです」
 凜太は今、淳之がいないことと、花火を観る約束をしために家にお邪魔していると簡潔に説明した。
『どうぞゆっくりなさって下さい。仲良くして下さりありがとうございます』
「私の方こそ、お世話になりっぱなしです」
『ふたりっきりの方がいいかい?』
 それはどういう意味であるか、凜太は電話越しに考えた。先に沈黙を破ったのは敦史で、夕飯は食べていってほしいと言い残し、電話を切った。
 それからしばらくして、淳之は帰ってきた。顔を真っ赤に腫らした岡田を連れている。
「とりあえずタオル取ってくるからソファーに座ってろ」
 父からの電話があったと伝えられないまま、淳之は台所に姿を消した。ソファーに恋敵が座ると、凜太は何も言えなくなり、沈黙を破ろうとしなかった。外ではオレンジ色の光りがカーテンの隙間から差し、蜩が音色を奏でている。
「付き合ってんの?」
 小声が聞き取れず、凜太は横にいる彼女を見た。
「アイツのこと、好きなの?」
「淳之さんですか?」
「それ以外誰がいるのよ」
「話す理由はないかと」
「バラしてもいいわけ?」
「ばらすとは?」
「キスしてたでしょ?学校中に話したら、いられなくなるわよ」
「元々、小学生からクラスで孤立するタイプですし、それは高校生になってからも変わっていません。困るのは淳之さんの方だと思いますよ。彼は部活でも後輩に慕われている」
 むすっとした表情は、高校二年生とは思えないほど子供じみている。
「男同士って……気持ち悪いし、結婚も出来ないのになんで好きになるの」
「気持ち悪いかは個々の趣味趣向の問題で、私は女性とキスができません。想像もしたくありません。結婚に関しては、確かにその通りですが、海外だと認められている国もあります。私には結婚願望はありませんが、もし何を捨ててでも結婚したくなった場合、海外へ行くとあう手もあります」
「淳之は普通だったのよ。あなたが狂わせたの?」
「さあ……それは彼に聞いて下さい」
 凜太は扉の陰に潜む淳之を見た。濡らしたタオルを岡田に渡し、前のソファーに腰を下ろす。
「お前の普通を押し付けるな。それと凜太を傷付けない約束で連れてきたんだぞ。これ以上言うなら帰れ」
「疑問を口にしただけよ」
「どうだか」
「淳之はプロになるのよ。あなたそれを分かっているの?」
「プロ?サッカー選手になるのですか?」
 凜太の疑問は、岡田を驚かせた。
「何も知らないのね。支えていけるとは思えない」
「俺が話してなかっただけだ。それにまだはっきり決めてない」
「私は淳之と同じ大学に行くわ。マネージャーやるって決めてるもの。あなたは?」
「まだ高校一年なので、大学までは決めていません」
「何張り合ってんだよ。凜太には凜太の人生がある。好きになってくれるのは嬉しいけど、お前のことは恋愛対象として見られない」
「男が好きなの?」
「違う。凜太だからだ」
 付き合っているわけではないのだが、キスを見られた以上否定もせず二人の会話を淡々と聞いていた。また泣き始めた岡田を淳之は送るといい、再びひとり部屋に取り残された。
 十分ほどで帰ってきた淳之は隣に座り、深く息を吐いた。
「お疲れ様でした」
「おう……」
「新しくサイダー入れて参りましょうか?」
「頼む」
 冷蔵庫からペットボトルを取り出し、氷を入れたグラスに注いだ。淳之に渡すと一気に半分ほど飲み干した。
「俺のどこがいいんだよ。無愛想だし、サッカーくらいしか出来ることないし」
「少なくとも、私は好きですが」
「……本当か?」
「付き合うかはまた別です」
「なんでそんなに頑ななんだ」
「臆病だからかもしれません。いざ壁に直面したとき、逃げ道が欲しいのです。耐えられない壁に一度当たっていますから」
「恋人じゃなくてもキス出来るのか」
「はい。純情でなくてすみません」
「それは……少し嫉妬するけどさ」
 凜太は距離を詰めた。それを合図に、お互いの影が重なった。一度深いキスをすれば、箍が外れたように角度を変えて舌を絡めた。またもや下半身を押し付けそうになったとき、車のライトが部屋を照らす。それまで凜太は、電話の件をすっかり忘れていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

「自由に生きていい」と言われたので冒険者になりましたが、なぜか旦那様が激怒して連れ戻しに来ました。

キノア9g
BL
「君に義務は求めない」=ニート生活推奨!? ポジティブ転生者と、言葉足らずで愛が重い氷の伯爵様の、全力すれ違い新婚ラブコメディ! あらすじ 「君に求める義務はない。屋敷で自由に過ごしていい」 貧乏男爵家の次男・ルシアン(前世は男子高校生)は、政略結婚した若き天才当主・オルドリンからそう告げられた。 冷徹で無表情な旦那様の言葉を、「俺に興味がないんだな! ラッキー、衣食住保証付きのニート生活だ!」とポジティブに解釈したルシアン。 彼はこっそり屋敷を抜け出し、偽名を使って憧れの冒険者ライフを満喫し始める。 「旦那様は俺に無関心」 そう信じて、半年間ものんきに遊び回っていたルシアンだったが、ある日クエスト中に怪我をしてしまう。 バレたら怒られるかな……とビクビクしていた彼の元に現れたのは、顔面蒼白で息を切らした旦那様で――!? 「君が怪我をしたと聞いて、気が狂いそうだった……!」 怒鳴られるかと思いきや、折れるほど強く抱きしめられて困惑。 えっ、放置してたんじゃなかったの? なんでそんなに必死なの? 実は旦那様は冷徹なのではなく、ルシアンが好きすぎて「嫌われないように」と身を引いていただけの、超・奥手な心配性スパダリだった! 「君を守れるなら、森ごと消し飛ばすが?」 「過保護すぎて冒険になりません!!」 Fランク冒険者ののんきな妻(夫)×国宝級魔法使いの激重旦那様。 すれ違っていた二人が、甘々な「週末冒険者夫婦」になるまでの、勘違いと溺愛のハッピーエンドBL。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

ブラコンすぎて面倒な男を演じていた平凡兄、やめたら押し倒されました

あと
BL
「お兄ちゃん!人肌脱ぎます!」 完璧公爵跡取り息子許嫁攻め×ブラコン兄鈍感受け 可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…? 攻め:ヴィクター・ローレンツ 受け:リアム・グレイソン 弟:リチャード・グレイソン  pixivにも投稿しています。 ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。

批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。

【BL】捨てられたSubが甘やかされる話

橘スミレ
BL
 渚は最低最悪なパートナーに追い出され行く宛もなく彷徨っていた。  もうダメだと倒れ込んだ時、オーナーと呼ばれる男に拾われた。  オーナーさんは理玖さんという名前で、優しくて暖かいDomだ。  ただ執着心がすごく強い。渚の全てを知って管理したがる。  特に食へのこだわりが強く、渚が食べるもの全てを知ろうとする。  でもその執着が捨てられた渚にとっては心地よく、気味が悪いほどの執着が欲しくなってしまう。  理玖さんの執着は日に日に重みを増していくが、渚はどこまでも幸福として受け入れてゆく。  そんな風な激重DomによってドロドロにされちゃうSubのお話です!  アルファポリス限定で連載中  二日に一度を目安に更新しております

処理中です...