老聖女の政略結婚

那珂田かな

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第四章

孤児院からの帰路

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エドモンドはわずかに眉を寄せ、子供達に背を向けた。
 「……もう行かねばならん」
 その一言で、子供たちの笑い声が途切れ、神官たちの視線が一斉に王と妃に集まった。セラはその空気の変化を肌で感じ取り、さきほどまでの慈母のような笑顔が消え、神妙な面持ちになっている。
 エドモンドは群がる子供たちの輪を断つように進み、ためらいなくセラの前に立つ。そして白い手をぐっと取った。
 温かく大きな掌が自分の皺だらけの手を包み込む。長いあいだ祈りと労働で荒れてきた手が、その若い王の硬く力強い手に導かれる。
  セラの胸の奥が、不意に震えた。
 あれほど冷ややかな視線を向けてきた彼が、今は自分を必要としている気がした。心臓が高鳴り、思わず頬に熱が上る。老いた身にときめきが訪れるなんて、とセラは自らを戒めたが、その温もりは確かに彼女の心を揺さぶっていた。
「陛下……さ、さようなら。また来るからね」
  セラは無理に笑みを作り、子供たちへと手を振った。
 だが、彼女の手を握るエドモンドの指がほんのわずか強くなった気がして、心の奥に甘い痛みが広がる。隣を歩む彼は相変わらず仮面のような顔を崩さない。けれど、その金の瞳が一瞬、庭に残る視線を気にするように揺れたのを、セラは見逃さなかった。
 ――もしかしてこの方は人々の眼差しを恐れているのでは。
  彼は王である前に、まだ二十歳になったばかりの青年なのだ。そう思うと、彼の冷たささえも別の色合いを帯びて見えた。
 王と妃が並んで歩く姿に、子供たちは声を潜めた。やがて一人の小さな少女が「またきてね」と震える声で叫び、セラは振り向いて頷く。エドモンドの手を引かれながらも、優しい笑みを崩さなかった。

 孤児院の外に出ると大勢のやじ馬がおり、オスカーら護衛兵が彼らを牽制していた。冷ややかな視線とヒソヒソ囁く声が国王夫妻に浴びせかけられる。エドモンドはその眼差しを感じると、無意識に手に力を込める。セラはその強張りを指先で感じ取り、静かに握り返す。
 二人は無言のまま馬車に乗り込んだ。

 車輪が石畳を規則正しく叩く音が夕日に溶ける。窓から忍び込む風は昼間の熱を和らげ、ひんやりと頬を撫でた。
 向かい合う座席に座り、二人の間に沈黙が落ちる。落ちていく夕陽に照らされたエドモンドの横顔は、すでに若武者の勇敢さを帯びている。だが、先ほど群衆の視線を気にしていた繊細さが、今も残っているように見えた。
「子供というのは、よくわからぬ生き物だな」
  先に沈黙を破ったのは、低く落ち着いたエドモンドの声だった。
 「泣いたと思ったら、急に笑いもする。あんな者たちに、この国の将来がかかっているのかと思うと心もとない」
 セラはそっと微笑んだ。
 「誰しも幼き頃はそういうものですわ。けれど、彼らの行動に嘘はございません」
「そして成長するうちに嘘を覚え、小狡い大人になっていくのか」
「それが生きるすべならば。ですがなるべく悪に染まらぬよう、見守るのが大人の務めではありませんこと?」
 エドモンドは彼女をじっと見た。金の瞳が揺れる。
 「……そなたにも、子供の頃があったのだな」
 セラは小さく息を吸い、遠い記憶に沈む。
 「ええ。王家に生まれ、幼いころから“聖女”としての務めを背負いました。泣きたいときも、笑いたいときも、それを許されぬ日々でした。けれど忍耐と祈りを学び、人々を見つめる眼を得ました。それが今の私を支えております」
 エドモンドは眉をひそめ、低く吐き出す。
 「……そうか」
「きっとエドモンド様も、幼い頃に多くを経験されたからこそ――」
 「子供の頃のことなど、思い出す価値もない」
 その声音は鋼のように硬かった。窓の外へ視線を逸らした横顔は、まだ若々しい容貌をしていながら、背負うものの重さに押し潰されそうに見える。
 セラの胸が痛んだ。六十を越え、皺を刻んだ自らの手を見下ろす。だがその指先には、幾千の祈りと慈しみが宿っている。
  ――わたしが一番救わねばならぬのは、この人なのかもしれない。
 セラはそっと手を伸ばし、彼の手を握った。若く逞しい掌と、老いを刻んだ自らの手が重なり合う。
  エドモンドは驚いたように視線を戻し、一瞬ためらった。だが抵抗はせず、やがてその手を強く握り返す。
 青年の力と老女の静かな温もりが、ひとつの調和を結ぶように二人を包んだ。
言葉はない。ただ互いの温もりだけが、夕暮れに染まる馬車の中を満たしていった。
 馬車はゆるやかに石畳を進む。規則正しい車輪の響きが、二人の鼓動を重ね合わせるように夜気へ溶けていく。

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