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第七章
影
しおりを挟む王宮の一角には、今回の戦で深手を負った兵士たちのために、特別な治療院が設けられていた。
薬草を煎じた青臭さと、乾ききらぬ血の鉄の匂いが入り混じり、重苦しい空気となって漂っている。
厚い扉を押し開けると、燭台の炎が静かに揺れ、影が床に長く伸びていた。
セラはリゼットを伴い、足音を忍ばせて一つの小部屋に入った。
寝台には、包帯で肩から腕にかけて固く巻かれたラファエルが横たわっている。
その面差しは依然として美しいが、かつて王の影として毅然と立っていた面影は深い陰に覆われていた。
「ラファエル殿」
呼びかけると、彼はかすかに瞼を上げ、視線をセラに向けた。
「……妃殿下がお見舞いとは、もったいないことです」
掠れた声。努めて軽口を叩こうとしているのがわかったが、その響きには力がなかった。
セラは寝台の脇に腰を下ろし、彼の顔をじっと見つめる。
矢傷に毒が仕込まれていたことは聞いていた。だが、これほどまでに憔悴しきった姿を見るのは辛い。
「あなたが盾となってくださったおかげで、陛下はご無事で戻られました」
セラは静かに告げた。
「その忠義に、私は心から感謝しております」
ラファエルはかすかに笑みを浮かべたが、その瞳には自嘲の影が差していた。
包帯に覆われた右腕を一瞥し、吐息を漏らす。指はぴくりとも動かず、ただ白布の中で沈黙している。
「私は、もう何もできない。剣を握ることも、盾を構えることも。王の傍らに立つ影ですら、もう務められないのです」
深い絶望を帯びた声に、セラの胸は締めつけられた。
幼いころから王と共にあった乳兄弟。その存在意義のすべてが片腕とともに失われたかのように。
セラはそっと身を寄せ、彼の包帯に覆われた腕の上に自らの手を重ねた。
「あなたはまだ生きている。それだけで、陛下も、私も喜んでいるのです。剣を振るえなくとも、陛下の隣に立つことはできるはずです」
しかしラファエルは首を振り、目を閉じた。
「私は生きているだけでは足りません。陛下のために命を懸けるためにここにある。片腕を失った時点で、その務めは果たせなくなった」
沈黙が流れた。蝋燭の炎がわずかに揺れ、窓の外では秋の風が木々を鳴らす。
やがてラファエルは静かに目を開き、セラを真っ直ぐに見据えた。
その眼差しには絶望を超えた、執念にも似た光が宿っていた。
「……セラ様。ひとつだけ、お聞かせください」
セラは息を呑み、頷いた。
「もし陛下が命の危機に見舞われたとき――あなたも、命を懸けてお守りくださいますか」
重い問いに、セラの胸は激しく波立った。
六十年の生涯を経て、誰かのために命を差し出す覚悟を突きつけられるとは。
一瞬、言葉を失った。それでも――ゆるぎない声で答える。
「ええ。――もちろんです」
ラファエルの口元に、ふっと柔らかな微笑みが浮かんだ。
苦悩に覆われていた顔が一瞬だけ晴れ、かつての美しい面差しが戻る。
「そのお言葉、信じております」
そう囁くと彼は静かに瞳を閉じ、細い吐息が漏れた。
セラはその寝顔を見つめながら、己の誓いの重さを胸に刻む。
太陽神ソレイユの神託が再び脳裏をよぎった。――太陽は昇れば必ず沈む。
セラは唇を噛みしめ、背に冷たい影を抱きながら、療養の間を後にした。
ラファエルの一瞬の微笑と、その裏に潜む深い影は、いつまでも胸に焼き付いて離れなかった。
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