帝国の花嫁は夢を見る 〜政略結婚ですが、絶対におしどり夫婦になってみせます〜

長月京子

文字の大きさ
45 / 171
第八章:婚約披露の代償

45:誘拐劇の痕

しおりを挟む
「帝国のことは聞きたくないって、よく怒っていたのに?」

「それは、色々と思い悩むのが嫌だっただけで」

「恋は盲目って本当にあるんだね」

「叔父様!」

「あのスーがねぇ」

「いったい何が仰りたいんですか?」

「いや、思ったよりずっと幸せそうで驚いただけだよ。スーのことだから悲壮な顔はしていないだろうと思っていたけど、まさか、こんな恋する乙女になったスーを見る日がくるとは」

 帝国に来てからは、ルカを中心に世界が回っている自覚があった。彼に首っ丈になっていることは、リンにはすぐに見抜かれたようだ。

「たしかに殿下は綺麗な顔をしているけど……」

 リンが臆面もなく隣のルカの顔をまじまじと眺めている。

「叔父様、ルカ様に失礼です」

「殿下は、スーの大好きな白馬の王子様みたいな方だよね」

「叔父様!」

 スーがリンを睨んでいると、彼は笑いながらポンとスーの頭を叩いた。幼いころからよくある仕草だった。

「僕からは二人に白馬を一頭贈るよ」

「白馬? 突然何を言い出すの?」

「殿下は馬くらい飼えるよね」

 ルカもリンの真意がわからないらしく、戸惑った顔をしている。

「はい。……乗馬用の厩舎がありますが」

「そう、じゃあ殿下は馬も乗れるんだ。さすがだね、良かった」

「叔父様?」

「婚約祝いに贈るよ。おとぎ話に出てきそうな飛び切り美しいやつをね」

 リンが何を考えているのか、スーには全くわからない。怪訝な顔していると、寝台のスーと同じ目線になるように、リンが身を屈めた。

「僕はもう行くけど、元気でね、スー。またね」

「叔父様は、次はどこへ行くの?」

「さぁ、秘密」

 せっかく会えたのに、束の間の再会である。でも、それがとてもリンらしい。いつも不思議な人だなと思うが、スーは目覚めた時にリンがいてくれて良かったと思う。あんな出来事の後なのだ。動揺していないと言えば嘘になる。

 サイオンの雰囲気をまとう叔父に、少し支えてもらえた気がした。スーにとっては昔も今も、気心の知れた心強い叔父である。

「顔を見せてくれてありがとう、叔父様」

「うん。僕もスーに会えて良かった。……ユエン、あとは頼むよ」

「はい、リン様」

 寝台の傍らに控えているユエンが、リンに深く頭を下げた。

「じゃあ、ルカ殿下。ちょっといいかな。厩舎を見せてもらいたいんだけど」

「?――はい」

 リンがルカを誘って部屋から出ていく。オトが「失礼します」と、柔和な笑顔を残して二人の案内のために退出した。
 スーは再びユエンと二人きりになった。室内に賑やかさがなくなると、再びごしごしと唇を拭ってしまう。

「姫様、そんなに口元を擦っては、唇が荒れてしまいますよ?」

「え? あ、そうね」

「少し横になられますか?」

「いいえ、大丈夫よ」

 答えると、ユエンがそっとスーの肩に薄めの上着を羽織らせてくれる。

「立派でした、姫様」

「ユエン?」

「でも、もう大丈夫です。今は姫様の傍には私しかおりません」

 ユエンの温かい手が、労るようにスーの手を握った。

「今なら、怖かったと泣いても誰にもわかりません」

「――……」

 的確に見抜かれて、スーの視界がじわじわと滲み始める。
 ルカの世界を知るための経験だったと、そう割り切ると決めているのに、込み上げる恐れと嫌悪感を拭いきれない。唇を拭ってみても、消えない。

 気持ち悪い。そして、苦しくて、とても恐ろしかったのだ。

「っ……」

「大丈夫だとルカ殿下に笑えた姫様は立派でした。きっと殿下を支える強く逞しい皇太子妃になられます」

 ユエンが認めてくれるなら、自分は目指した道を見失わず歩いている。
 ルカの隣に寄り添える皇太子妃になるために。

「でも、今は怖かったと泣いても良いのですよ」

「……な、内緒よ」

「はい。私は何も見ておりません」

 ユエンの言葉が免罪符だった。
 試練を糧として受け止める前に、スーは少しだけ自分の弱さを見つめなおす。

(本当は、大丈夫じゃない)

 堪えきれず、スーはぼろぼろと涙をこぼして泣いた。声を上げないように嗚咽を我慢していたが、すぐに抑えきれなくなる。

 まだ鮮明に思い出せるのだ。

 じわじわと広間の床に広がった血溜まり。目の前で絶命した護衛の顔。壁に飛び散った血飛沫。
 肩を外された激痛も、みぞおちにめり込んだ拳の悶絶するほどの痛みも。

 窒息するように口を塞がれた苦しみも、にがく気持ちの悪い味も、全て克明に覚えている。

(――怖かった……)

 刺すような冷酷な光を宿した目。救いのない話。
 絶望しながら、意識が引き込まれていく感覚。

 もしあのまま連れ去られていたら、きっとルカの元には戻れなかった。
 いったい、どんな末路を辿ることになったのか。考えるだけで、スーの心の奥底が凍りつく。

「う、……」

 ぎゅうっと血が止まりそうな強さで、スーは重ねた両手を握りしめた。ぽつぽつと手の甲に涙が落ちる。

「姫様」

「ユエン。……これは、涙じゃ、……ないわ」

「はい」

 ユエンが慰めるように、スーの小さな背中に手を添えた。

(弱音を吐くのは、今だけよ……)

 スーは声をあげて泣きじゃくる。
 遮られることのない嗚咽が響き、小さな肩が震えた。

 悲しみと恐れを吐き出すような、何かを振り絞るような泣き声が、しばらく室内を満たしていた。
しおりを挟む
感想 24

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております

紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。 二年後にはリリスと交代しなければならない。 そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。 普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜

美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?

処理中です...