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しおりを挟む誰かが頭を撫でている。
「……志摩センセェ……」
束の間の眠りから目覚めた岬が瞼を持ち上げてみれば。
「起きた、岬」
ソファに頬杖を突いた濡宇朗がやたら至近距離から覗き込んでいた。
「今、へなちょこドミナントの名前呼んだ?」
起き抜けでうっかり志摩を呼号した岬は褐色頬を赤らめて濡宇朗を睨む。
「クソ志摩はもう帰っちゃったよ」
「え?」
「お店のヒトに挨拶して、ついさっき出て行った」
帳を潜ってVIP席に再び入り込んできた濡宇朗は、黒須が用意してくれていた、冷たいミントウォーターが注がれたグラスを差し出した。
上半身を起こした岬は受け取ると見る間に飲み干した。
有り余る落胆をミントウォーターと一緒に渇いていた喉に流し込み、自分自身の女々しさを氷と共に噛み砕き、丸呑みにした。
「オレ達も帰ろう?」
頭痛は治まっていたものの、口角にピリピリとした痛みが生じてしかめっ面になっていた岬は、濡宇朗をまじまじと眺めた。
「帰るって、どこにだよ?」
「どこか二人きりになれる場所」
……濡宇朗は変わった奴なんだろう。
ボトルを叩き割って、それで人を襲おうとした、躊躇なんて全くしていなかった。
志摩センセェが止めてくれなかったら、コイツ、あのまま本当に……?
「この店もステキだけど。もっともっと、いいところに行こう?」
だけど怖くない。
どこまでも一緒に付き添ってやらないと、濡宇朗にはそんな気持ちが湧いてくる……。
「そろそろ帰ります、黒須サン」
ぴったり寄り添う濡宇朗と共に帳の外側へ出、カウンターに座ってノートにメモをとっていた黒須に岬は声をかけた。
「お世話になりました」
ノートを閉じた黒須は足早に岬の真正面へやってきた。
殴られた頬がちょっと腫れてきた、自分のエコバッグがどこにあるのか店内を見回している岬の横顔を心配そうに窺った。
「もう帰るんだ? まだ十分くらいしか経ってないけど」
「長居するのも迷惑かかるんで」
「そんなことないよ、まぁ、あんまり遅くなったら家の人も心配するか」
「家の人」と聞いて、スマホに電話をかけてきた百合也のことを岬はぼんやり思い出す。
……せっかくの休みの日なのに豚汁作ってやれなくて悪かったな、百合ちゃん。
「でも、もうすぐ志摩先生戻ってくるし、声かけていったらどうかな」
岬の吊り目が矢庭に大きく見開かれた。
そして黒須の肩の向こうでタイミングよく開かれた赤い扉。
片手にコンビニのレジ袋を提げて「UNUSUAL」に戻ってきた志摩は、カウンター前に立っていた岬に「もう起きたのか」と淡々とした口調で言った。
「消毒薬、買ってきた」
……やっぱり優しくされない方がいい。
……これ以上優しくされたら、拒絶宣告されてるっていうのに、どうしようもなく感情が溢れ出しそうで怖い。
「俺、もう行くから、志摩センセェ」
帰宅したと嘘をついた濡宇朗を怒る余裕もなく、岬は、喉の奥から言葉を絞り出す。
誤って本音が零れないよう、すぐそこまでせり上がってきている感情を懸命に抑え込んで。
「それならタクシー使ったらいい」
「もったいねぇよ、まだ余裕でバス走ってっし」
「そうか」
片腕にしがみついている濡宇朗もそのままに、わざわざ消毒薬を買ってきてくれた礼も言えずに、店の出入り口に向かって岬は歩き出した。
ついさっきまで念頭にあったエコバッグのことも忘れていた。
赤い扉の前に立つ志摩の横を擦り抜けるのに精一杯で、正にいっぱいいっぱいな自分自身を気取られないよう、俯きがちに進んだ。
外の熱気を全身に仄かにこびりつかせて佇む志摩のそばを岬は通り過ぎようとしたーー
突然、足元に落ちたレジ袋。
購入したばかりの消毒薬が床に転がり出た。
「行くな」
志摩に手を握られて。
岬は息が止まりそうになった。
「まだ一緒にいたい」
仄かに感じていた熱気が志摩の掌から肌に伝わって、骨身にまで染み渡るような気がして。
岬は眩暈を覚えた。
頭の中がぐるぐると渦巻いて、混乱し、同時にかけがえのない昂揚感が湧き上がってきて体中すんなり発熱させた。
「センセェ」
震える声で呼号した生徒に志摩は正直に告げる。
「あの店でお前を見つけたとき、俺に会いにきてくれたのかと思った」
忙しげに波打った吊り目を眼鏡のレンズ越しに見つめ、握った手を離そうとせず、淡々と続ける。
「終業式の夜、自分から撥ねつけておきながら浮かれた。でも濡宇朗を探しにきたって聞かされて、がっかりした。馬鹿な勘違いをした自分がひどく身勝手で惨めに思えた」
クラブのバーカウンターで志摩に無性に触れたくなったとき、岬は、そんな自分自身を馬鹿だと罵った。
まさか当の相手まで似たり寄ったりな最低な気分に陥っていたなんて知る由もなかった……。
「それなのに」
普段と変わらない志摩の声が店内の静けさをゆっくりと掻き回していく。
「カウンターにいた隣の客をやたら意識して、この後の予定を頻りに気にされて、ワケがわからなくなった。濡宇朗を探しにきたくせに、俺を選ばなかったくせに、一体お前は何を考えてるんだ。そう、思わずあの場で言いそうになった」
「言えばよかったじゃねぇか」
思ってもみなかった胸の内を打ち明けられ、動揺する余りリアクションに迷い、ついつい喧嘩腰になって岬は志摩を睨んだ。
どんな顔をして聞いていたらいいのか、わからなかった。
繋がった手の熱さに心臓まで溶かされそうで、気を抜けば、心身ともに崩れ落ちてしまいそうだった。
「岬、早く行こ」
もう片方の腕にしがみついていた濡宇朗が岬を連れて行こうとする。
すると志摩はさらに掌に力を込めて岬をその場に繋ぎ止めた。
「怖かった」
より一層増した熱に立ち竦んだ岬へ、今まで抱いてきた恐れを一つずつ綴って明かしていく。
「お前と濡宇朗の間には入り込めない空気があった。迂闊に立ち入れない境界線が俺の前に居座っていた。親鳥と雛みたいにお互い守り合って、その領域を見せつけられる度に不安になった」
形振り構わずに伝えたくなるほどの愛執(あいしゅう)に忠実になる。
どちらかと言えば黙秘を強いてきた唇にありのままの本音を志摩は託した。
「まだ十代だ、同じ年頃の相手の方がいいに決まってる、そんな真っ当な理由づけをして諦めようとすればするほど、俺のことが必要だったんじゃないのか、いつでもずっと相手してくれるんじゃなかったのか、そんな遣り場のない執着心に雁字搦めになった」
無様に足掻いてでもそばに引き留めておきたい想い人など、岬と出会うまで、いなかった。
「一回りも年下の奴に振り回されるなんて俺の柄じゃない、そう思わないか?」
「俺が知るかよ」
岬はかろうじて憎まれ口を叩いた。
口頭による台詞だけじゃなく、重なり合った掌からも志摩の気持ちが互いの熱に溶けて我が身に流れ込み、心臓にまで届いたようなーー
「センセェも俺に未練あるのかよ」
濡宇朗は隣で押し黙り、黒須が背後で見守る中、岬は問いかける。
「俺のこと簡単に切り捨てたんじゃなかったのかよ……?」
志摩は首を左右に振った。
痛々しく腫れてきた岬の片頬に目を留め、握り締めた手を引き寄せた。
「未練しかない」
ーーずっと渇いていた。
夏休みが始まって入り浸るようになった「USUAL」のバーカウンターで。
どれだけグラスを交換しても一向に満たされなかった渇き。
潤してくれるのは一人だけだった。
「岬、俺のことなんか庇わなくていいよ」
志摩は夜気に熱せられた頬を岬の手に押し当てた。
……志摩センセェも俺と同じだったのか。
……一人で不安がったり、怖がったり、淋しがったりしたのか。
「俺はさ、お前の唯一になりたいんだ」
耳たぶの隅々まで紅潮させて閉口した岬に志摩は願う。
「どこにも行かないでくれ。俺と一緒にいてほしい」
あの雷雨の夜に言えなかった願いを愛しい淫魔に今夜やっと伝えた。
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