上 下
14 / 54
零章 『世界が分かれた日』

十三話 「RD事変 其の十二 『暴走の来訪者』」

しおりを挟む
   †††

 現在、アピュラトリスの半径五キロは厳戒態勢が敷かれており、一般人の車両の交通規制はもちろん、ほとんどすべての店は休業を余儀なくされていた。

 本来ならば国際会議が開催される年は、パレードや祭りが行われるのが普通である。ほとんどの場合、内々で議題の処理が行われるので会議は表向きなものであり、外交官やその家族がダマスカスの首都でお土産を吟味するのがいつもの光景だからだ。

 その賑わいに便乗して祭りが開かれるので、首都だけではなく地方からも人が集まる。そんなグライスタル・シティが、今はまるで廃墟のような静けさの中にいた。

 聴こえる音といえば車両やMGの駆動音、兵士同士の雑談くらいなものである。多少の緊迫感はあるものの、どちらかといえば「ここまでやらなくてもいいのに」といった空気が流れているのはたしかだ。

 そんな中に、周囲の軍人とはまるで格好の違う黒髪の青年がいた。腕の部分が白い赤地のジャンバーに、青いジーンズというカジュアルな格好でアピュラトリスを見つめている。

「大丈夫かな…」
 まだ十代にも見えるあどけなさを残した青年は、富の塔を見上げてつぶやく。

 彼がこの塔を見たのは今回が生まれて初めてである。見れば見るほど不思議で、今までダマスカスにこのようなものがあったことを知らなかったことが逆に驚きであった。

「大丈夫さ。この塔はすっげー丈夫らしいぜ」
 青年の隣にいた、彼よりも若干年を取った若い男がつぶやきに答える。

 黒い肌にローアンバーのドレッドヘアー、まだ肌寒いのに黒いランニングシャツ一枚に短パン一丁といった格好の大男である。隣にいる一六七センチの青年が子供に見えるほどに大きい。

「やばくなったらバリアーとか出すらしい。そうなったら戦艦の主砲でもビクともしないってよ」
 男は口笛を吹き、陽気な仕草でアピュラトリスを指さす。

 この男もまたアピュラトリスを見るのは初めてであり、ガイドブックに書いてあった知識をそのまま披露しているだけである。サカトマーク・フィールドの知識もガイドブックに載っていたものだ。

 こうして世間一般にも情報が配布されているということは、この塔がそれだけダマスカスの象徴であることを示していた。

 それだけ防備に自信があるのだ。そうした機構を知っている軍部の人間に緊張感がないのも頷ける話である。

 ただし、サカトマーク・フィールドを展開するのにも時間はかかるので、その間の時間稼ぎをしなくてはならない。要するに、彼らは自分たちがそのための捨て駒にすぎないことを知っているのだ。

 しかし、それこそが最重要任務。アピュラトリスが自分たちの富を生み出している以上、捨て駒であっても彼らは文句は言わないのだ。

「こんなに警備しても意味ないよな。どうせ、ここに攻めて来るやつなんていないってのによ」
 こうして朝からここにいるが、まったくもって変わり映えしない光景に大男がぼやく。さすがに飽きてくるというものだ。

 強固なフィールドに加え、ダマスカス陸軍約二万人以上が守っているアピュラトリスを、白昼堂々わざわざ狙う人間がいるとは到底思えない。

 その人間が正気で本気であればあるほど、ここを狙うことはありえないのだ。だから大男は、隣の小柄な青年が心配する意味がわからない。

 しかし、青年が心配しているのは別のことであった。

「ディム、僕が心配なのはアズマさんのことだよ」
 青年は隣の大男のディム、本名デムサンダーに自分の懸念を伝える。

「おいおい、冗談だろう? あいつに何の心配をしろってんだよ」
 その言葉にデムサンダーは、目を丸くして少し裏返った声を出す。

「でも、何か嫌な予感がするんだよ」
志郎しろう、あのアズマだぜ? あんな戦闘中毒バトルジャンキーに何かあるわけもねえよ」
 それこそ冗談が過ぎる、といった顔でデムサンダーは言う。

 ジン・アズマは、エルダー・パワーの中でも特に戦闘に特化した人間だ。仮に敵と出会っても真っ先に飛び出して戦うほど戦闘狂なのだ。

 エルダー・パワーは武を探求する存在ではあるが、その武をわざわざ好んで使うような組織ではない。なにせ存在そのものが【自衛】のために生まれたのだ。

 武を闘争のために使うという発想がそもそもない。そのため武を極めるために実戦を求め、敵を殺して回るアズマのような存在は異質である。

 その敵という存在すら、一方の立場に立って初めて生まれるものだからだ。剣を愛する。敵を愛するという究極の武の真理とは程遠いものだ。

 そうしたアズマに嫌悪感を感じているのは、なにもデムサンダーだけではない。里の中にも危惧する者は多いのだ。

「俺は正直、ほっとしているぜ。あんなやつと一緒だったら息苦しくて仕方ねえ。今頃は【牢獄】の中でじっとしているさ」
「牢獄…か」
 デムサンダーが言った牢獄という言葉を聞いて、志郎はたしかにそうだとも思った。

 このアピュラトリスは、こうしてしっかりと首都の中心に鎮座していながら完全に独立している。外と中はまるで別世界であり、簡単に出入りすることもできない。

 その姿はまさに牢獄。富で作られた檻なのだ。
 デムサンダーの表現は、まさに的確であった。

 その牢獄を見て、志郎はふと思う。

「どうしてアズマさんは、中の配置になったんだろう」
 ジン・アズマという強力な武人を中に配置する理由はわかる。万一内部に敵が侵入した場合、あれほどの適任者はいないだろう。

 狭い通路内であっても、単独で多数の敵を粉砕できるだけの力がある強力な個なのだ。彼の実力は、間違いなく志郎たちを凌駕している。

 しかも敵は、さまざまな警備システムや数多くの兵士、さらには構造の段階から防御を想定しているアピュラトリス内部の地形に苦しむだろう。そこにアズマがいればまず突破は不可能である。

 それはわかる。わかるのだ。しかし、それはまるでアピュラトリスに敵が攻め入ることを前提としているような配置に見える。この鉄壁を自負している富の要塞に。

 それがどうしても解せないのだ。

(マスター・パワーは何もおっしゃらなかった。だが、それにもかかわらずこの配置。やっぱりおかしい)
 志郎は、派遣されたメンバーに少し違和感を感じていた。

 大統領の面子の問題もあったのだろうが、今回はエルダー・パワーから【席持ち】の武人が何人か派遣されている。剣士第五席のアズマを筆頭に、志郎やデムサンダー、アミカやチェイミーなどもそうだ。

 普通、エルダー・パワーが派遣される場合は、席持ちが参加するにしても一人か二人。それに加えて、里の中から腕の立つ奉公人が何人か選ばれる程度だ。

 しかし、今回は数が多い。これほどの席持ちが出向するなど、少なくとも志郎がエルダー・パワーに入ってから初めてであった。問題は、これだけ兵士がいるのになぜ自分たちが必要か、ということ。明らかに異常事態を想定しているように思えるのだ。

 志郎は、その中心にいるアズマが気になって仕方ない。

「どうしてあんなやつが気になるかねぇ」
 デムサンダーから見ればアズマは【異常者】である。すべてを捨てて武に殉ずる気持ちは同じ武人として尊敬に値するものの、普段からギラギラしている彼はやはり危険に見える。

「アズマさんが死に急いでいるように見えて…気にならないか?」
「はっ、そいつはいつものことだろうさ」
「それはそうだけど…」
「慣れない都会に来たからって、そんなに緊張することはないさ。べつに普通にしていればいい」

 たしかに志郎は、慣れない都会に来たことで少し戸惑っているのかもしれない。それはアミカを見れば一目瞭然。周りの視線が気になって、挙動不審になってしまっている。

 しかもエルダー・パワーは、基本的に他の組織と共闘することはない。それが今は陸軍と一緒にいるのだ。そうした現状もあいまって、志郎は少しナイーブになっているのだろう。少なくとも、デムサンダーはそう思っているようだ。

「とにかく俺たちは貧乏くじだ。アミカやチェイミーたちが羨ましいぜ」
 志郎とデムサンダーはこうして外周の警備。一方のアミカとチェイミーは、国際会議場でまったりしていればいい。この男女の差がデムサンダーには納得できないらしい。

「アミカさんたちは大統領の護衛だよ。そんな大役、僕たちには無理だ」
 志郎は逆に会議場から離れてほっとしていた。

 会議場には各国の首脳陣と護衛がいる。志郎も出立前に少しだけ見たが、護衛のレベルは相当なものである。眼光も鋭い。そんな中に放り出されたら、慣れない志郎はますます浮き足立ってしまうだろう。

「襲うやつがいないんだ。大統領に護衛なんて必要ないだろうに。あんなの遊びだぜ」
 とデムサンダーが思うのは自然だが、実際は会議場内部に紅虎という凶悪な獣がいることを知らない。すでに大統領を二人仕留めているとは夢にも思わないだろう。

 まあ、誰が護衛であっても、あの獣を止められる者はこの世にいないが。

(この胸騒ぎは何だろう。すごく気持ち悪い)
 そんなデムサンダーをよそに、志郎は自分自身でもわからない不安に襲われていた。普通に考えれば何の不安も必要ないはずなのに、どうしても消えないのだ。

 何か強い【悪意】のようなものがここに集まりつつある。
 それは巨大な【意図】とも呼べるかもしれない。

 何かの強い意思が何かの強い目的をもって、いかなる犠牲を払ってでも成し遂げようとする【覚悟】にも思える。それが不気味で仕様がないのだ。

 どのみち志郎には何もできない。素直にここで待つことしかできないのだ。それもまた焦燥が募る要因でもあるのだが。

 しかし、これから起こることは、きっと彼の運命を変える出来事になるだろう。まさか自分が、その意図の渦中に飛び込む羽目になろうとは夢にも思っていないに違いないのだから。

「おい、志郎。見ろよ、なんか来るぞ」
 デムサンダーがガムを取り出し、口に放り込みながら前方を指さす。

「え? 敵かい?」
「んー、よくわかんねえな。ありゃ、車かね?」
 まだ距離はあるが、一台の黒い車がいくつかの検問を突破してこちらに向かってくるようだ。

 ここは一般車両の通行禁止区域である。当然、このような行為に対しては警備隊が迅速に対応するはずだ。志郎の見立て通り、すぐに警備の装甲車が集まってきて車線を塞ぎ、包囲網を作る。

 それでも車は止まらず、いくつかの装甲車にぶつかりながら回転し、最後は消火栓にぶつかって盛大にぶっ飛んだ。その衝撃で栓が壊れ、噴水のように水が噴き上がる。周囲はまるで大規模な水芸を披露したかのように、一気に水浸しになった。

「あー、止まったな」
 デムサンダーはガムを味わいながら、その光景を楽しそうに観察していた。

 待機に飽き飽きしていた彼にとって、こうしたアクシデントは大歓迎なのである。ちなみにガムは期間限定の青リンゴ味だ。

「ちょっと、何見ているんだよ。止めないと!」
「いや、止まったじゃんか。それに兵隊さんがいるんだ。仕事を奪っちゃ悪いだろう」
「でも、敵だったら…?」
「それに対応するのが兵隊の役目だろうさ。どうせ変なやつだよ。いるんだよな。こういう時期になるとさ、目立ちたいやつが」

 どこの国にも、こうした目立ちたがり屋というのがいる。騒ぎを起こして自分に注目を集めたいという理由で、わざわざこんなことをするのだ。

 だが、今回はよりにもよってこのような状況である。普段とは比べものにならないほど警戒レベルが高い。しかもアピュラトリスである。全世界の命運を握る存在なのだ。

 もしこれ以上進んでいれば、志郎たちの後方に控えているダマスカス軍の戦車、あるいはMGが容赦なく射撃を加えていただろう。それを免れただけでも感謝しなければならない。

 この事態に周囲から兵士がわらわらと集まってきて、すぐに車は包囲された。兵士たちも暇を持て余していたので、誰もが少し興奮しているようだった。「ついに事件か! 出番だ!」そんな顔である。

「さて、どんなやつが出てくるかな。俺としてはモヒカンだと思うが、賭けるか?」
「遠慮しておく。僕は賭事は嫌いなんだ」
 なぜかモヒカンを予想するデムサンダー。おそらくモヒカンの確率のほうが遥かに低いので勝てそうだったがやめておく。

「真面目すぎると疲れるぜ。気楽にいこうや。俺たちにとっちゃ他人事だしな」
「ディム、ここだってダマスカスなんだよ」
「そのダークサイドだろう?」

 この街に溢れているのは富。あらゆる物に満ち、金があれば誰でも豪華な生活ができる場所。

 しかし、その富はどこから来たのだろう。仮に富が有限のものであるとすれば、当然誰かが持てば誰かが持たざる者になる。ここはそれを公認している場所なのだ。

 アズマに限らず、エルダー・パワーにとっては武が命。武は金では買えない。心を鍛えるのは日々の鍛錬とある種の屈辱の中でこそなのだ。その意味で彼らが好んで近寄る場所ではない。

 それでもマスター・パワーは要請を受けた。

 志郎やデムサンダーに限らずアズマに至っても、その意図をまだ完全に理解できていないのだ。もしエルダー・パワーが堕落していないのならば、要請を受けるだけの相応の理由があるはずだ。

 このアピュラトリスを守る、何か大きな理由が。

(敵か? それとも一般人か?)
 志郎は車を注視していた。もし敵ならば自分の悪い予感は当たったことになるのだ。嫌でも注目してしまう。

 そうして大勢の視線が集まる中、ようやく車から運転手が引きずり出される。

「んん?」
 そのあんず色の髪が見えたとき、デムサンダーは素っ頓狂な声を上げる。同じく志郎も目を丸くした。

 その車から出てきたのは、なんとも西側の貴族が好みそうなフリル付きのドレスを着た若い少女だったからだ。軍人とビル群という背景の中で、その姿は完全に浮いている。

「離しなさい! 無礼な!!」
 少女は組伏せようとする軍人の手をはたき、悠然と車の外に出てきた。そのあまりの堂々とした姿と強い言葉に、兵士も思わず手を引っ込める。

 兵士たちの銃口が向けられる中、次にスーツを着た老紳士も降り立ち、先に降りた少女を気遣う。

「お嬢様、ご無事ですか…」
「ふん、ちょっと滑っただけですわ。何の問題もありませんことよ」
 運転していたのは少女であった。最初は老紳士が運転していたのだが、突然彼女が強引にハンドルをぶんどったのだ。

 しかし、運転の経験などなかったので、アクセルを押したら止まらなくなり(興奮してアクセルを踏みっぱなしになる。素人には稀にある)、検問を吹き飛ばしてあまつさえ装甲車にもぶつかったというわけだ。

 この少女、確実に無免許運転である。間違いない。

 それはそれで問題なのだが、何よりその態度があまりにも「自分は悪くない」というものだったので、周囲の軍人は気分を害するどころか唖然としている。

 そこにいた誰もが、この少女は誰なのだと思ったに違いない。そんな空気を無視して少女は周囲の軍人を見回し、渋い顔をしながら叫ぶ。

「このエリス・フォードラをエスコートするのは誰ですか! 名乗り出なさい!」

 エリスは、軍人たちのあまりの無粋な雰囲気に憤慨していた。一方の兵士たちは、少女が何に憤慨しているかもわからず呆然としている。取り押さえていいのか迷っているようであった。

 この場合、取り押さえるのが通常の対応である。しかし、エリスが放つ不思議なオーラと迫力がそれをとどめているのだ。

「おいおい、なんだあれ。来る場所間違えたんじゃねーか?」
 モヒカンが出てくると思っていたデムサンダーも困惑している。完全に場違い。舞踏会場と間違えたと思うのも仕方ない。

「敵…じゃないよね」
「あれがそう見えるか?」
 こうしている間も、志郎とデムサンダーの二人は周囲の気配を探っていた。少女が囮かもしれない。ビルの上、路地裏、上下前後左右の全包囲数百メートルに意識を集中させる。

 結界術【波動円はどうまどか】。周囲の気配と意識とを同調させて異変を探る技である。範囲が広く、より大きな動きを感じ取る際によく使われる。

 結界術には封じる術と守る術に加えて、探知が目的の術も存在する。オンギョウジたちが使う高度な結界術は例外として、こうした初歩の結界術はそれなりの訓練を積めば、持つ因子にかかわらず誰でも使える便利なものだ。

 といっても、これだけ範囲を広げられる者はそうそういない。武人に認定されるギリギリの資質の人間が十年修行して、ようやく二十メートルなのだ。生涯修行しても百メートルに届かない人間が多数いる。

 志郎もデムサンダーも、エルダー・パワーの一員として最低限の術は教え込まれており、何よりも彼らはすでに武人の中でも達人の域なのだ。

 もともと資質のある人間を集めて作られたのがエルダー・パワーという組織であるのだから、彼らにしてみればごくごく当たり前のことであった。

 ただ、技には各人の得手不得手があるので、波動円が使えないといけない、というわけではない。単に資質の問題である。

「特に問題ないね。あくまで僕たちが探れる範囲で、だけど」
 周囲には特に不審な動きをする者はおらず、敵意も感じられない。エリスという少女、それと老紳士は敵ではないと判断する。兵士の中にも害意を持った人間はいないようだ。まずはひと安心である。

「これ以上は忍者に任せようぜ。このあたりにも、わんさかいるだろうしな」
 こうした探知は主に忍者や密偵の仕事である。専門ではない志郎たちががんばっても、これ以上のことはわからないだろう。

 また、周囲には各国から派遣されている密偵や忍者が紛れ込んでいる。いや、紛れ込むという言葉は適切ではないだろう。

 そこらに無数にいるのだ。

 アピュラトリスの周辺には、それこそ数千という密偵が潜んでいる。彼らは連盟会議に出席している国家の手の者たちで、「アピュラトリスを守る側」の存在である。もし敵意を持つ者がいれば、彼らが真っ先にマークするはずだ。

 当然、こうして堂々と陸軍と一緒にいる志郎もデムサンダーもマークされているので、すでに各国のデーターベースを照会して身元を探っているに違いない。とはいえ、エルダー・パワーの情報は秘匿性が高いので、名前まで割り出すのは難しいだろうが。

「気がついた?」
「ああ」
 志郎の短い言葉にデムサンダーが頷く。車がつっこんできたあたりから、急に周囲の密偵たちの視線が増えたのだ。

 しかも強い。異変があったので当然であるが、ここまで過剰反応することには違和感があった。密偵の中にはかなりの猛者も混じっているようで、その強い気配に自然と二人の気もざわついてくる。

「おいおい、戦闘モードじゃないだろうな?」
 デムサンダーが身構えるほど、それらの視線は強くなる一方である。

 密偵は場合によっては戦闘員にもなる存在である。今のところ味方である彼らだが、今後何があるかわからない以上、油断することはできない。

 状況が変われば、味方だった者が敵になる可能性もある。国際連盟とは、そうした微妙な連携関係の中に存在しているのだ。しかもエルダー・パワーは極秘組織である。こちらを敵と誤認する者がいてもおかしくはない。

「やる気か、やつら?」
「まさか、そんなことはしないだろうけど」
「たかだか車一つで殺気立ちやがって、なんて余裕のないやつらだよ。そんなに富の塔が大事かね」
 こんなに露骨な視線を向けられるのは、あまり気分のよいものではない。デムサンダーの気が立つのも頷ける。

 ただ、志郎が感じたのは、もっと繊細な意識である。たとえるならば、雛鳥が巣から落ちそうな瞬間を息を呑んで見守るような。恐れるような。手助けしたいができないような。そんな感情である。

(これはいったいなんだろう?)
 その感情に志郎は戸惑う。デムサンダーの言う通り、たかが車一つでここまで反応するのは異常に思えるからだ。

「ちょっと、そこのあなた」
「え?」
 二人が周囲の視線に警戒している間に、エリスが志郎に向かって歩いてきていた。その少女を一般人として認識していたので志郎の反応は遅れ、すでに十メートル近い距離にまで接近されている。

(うわー、修行不足だな)
 志郎は思わず自己嫌悪に陥る。この程度のことで動揺して注意散漫になるなど、師範に知られたら居残り特訓は間違いない。まだまだ修行不足であることを痛感する。

 そんなことはまったくおかまいなしに、エリスは胸を張って堂々と志郎の元に向かってくる。

「あなた、私をエスコートしなさい」
「ぼ、僕が…?」
「そうよ。あなたが一番まともそうだし」
 どう考えても一番まともそうではないエリスが言う。

「おいおい、お嬢さん。もう帰ったほうがいいんじゃねえの? これ以上は、さすがに怒られるぜ」
 デムサンダーが、自身の半分程度の身長しかないエリスを見下ろす。それだけで相当な威圧感なのだが、エリスはまったく気にしないで物申す。

「なんですの、この黒くて太くて大きいものは」
 これを聞いて変なことを考えた人は病院に行ったほうがいいだろう。ぜひ反省してほしい。

「おまっ、その言い方…」
「彼はデムサンダー、友達なんだ!」
 呆気に取られるデムサンダーとの間に慌てて志郎がフォローに入る。

 エリスはそんな凸凹コンビの二人を交互に何度か見て、素直な感想を述べる。

「ふーん、趣味が悪いのね。特に服と顔が」
 その視線は主にデムサンダーに向けられており、やや哀れむようなニュアンスが含まれていた。

「おい! 本人の前で言うなよ! お前だって服は趣味が悪いだろう! 顔は…まあ、普通だけど」
 さすがにうら若き少女の顔をどうこう言えず、デムサンダーは言葉を濁す。

 エリスの顔は、可愛いというよりは美人であろうか。シャープな輪郭は女優のようであり、目の鋭さもあいまって、彼女の性格の強さと凛々しさを強調しているようだ。

 今は少し化粧をしているが、むしろしないほうが良いと思えるほど肌の艶がよく、全体から生命力に溢れている健康的な少女に見える。

「じゃあ、行きましょうか」
 エリスは志郎の手を取り、さっそく歩き出す。

「ど、どこへ?」
 志郎は素朴な疑問を発する。この少女が誰で何をしに来たのかいまだにわからないからだ。わかっているのは、この少女は「まとも」ではなさそうだ、ということだけ。

 そのまともではないエリスは志郎の顔を見つめ、瞳に強い炎を宿しながら目的地を告げる。


「決まっているわ。アピュラトリスよ」

しおりを挟む