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第5話 傷の記憶と、触れた温もり(4)
しおりを挟むその瞬間、春陽の顔が脳裏に浮かんだ。
殴りたかった。本気で、心の底からぶん殴りたかった――けれど。
(春陽さんが、今の俺を見たら……どう思うだろう)
たったそれだけの考えが、湊の頭に冷水を浴びせかけた。
この男のふざけた顔面を殴り飛ばせば、少しは気が晴れるかもしれない。
だが、そうしたところで、春陽はきっと悲しむ。こんなふうに誰かを傷つけることは望まないはずだ。
「――……」
湊は歯を食いしばり、震える拳をゆっくりと下ろした。
啓介が嘲笑うように口角を上げる。
「……だっさ」
しかし、挑発には乗らなかった。代わりに静かな声で告げる。
「兄さんが、俺のこと妬むのもわかるよ」
「あ?」
啓介の笑みが、わずかに揺らいだ気がした。
「兄さんはずっと〝比べられてる〟って思ってたみたいだけど、比べてたのは兄さん自身なんだろ? ……俺のこと、心底気に入らなかったんだろうなって、今ならわかる。けど――」
と、真っ向から相手のことを見据える。
「俺は、春陽さんの気持ちを無下にしたこと……一生、許さない」
掴んでいた胸倉を力強く押しやれば、啓介が後ろに大きくよろけた。
その姿を哀れに思いながら、湊は言葉を続ける。
「あの人は、兄さんに思うところがあって寄り添おうとしたんだ。どうしようもない劣等感とか、孤独とか全部――自分を犠牲にしてでも、受け止めようとしてくれてたのに!」
「なっ……べつに俺は、お前への当てつけで手ェ出しただけだし。春陽のヤツが勝手に勘違いしただけだろ」
ひたすらに歪んだ感情と言動。この男の救いようの無さを思えば、同情の余地などない。
ただ、春陽とのやり取りのなかに、確かな本心はあったのかもしれない――と、複雑な気持ちにはなった。
「あんたみたいな人は、いつか絶対に痛い目を見る。……手遅れになる前に、気をつけた方がいいよ」
それは家族としての、せめてもの忠告だった。
すぐさま、啓介が何か言い返そうと口を開く。
「っ、俺だってな! あいつがガキなんて作らずに、俺のことだけ見ていてくれりゃ――!」
……が、最後までこうだ。湊は待たずに踵を返した。
「もう行く。今後一切、春陽さんに関わらないで」
そうして振り返ることなく、その場を後にしたのだった。
「あっ、湊くん!」
春陽と再会したのは、ふれあいコーナーに隣接した乗馬スペースだった。
柵の中では、優が小さなポニーに跨っている。係員に手綱を引かれながら、辺りをゆっくりと散策していた。
「移動しちゃってごめんね。優が『ポニー乗りたい』ってきかなくって……メッセージ、ちゃんと気づいてくれた?」
春陽が小走りに駆け寄ってくる。
湊は答える代わりに、手に持っていたものをひょいと持ち上げ、そのまま春陽の顔に押しつけた。するとお約束のごとく、「うぷっ!?」という声が上がった。
「えっ、なに? ……パペット?」
春陽が不思議そうに、押しつけられたものを手に取る。
ふわふわとした白い毛並み、真ん丸な耳に、ピンク色の鼻や肉球――ホワイトタイガーのパペットだった。
「その子、春陽さんにあげるよ」
「俺に? いいの?」
湊はうつむき加減に頷いた。
そして今度は、一回り小さなサイズのパペットを取り出す。
「で、優のはこっちね。親子みたいでしょ」
並んだ大小のホワイトタイガー。
春陽は目を丸くしていたが、そのうちぱあっと顔を綻ばせた。
「ありがとう、すごく嬉しいっ! 優もきっと喜ぶよ!」
言って、胸元で大事そうにパペットを抱きしめる。しばらく見惚れたのち、自分の手に大きい方を被せた。
「がおーっ。……あは、可愛いっ」
ホワイトタイガーの頭や前足を動かす姿に、湊の口元が綻ぶ。
本当に喜んでくれているのが伝わってきて、なんだかくすぐったい気分だ。
「こういうの好きかなって。さっき、売ってるの見かけてさ」
「それで、わざわざ走ってくれたの?」
「あー、うん……売り切れちゃったら嫌だし」
我ながら、下手な言い訳だった。
実際のところ、どんな顔をして戻ってくればいいのか、思い悩んでいたのだ。
考えれば考えるほど、余計にわからなくなって――結局、こんな子供じみた誤魔化し方をすることになってしまった。本当に愚かだと思う。
「………………」
ふと、春陽が顔を覗き込んでくる気配があった。
まるで何かを見透かすかのように。春陽は目を細めると、優しく言葉を落とす。
「……会ってきたんだよね?」
無意識のうちに、湊の肩が跳ねた。
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