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有害なプランクトンへ
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早朝の駅はプランクトンを吸い込むクジラに似ている。その多くは有害な性質に無害の皮を貼り付けていて、おそらくそのうちの一人に私も含まれている。ところが、自然界にもあるように、変種もしばしばそこに紛れ込む。有害な性質に有害な皮を貼り付けた者と、無害な性質に有害な皮を貼り付けた者である。私はその二つの変種を寝起きと同等の目で認めた。
太った男と異様に白い女だった。女は抜け落ちた緑で髪を染め、ベタベタと男に吸い付いている。私はその横を通り過ぎ、無関心を装うために、誰にもバレないよう、背中に耳を付けた。すると、一際大きな甲高い声とブツブツと小さな羽音がそれに呼応するように聞こえた。
二つの変種はクジラの中で異様という名を騙って存在し、どのプランクトンもそれらに強く関心を向けながら、無関心になる努力をした。彼らはクジラに用があった。クジラは誰にも用がなかった。ただ大きく口を開けて飲み込み、社会との繋がりを少しばかり隔てた状態で排出するだけである。それは生きるという機能、機械的な運動そのものである。とするならば果たしてあの変種の彼らもそれに乗せられるのかと、ふと好奇心を抱いた。
プランクトンが一匹、速度を緩めた。私は彼らと同質にはなれないが、同じ場所に存在することは、もしかすればできるだろうと思った。
やがて、位置関係が逆転し、数メートルの幅を持たせながら、底辺の極端に短い二等辺三角形が、クジラの身体を縦断する。彼らに対応する私の角度は非常に鋭利なもので、いずれ後ろにいる誰かをその角度で刺し殺すのではないかと危惧するほど、私の関心は尖り続けた。しかし私は一体何を明らかにしたいのか。二人がどこかで別れ、どちらかの人生が破綻していく様を見たいのか。そうだとすれば、私のこれは明らかな悪意を持ったもので、死刑にも同等の罪悪を抱えているに違いない。ところがこの社会は私を裁くような秩序を作るのに失敗していた。私の内側にある有害な性質は、私が自ら仮面を取るまで、ひそかに隠れ、その期間が長くなるほど色の濃さを増していく。何色に見えるだろう、彼らには。私の見立てでは、白濁している。
三つの点は一度その関係性を分解され、ふたたび群列の中で取り戻した。動きが停滞している。電車がくるまでは二人の関係がより詳細に見えるかと思ったが、実際はそうでもない。女の撫でつくような声はいまだに同じこと、あるいは男を足りない語彙で称賛し、たまに貶すということを繰り返し、男はそれに対して羽を潰されたコバエのようにビクリと己の肉を揺する。具体的な情報はそこにまったく含まれておらず、そこから彼らがあまりに希薄な関係の中で生きていることを確信した。相手の情報を得ないということは、ある種の賢さであるかもしれない。特に、女にとっては。
男は呟く。その内容がなんであるか、私には聞き取れない。聞き取らせない努力を昔からしてきたのだろう。女は反対にひりつき、叫んでいた。悲しいほどに。その短い足が折れるまで。変種ではない私たちの視線を浴びて、興奮し、絶頂し、きっと最後には線路の中に飛び込んで、血飛沫でその行為を終わらせる。私はそんな想像をした。狂死のオフィーリア。では女を裏切る恋人は?
電車がやってくる。女は飛び込むようには見えなかった。そもそもが不可能であった。私の度を超えた安堵は失望に変わり、諦念となる。列の延長上に存在するはずのドアは、人の操作による誤差か、あるいは他の要因によって、前のめりの位置に止まった。早く動き出したいがためだろうか。ホームにいるほとんどの生き物がそれと呼応していたが、二つの変種はそれと無関係に、無関係であろうとするように、全身をくねらせ、二つの身体がねじれ、やがて大木とそれに巻き付く蛇になった。
「またね」と言ったのは蛇のほうだったろう。巻き付かれたほうはうなずかなかった。大木、あるいは巨大な岩を避けるように流れる有害な私たちは、眉をピクリと揺らし、迷惑そうな顔をしなければならず、不動の肉塊はさらにその摩擦で削れ、小さくなっていく。
私と女は二次元的に結ばれ、反対に男は一次元として、ホームに単独として立った。立っているだろうと思った。私も女も、次を待つ人々と顔を合わせたくなかったのだ。
ドアが閉じようとする。駆け込んでくる乗客を、苛つきの滲んだ機械音声が非難する。しかし彼は言われたところで反省はしないだろう。遅れるより全体に向けた一瞬の注意の方がよっぽどマシなのだから。それとはまた無関係に、無関係であるために隣で吊り革を掴む女は、ヒールを履いている割にずいぶんと小さく感じた。香水の匂いはしない。爛れた匂いもしない。車内はほのかな甘い芳香に満ちていて、他のあらゆる不純を殺している。あるいは、私が女と同じ性を持っているためであるかもしれない。しかし、私とこの女を同質と見做すことはやはりできなかった。黒く長い爪の鳴らす不規則なタップ音が、空間の調和を乱しており、ともすれば指ごともぎ取ってしまいそうで怖気がした。それは歪んだ理性によるものであった。強大で幾何学的な感性がそれを留めていたから、私は秩序に見つかることがなかった。女も私を見つけられないだろう。貼り付けた部分はあなたの目に映っても。
走り出した電車の中は所属への連絡橋となる。プランクトンたちは束の間の孤独を楽しむものだが、ごくたまにその数多の孤独によって構成された秩序を破壊する者がいる。
女ではない。無論私でもない。それは女の前に座り、有害な性質を肥大化した哀れな同種であって、あの太った男とも違うもの。
「クソ、死ねっ死ねっ」
悪態をつく声はなによりも小さかったが、行動は自分のテリトリーをはみ出している。初老の男が女のつま先を蹴っていた。必然的に私の視線は斜め下に向けられた。女は初め足を後退させていくだけだったが、姿勢の限界手前でそれを止めた。男は止まらなかった。それは十数秒続き、とうとう女をして高い声を発声させるかと思いきや、女はなぜかだんまりを決め込んでいた。
では、私が?そうだろうか。私が取るべきはまず女を男の前から移動させることであって、注意することではない。私は心のなかに無関心を装って、女の肩を左の人差し指で叩いた。無関心が私の行動を強くする。女は私を見たが、私は女を見なかった。私は自分の意図するところを伝えるべく、頬の横で、指をこちら側についと動かし、それはおそらく伝わったが、女は動かなかった。初めて女を見た。その顔には無害な表情があって、あらゆる抵抗に対する抵抗の意を表していた。女はこの偶然の不幸に対して、我々同種と似た対策を講じているらしかった。
では、何を?わからない。私がこの男を殺すことは私の望む形態ではあったが、それは言うまでもなく私の無差別な有害性の流出で、この崇高な内実を色濃く保つためには避けなければならないことだった。私は死ぬときにこれを放出する心づもりであった。とするならば、私や、他の者が行うべき行動は一つしかない。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もフケが霜のように降りたその男の前髪を掴んで背後の窓に後頭部を打ちつけ延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々汚らしい男には見合わぬほど瑞々しい血液と飛び出した眼球それから不自然な酸味を吸い込んで吐き気を催しながら早く死ねと思うのだがこれがなかなか死なぬものだから繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しそうだからあなたも一緒にやろうと右手を伸ばして長いテーブルを取り囲みながら明日は誰が裏切るんだろうと真ん中のパンプキンパイに尋ね葡萄酒の雨が降り注いで今日の終わりを告げた鶏はひよこなのか?
ところがこの暗黙のルールは特定の人物には適用されない。際立つ甘い芳香は桃から来ていたらしく、女の気配が消えた代わりに、あまりに巨大すぎる存在の出現を私の左側に悟った。巨大な男と女の位置が入れ替わった、と認識するしかない。かろうじてタトゥーのようなものが見える。
初老の男はピタリと奇行を止めた。悪態も姿を消した。事の解決方法はあまりに単純で、残酷で、私に少しの失望をもたらした。なんとつまらない。大柄という性質の力。男という性の力。なによりすべてを打ち消すような存在感のもたらす、有無を言わさぬ力である。わかってやっているのだろうか。わかっていないことを祈った。…が。それにしても、誰に?私はこの男に何を期待しているというのか?
純粋な善。そこには何の計略も、計算も、意図もない。そんなものがおよそ人間に為しうるものでないことをわかっているからこその、期待である。この男に突然訪れたかもしれない善の狂気性の成立には、無邪気さと無知がなければならない。知性のもたらす狂気は悪にしかならない。
…いや、しかし本当にこれを、善と呼ぶべきものなのか。この男を善とするなら、対応する悪となるのは、つま先を蹴る男と、その様子を傍観する無害な私たちと、それに馴染もうとした被害者の女であって、この善は一体、どこに向けられているのか。
独善には「善」という字がある。独りの善。それに対するのが、全体善であるとして。しかしそんなものは、少し思慮のある人間なら成立し得ないことを知っている。だから多数善が採用されることになるが、この場合では多数は我々である。なら彼は独善的であるか。そうとも言い切れない。たとえばこの様子が斜め後ろの眼鏡をかけた男によって切り取られ、ネット上に掲載されたとすれば、正義と善はタトゥーの男の側に傾いていくことだろう。この車内における脆弱な秩序は、この時、この場にいる生き物にしか理解できない。この場にいてさえ、一度ここから降りてしまえば彼らも正義を毒される。
そのために私は、この男の善の意識のないことを望んだ。十字架に絡みつく蛇のタトゥーが、視界の端で電車の揺れに合わせ上下する。腕に入れたそれは明らかに、この閉鎖的な社会からあえて逸脱しようとした結果付けられたものではないだろうか。だとすれば、だとすれば?きっと彼の心はあどけない。
私のほうも赤ん坊であった。今までの彼に対する推論はすべて忘れ、ただ「面白くない」だけが私を支配し、ふたたび得物を持ち出そうとしている。私ではどうにもできなかった、しかし男には簡単であった、その嫉妬と悔恨から、今にも殺害を企てようとしているのだが。
ああなんだか、飽きたようだ。
私は降りなければならなかった。初老の男も女もタトゥーの男もそこでは降りなかった。今はもう目も耳も背中に付けてはならなかった。ただ前を見て、足首を。かかとを。足裏を。つま先を。順々に、まるで無意識のうちに動かして、所属へ。この所属というものがなければ私は、電車の中に孤独の幸福を見いだせなかったし、すれ違う男と女に関心を向けることがなかった。
同じなのだろうか、皆。
その無関心が生み出した関心、無害の皮の内側にある有害性はもしかして私たちに共通する何かにはならないのだろうか。そも共通するから何だというのか。私が社会に所属していることの証明?ではこれを持ち得ない変種はどこに居場所を拵えればいいのだろう。彼らは生きている。何となく生きている。秩序に発見されなかった私の有害性に殺されることなく。時折、偶然生まれてしまった善に助けられながら。
そんな折に大きな音が轟き、電車が脱線して橋から落ちていったのだとしたら、私はしばらくの間こんなことを考えずに済むのだが…このクジラの体内を蠢くプランクトンたちのどよめきが一体何に向けられているのか、実際を知るまでには数分かそれ以上かかった。
改札を出てクジラの口に立った。皆が一斉に同じ方向を向いて、同じ方向にスマホを向けている。つられて視線の揺れた先に、崩落する線路があった。見たことのある光景である。雨が降るように灰色のコンクリートが崩壊する。そういえば、雨が降っている。いや、降っていないような気がする。あまりにも自然な出来事に感じられて現実がどこにあるのかわからなくなった。私が望んだように電車が落ち、私が望まなかったように不穏な虚無感が私の隙間を満たした。ふと、何かを発見したような声が聞こえて、私もスマホを取り出した。映し出されたのは、瓦礫と燃える電車の下から何かが這い出てくる様子で。それが例の女と気づいたのはたぶん私だけだったろう。彼女は私を見ている。憎悪も恐怖も生への渇望もそこにはなく、彼女はただ何もない状態で私を見ていた。死ぬときにやっとそういう顔をしたのか、それとも前からできていたのかよくわからない。ただそのとき一瞬私の中に光が訪れたような気がして、橋の上から身を乗り出したのだが、彼女はすでに死んでいた。ああいつもこうだ。何も解決しない、何も明らかにならない、何物をも目的としない、早朝の駅は生き物たちの混迷に覆われている。
太った男と異様に白い女だった。女は抜け落ちた緑で髪を染め、ベタベタと男に吸い付いている。私はその横を通り過ぎ、無関心を装うために、誰にもバレないよう、背中に耳を付けた。すると、一際大きな甲高い声とブツブツと小さな羽音がそれに呼応するように聞こえた。
二つの変種はクジラの中で異様という名を騙って存在し、どのプランクトンもそれらに強く関心を向けながら、無関心になる努力をした。彼らはクジラに用があった。クジラは誰にも用がなかった。ただ大きく口を開けて飲み込み、社会との繋がりを少しばかり隔てた状態で排出するだけである。それは生きるという機能、機械的な運動そのものである。とするならば果たしてあの変種の彼らもそれに乗せられるのかと、ふと好奇心を抱いた。
プランクトンが一匹、速度を緩めた。私は彼らと同質にはなれないが、同じ場所に存在することは、もしかすればできるだろうと思った。
やがて、位置関係が逆転し、数メートルの幅を持たせながら、底辺の極端に短い二等辺三角形が、クジラの身体を縦断する。彼らに対応する私の角度は非常に鋭利なもので、いずれ後ろにいる誰かをその角度で刺し殺すのではないかと危惧するほど、私の関心は尖り続けた。しかし私は一体何を明らかにしたいのか。二人がどこかで別れ、どちらかの人生が破綻していく様を見たいのか。そうだとすれば、私のこれは明らかな悪意を持ったもので、死刑にも同等の罪悪を抱えているに違いない。ところがこの社会は私を裁くような秩序を作るのに失敗していた。私の内側にある有害な性質は、私が自ら仮面を取るまで、ひそかに隠れ、その期間が長くなるほど色の濃さを増していく。何色に見えるだろう、彼らには。私の見立てでは、白濁している。
三つの点は一度その関係性を分解され、ふたたび群列の中で取り戻した。動きが停滞している。電車がくるまでは二人の関係がより詳細に見えるかと思ったが、実際はそうでもない。女の撫でつくような声はいまだに同じこと、あるいは男を足りない語彙で称賛し、たまに貶すということを繰り返し、男はそれに対して羽を潰されたコバエのようにビクリと己の肉を揺する。具体的な情報はそこにまったく含まれておらず、そこから彼らがあまりに希薄な関係の中で生きていることを確信した。相手の情報を得ないということは、ある種の賢さであるかもしれない。特に、女にとっては。
男は呟く。その内容がなんであるか、私には聞き取れない。聞き取らせない努力を昔からしてきたのだろう。女は反対にひりつき、叫んでいた。悲しいほどに。その短い足が折れるまで。変種ではない私たちの視線を浴びて、興奮し、絶頂し、きっと最後には線路の中に飛び込んで、血飛沫でその行為を終わらせる。私はそんな想像をした。狂死のオフィーリア。では女を裏切る恋人は?
電車がやってくる。女は飛び込むようには見えなかった。そもそもが不可能であった。私の度を超えた安堵は失望に変わり、諦念となる。列の延長上に存在するはずのドアは、人の操作による誤差か、あるいは他の要因によって、前のめりの位置に止まった。早く動き出したいがためだろうか。ホームにいるほとんどの生き物がそれと呼応していたが、二つの変種はそれと無関係に、無関係であろうとするように、全身をくねらせ、二つの身体がねじれ、やがて大木とそれに巻き付く蛇になった。
「またね」と言ったのは蛇のほうだったろう。巻き付かれたほうはうなずかなかった。大木、あるいは巨大な岩を避けるように流れる有害な私たちは、眉をピクリと揺らし、迷惑そうな顔をしなければならず、不動の肉塊はさらにその摩擦で削れ、小さくなっていく。
私と女は二次元的に結ばれ、反対に男は一次元として、ホームに単独として立った。立っているだろうと思った。私も女も、次を待つ人々と顔を合わせたくなかったのだ。
ドアが閉じようとする。駆け込んでくる乗客を、苛つきの滲んだ機械音声が非難する。しかし彼は言われたところで反省はしないだろう。遅れるより全体に向けた一瞬の注意の方がよっぽどマシなのだから。それとはまた無関係に、無関係であるために隣で吊り革を掴む女は、ヒールを履いている割にずいぶんと小さく感じた。香水の匂いはしない。爛れた匂いもしない。車内はほのかな甘い芳香に満ちていて、他のあらゆる不純を殺している。あるいは、私が女と同じ性を持っているためであるかもしれない。しかし、私とこの女を同質と見做すことはやはりできなかった。黒く長い爪の鳴らす不規則なタップ音が、空間の調和を乱しており、ともすれば指ごともぎ取ってしまいそうで怖気がした。それは歪んだ理性によるものであった。強大で幾何学的な感性がそれを留めていたから、私は秩序に見つかることがなかった。女も私を見つけられないだろう。貼り付けた部分はあなたの目に映っても。
走り出した電車の中は所属への連絡橋となる。プランクトンたちは束の間の孤独を楽しむものだが、ごくたまにその数多の孤独によって構成された秩序を破壊する者がいる。
女ではない。無論私でもない。それは女の前に座り、有害な性質を肥大化した哀れな同種であって、あの太った男とも違うもの。
「クソ、死ねっ死ねっ」
悪態をつく声はなによりも小さかったが、行動は自分のテリトリーをはみ出している。初老の男が女のつま先を蹴っていた。必然的に私の視線は斜め下に向けられた。女は初め足を後退させていくだけだったが、姿勢の限界手前でそれを止めた。男は止まらなかった。それは十数秒続き、とうとう女をして高い声を発声させるかと思いきや、女はなぜかだんまりを決め込んでいた。
では、私が?そうだろうか。私が取るべきはまず女を男の前から移動させることであって、注意することではない。私は心のなかに無関心を装って、女の肩を左の人差し指で叩いた。無関心が私の行動を強くする。女は私を見たが、私は女を見なかった。私は自分の意図するところを伝えるべく、頬の横で、指をこちら側についと動かし、それはおそらく伝わったが、女は動かなかった。初めて女を見た。その顔には無害な表情があって、あらゆる抵抗に対する抵抗の意を表していた。女はこの偶然の不幸に対して、我々同種と似た対策を講じているらしかった。
では、何を?わからない。私がこの男を殺すことは私の望む形態ではあったが、それは言うまでもなく私の無差別な有害性の流出で、この崇高な内実を色濃く保つためには避けなければならないことだった。私は死ぬときにこれを放出する心づもりであった。とするならば、私や、他の者が行うべき行動は一つしかない。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もフケが霜のように降りたその男の前髪を掴んで背後の窓に後頭部を打ちつけ延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々汚らしい男には見合わぬほど瑞々しい血液と飛び出した眼球それから不自然な酸味を吸い込んで吐き気を催しながら早く死ねと思うのだがこれがなかなか死なぬものだから繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しそうだからあなたも一緒にやろうと右手を伸ばして長いテーブルを取り囲みながら明日は誰が裏切るんだろうと真ん中のパンプキンパイに尋ね葡萄酒の雨が降り注いで今日の終わりを告げた鶏はひよこなのか?
ところがこの暗黙のルールは特定の人物には適用されない。際立つ甘い芳香は桃から来ていたらしく、女の気配が消えた代わりに、あまりに巨大すぎる存在の出現を私の左側に悟った。巨大な男と女の位置が入れ替わった、と認識するしかない。かろうじてタトゥーのようなものが見える。
初老の男はピタリと奇行を止めた。悪態も姿を消した。事の解決方法はあまりに単純で、残酷で、私に少しの失望をもたらした。なんとつまらない。大柄という性質の力。男という性の力。なによりすべてを打ち消すような存在感のもたらす、有無を言わさぬ力である。わかってやっているのだろうか。わかっていないことを祈った。…が。それにしても、誰に?私はこの男に何を期待しているというのか?
純粋な善。そこには何の計略も、計算も、意図もない。そんなものがおよそ人間に為しうるものでないことをわかっているからこその、期待である。この男に突然訪れたかもしれない善の狂気性の成立には、無邪気さと無知がなければならない。知性のもたらす狂気は悪にしかならない。
…いや、しかし本当にこれを、善と呼ぶべきものなのか。この男を善とするなら、対応する悪となるのは、つま先を蹴る男と、その様子を傍観する無害な私たちと、それに馴染もうとした被害者の女であって、この善は一体、どこに向けられているのか。
独善には「善」という字がある。独りの善。それに対するのが、全体善であるとして。しかしそんなものは、少し思慮のある人間なら成立し得ないことを知っている。だから多数善が採用されることになるが、この場合では多数は我々である。なら彼は独善的であるか。そうとも言い切れない。たとえばこの様子が斜め後ろの眼鏡をかけた男によって切り取られ、ネット上に掲載されたとすれば、正義と善はタトゥーの男の側に傾いていくことだろう。この車内における脆弱な秩序は、この時、この場にいる生き物にしか理解できない。この場にいてさえ、一度ここから降りてしまえば彼らも正義を毒される。
そのために私は、この男の善の意識のないことを望んだ。十字架に絡みつく蛇のタトゥーが、視界の端で電車の揺れに合わせ上下する。腕に入れたそれは明らかに、この閉鎖的な社会からあえて逸脱しようとした結果付けられたものではないだろうか。だとすれば、だとすれば?きっと彼の心はあどけない。
私のほうも赤ん坊であった。今までの彼に対する推論はすべて忘れ、ただ「面白くない」だけが私を支配し、ふたたび得物を持ち出そうとしている。私ではどうにもできなかった、しかし男には簡単であった、その嫉妬と悔恨から、今にも殺害を企てようとしているのだが。
ああなんだか、飽きたようだ。
私は降りなければならなかった。初老の男も女もタトゥーの男もそこでは降りなかった。今はもう目も耳も背中に付けてはならなかった。ただ前を見て、足首を。かかとを。足裏を。つま先を。順々に、まるで無意識のうちに動かして、所属へ。この所属というものがなければ私は、電車の中に孤独の幸福を見いだせなかったし、すれ違う男と女に関心を向けることがなかった。
同じなのだろうか、皆。
その無関心が生み出した関心、無害の皮の内側にある有害性はもしかして私たちに共通する何かにはならないのだろうか。そも共通するから何だというのか。私が社会に所属していることの証明?ではこれを持ち得ない変種はどこに居場所を拵えればいいのだろう。彼らは生きている。何となく生きている。秩序に発見されなかった私の有害性に殺されることなく。時折、偶然生まれてしまった善に助けられながら。
そんな折に大きな音が轟き、電車が脱線して橋から落ちていったのだとしたら、私はしばらくの間こんなことを考えずに済むのだが…このクジラの体内を蠢くプランクトンたちのどよめきが一体何に向けられているのか、実際を知るまでには数分かそれ以上かかった。
改札を出てクジラの口に立った。皆が一斉に同じ方向を向いて、同じ方向にスマホを向けている。つられて視線の揺れた先に、崩落する線路があった。見たことのある光景である。雨が降るように灰色のコンクリートが崩壊する。そういえば、雨が降っている。いや、降っていないような気がする。あまりにも自然な出来事に感じられて現実がどこにあるのかわからなくなった。私が望んだように電車が落ち、私が望まなかったように不穏な虚無感が私の隙間を満たした。ふと、何かを発見したような声が聞こえて、私もスマホを取り出した。映し出されたのは、瓦礫と燃える電車の下から何かが這い出てくる様子で。それが例の女と気づいたのはたぶん私だけだったろう。彼女は私を見ている。憎悪も恐怖も生への渇望もそこにはなく、彼女はただ何もない状態で私を見ていた。死ぬときにやっとそういう顔をしたのか、それとも前からできていたのかよくわからない。ただそのとき一瞬私の中に光が訪れたような気がして、橋の上から身を乗り出したのだが、彼女はすでに死んでいた。ああいつもこうだ。何も解決しない、何も明らかにならない、何物をも目的としない、早朝の駅は生き物たちの混迷に覆われている。
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