おいしいふたり暮らし 今日もかたよりご飯をいただきます

小谷杏子

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1巻

1-3

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「湯崎さんも彼女ができたり、家族ができたら変わると思いますよ。やっぱり飯は、誰かと食べるほうがうまいし」

 糸こんにゃくと牛肉を口に放りながら言ってみる。
 フォークの包装を取る湯崎さんは「うーわー」と脱力した声で笑った。

「それができたら、俺だってそうしますよ」

 先ほどよりも、どんよりと暗い言いかたをする。これ以上、余計なことを言ってへそを曲げられたら面倒だ。僕はもう話しかけないことにした。
 閉じていたスマートフォンを開く。すでに頼子がリビングの定位置に座っていた。
 どこかへ出かけていたのか、淡いモスグリーンのトレンチコートを着たまま、パソコンを開いている。その脇にはデジタルカメラがUSBポートにつながれていて、データをパソコンへ移しているようだ。察するに、今は地元史のブログを更新している最中だろう。趣味で始めたものが、広告収入を得て運営するという本格的な仕事になっているらしい。
 彼女の悪い癖は、こうして仕事に没頭すると昼飯を忘れてしまうことだ。
 仕方なく、僕はメッセージを送った。

【頼子、昼飯は?】

 返事を待つ間、おかずをかきこんだ。今日は午後から訪問の予定がある。しかし、肉じゃがは急いで食べるには重たい。もう少し量を減らせばよかったかな。
 すると、スマートフォンの画面に通知が入った。頼子からだ。

【わすれてた!】

 やっぱり。
 言われなくとも自分で動いて欲しいところだが、気長に付き合っていこう。
 タッパーの隅で崩れたじゃがいもを丁寧にすくい取って食べる。スマートフォンのカメラを再び起動させ、まったりと味噌汁を飲みながら彼女の動向を観察した。
 頼子はコートを脱ぎ、キッチンへ走った。炊飯器の中を確認する。
 夕飯のときは、だいたいいつも一合半炊いておくのだが、これは夕飯用と翌日の昼用となっている。でも、今日はご飯が残りすぎている。昨日頼子がご飯を食べず、おかずをつまみに発泡酒を飲んでいたからだ。
 頼子は炊飯器からどんぶりへ米を移し始めた。
 丼ものにできるおかずがあったっけ? すぐには思いつかない。
 彼女はどんぶりを調理台の上に置き去りにし、冷蔵庫を大仰おおぎょうな動作で開けた。かかとを上げて上段まで物色している。しかし、おかずがない。肩を落とし、冷蔵庫を閉める。
 そして調理台のどんぶりを寂しそうに眺めた。昨日の肉じゃがが残っていると思ったのかもしれない。僕が昼に持っていくと言ったはずなのに……いや、言ってないかも。
 もしかしたら、この肉じゃがは頼子の昼飯だったのか。それなら悪いことをしたなぁと、僕は空っぽのタッパーを見る。
 そのとき、画面の中で動きがあった。急に頼子がカメラ目線になる。その視線に思わずドキッとしてしまい、僕は息を止めた。
 頼子の顔が近くまで迫り、画面は端から端まで頼子となる。勢いあまって近づきすぎたのか、メガネがカメラにぶつかった。その失敗に苦笑しつつも、なんだか右ほおがぷくっと膨らんでいる。
 怒ってる、のか……?
 でも、怒りが全然伝わらない。怒ってもすぐ笑う頼子だから威厳がない。そんな顔のままで頼子は冷蔵庫を指して何かを訴えた。
 僕は隣や背後に気を配りつつ、慌ててスマートフォンを手に取って近づけて見た。

〝ば〟〝か〟

 そう言っている。やはり肉じゃがは頼子の昼飯だったらしい。

「………」

 僕は画面の前で手を合わせた。向こうからは僕が見えないので、あんまり意味はない。
 頼子は再び冷蔵庫へ向かった。動かない。腕を組んで考えている。
 どうするつもりだろう。ごぼうサラダならあるんだけど。一応メッセージを入れてみようか。と、スマートフォンを取った瞬間、頼子が顔を上げた。
 天啓でも降りてきたかのごとく大急ぎで冷蔵庫を開ける。再び開放された冷蔵庫は変わりなく愛想がない。彼女は収納ポケットにある卵を二つ抜き取った。
 クルクルとバレエダンサーのように、卵を持ったまま調理台の前へ舞い戻る。
 勢いをつけて振りかぶって――割った。白飯の上に、しかも二つも。なんて贅沢な。だが、彼女の昼飯を奪って食べた僕に責める資格はない。
 本日の昼飯はたまごかけごはん
 頼子は白飯の上に鎮座する二つの卵を、おそるおそるはしで割った。それから、キッチンの戸棚にしまってある調味料から白出汁だしのボトルを取る。

「え?」

 白出汁だし? 卵かけご飯って、醬油で食べるものじゃないのか? いや、白出汁だしはそもそも白醬油と出汁だしを合わせた調味料だから……でも、その発想はなかった。
 頼子は白出汁だしの口を高くかかげて、卵かけご飯の上にくるっと一周かけた。そして、両手でどんぶりを抱えてリビングに戻ってくる。はしを持ったまま「いただきます」ときちんと手を合わせた。
 混ぜすぎないまだら模様の卵かけご飯は、卵の黄身と、どろっと透明な白身、そして輪っかのような白出汁だしわだちが広がっている。保温のご飯は固まった部分もあるが、頼子は気にすることなく混ぜた。熱を持ったご飯から細い湯気ゆげが立つ。ほかほかとあったかそうなご飯に、彼女は目を光らせた。
 ぱくっと大きな一口。もぐもぐと咀嚼そしゃくし、目尻をゆるめて笑う。口元に手を当て、幸せそうな笑顔を見せてくる。無音声なのに、彼女の「んふふふふ」と笑いをらす音が聞こえてきそうだった。
 さらに頬張ほおばって、ふにゃりと笑う。まさに至福のひとときを演出している。スーパーで特売だった卵と昨夜の白飯、市販の白出汁だしだけなのに。
 でも、卵かけご飯はある意味、贅沢な食べ物だとは思う。しかも白出汁だしで食べるなんて、間違いなくうまいに決まっている。僕は思わずつばをごくりと呑んだ。味を想像してみる。
 つるんと口に入ってすぐ、しっとりした食感に濃厚な黄身の味。そのあとにくる白出汁だし。ほのかな昆布出汁だしとみりんの甘みが舌に残る……素朴で地味なのに、味の楽しみが次々と訪れる。あぁ、いくらでも食えるな。
 頼子の食欲も止まらない。夢中で米をかきこんでいる。一粒も残さず、どんぶりはあっという間に空っぽになった。
 それから彼女は、どんぶりを持って再びキッチンへ走る。一杯じゃもの足りないのか二杯目をよそった。そして冷蔵庫を開ける。卵を取るかと思いきや、上段に置いていたタッパーを取った。
 いや、待て。それに手を出すのはダメだろ。
 しかし、僕の声が届くはずはなく、彼女はニヤニヤとタッパーを持ち出した。ジンジャー用のササミだが、彼女は構わず使う気だ。
 ケトルで湯をかす。その間に梅干しとササミを白飯の上にのせた。
 あぁ、分かってしまった。梅茶漬けを作る気だな。
 彼女は機嫌よく足でリズムを取っていた。キッチンに立つと踊りたくなるのだろうか。カクカクとした動作がまるでロボットのよう。しかし、キレが悪いので、怪しげな喜びの舞いを踊る謎の民族のように見える。どんぶりを前にしているから余計、そう見えて仕方がない。
 湯がいて、頼子は我に返ったように動きを止めた。躊躇ちゅうちょなくどんぶりにそそいでいく。そして、冷蔵庫からわさびチューブを取り出し、山の頂きにふさわしくたっぷりとしぼった。れんげを添えて、リビングに戻ってくる。
 なるほど。どんぶりの底に残っていただろう白出汁だし卵液らんえきがちょうどいい具合に湯と溶け合っている。酸っぱい梅と淡白なササミは相性が抜群にいい。濃厚な卵かけご飯から、さっぱりとした梅茶漬けという流れは完璧だ。
 なぜだろう。どれだけ手のこんだ食事より、彼女のズボラ料理のほうがおいしそうに見えてしまう……素直に悔しい。

「いつまで見てるんですか、真殿さん」

 頭を抱えていると、湯崎さんが冷たく言った。パスタをズルズルとすすり、無表情で僕を見ている。

「ていうか、なんか疲れてますね」
「あぁ、まぁ……今日も完敗というか……」
「完敗? 意味分かんねぇっす」

 口の周りについたソースをティッシュでき、彼はゴミをまとめ始めた。
 壁にかかっているデジタル時計を見やれば十三時も間近まぢかだ。昼休みがそろそろ終わる。僕はスマートフォンを閉じ、弁当箱を片付けて、午前中にまとめておいた資料を確認した。


 * * *


 今日は仕事でダイコクへ行く。僕が担当しているのは、このスーパーが作っている弁当のメニュー考案だ。
 取り立てて難しいことはなく、メニューは四季でパターン化されている。地元の旬野菜や、人気定番メニューをローテーションしていくもので、普段は電子メールで発注されたものから考案し、それを外部の管理栄養士に精査してもらい、何度かのやり取りをしたあと、発注元の顧客と打ち合わせする。今日は打ち合わせがてら、三月ぶんの売り上げを元にした市場調査をする予定だ。
 味陽フードマネジメントはビジネス街の一角にある小さな建物で、ここから歩道橋を渡って駅に行く。会社がある麹野町最寄りの甘崎かんざき駅からダイコクの最寄り駅である橙門駅まで電車で二十分。電車を降りても町並みは麹野町とさほど変わらないが、大通りから小道に入ればたちまちのどかな風景に様変さまがわりする。高層ではないものの、ビルたちが壁となって町を隠しているようだ。
 遊歩道を横切り、小学校を越えると元気な声がフェンスを震わせる。体育の時間なのか、サッカーの試合が行われているようだった。
 角を曲がり、年季ねんきの入った個人商店を通り過ぎてダイコクへ。今日は仕事だから、裏のスタッフ専用扉から入る。

「こんにちはー」

 ほがらかに声をかけると、白いエプロンと三角巾、マスクという完全防備姿の女性が小走りにやってきた。

「よう、殿。お疲れさまー!」

 威勢のいい少年みたいな声の彼女は、ここの従業員である倉橋くらはしのどか。このスーパーで品出し業務に携わっている。明るい金髪を三角巾の中に隠し持っており、口調も荒いので多少近寄りがたい雰囲気を醸し出しているが、底抜けに明るく正直なひとだ。そして、やけに馴れ馴れしいのは、僕の中学時代の同級生だからだ。

「お疲れさま。東田とうださんは?」

 ダイコク店長の東田さんの姿がないのでいてみる。すると、倉橋さんはマスクを取って、八重歯やえばをむき出しにして笑った。

「あぁ、店長なら表にいるよ」
「そうなんだ。じゃあ、事務所で待たせてもらおうかな」
「アタシも行くー!」

 倉橋さんは元気よく腕を上げて「ゴー!」と誘導した。
 加工場の奥に小部屋がある。そこは事務室みたいなものだが、従業員が交代で休憩するスペースも兼ねている。高めの上がりかまちがついた小さな和室みたいな区画で、畳は膝下くらいの位置にある。そこでまったりとテレビを見ているパートさんたちの邪魔にならないよう、僕は入り口付近に腰掛けた。

「なぁ、殿ー、茶ぁ飲む? せんべいもあるけど」
「お構いなく」
「そう水臭いこと言うなって」

 珍しく世話を焼いてくれる倉橋さんの態度を、僕は少々怪訝けげんに思った。じっと見てみると、彼女は目をそらして事務所を出ていく。怪しい。
 普段から挨拶あいさつはしてくれるが、ここまで気のいたもてなしをされたことはない。
 逆に彼女がスタッフルームの奥でソーダアイスをむさぼっている現場や、タバコを吸っている現場に遭遇するというタイミングが悪いことは何度かある。そのたびに「殿、お前は間が悪いな」とあきれられるのだが。というか、彼女に会いに来ているわけではない。あと、いい加減にそのあだ名はやめて欲しい。
 倉橋さんは、給湯室から持ってきたらしい湯のみと醬油せんべい一枚を盆にのせて、事務所に舞い戻ってきた。

「はい、どーぞどーぞ。いつもお世話になっておりますー」
「え? なんだよ、その他人行儀な態度……怖いんだけど」
「はぁ? 失礼な。怖いってなんだよ、怖いって」

 ほら、おしとやかな顔が数秒ももたないじゃないか。

「ま、なんだ。要するに、あれだ。お前に頼みがある。一生のお願いだ」
「やっぱり。しかもそれ、一生って言いつつ何回もお願いしてくるやつだろ」

 つい毒づくと、倉橋さんの顔が一気に不機嫌に歪んだ。湯のみをドンと脇に置かれ、僕は少しだけ体をそらして避ける。

「うるせーな。いいじゃん、アタシがこうして頭下げてんだからさ」
「一ミリも下がってない……ちなみに、どんなお願い?」
「アサリをもらってくれるだけの簡単なお願い」
「アサリ?」

 話が見えない。おすそわけの話だろうか?

「そ。うちのちびっこたちがさぁ、保育園の遠足で潮干狩りしてきたから。これがまた、長男が張り切ってさぁ。大量なわけよ。うちで処理しきれねーんだわ」

 そういえば、彼女は子どもがふたりいる。男の子と女の子。上のお兄ちゃんは母親そっくりのやんちゃ者で、潮干狩りで張り切る姿は想像に難くない。

「アサリかぁ……」

 どうにも尻ごみしてしまうのは、すぐに浮かぶ頼子の顔が原因だった。顔のパーツ全部をすぼめて「無理」って言うだろう。嫌いな食べ物に対する姿勢がかたくなであり、これを食べさせるのが難儀だ。

「好き嫌いは良くないぞ!」

 倉橋さんは母親さながら腰に手を当ててふんぞり返った。それについては同感だ。
 僕はすべての食べ物に苦手意識を持ってはいけないと思っている。
 でもなぁ……あの偏食家と一緒に住んでるからか、この意識がかなりブレてきている。
 僕の気分が浮かないので、彼女は思い当たったように目を見開いた。

「あ、もしかして頼子さん、貝ダメなんだっけ?」
「実は……嫌いなものは徹底して食べないから……」
「えぇ? それこそ元調理師なら、どうにかうまいこと食わせてやれよ。腕の見せどころじゃん」

 倉橋さんの言葉は容赦がない。僕は頭を抱えた。

「……元調理師だからって、万能じゃないんだよ」

 しかも、調理師だったのはたった二年だけだ。あのときの挫折やら、理想と現実のギャップで悩んでいた黒歴史やらが一気に駆け巡り、すぐさま振り払う。
 そんな僕の心情を察するはずがない倉橋さんは、威圧感たっぷりにめ寄った。アサリを押し付けようという本心が見え見えだ。余計に心がかたくなに拒否していく。

「まぁまぁまぁ。お前の料理はうまいはずだって。頼子さんが食べやすいようにメニュー考えりゃいいじゃん。そっちは現職なんだしさぁ」
「……おっしゃるとおりで」

 結局、丸めこまれてしまった。本当に気が滅入めいる。
 ため息をついていると、事務所の扉が大きく開いた。冷気が首筋を冷やし、それと同時にオレンジ色の店内用エプロンをつけた中年の男性が、口元にしわをたっぷり寄せた笑顔で現れた。

「すみませーん、おまたせしましたぁ」

 独特の間延びした口調で話すのはダイコクの店長、東田さんだ。反射的に立ち上がり、僕は倉橋さんのお願いを有耶無耶うやむやにしようと事務所を出ていく。
 しかし、倉橋さんの手は僕のシャツをしっかりつかんでいた。バランスが崩れ、後ろに倒れそうになる。なんとか踏みとどまったものの、今度は倉橋さんが耳元でささやいた。

「帰りまで待ってるから。な?」

 背筋が凍るような圧力を感じる。乱暴に背中を叩かれ、店長の前に突き出された。


 * * *


 五月のメニューは決定しているものの、六月の弁当メニューのうちご飯ものだけが決まらず、会社に持ち帰ることにした。改めて考案し、再提出となる。
 東田さんいわく、アンケートで「いつもと違うメニューが食べたい」という要望が多かったとのことで、ずっとローテーションで決まったメニューを出すのは厳しいものがあった。さらに、スーパーの近所に新しいマンションができ、若い家族が移り住んでいるらしい。「斬新で奇抜きばつなメニュー」で、かつ「親近感のあるメニュー」という要望の難しさにげんなりする。
 それに何より、打ち合わせが終わるまで倉橋さんの視線が痛かった。刺すような鋭い目は、捕食せんと機をうかがう肉食獣のようだった。怖い。中学のときよりもにらみに磨きがかかっている。

「……お待たせしました」

 事務所を出ると、彼女は満悦な様子で「うむ」と頷いた。あらかじめ用意していたらしいアサリを持ってくる。用意周到なことにクーラーボックスで持ってきたらしい。彼女はボックスごと僕に押し付けてきた。

「いやぁ、さすが殿だよな。持つべきものは優しい同級生。超助かるー」
「おいおい、クーラーボックス全部か? そこまでの量は聞いてないって」
「大丈夫だって。食える食える。ほら、アサリのメニューだけでも結構あるもんじゃん。バターいため、さかし、炊きこみご飯でも味噌汁でも、パスタでも」

 確かに、アサリは汎用性はんようせいが高い。でも、ふたりで食べるには多すぎる。やっぱり厄介ごとを押し付けようとしているだけじゃないか。
 ボックスを開けると、中にはサイズも模様も色も様々な二枚貝が敷きめられていた。光を浴びた瞬間、砂を吐き出している最中のアサリの身が一様に殻の中へ閉じこもっていく。
 いや、でもやっぱり多いぞ。

「まぁ、頼子に協力してもらえるよう頑張るか……とりあえず、いただくよ。ありがとう、倉橋さん」

 まったくありがたみはないのだが、一応お礼を言っておくと、彼女は嬉しそうに「おう!」と威勢良く笑った。僕はため息を隠して、クーラーボックスを抱える。
 さて、問題は頼子にどう伝えるかだ。
 何も告げずに持ち帰り、問答無用で夕飯に組みこむか。あらかじめ伝えておいて、帰ってから非難を浴びつつ夕飯を準備するか。どちらにせよ、頼子が文句を言うのは目に見えている。
 でも、嫌いだと言いながらなんだかんだ食べてくれることもある。濃い味付けにしたり、原形が分からないようにペーストにしたりすればうまくごまかせそうな。

「………」

 いや、変に悪だくみせず、正直に連絡をしよう。事前に言っておけば、心の準備ができるだろうし。
 会社に戻る途中、僕はトークアプリを開いて頼子にメッセージを送った。

【今日、倉橋さんからアサリをもらったんだけど】

 それだけを送信し、スマートフォンをポケットにしまう。どんな文句が返ってくるのか……想像したくないので、仕事の月替わり弁当について考える。
 老若男女が安心して食べられるものを大前提としたメニューか。
 その中で、ご飯の存在は大きい。弁当のケースにまったご飯の色みで弁当の顔が変わるわけだし。
 僕が今回、メニューを再考案するのは季節の月替わりダイコク弁当のご飯部分。おかずはシンプルに玉子焼き、煮物、焼き魚、唐揚げ、ポテトサラダ、コロッケで、ご飯は例えば五月ならタケノコご飯、六月なら豆ご飯、七月ならさばご飯、などなど。出汁だしと食材が織りなす四季の炊きこみご飯を月ごとに変えている。だが、消費者というのは常に新鮮みを求めるもので、ここ最近マンネリ化が進んでいたメニューから変更が相次いでいた。
 会社で意見を共有して、もう一度考えてみよう。そう決めたと同時に、ふと頭の中に天啓が舞い降りてきた。

「……アサリ」

 駅に着いたところで蓋を開けて、クーラーボックスの中で眠るアサリたちを見やる。光に反応した幾何学模様の殻たちが震えるように揺れた。
 これだ。こいつを使おう。
 風とともに電車が目の前に現れる。減速して止まった。ドアが開いたと同時に飛び乗りながら、さっそく頭の中ではアサリを使ったご飯のメニューをあれこれと考えた。


 * * *


 クーラーボックスを抱えて帰ってきた僕に、まず安原さんがツッコミを入れた。

「潮干狩りでも行ってきたの?」

 なかなか鋭い。

「いや、ダイコクにいる同級生からもらって」

 会議用の円卓にどさっと置き、クーラーボックスを開く。大量のアサリを見て、安原さんは盛大に噴き出した。

「あはーっ! しかも、まぁまぁ大量だし! これ、食べるの大変そう」
「あ、そうだ。よかったら半分もらってくれませんか」
「いやぁ、やめとくわぁ」

 やんわりと断られた。彼女はただ冷やかしたかっただけらしい。
 仕方ない。湯崎さんを見ると彼は口角だけで笑い、すぐに目をそらした。

「何なに? そんな大荷物を抱えて」

 スラッと細身のパンツスーツ姿、シャッキリと姿勢がいい小顔の女性――我が部署のボス、戸高美奈子とだかみなこ部長が柔和な笑みでいそいそと近づいてきた。五十代前半というが、年不相応の高く伸びやかな声でく。しかも、僕の返答を待たずにクーラーボックスを覗いた。

「あら、アサリ。しかも大量」
「ちょっと、なりゆきで同級生にもらってしまって。部長、よかったら半分……」
「いいの? 嬉しい。ありがとう。いただくわ」

 両手を合わせて「うふふ」と笑ってくれるので、僕の心はわずかに安堵した。やっぱり、部長は頼りになる。
 そのまま流れで、ダイコクの弁当メニューについて「変更希望」の旨を伝えると、戸高部長はニコニコと最後まで聞いてくれた。クーラーボックスのアサリをポリ袋にめながら。そして、軽やかに言った。

「んー、それじゃあ、ありきたりじゃない? 話を聞いた限りだと、そういうベタなものは求められてないと思うんだけれど。もう少しひねったメニューを考えて」

 笑顔のまま却下されることほど、つらいものはない。悪意のない優しい聖母みたいな笑顔だからとくに、こう、胸にドスンとくるものがある。
 ひねったメニュー……炊きこみご飯だけじゃ、やっぱりダメですか。
 他にも候補はあった。ひじきとアサリの混ぜご飯や、アサリの佃煮つくだにご飯、ピラフ、パエリア。しかし、おかずとのバランスを考えるとどれもご飯の味が強く、シンプルな炊きこみご飯がちょうどいいと思う。
 でも、ここで戸高部長に突き返されてしまえば、レシピもサンプルも作れない。いい案だと思ったのに、なかなかうまくことが運ばないものだ。
 デスクに戻り、クーラーボックスの中身を観察しても他に名案が思いつくはずもなく、砂を吐くアサリを僕は恨めしげに見つめていた。

「真殿さん、それ飼うんですか?」

 背後から湯崎さんが真面目な声で冷やかしてくる。横で安原さんが「やめて、湯崎」と肩を震わせて笑った。

「バカ言わないでください。今日、持って帰って食べますよ」

 僕はアサリをつつきながら無慈悲に言う。

「あー、家で試作するわけですね」
「そっちのほうが手っ取り早いですし。でもなぁ……頼子が食べてくれないかもしれない」


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